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証しのコーナー

 このページでは、学生たちの体験談をご紹介します。
僕の見る学生会の2つの顔と、そこで受けた2つの教訓  Y君

 主に栄光。主イエス様のあわれみと、その真実と、様々な方々の祈りで、今がある。学生会年刊誌というだけに、まず学生会のこの一年を僕なりに振り返ると、はじめに心からふきだす言葉は、「主に全ての栄光と感謝があるように」。彼の愛は真実(哀歌3章22〜23節)で聖書は本物だ(民数記23章19節)。今年度も、恵みによってそれを体験させていただいた1年。この文が、他でもない主の素晴らしさを証するものであることを祈る。

 そして次にふきだすのは、様々な形で学生会を支え励ましてくださった方々への感謝。主と皆様への感謝を書けばきりがない。振り返ればいつも必ず主と誰かの励ましがある。

 さて本題。まず、愛する学生会の正体は一体何か。以下、僕が見る、学生会の2つの顔を書く。学生会の魅力は様々だが、学生のみんなが、表に見えようと見えまいと、人にどう見られようと、それぞれがそれぞれの立場で主を愛している姿は、いつも魅力的で刺激的だ。僕はそんなみんなから数多くを学んできた。ある人は教会まで戸塚から自転車で来てる。ある人は忠犬のように(本人がそう言ってる)黙々と裏方の仕事をする。また様々な理由で残念ながら学生会には参加できなくても、自宅では祈り聖書を読み、深く主と交わっている人もいる。彼らは目立たないが、天国では私よりはるかに玉座に近いのではないだろうか。つまり、まず学生会には「個」という顔がある。この顔は外のどの団体にも負けないほど容姿端麗だ(僕はそれに気づくのが遅かった!)。学ぶものがあると期待して、一人一人を、目をこらして見る。彼らは、2000年前のあのおぞましい十字架刑の日、神の御子ご自身がむごい代価をもってあがない取った、「個」だ。普段ノーテンキなあの人が、主の許しと愛に触れ、涙し、目が鋭くなっていく。学生もそれぞれの生活歴があり、そこに主がどのようにご介入なさって変えられていくのか、興奮は連続。一人一人の内の鉱脈に隠された原鉱がある。それが見つかった時の興奮だ。

 主の笑けるくらい偉大な恵みの大砲は、「個」に照準が向いていた。しかし、鈍感な僕は、学生会の「一人」の尊さをいまだ理解しきれていない。ぜひみんなには学生会のこの「一人」という顔をキリスト・イエスにあって愛してほしい(cf マタイによる福音書25章40節,マルコによる福音書9章37・42節 ルカによる福音書15章7節 ヨハネによる福音書14章24節)。

 そして、学生会のもう一つの顔は、「群れ」。「群れる」とはしばしば皮肉的な意味で使われるが、聖書的な表現だ。霊的な指導者のもとに群れるのだ。学生会は、主の目に尊い個々が一箇所に集まって、各々が受けた霊の糧を「群れて」分かち合う場。おっきな教会ではこの各会の役割はまして重要だ。主を中心に、個々の夢を励まし合い、個々の信仰の成長を喜び合い、個々の問題や傷を祈り合うわけだが「群れる」ことで外敵からまるごと守られるメリットがある。自分だけ調子よく生きていればよいのなら、群れる必要はないが、僕たちの一つの励ましが、いつか主にあって豊かな実を結んでいることに気づく日が来る。この「群れ」としての一致と快活さが教会全体をも励ます。

 以上の学生会の2つの顔を踏まえて、そこから僕が受けた教訓を2つ。

 まず第1に、群れといっても主と僕との「個」人的な関係が必要で、自分が主に近づき主の目をもって「個」を見なければならん。才能の数や華やかさなどの見かけで自分や人を評価してしまって、その見かけで落ち込んだり、逆に見かけで高ぶったり。見てくれにさえぎられて主からいただいた自分の賜物や人との出会いを逃す。

 第2に、「群れ」は泉から離れてはいけない。「群れ」に人数は関係ない。命があるかどうか、それに全洞察力を集中させたい。渇いた者はそこにおのずと集まる。命の泉なる主が中心におられないで「群れ」ても、共倒れだ。「群れ」の危険性はここにある。いつのまにか基本的なことの魅力を忘れていってしまい泉から離れてしまう。

 しかし、モーセはイスラエルの民の要望に応えつつも、妥協はしなかった。基本的なことを譲らなかった。神の祝福を得るスポーツにはルールがある。そのルールは聖書にすべて書いてある。このルールからそれれば、どんなに頑張って戦っても無効だ。基本からそれてはいけない。泉から離れないかぎり、その「群れ」は「流れのほとりに植えられた木の、時が来れば実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」(詩篇1篇3節)。死人をよみがえらせ、枯れた骨を生かし、無から有を生ぜしめ、ぬれた祭壇を焼き尽くし、失われた者を見出し、荒野に道を・砂漠に川をつくられるのは、創造者なる主だ。僕らは土で、それ以上でもそれ以下でもない。でも両者は一つになれる。泉なる主と土なるうちらは、互いに互いを求めている関係にある。水とスポンジは一つになる。inter・wantだ。

 「こうして、主の前で、自分がいかにつまらない存在か、いやというほど思い知らされる時、主はあなたがたを助け起こし、力づけてくださるのです。」(ヤコブの手紙4章10節-リビングバイブル-)

 だから、学生会は、主を求めよう。しかし、結局、僕自身はこれらの点でまったく不十分だった一年であった。主に栄光。

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