2005年09月 のメッセージ

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「『夜と霧』を越えるもの」大川従道師 2005年9月25日

 「御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙 6章6〜10節・口語訳)

 素晴らしい賛美のゆえに、主の御名を崇めたいと思います。あのバイオリンのようなものは、ヴィオラですよね?今日は素敵な賛美ですねえ。「天国がもし見えたら」というんですが、トーレーという博士は、「もし地獄をみんなに見せたら、必死になって伝道するだろう。」と言われました。地獄の夢ばっかり見ているのは不健康でありますが、天国をいつも夢見て生きるというのは、素晴らしいことだと思いますね。今日は、風が強くて大変だったと思いますね。赤ちゃん連れの人も随分見えていらっしゃいますが、気をつけてお帰りいただきたいと思います。教会の中に聖霊の風が吹き荒れるようにご歓迎申し上げたいと、そう思います。少し大きな声で朝のご挨拶をしましょう。皆さん、おはようございます。

 皆さんにお祈りいただきまして(私は万博の責任者ではないんですけど)、これがですね、森ゾーくんですね。森ゾーですよ。こっちがね、ピッコロではなくてキッコロちゃんっていうんですね。お孫さんだそうですよ。誰かさんもお孫さんと歩くのが好きなようですけどね。これはねえ、音がするんですよ。今日でおしまい。テロにも遭わないで守られて、本当に感謝ですね。今日はこの森ゾーとキッコロの「森へ帰る」というセレモニーがあるそうですね。このまま、こう帰るということでありましょうね。森というのは木を3つ書きますけれど、2000年前、カルバリーの丘の上に木が3つ、十字架が3つ立ち並びました。中心にイエス様がいらっしゃいました。世界はそれで歴史が変わりましたように、何かカルバリーチャペルのキャラクターになってもいいような感じがいたしますけれど、皆様のお祈りを心から感謝したいと思います。

 万博ではなくて、タイにはバンコクという市がありますけれども、お手紙をいただきましたよ。ビデオ礼拝を継続していてくださる小林さんご夫妻に、本当にお礼を申し上げます。また祝福がありますように。丁寧なお手紙でございました。石渡さん、木村さん、内西さん、新野(あらの)さん、大嶺さん、滝川さん、山崎さん、小林さんご夫妻、本当に感謝です。神様のお恵みがこのタイ、バンコクのグループにも豊かにありますように。いつも9人で礼拝していらっしゃるそうでありますよ。皆で拍手をもって応援したいと思います。God bless you!
 今日はガラテヤ書からのメッセージ(順番になりますけれど)、AD49年、パウロ先生がガラテヤ地方に語られた言語であるお手紙ということであります。今日お読みいたしましたもう最後の6章になりますと、ガラテヤ書の本質的な内容がよくわからない面があるかと思います。実は、1章の8節と9節を最初にお読みしてから、また6章に戻りたいと思います。お開けくださいますか?聖書をお持ちでない方は、スクリーンに出ますのでそれをご覧いただければと思います。「ガラテヤ人への手紙」の第1章の8節と9節をお読みいたします。

 「しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである(激しい言葉でしょう?ねえ)。わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、 あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである。」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙 1章8〜9節・口語訳)

 まあ、先ほどお読み致しましたガラテヤ書を読んでおりますと、パウロ先生は、どっちが本当かと思えるようなところでありますが、6章の1節にいってみましょうか?

 「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙 6章1節・口語訳)

 これは、まともな常識を持っておりましたなら、すぐに理解できる、解釈を必要としない良識的なメッセージ、これがパウロの中心的な穏やかさであるという風に言って良いと思います。北森嘉蔵(かぞう)という学者は、パウロは"一言居士(いちげんこじ)"ではなかった─"一言居士"というのはですね、字引を引きますと、 〔何事にも、自分の意見をひとこと言わなければ気のすまぬ性質の人。何か異を立てて、文句を言うのが趣味であるというタイプ〕ではないという。

 パウロ先生というのは普段非常に柔和で寛容で穏やかな人物であります。絶対に怒(いか)ったり怒(おこ)ったり、顔色を変えたりしない人が怒るとこわい、とよく言いますが、パウロ先生はまさにそういう人物でありました。穏やかな、寛容な、柔和な人物が、1章の8節、9節で、「もしこの福音を歪めるならば、相手が天使であろうと私は怒るよ、それはのろわるべきである」というメッセージをお取次ぎしていることを心にとめたいと思います。いつもぷんぷんして、しょっちゅうご機嫌の悪い人が怒っても、「またやってるよ…」と思われるかもしれませんけれども、「のろいの手紙」「戦闘の手紙」とも言われるガラテヤ書の中に(大切な"教理書簡"と言われますが)キリスト教の中心的なメッセージをとらえるということが、今日の課題であります。

 いつも寛容で柔和なパウロ先生が「のろわれよ」というくらいでありますが、よっぽど譲ることのできない重要なメッセージをとらえていたんだという風に理解してよろしいかと思います。北森嘉蔵先生には、「人間には2つの誘惑がある」と言います。1つは「頭の良い人に忠告しますが、"一言居士"といって、何か一言加えなければ気がすまない。注意をしなさいよ」、という。もう1つは、「頭の良い人じゃない─というのは"悪い"という意味じゃないんでありますけど(これ、すごいこと言いますよね)─怒ることを一生に一度もしないで終わる危険性もある」(笑い)って、どこが危険かと思いますけど、「人間的には終始柔和で寛容であるということは素晴らしいことですが、(よろしゅうございますか?)天使をものろうようなレベルの真理をつかんでいないということになる。」パウロは"命をかけて守るべき真理というのがある"、"命をかけて語るべき真理というのがある"ということを意識して、そこに手をつけるなら、相手がどんな伝道者であろうと、相手が天の使いであろうとも、「その人はのろわるべきである」という、これはキリスト教の中心的なエッセンスに激しいものがある、ということであろうと思います。
 
 私の母親は(時々話しますが)小柄で(もうとうに天に召されましたが)穏やかな、そういう存在でした。欠点もたくさんありましたけれど、肝心なことに関しては非常に厳しかったのであります。特に再臨信仰に関しては手厳しいと言いましょうか、自らを律する心がありました。"イエス様のご再臨があったならば"、というね。"イエス・キリスト様が今晩来られたら"という緊張関係の中で、いつも育てられたのであります。「いいですか、よく聞きなさいよ。」─私が子供の時(中高生よ)、こうやって親から言われた。「いいですか、間違ってでも地獄なんか行っちゃだめですよ。はいつくばってでも天国に行くんですよ。イエス様は必ずお迎えに来るんですから、約束ですからね!」ってなことを、耳にタコができるほど頭の中に入れているわけであります。「同じ人生を過ごすなら、神様に喜ばれることをしなさい、天に宝を積みなさい!」─これは、繰り返し自分に言い聞かせていたことでもありましょう。「神様を第一にするんですよ」という。まあ、これが遺言、という風に言われたわけではないですけども、心に留められている、子供の時に母から教えられた言葉です。

 6章の1節「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人で あるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。」(口語訳)、新改訳聖書は「あやまちに陥っているなら、柔和な心で正してあげなさい。」というね。この"正す"という言葉は、原文のギリシャ語では「君、間違っているよ」っていう風に指摘することは誰でもできるんですけれども、"正す"という言葉は"穴を埋める"という意味でありまして、マルコ福音書の1章で「網を打っては破れる、破れを繕(つくろ)う」という時に使われるギリシャ語であります。エペソ人への手紙の4章の中には「神様はある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師とし、ある人は教師としてご任命されましたが、それは聖徒達を整えて(聖徒っていうのはクリスチャン全部をそう言うんでありますが)、教会には破れがありますよ、クリスチャンにも穴が開いておられる方々がいらっしゃいますが、それを(破れを)繕うというね、指摘するのではない、体を張ってというか腕を伸ばして破れを繕うという、そういう言葉で、柔和な心をもってその人を正してあげるんですよ」というメッセージであります。6章2節、

 「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙 6章2節・口語訳)

 イエス様も同じような言葉をヨハネ福音書の15章で「互いに愛し合いなさい。」というね。しかし、この言葉にはちょっとした落とし穴がありまして、"互い"にという言葉で"譲り合う"といいましょうか、「あなたが愛してくれるなら私も愛しましょう。」「あなたが重荷を負うなら、私も重荷を負いましょう。」って、"互いに"という言葉によって、これがなかなか実践できないという落とし穴があるわけであります。私たちは積極的に肯定的に人を愛する。傷つくこともありましょうけれども、重荷を負うという、そこで初めて"重荷を担い合う"ということが起こるのですよ。損したように思えるかもしれませんけど、それはお恵みですよ、ということであります。

 昨日、北海道の池上さんから電話がありました。本当に苦労しておられるようですね。重荷を分かち合うことが弱かったと、そう思いました。山下さんが幼稚園の園長をしておられる経営者でありますが、なんとあの有名な水谷先生がその穴を埋めてくださるという。恐縮といいましょうか、本当に申し訳ないほど有難いことであります。

 この新しく「ゴスペル神学院」という名称でありますよ、と新聞に出ておりましたが、「まあ使命があるなら自分でやったら?」ってそう思う人もいるかもしれませんけど、それは聖書的ではありません。「互に重荷を負い合いなさい。」先週の新聞の第1面に文部科学省発表で「小学生の校内暴力が最悪である」というね。ちょっとしたことでキレる、ささいなことで「(運動会の練習中に)ハイ、みんなきちんと整列して!」って、そんな言葉にもキレる小学生ですよ。ケリを入れられたり。今日司会をした人は学校の先生。お祈りをした人はお医者様でいらっしゃいますけど、大変ですねえ。少し前、町田のなんとかという中学校が荒れに荒れたという時代がありますけど、今は小学校が荒れる時代であるという。もっと悪くなると思いますねえ。まいた物を刈り取ることが起こるでしょう。

 アメリカという国も、今中学校、高等学校、いや小学生、ものすごく悪いですねえ。公立の学校から「主の祈り」と「モーセの十戒」を取ってしまった、その時からどんどんどんどん堕落したんです。
有名なロシアの文豪がいましたねえ。「神を否定するなら、何でもやれる。神を否定するなら、何をやっても構わない。」と言いましたけれど、まさにそういう状況が進められていくでしょう。進化論を教えていくというのは、まさにそういうことですからね。私達は重荷を負って祈り続けなければならないでしょう。3節から行きますよ。6章の3節。

 「もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙6章3節・口語訳)

 これは真理ですね。この教会のロビーには、大きな墨字で(素敵ですねえ)「すべて重荷を負うて苦労している者は私のところに来なさい。私があなたを休ませてあげよう。」ね。これはイエス様が大手をひろげて、「どんな人でも行き詰まり、重荷を負い、重荷に耐えられない人達は出てきなさい。私の懐(ふところ)に入りなさい。」─これは真理ですけれど、一面でありまして、今日のこの箇所は「自分自身の重荷を負うべきである、人間には天国に行くまで担ぐべき重荷(十字架)があります。そんなことのない人は1人もおりません。自分を捨て、自分の十字架を担いで私のところについて来るのでなければ、弟子になることはできない。」─自覚していらっしゃいますか?「私の担ぐべき十字架は、これである」という。意識して担いだら、神様は必ず力を与えてくださいます。信じる者はアーメンと言いましょう。アーメン。

 6章の6節から司会者が呼んでくださいましたが、もう一度読みます。

 「御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい(これは伝道者と信徒の関係を言います)。まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。(新約聖書・ガラテヤ人への手紙 6章6〜10節・口語訳)

 峻厳(しゅんげん)さと積極的な福音宣教の姿を見ることができます。アメリカの大統領でクリントン大統領という方がいらっしゃいましたが、その大統領に就任する時に、普通、どの大統領も聖書に手を置いて宣誓をします。そういう写真をご覧になった方が多くいらっしゃると思いますけど、クリントンの場合(リンカーンも)、自分の愛用してきた、すなわちおばあちゃんが代々伝えてきたところの聖書に手を置いて宣誓した。しかもガラテヤ書のこのところに手を置いてお祈りした。だから、クリントンというのはね、スタートは素晴らしかったんですよ。途中でねえ、サタンにまんまとやられたんですけど、もう一度"Back to the Bible"、大統領が素晴らしいクリスチャンに立ち返られるように、主の御名で祈りたいと、そう思います。どこが気を遣っておられたかというと、7節〜9節であると思いますけど、7節をご一緒に朗読することにいたしましょう。

 「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙6章7節・口語訳)

 アーメン。よくお葬儀をします時に、「私の親の使っていた聖書ですから、この聖書を棺の中に入れてください」なんて方がいらっしゃいますけど、あれはしない方が良いですよ。自分の使った聖書は、家族やお友達に差し上げたら良いと思いますねえ。そしてあなたが読んでおった聖書を見てですねえ、「ああ、ここをどうして赤鉛筆の線で引っ張ってあるのかなあ、ああ、ここは感動したところだろう」っていうようなね。これを繰り返し、私も父や母の聖書を見ますと、いつも「ああ、ここで恵まれたんだなあ、ここで何を考えたのかなあ?」って色々考えますよ。だから皆さんも、聖書を子供達に、孫達に残したらいいと思いますねえ。残したはいいんだけど、なんかうちのじいさんはぜんぜん読んでなかったね、うちのばあさんもなんか聖書のここは、ほら、なんかまだくっついてるよ(笑い)、とかなんとか言ってですね、それはちょっとまずいですから、ちょっとは聖書を読んでおいた方がよろしいのではないかなと、そう思います。

 若い人達も聖書を読んで家に置いておくと、お母さんが「うちの娘は(息子は)何に感動しているのかなあ?」ってお読みになるでしょう?それは素晴らしいことだと思いますよ。私達の教会に三畑長老さんというね、クリスチャンになる前はのんべえさんがおったんですよ。こののんべえさんねえ、教会には行かなかったんですけども、みんな「行け行け」って言ってたんですねえ。三畑長老の奥さん(熱心なクリスチャンでよく聖書を読む人だったんですが)、わざとですね、応接間に聖書を置いておくんですね。そうするとのんべえの長老さんがやって来てですね、「うちの女房はいったい何を(どこを)教会で教えられているのか…」とパッと開いたところがヨハネの2章で、イエス様が水をぶどう酒にお変えになった。「いやー、イエス様って、すげえお方だなあ!」って、それから教会に来たってくらいでございますから、聖書は読んでおくべきでありましょう。

 西田さんのご家族は、代々お嫁さんに聖書にサインをしてプレゼントをなさいます。こう書いてあります。「これは私たちが生きてきた道の唯一の拠り所であり、あなたに贈る最上のものです。」─読むたびに感動しますねえ。「これは私たちが生きてきた道の唯一の拠り所であり、あなたに贈る最上のものです。」代々このような言葉が伝えられるのは、素晴らしいでしょう?「もし福音をゆがめるなら、相手が天使であろうと有名な伝道者であろうと、私はのろわれるべきだ!」と、こういう強い信仰を理解しておったということであろうと思います。

 皆さんで一緒に懐かしい古時計の替え歌を歌いたいと思いますけど、覚えていらっしゃいますかね。大川牧師替え歌の歌ですね。『大きなあったかい古聖書』というね。

 大きなあったかい古聖書/おじいさんの聖書/百年いつも読まれていた/ご自慢の聖書さ/おじいさんの生まれた朝に/買ってきた聖書さ/今も なお読まれている/その聖書/百年休まずに ハレルヤ アーメン/おじいさんと一緒に ハレルヤ アーメン/今も なお読まれている/その聖書

 福音を伝えるのは命がけであります。工夫をしなければならない、知恵を尽くさなければなりません。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。必ずそうしていただけるように、祈り続けていきましょう。代々伝えていきましょう。ガラテヤ書の6章の7節からもう一度お読みします。

 「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙 6章7〜9節・口語訳)

 「時が来れば」─神様が時を握りしめてられておられる。いい加減に生きてはダメですよ!神様に刈り取られるような人生は、困るでしょう?「ずっと忍耐しておったのに、もういい加減にしなさい。もうあなたを刈り取ります!」と、そう言われると困りますでしょう。ねえ。リビングバイブルでは、こう訳しましたよ。

 「思い違いをしてはいけません。いいですか。神様を無視することなど実際には不可能であり、種をまいた人は、必ずその刈り取りもすることになるのです。自分の欲を満足させるために種をまく者は、その結果、きっと霊的な滅びと死とを刈り取るはめになります。しかし、聖霊様のよい種をまく者は、聖霊様が与えてくださる永遠のいのちを刈り取ります。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。」 (新約聖書・ガラテヤ人への手紙 6章7節〜9節・リビングバイブル訳)

 アーメン。これは聖書が教える霊的な原則であります。2日前、金曜日の朝私は深川ホーリネス教会(木場)の創立記念礼拝に招かれて(私、昔そこで牧師をしておりました)、この教会に就任する前にサンフランシスコで牧師をしておりましたが、その前が深川ホーリネス教会でした。23歳の若い伝道者がその教会の責任を持つことになりました。昼間アルバイトというか仕事をして、夜は夜学に行っておった時代に、1つの教会の伝道者になるというのは、もう本当に大変なことでした。でも一生懸命伝道しました。40年前ですよ。私がこの教会を突然やめてですね、40年ぶりにこの教会に戻ってきて説教するとしたら、「ああ、あの人もいる、この人もいる、あの人もいる、あの人もいる、ああ、あそこにいた!」ってなものでしょう?私、38年前にやめて一度も行ったことがなかったんですよ、その教会に。そばを通っても一度も中に入れてもらえなかったというか、一度も講師として呼ばれたことがなかったんですよ。38年ぶりにその教会に行って、「ああ、あの人もいた、あの人は中学生、高校生だ、○○ちゃん、○○ちゃん、あの頃50代だったけど今はもう80で齢をとった、車椅子で来ている」とか…懐かしかったねえ。天国行ったら、そういうことでしょうねえ。

 ジョン・ニュートンがね、3つ驚くだろうってね。「ああ、この人が来てるんだ!」と思うね、2つめの驚きはね、「あの人、いるはずだと思ったらいなかった!」というね。もう1つは、自分が神の国、天国にいることを驚くであろう、というね。あの時代に(3足のわらじを履いていたような中にいましたけれど)、まじめに種をまいて今喜びを刈り取り、主の御名を崇めました。その当時救われた人が2人、お証をしてくれたんですよ。

 金曜日の朝、深川ホ−リネス教会で御用をして、そして午後所沢で、夜は川口リリアでありまして、講壇にのって(私が顧問ということもありまして)─オズボーン先生ってねえ、すごい名前ですねえ。オズボーンっていうんですから、スカート履いてきたらどうしようかと思いましたけど(笑い)、このオズボーン先生が、長い説教の後、"いやしのミニストリーをする"という約束だったんですけど、金曜日、「伝道説教で救われる魂がたくさん与えられた。これがミラクル、奇跡です。いやしは明日!」なんて言ってね、私はもう、すごい腹立ったんですよ。講壇でもう1mくらい先にですね、講師がいるその後ろに、私いたんですよ。それで腹立ってねえ、「オズボーン先生、ちょっと約束違うんじゃないですか、日本人をバカにしないでくださいよ。我々は一生懸命、病める人のためにお祈りしてきて、あなたはいったい何を考えてらっしゃるんですか?『明日また来てください。』─病人が明日もう一度来るのは大変でしょう?いい加減にしてくださいよ、祈ることがそんなに大変なんですか!?」って、私珍しくカッカカッカ してですね、もし先生がサーッていなくなったら、僕が出て行って病人のためにお祈りしようかなと思ったのに、先生なかなか帰らなくてですね、(舞台)袖の方があるんですよ(下手、上手とあるんですけど)。上手(かみて)の方でね、ブーラブラしておったんですよ。それでまたねえ、「そんな時間があったら、祈りゃいいでしょう!」とかね、もうイライラだったですよ。

 あの日の帰りはねえ、車の中電車の中はね、サタンがみんな喜んだと思いますね。「みんなホラ、ブツブツ言え言え言え言え!」ってね。「なんじゃあのアメリカ人、小ばかにして!いやしの祈りもしないで明日だとよう!」なんて言ってですね、「何もったいぶってんだろう、オレは裏切られた!」とかですね(私もその1人ですけど)、サタンに喜ばれて。途中で私ね、「オズボーン先生、会衆を代表して言いますが、私も会衆も皆失望しましたよ。どうして祈らなかったんですか?」と言っちゃおうかなあって、この辺(喉もと)まで出たんですよ。でもその時にねえ、主のささやきで「すべてに時があり」─ああ、そうか。神様が時を握っておられて、我々はオズボーンという1人の伝道者にばっかり拠り頼んでいたけれども、もう一度イエス様を見直しなさい、神は時をお隠しになる時がある─という風に思ったんですよ。で、このままイライラしてね、腹立ててねえ、そして先生に対する悪口を言わなくても、心の中がいっぱいになっているのは良くないから、祈ってもらおう。あの先生ねえ、チョー先生でしたらすぐ手を出して按手して祈ってくれるんですけど、あの先生、誰一人祈ってないんですよ。それで私はね、厚かましくも図々しくもね、「私は祈って欲しいんです!」とそう言ったんですよ。で、あの先生は私がセミナーの7回全部出ていることをご存知で、「じゃ、祈りましょう。」ということで両手をつかんでね、本当に熱心にお祈りしてくださるんですよ。「この牧師が、日本で一番大きな教会の牧師でありながらも(って、「よく知ってるな、そんなこと」って思ったんですけれども)(笑い)、忠実に誠実に学んでくださいました。どうぞここにいやしのミニストリーが、油注ぎが豊かであるように」って、熱心にお祈りしてくださったんですよ。私はねえ、祈られながらねえ、(ああ、悪いこと言っちゃったなあ。さっきからもう腹立てて、本当に「もう、オズボーンめ!」とか何とか言ってたの、本当に申し訳ない。主よ、どうぞ赦してください!)って、それで祈りをいただいたんですよ。で、私の魂は本当に平安だったんです。

 今日ここでね、肉をまいたら肉を刈り取りますが、霊をまいたら霊を刈り取ることができる。あなた方は神様を甘く見てはいけない。あなたはまいた物を刈り取るようになるという、これはガラテヤ人への手紙の中心的なメッセージの1つであろうと思います。「よい物をまいたら、よい物を刈り取ることができる。悪い物をまいたら悪いものを刈り取ることができるという、この世界であります。兄弟姉妹、よい言葉、よい行為、よいスピリットをまいたら、必ずよいものを刈り取る、と信じる者はアーメンと言いましょう。アーメン!
 
 本日の説教のタイトルは「『夜と霧』を超えるもの」、いい題ですねえ。本のタイトルにしたいぐらいでありますねえ。ビクター・フランクルという、ご存知、ドイツ、ナチ、ヒットラーに捕まえられたユダヤ人達が600万人も殺されたわけですが、その中で何人かが生かされました。その1人に、このお医者様のビクター・フランクルがおりました。彼は『夜と霧』という歴史的なベストセラーの本を書いていらっしゃるんでありますが、その中にこういう1節があります。遠藤周作さんのエッセイの中にこれが引用されています。「朝早く強制労働に向かって出発する時、ごく小人数であるが、病人の枕元に自分のその日の食料であるパンをそっと置いていく人がいた。」─「私はこの1節を読んだ時、人間とはどんな最悪の環境の中でも人間らしさを見せることができるのだと興奮した。」と、遠藤周作氏が書いておられます。6章の9節10節、もう一度お読みします。

 「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。 」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙6章9〜10節・口語訳)

 リビングバイブルは、「チャンスを見て誰に対しても親切にしましょう。失望せず、あきらめずにいれば、やがて祝福を刈り取る日が来るからです。」

 これは本当ですよ。善をまきましょう、英語ではgood=よい、というね。親切をまきましょうという。親切運動をしましょう、継続しましょう。どんなに人間の罪が濃くてなんの光も見出せない夜と霧の中でも、主の命令に従って、よいことを実践しましょう。親切のかたまりになりましょう。一緒に宣言しますよ、私はよいことを行う人になります、ハイ、「私はよいことを行う人になります。」私は親切を実践します、ハイ、「私は親切を実践します。」

 これはねえ、キリスト教以外の人が聞いたら「何じゃ、私の考えと同じだ!」と思うでしょう。聖書が教えているメッセージの中には、人間が生きる為に、人間同士がコミュニケートするために、共生共存するために非常に重要なメッセージが書かれているんですが、キリスト教界は長い間、この常識的な、良識的なものを失って、何か教理を追いかけるようなものになってしまったことを反省しなければならないと思うのであります。歴史の中で最低の"夜と霧"、もう絶対に光が無くなっちゃった、罪のゆえに死の恐怖のゆえに、夜と霧に押しつぶされる人間の歴史の中で、最も素晴らしいところの愛を示してくださったのは、夜と霧を打ち破ってくださったのは神様ですよ、神様の愛ですよ。夜と霧を超えるものは、神の愛です。ヨハネ3章の16節をご一緒しましょう。はい。

 「 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(新約聖書・ヨハネによる福音書3章16節・口語訳)

 アーメン。神のなさったよいこと、good。これは福音でしょう。good newsというくらいですから。

 第1番目、すごいニュースですよ。信ずるだけで救われる道を開いてくださいました。よいことをすべきだと今言いましたが、よいことを積み重ねたら親切をすべきだ、と申し上げましたが、親切を積み重ねてクリスチャンになるのではありません。イエス様が親切をしてくださいました。イエス様が善をしてくださいましたから、それを信ずるだけで救われて、永遠の命をいただくことができるのであります。否定しない限り、すべての人が救われるようにと道を開いてくださいます。─すごい福音ですねえ。深川ホーリネス教会で、1人の人が証をした、そのお手紙をもらって帰ってまいりました。こんなお手紙です。「私がここに存在しますのは、青年牧師時代の大川先生との出会いのおかげです。39年前(私も39年前はすごいスマートで、ハンサムで、本当に…信用してくれなさそうだから続きを読みますが)(笑い)のことでした。私は銀行員でした。夜学の大学に行っておりました。KGK(キリスト者学生会)からこの教会を紹介されて、八方ふさがりの人生でした。道に迷ってばかりいました。ノンクリスチャンの家でしたから、聖書とも無縁でした。しかし、この教会で、この先生との出会いで、イエス様との出会いをいただきました。明確な救いと新しい歩みができました。」─39年前以来ですよ!嬉しいねえ。"明確な救い"っていうのは、どういうことですか?難しいことではありません。今できますよ。主イエス・キリストを罪からの救い主、人生の主として心の中にお迎えする者は、アーメンと言いましょう。アーメン。それでいいんですよ。

 第2番目、聖霊様の恵み。私達が元気でクリスチャン生活を送れるように、聖霊様が満たしてくださいます。

 3番目、素晴らしいいやしがあります。Nさんの奥さんからFAXをいただきました。「実は先週の月曜日、私の主人は持病で通風があります(通風というのは、風が吹いても痛いっていうぐらいですからね)。もう礼拝には行けません。」とね。よその教会の方なんですけども、インターネットで、大和カルバリーチャペルの礼拝を見ようということで(第2礼拝でも見たんでしょうね)、で奥さんと子供は「お父さん、じゃあ留守番してて、私はこの教会行くわ!」ってなことで、こちらに行こうとしたら、お父さんが動けないのに足を引きずってですね、「俺も行くよ!」ってなことで家族で来たんですって。で、奥さんと子供は母子室に入って、ご主人は後ろの方に(だって足引きずってきたんだから)ちょこんと座っておったら、説教の最中にいやされた。(奥さんからのFAXでありますが)「私も娘も、何度も『ハレルヤ、主よ感謝します!!』と叫びました。主人は仕事にも行けるようになりました。私はいつも礼拝堂の中に一歩足を踏み入れると、そこに主の臨在を感じ、聖霊のシャワーを沢山いただいて、家に帰るような感覚でしたが、今回はそれだけではなく、私の家族の上に特別な御業をもって届いてくださったことを感謝し、報告申し上げます。」

 さっきこの第3礼拝の直前にねえ、江尻さんって(今日見えてらっしゃるんですけど)、ピアノの先生でしょう?川口のリリアの昨日の夜(この人、目が不自由なんですよ。いつもステッキ突いてるんですけど)、「今まではね、自分より前の席(1つ前)の人は、じゃがいものように見えていた(って、私は何に見えたんだろうねえ)、みんなじゃがいものように見えていたんですが、照明が変化したのかと思っていましたが、そうではない。おお、見える!ステージに上がると客席全体と、2階も3階までもよく見えます。感動です。私は栄光を主にお返しします。本当に感謝しております。」一緒に拍手して喜びましょう。アーメン。栄光を主にお返しします。イエス様、いやし主。主イエス・キリストの御名によって感謝します。アーメン。

 第4番目、それは神の祝福をいただくことができます。先週お手紙をいただいたんですが(私昨日の夜、手紙を開けたばかりなんですが)、赤ちゃんの写真が出てまいりました。実はこの教会の若い姉妹と一緒に生活しておられる、クリスチャンでない、教会にも行ったことがない人が、どうもですね、赤ちゃんができちゃってですね、そういう状況ですからまあ"堕ろす"ということで同居しておりますクリスチャンになりたての女性がですね、「私、堕ろすわ。産むわけにいかないわ。」って、その人が私に相談に来たんですよね。私はしょっちゅうそういう相談にのっているわけですが、クリスチャンのその女性に対して「絶対ダメですよ、赤ちゃんを殺してはいけません。それは殺人罪と同じだから、産めるように私も手伝うから、産むように励ましなさい。」─もう何度言ってもだめ、そんな状況ではなかったんですよ。ところがね、私がいろいろ手配して、その彼女も一生懸命お祈りして励ましたらね、「やっぱり産むわ」っていうことになったの。産んだ後は私が引き受けるように手配しよう、という風に思っておったんですが、夫婦っていうかね、まあそういう関係の中で"育てる"っていうことになったの!そしてね、その生まれた赤ちゃんとお母さんの写真をねえ、私写真で見たんですよ。そしてね、私達の教会員がね、「一度は中絶が決まったはずの命が、こうして世の中に生まれたことに、神様の力を感じます。」とお手紙を下さいました。私も写真見ながらねえ、「励ましてよかったなあ!僕に相談してよかったねえ、本当に神様の祝福がありますように!」って赤ちゃんに手を置いてお祈りいたしました。

 私達の存在そのものは神によって生かされて生をゆるされておるんですよ、死んだら(自殺をしたら)絶対ダメなんですよ!イエス様が私達に命をくださったんですから。イエス様の愛にどう応えていくか。命をいただいているだけで、これは祝福ですよ。"I am so happy."一緒に言いましょう、ハイ、"I am so happy."毎日そう言いましょう。"I am so happy in Christ."キリストにあって神様のご愛にどう応えていきたいかと思うだけでも、それは祝福であります。

 第5番目、死ぬことを恐れない、天国の喜びを先取りして生きるんですね。D兄弟のお手紙です。「老人ホームにいる母は、毎日朝、昼、夜と食事の時聖書を開き祈っています。いつ天国に召されてもいい準備をしております。毎週日曜礼拝のビデオを観て、信仰が守られ、養われています。」
 愛する兄弟姉妹、私達はやがては御国に行きます。「天国が見えたら」と先ほど賛美をしてくださいましたね。天国がああいうところだってわかれば、私達はこの地上における夜と霧がどんなに濃くても、夜と霧がどんなに濃くてその真中で光を見出すことができなくても、私達はそれを乗り越える力を主イエス様から与えられて「ハレルヤ、感謝します!」と賛美していくことができると思います。ご一緒にハレルヤ、主よ感謝しますと言いましょう、ハイ、「ハレルヤ、主よ感謝します!」

 お祈りします。天のお父様、感謝です。僕も何のために生きるかわからないで、小学生時代、中学生時代を過ごしました。13歳の11月6日にもしイエス様を信じていなければ、目的も生きる存在の意味もわかりませんでした。こうやって50年も守られて支えられて、「よい物をまくんですよ、神様を侮ってはいけませんよ、まいた物を刈り取ることになるんですよ」という聖書の原則を心にとめて、生きてまいりました。小さなことに忠実に誠実に、心を尽くして精神を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛するんだ、私を通して祝福が流れて行くようにと祈り、主のご愛に応えたく、全力を注いでまいりました。小さな者でございます。失敗だらけでございます。罪深い者でございます。不従順、不信仰も無いわけではありません。悔い改めをしながら、今日まで歩んでまいりました。私達の罪を赦して、まいた物を刈り取ることになるといいますが、今日悔い改めをして、新しいよい物をまきますから、素晴らしい物を刈り取ることができますように我等に強い信仰を授けてください。この教会がこれからも天使であろうと伝道者であろうと、福音をゆがめて語るならばのろわれよと、パウロのような姿勢をもってこの教会が守られ続けてまいりますように。主イエス・キリストのお名前で祝福してお祈りを捧げます。アーメン。

「老いを愉しむ」 大川従道師 2005年9月18日

 「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」(新約聖書・コリント人への第2の手紙 6章1〜2節・口語訳)  

 今日は男性のクワイア(聖歌隊)の方はお休みということで、女性だけでこんなに素晴らしいご奉仕をしてくださいました。もう一度感謝の拍手をしましょう。ありがとうございました。私は11月6日が献身して50周年記念になりまして、午後2時から献身50周年記念感謝宴会礼拝というのをしようと思っておりまして、聖歌隊の皆さんもゴスペルクワイアの皆さんも1曲、ぜひ牧師の献身50周年を祝ってくださると、大変嬉しく思います。教会員でいらっしゃいましたら、ゴスペルティームに入るか聖歌隊に加わるか、また日曜学校の教師をするか、どれかお選びになられて(まあ全部できるという人もいらっしゃいますけど)、是非ご奉仕なさることをお勧めします。素敵ですねえ。私も聖歌隊に加わりたいと、いつも思います。

 主の御名を心から崇めたいと思います。初めての方もお見受けしますが、心から歓迎します。少し大きな声で朝のご挨拶をしましょう。よろしゅうございますか?皆様おはようございます。ご一緒に礼拝ができて、本当に感謝です。明日は日本の国でお休み、「敬老の日」ということでありますが、三畑長老が80歳になった頃、「長老さん、私達の教会も"敬老の日のお祝い"っていうのをしましょうよ。」って言うと、ムッとなさって、「私を年寄り扱いにするんですか!」―80越えてるのにねえ。それでですね、私はいつも「うちの教会には年寄りはいない!」とかなんとか言ってですねえ、敬老の日ができなかったんですけれども、もうご本人が天に召されましたので、安心して"敬老の日のお祝い"を今日したいと、そういう風に思っております。長老さんは90歳をお越えになられても元気いっぱいで、毎朝早天祈祷会に来られて、私達の為に皆さんの為に、名前を挙げてお祈りをなさっておられた。召天するまで元気いっぱいのお方でいらっしゃいました。なんせ90越えても虫歯が1本も無かったんですから。―総入れ歯でございますけど(笑い)。これを言うと喜んでくださいましたから、今日読みました。 

 私達は齢が進みますと、物忘れが激しいといいましょうかね、何を忘れたかも忘れちゃう人もいらっしゃってですね、昔のことはよく覚えてるんですけど、最近のことは忘れるというお方ね、鍵をどこに置いたかとかですね、火を消し忘れたり(おっかないですね)、メモをしたということは覚えているんですけど、そのメモが今度は無くなっちゃってですね、大騒ぎをして一日中探したり、「メガネがない!」って言っておでこに眼鏡があったり、ネクタイを2本締めちゃうっていう人もいたり、もう色んな方々がおられるわけでありますが、お祈りの中でも色々忘れてしまってですね、名前を挙げようとしているんですけど「あの人、あの人、あの人、あれ?あの人ですよ、神様!あなた神様だからわかるでしょう!」とかなんとか言ってですね(笑い)、お祈りでももうメチャクチャになったり、いろいろあると思いますけれど、物忘れが激しくて"曜日を聞き間違って礼拝にいらっしゃって、誰もいなくて恥ずかしい方"もいらっしゃいますけど、今日は皆さんご無事においで下さいまして、本当にようこそおいで下さいました。間違って聖書を持つつもりだったのに、他のものを持って来ちゃった、という人も中にはおるそうでありますけれど、一緒に聖書を学んで力をいただきたいと思います。素晴らしいですよ。一緒に学びましょうね。6章の1節と2節をご一緒にお読みいたしましょう。

 「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。 神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」(新約聖書・コリント人への第2の手紙 6章1〜2節・口語訳)  

 アーメン。この1節「神の恵みをいたずらに受けてはならない。」というのを新改訳聖書では「むだにしてはいけない。」と書いてあります。"無駄にする"ということは、神の恵みを失ってはいけないということが1つと、もう1つは、神様の恵みは受けるだけではなくて、人々に分かち合うということに意味がありますから、その責任、その責務を忘れてはいけません、無駄にしてはいけないんですよ、ということを言おうとしております。岩波文庫の聖書では、この「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」というのを、「今こそ絶好の時である。」と訳しておりますが、面白いですねえ。昨日、よその教会の牧師がこの教会を訪ねて来られて、ロビーをキョロキョロなさって、宴会礼拝の今までなされたプログラム・メニューをご覧になられて、「先生、どうしてこの教会は次から次へと新しいアイデアが与えられるんでしょうか。私達は手を替え品を替え、折が良くても悪くても福音をのべ伝える、ということが教会の使命であります。個人的にも無駄にしてはいけませんけれども、いたずらに受けてはけないんですけれども、教会として同じことであるかと思います。今は恵みの日、絶好のチャンスであるという。

 「目を上げて畑を見てご覧なさい。もう既に黄ばみて刈入れ時になっている。」と、主イエス・キリスト様は仰ってくださいました。10月1日土曜日には"アカペラ"という、びっくりするような音楽家達がここにいらっしゃいます。世の中でしたら今の倍くらいの有料チケットが必要であろうかと思いますけれども、皆さんどうぞ、福音をのべ伝えるチャンスをものにするように、イエス・キリストの御名で祝福したいと思います。 

 この世の中で山折(やまおり)哲雄氏という、大変有名な学者先生がいらっしゃいますが、その人のお書きになった書物の中に「老いを愉しむ」というコーナーがありました。今日の説教のタイトルであります。齢をとるということを愉しむ。この先生があるところで研究発表をしようとしたら、老人問題について(だいたい老人といいますと福祉問題)、老人は弱者として助けてあげなければならない、というね。生活はどうするか、年金はどうするか、というような話題ばかりでありますけれども、「私が言いたいのはそういうことではない。能舞台であるとか、または狂言舞台でありますならば、"ワキ"というのがありますけれども"ワキ"としての老人ではなくて、能舞台における"シテ"っていうのは主役のことでありますが、人生の舞台における"シテ"─この中心的な主役として舞って欲しいんです。」ということを仰るんですよ。

 能面ってご覧になったことはありますか?ちょっと出してくださいますか?ねえ、素敵な面でしょう?これは芸術作品ですよねえ。有名な面でありますけど、この能面(しばらく出しておいて下さい、みんなでこれを日本人として味わってみましょうね)、「柔和な表情をして、笑みをたたえ、気品を漂わせている白髪の能面の翁(おきな)である。この翁の優しい表情は、いったいどこからきたのか。柔和な目元や口のあたりに漂う気品は、一朝一夕にできあがったものではない。成熟までの、気の遠くなるような時間の蓄積が、その背景には隠されているにちがいない。」ありがとうございました。みんなでご覧になりましたねえ。「この翁の面は、男か、女か…(普通は男という風に言われるんですけど、この学者は)人間としての成熟・円熟の極限においては、男も女も『翁』のような高みに達することができる。老いというのは人間の体の深い部分にもぐり込んで、何とも不思議な演出をするものである。」うーん、うならせられるような内容ですね。

 曾野綾子さんという人物が『心に迫るパウロの言葉』という分厚い本を書いていらっしゃいますが、その中で、本当に幸せになるために3つの幸福の鍵になるというものがあると言ってですね(一般の本屋さんで出ているんですけど)、第一テサロニケのあの有名な5章の16節から18節までを引用していらっしゃるんですよ。一緒に読んでみましょうね。はい。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」                     (新約聖書・テサロニケ人への第1の手紙 5章16〜18節・口語訳)  

 アーメン。すごいですねえ。「幸せになりたければ3つを考えなさい。」とカトリックの作家である曾野綾子さんが仰っているんですけど、第1番目は、喜びをもって人生を過す、ということであります。喜びを見つけ出す、発見するという。先日お会いしたお嫁さんですけど、「うちの年寄りはもう、朝から晩まで、晩から朝までグチュグチュグチュグチュ、毎日愚痴ばっかり言っていて、先生、どうにかなりませんですかねえ」と(この教会の人ではないですよ)、愚痴を私に仰っていました。時間をかけ年月をかけて喜び発見の人生を過ごすという、毎日朝から晩まで喜びを見つけて幸せを味わうという。

 『少女パレアナ』っていう本を読んだことがありますか?読んだことのない人は読みましょうねえ。世界的に有名な、どうしたら喜びを発見できるか、喜び発見をすることによって人生が変わるという、そういう素敵な素敵な本ですよ。私がもし作家になれたら、『少女パレアナ』ではなくて『老女パレアナ』というのを作りたいなと思うんであります。齢をとってからあっち痛いこっち痛い、あっち物忘れ、不満がいっぱいあって文句を言う、愚痴を言うのではなくて、喜びを発見する"パレアナ"になっていただきたいと、そう願います。 

 あなたは人生劇場の"シテ"です。翁の顔になっていく、顔の様相が変わっていくという、シテやったり!てなもんでありますが、何を発見できるか?何をいただかなくても「主を喜ぶことこそ力です。」(ネヘミヤ8章10節ですね)私達は何をいただくよりも、何をしていただくよりも、主ご自身をお喜び申し上げる。主を喜ぶことは力です。一緒に言いましょう、ハイ、「主を喜ぶことは力です。」クリスチャンのちょっと上等な、と言いましょうか本質的な力の源は、主を喜ぶということであります。 

 第2番目は「絶えず祈りなさい」で、いつも祈るんですよ。曾野綾子さんが面白いことを言っているんですよ、皆さん。「私は万が一長生きするとして(あの人はちょっと弱いところがあるので早く死ぬ、と思って今まで生きて来たわけですが)、万が一、私の周りに身内がいなくなった、知人も友人もいなくなってひとりぼっちになっちゃった。考えたことあります?若い人は考えたことないでしょう。私が人生の中で、仲間が全然いない、お友達が全然いない(齢をとるとこうやって考えるんですよ)、だーれもいない、ひとりぼっちになっちゃったらどうしようか。こう仰ってる。「私を昔と同じように愛し、私のすべてを知っていてくださって、少しも私を邪魔扱いにせず、いつも変わらぬ優しさで過してくれ、いつでもどこでも、どれだけでも、話し相手になってくれるのは、もう神様しかいないのだということをハッキリと自分に言い聞かせておこうと思っています。」って、いいじゃないですか!だから今日、初めて来られた方に申し上げておきますが、神様と仲良くするんですよ。神様と和解して、仲良くして心に平安を持つことが幸せになる条件と「ヨブ記」に書いてありますが、まさにそういうこと。ともかく神様さえいてくだされば、身内が全然いなくなっちゃったとしても、私は話し相手に困ることはない。いや本当のことを言えば、常に誤解されて苦しむ人間にとっては、祈りによってすべてを見ていてくださる神様に理解されること以外、心の休まる方法は他にはない、ということを認識すべきであると思います。どんな良いお友達がいても、身内であったといたしましても、言葉で態度で誤解されて、色々つらいことを経験するわけですけれど、神様は私達に時間を与えてくださって、何時間でも何十時間でも話を聞いてくださって、私達に対して誤解は絶対に無いんですよという、そういうお方との交わり。

 第1番目は「いつも喜んでいなさい」、喜びを発見しましょう。2番目はいつもだけではない、絶えずどんな時も祈り続けましょう。第3番目は「すべてのことを感謝して生きるんですよ」という、まあこれが幸福になる秘訣ですよ。これは決定的な鍵であります。実に感謝さえあれば、私達は満たされて生きることができます。

 感謝することは、殊(こと)に老年の最も大きな事業であります。「事業なんかもう定年退職でリストラされて、私はもう隠居しておりますという方に、もう一度事業を差し上げますよ。"感謝する"ということは大きな事業であって、これに心を向けなさい」ということでございます。もし人間がなにか1つ老年に選ぶとしたら、それは感動する能力であろうという。感謝するにも力が必要なんですって。ねえ。感謝する能力、現代用語で言えばね、斉藤孝氏の使い方を用いれば、それは「"感謝力(りょく)"とかね、"感謝力(りき)"とかいうことが人生にとってどんなに大きな力になるか。その人の人生の最後を決定するものである。健康のバロメーターっていうのは、どのくらい毎日感謝できているかどうかということがバロメーターであって、人の行為をどのくらい善意に善意に解釈できるかということがポイントだ」っていうんでありますよ。ちょっと心が病んでまいりますと、私達は感謝を忘れるようになります。(いつ感謝したかなあ?)人が悪魔のようでも、善意に、善意に、善意に、いい方に、いい方に、いい方に考える。これが健康のバロメーターであるというのは、本当に素晴らしいことだと思います。それで私が作りました歌は、素晴らしい歌ですねえ、自画自賛でありますが。 

 ♪空を見ても感謝 山を見ても感謝 海を見ても感謝 何を見ても感謝/感謝 感謝 感謝/金が無くても感謝 車が無くても感謝 どこに行けなくても感謝 顔がゆがんできても感謝/しわができても感謝 目が細くなっても(って昔から細かったけれども)感謝(笑い) 年寄りになったとしても、若さを失ったとしても 感謝 感謝 感謝/イエス様がご一緒ですからひとりぼっちでも感謝/イエス様がいてくださるから感謝 頭が少々悪くても感謝♪ 

 もう何でも感謝することができるという。私達の教会では、私から誕生日カードをいただくだけでなく、誕生日の度にお手紙を下さる方がたくさんらっしゃるんです。くださらない方はあなただけでございますが(笑い)。 それでですね、最近ハガキを下さったお方がいらっしゃいました。「私は実は乗り物に弱くて、どの乗り物にも乗れない、すぐ酔ってしまうからどこにも行けない(ああ、気の毒ですねえ。私はその人が健康になるように祈りたいと思いますねえ)。」その人がこう仰いました。「お友達が旅行する、旅行した、そういう話を聞くとうらやましくてうらやましくてしょうがなかったけれども、よく考えてみると私は毎週礼拝に出席できる。フィジー諸島に行く、フィジーの楽園に行くよりも、教会の礼拝の素晴らしさの楽園で、私は満足して本当に感謝しています。」って、いいですねえ。「どこに行けなくても私は礼拝に行って、神様を賛美します。」─やがて皆さん、まあこの地上では考えられない、比較できないほどの天国という楽園に私達は導かれる日が来るわけでありますから、それもまた想像しただけで先取りして感謝を捧げるということでございます。

 非常に大切な話をしますから、テレビを観ていらっしゃる人達もよく聞いてください。世界に影響を与えたヘンリー・ナウエンという人物は(偉大な霊的な指導者でいらっしゃいますけど)、そういう指導者でも苦しみなさることがあるんですねえ。あんまり立派な伝道者は苦しみを持っていく場所がないんですが、ヘンリー・ナウエンは持っていく場所がなくて、マザー・テレサのところに行って話を聞いてもらったそうです。マザー・テレサは何時間でも話を聞いてくれたそうでありますが、このヘンリー・ナウエンという世界的な器が、苦しみを、心の内側を打ち明けた後に、このマザー・テレサがなんというお答えであったか。「Brother(ブラザー;兄弟よ)、あなたは朝早く起きて神様をadore(アドアー;賛美)しなさい。」というのが結論の言葉であった。 一言でありましたけれど、榎本保郎(やすろう)先生は、「私達が苦しい毎日の生活の中で15分で良いから、5分聖書を読んで、5分お祈りをして、5分瞑想をしなさい、主を賛美しなさい。これであなたの人生は決まるでしょう。」  本当だと思いますね。誰にも、まあ聖職者と言われるような人達も、牧師の中の牧師のような人でも、立派なカウンセラーを見つけてそこでお話をして聞いていただいたとしても、本当の解決には、答えにはならないんでございますよ。どうしたらいいんですか?─主イエス・キリストが私達に要求しておられる。「いつも喜んでいなさい(命令形)、絶えず祈りなさい、すべてのことに感謝しなさい。これはキリスト・イエスにあって、神様が私達に求めておられることである。」マザー・テレサがもしここにいらして、私達が相談したら、「1時間、賛美(adoration)を神様に捧げてください。あなたの人生は全く変えられていくでしょう。」すごいアドバイスだなあと、そう思います。 

 大塚教授という、恵泉女学院の名誉教授をしていらっしゃるお方がお書きになった、ヘンリー・ナウエンの『スピリチュアル・メッセージ』という(ヘンリー・ナウエンを理解するためにはもう世界的な書物であろうと、私はそう申し上げたことがあろうかと思いますが)、その文章の中に、「祈りそのものが人をいやすのです。祈りがきかれるということがいやすということではありません。」─英語の文章をちょっと出してみてくださいますか?     
 Prayer heals, not just answer to prayer  

 "Prayer heals"、祈りが人をいやすというね。"not just answer to prayer"、祈りに応えられるということが、人をいやすのではない。応えられても応えられなくても、"祈る"ということそのものが、あなたの人生をいやすという。ヘンリー・ナウエンというのは、すごいことを教えますねえ。もう1つ英語を出してみてくださいますか?  

 hiddenness, powerlessness, littleness  

 これは3つありますけど、"hiddenness"、隠れているというね。マルチン・ルーテルの中心的なメッセージ、「神は隠れている神であると発見しなさい。」"powerlessness"っていうのはね、無力というね、力が無いということですね。"littleness"は小ささ。小さなことが大事であるという風に仰るんですよ。大塚教授は今ご病気でいらっしゃるんですが、病床から私、お手紙をいただきました。すごい手紙でした。ヘンリー・ナウエン先生が語っておられる聖餐式、聖餐に関する言及でありますけれども、あまりにもすごいので、私は圧倒されました。こういう文章です。

 I am restless until I rest in you(訳:私の心は、あなたのなかに憩うまでは、落ち着かないのです) 

 すごい名訳だと思いますね。英語をもう一度出してくださいますかねえ。  

 I am restless until I rest in you  

 "I am restless─"rest"はわかるでしょう?レストランのrest、休むという意味ですね。"until I rest in you"、これをなんと訳したかというと、「私の心は、あなたのなかに憩うまでは、落ち着かないのです」─名訳ですねえ。ゆっくり瞑想したい、味わいたいと思いますよねえ。いかがですかねえ。あなたの中にいらっしゃるイエス様が、あなたがイライライラするから、あなたがガサガサガサ波立っているから、落ち着かないんですって。「私の心は、あなたのなかに憩うまでは、おちつかないのです」というね。今日初めて来られた人、驚かれると思いますけど、イエス・キリストは。ヨハネ黙示録3章20節に)「心の扉をノックしている。」─ノックしている。  「あなたが心の扉を開いたら、私は中に入ってあなたと共に生涯を過しますよ。」と、そう仰るんですよね。
ルカ福音書の第2章というところに、イエス・キリストのクリスマスの出来事が書かれておりますが、イエス様は人間になられた時に、赤ちゃんとしてお生まれになられました。赤ちゃんが馬小屋の中でお生まれになった、マリヤさんを通して生まれた。そこがどこであるかというと、ベビーベッドがあるわけではない、馬が顔をつけて食べる、飼葉おけと言いましょうかね(ごはん茶碗ですよね)、長ーい顔をした馬がですね、普段はそこにあるところの餌を、グチュグチュグチュグチュグチュって食べるところにイエス様が置かれたということは、非常に暗示的なんですよね。エコノミック・アニマル(獣)と言われる者達に囲まれてイエス様が生まれて、イエス様が食べられちゃう、というね。イエス様のお姿は、隠された(hiddenness;ヒドゥンネス)。そのイエス様の中に神様を見出すっていうことは、難しい。発見してごらんなさい。

 2番目"powerless"、赤ちゃんは全く力が無い、無力でございましょう。 

 3つ目は"littleness"というのはどういうことか。赤ちゃん以上に小さいものはないでしょう?こういう世界を通して、神様の驚くべき働きをなさる。聖餐式っていうのは、イエス様がパンをお割きになって「これは私の肉体だ、取りて食しなさい。」─食べてどこかに入っちゃうでしょう?小さくなって小さくなって小さくなって、私達に食べられる宿命の中で、この地上に来てくださった。「さあ、イエス様を、あなたの命のパンとして食しなさい」と、そう仰ってくださる世界があるということであります。齢をとったらどうなりますか?あまり目立つことをしたくないってね。「目立つなよ、もう。脇に引っ込んでなさい、出てくるなよ!」って言われるかもしれません。力が無くて若者と競争するわけにいかないでしょう。小さくなって、身長さえも小さくなって…って、3つのポイントとそっくりでございましょう。そこに神様が驚くべきメッセージを届けようとしておられるんだということを、忘れてはいけないです。

 「(主は)私たちにすさまじい神の愛を伝えています。私には、そのことを伝える責任があるようです。病後ですが、この使命のために、神様は私を強めてくださると信じています。(大塚教授の手紙より)」─大塚先生がどれくらいのクリスチャンライフであるかわかりません。私はクリスチャンになって50年経ちますけど、今、毎週毎週毎週私はこのような驚くべきメッセージをいただいて、神様の前に圧倒されているのであります。ヌミノーゼ、と言いましょうか、畏れを抱いて足から靴を脱ぐような、そういうような経験をさせていただいております。私達の責任は、老人になっても病弱であっても、このすさまじい神様のご愛を体験してお伝えすること、愛に生きて主を賛美する務め─これが私達に課せられたものであります。さあ、恵みのチャンスを失ってはいけない。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝する、そんな人生を送りたい。齢をとっても輝いて生きたい。そう願う者は、アーメンと言いましょう。アーメン。

 2番目、6章の3節以下であります。ゆっくりメッセージしたいんですけど、時間が足りませんから読むだけにしましょうかねえ。

 「この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕(しもべ)として(印をつけられる人は、"神の僕"っていうのは2度出てきますよ)、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも(極度ですって、パウロが言うんですからすごかったでしょうねえ)、患難にも、危機にも、行き詰まりにも(皆さんだけではない、パウロも経験した)、むち打たれることにも(何度も何度も)、入獄にも(牢獄にブチ込まれたのは、多分7回くらいあるであろうと言われますが)、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも(まあ眠ることができない環境だったんでしょうかねえ)、飢餓にも(食べる物がない)、真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力とにより、   左右に持っている義の武器により、 ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、 人に知られていないようであるが、 認められ、死にかかっているようであるが、(どっこい)見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、(この後に"しかし"と入るんですが、"しかし")常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」 (新約聖書・コリント人への第2の手紙 6章3〜10節・口語訳)

 私がもう、大好きな箇所ですよ。1つの言葉にリズムがありますねえ。もう一度読みましょうかねえ。8節から読んでみますよ。パウロの真骨頂って言いましょうかねえ。

 「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、(頭にくるようなことがあったとしても、私は)神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、 人に知られていないようであるが、 認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」(新約聖書・コリント人への第2の手紙 6章8〜10節・口語訳) 

 何を言いたかったんでしょうかねえ。ゆっくり味わうべき内容であろうかと思います。印をおつけになった"神の僕"というのは、"ディアコニア"というギリシャ語を使われておりまして、これは"仕える者、奉仕をする者"という、そういう意味。イエス様にお仕えする喜びというですね、「私は神と共に働く者である」という意識を持っておられたというわけであろうと思います。3週間前にお話しました第1コリントの9章の19節(今スクリーンに出ますが)、

 「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。」(新約聖書・コリント人への第1の手紙 9章19節・口語訳)

 この「奴隷になった」という言葉は、"ドゥーロス"という、本当に奴隷になった、という意味であります。「もう1人の人も地獄に行ってもらいたくはないから、すべての人が救われる、そのことのために私は奴隷になりました。」どういう風に?「ユダヤ人を救うためにはユダヤ人のようになりました。律法のある人達のためには、その人達を救いに導くために律法のある人のようになりました。律法のない人の為には、律法のない人のようになりました。どんな人でも構わないから、私はその魂が地獄に行かないで幾人かでも救われるように、福音を伝えるために、すべての人のようになりました。」そして23節はこういう言葉ですよ。

 「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」(新約聖書・ コリント人への第1の手紙 9章23節・口語訳)

 素晴らしい聖句でありますね。私達の教会に流れているスピリットは、福音のために何でもする、という。これは私に与えられているスピリットでもありますが、日本基督教団が出しております『信徒の友』の10月号に、長津という先生がすごい説教を書いていらっしゃいます。短いんですけど、「福音のために何でもする、という風に表現されるパウロ先生は、八方美人のようになりふり構わず節操の無い姿も思い描きますが、世界中のほとんどの翻訳は、『福音のために何でもする。』と訳しておりますが、その前置詞は、"福音のため"と訳さなくても、『"福音によって"私は何でもする。』と訳せる言葉であることを注目して欲しい。」というメッセージであります。私初めてなんですよ、こういうメッセージ。

 さあ、少し注目して聞いてください。落ち着いて聞けばわかりますよ。ちょっとややこしいですけど、今まで考えてきたのとちょっと違うわけですからね。福音というのは、"神が人間になられた"ということが福音ですよ。人間を救うために、神様であったお方が人間になられたりね。水戸黄門が(偉い方なんですけど)庶民であった。百姓になってしまった、商人になってしまったけど、やがては「これが目に入らぬか!」って、そこでもう一度元へ戻っちゃうわけですねえ。『王子と乞食』という有名な本がありますが、王子と乞食が洋服を換えて立場を代えたんですけど、やっぱり最後は替わるわけですねえ。イエス・キリスト様は完全に人間になられた。パウロは十字架にかかってくださったイエス様によって(すなわち福音によって)、自分が変えられた。相手を変えようとする人生から、相手によって自分が変わることができる人生へと変えられた。

 私はもう、ハンマーで頭を殴られたようなメッセージでありました。繰り返します。「相手を変えようとする人生から、相手によって自分が変わることができる人生へと変えられたことであります。それはあたかも神が人となり、本当は人を裁くことのできる唯一の裁き主であるにもかかわらず、罪人を愛するがゆえに、あえて人間に裁かれるというお立場をお持ちになられた。パウロは神の最後の裁きの日の福音を信ずる者として、すべての人の奴隷になることができたのであります。"人を変えてやろう"とする伝道は、福音的伝道とは言えません。伝道の第一歩は、福音によって私が変えられ続ける人格の人間になるということ。私が悔い改め続ける人間になるということであります。世界中に発信したいメッセージであります。キリスト教国がそうでない国に乗り込んで行って"変えてあげよう"という姿勢ではない。「"人を変えてやろう"という伝道は、福音的伝道とは言えません。伝道の第一歩は、私が変えられ続ける存在、人格、人間になるということ、私が悔い改め続ける人間になるということです。福音のためなら、どんなことでもする。何でもやってあげるよ、やっちゃうんだから、という人格が『福音によって、私はどんなことでも致します、私も共に福音にあずかりたいから。』という思いによって形成されることを願います。」アーメンですよ。私達の教会の体質も、私の牧師としての体質も変えられたい。私は福音の凄さに圧倒され、御言葉で料理されました。少なくとも私は取り扱われ、1つのことを決断しました。主の御名を心から崇めたいと思います。

 お話を終えたいと思いますが、私達の教会に明井(旧姓・石田)淳子さんという方がいらっしゃいます。お手紙を誕生日に寄せて長い9枚のレターペーパーでありました。お父さんのお仕事の都合により、アフリカで生活をしておりました。ある日ドライブをしております時に、前を走っておったお父さん達が(対向車線の方に入ったんでしょうか、向こうが入ってきたんでしょうか、お父さんとお母さんと弟君が)、後ろの車にいた淳子ちゃんの目の前で、交通事故で皆死んでしまいました。(この教会の石田貫太郎さんのお兄さんのご家族であると思いますが)我々はそれを聞いた時に、もうショックでありました。クリスチャンでない家族でいらっしゃいますが、石田家にとりましては大切なお兄さんのご家族がいっぺんに亡くなったわけですから、後に残された淳子ちゃんを引き取りに貫太郎さん達がいらしたんでしょうかね。私達も「祈ってください」と言われても、どう祈っていいか、もし淳子ちゃんがこの教会に来たらどういう風に触れていいかわからない、どういう言葉を使っていいかわからない、きっと皆さんもそうだったと思います。お父さんもお母さんも弟も全員いっぺんに(目の前でですよ)、交通事故で死んで、自分ひとりぼっちになってアフリカから戻って来て、どんな心境でしょうねえ。その時のお手紙が、私(牧師)が知らないことを皆さんが親切にしてくださったこと、声をかけてくださったこと、食事を運んでくださったこと、石田(久美子)さん達が親切にしてくださったこと、そのいとこ達が私を受け入れてくれたこと、そういうことがずーっと書いてある。もう涙無しには見ることができませんね。自分がもしそうであったらどういう風にこれを受けとめられるかという風に思う内容です。さあ、その手紙の一部を読みます。

 「私の苦しみは、イエスさまを知る前は、私自身ひとりで、全部を背負おうとしましたが、とうていそんなことできませんでした。でも、神さまが『手伝ってあげるよ!』と言って下さったので、その悲しみは半減しました。そして私はクリスチャンの主人と結婚して、さらにその苦しみ悲しみが半減し、ついに息子を授かったことによって、さらにさらに半減し、やがて、こっぱみじんの粉々になり、最後は、聖霊様の勢いのある愛の息吹でふっとばされて、あとかたもなくなってしまったようです。」(明井淳子さんの手紙より)

 人それぞれありますけど、よく知ってください、人間が持っている"トラウマ"という深い傷の問題は、一生担ぎ続けて行かなければならないと思い込んでおられる方がたくさんいらっしゃいますが、イエス・キリスト様が私達の為に十字架にかかって、私達の代わりに血だらけになって傷を受けてくださった、その打たれた傷によってこの淳子ちゃんがいやされている姿を、私達は見ます。圧倒されますねえ。その痛みや悲しみや苦しみは、聖霊様の勢いのある愛の息吹でふっとばされて、跡形もなくなってしまったようです。まず思いがチェンジされなければ。「私の腹は、私の思いはずっと担ぐべきだ、私はそういう不遇な中に生きている、私はそういう環境の中に育った」って思う必要はない。あなたの心が変えられればあなたの人生は変えられる、あなたの思いが変えられたらあなたの信仰のようになるという世界を、この中に見つけることができます。「今は、本当に心から喜びあふれる希望の人生に変えられたことを主に感謝し、栄光を主にお返しいたします。神さまによる祝福の方程式は、すばらしい人生を、人にもたらすものだ!と実感しております。このような愛の祈りと行ないによって、私は変えられました。この愛を私は、絶対に無駄にしたくありません。(同上)」今日の6章1節に、「あなた、無駄にしちゃいけませんよ、いたずらに恵みを受けてはいけませんよ」というのと共通しますでしょう。どうしたらいいんですか?失ってはいけませんよ。もう1つは、これを人々に分かち合うんですよ。「今までしてきてもらったことを、今度は、他の方と同じように仕えてゆくことができれば、と祈り励んでおります。私のために祈ってください。(同上)」ということであります。

 今日のメッセージを心にお留めになられて、与えられた人生の豊かな恵みを受けとめるだけではなくて、今は恵みを伝える絶好のチャンスであることを忘れないで、「今は恵みの時、今は救いの日」です。さあ、主がご一緒に働いてくださる。主の働きを共にさせていただくこの光栄ある神の僕としての生き方、それを私達は実践していきたいと思います。イエス様のご愛に心から感謝し、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝する、そんな人生を歩みたい、そう願う者は、アーメンと言いましょう。アーメン。

 お祈りいたしましょう。天のお父様、感謝、感謝、感謝、感謝、感謝です。生かされていることを感謝します。こんなちっぽけな、どうしようもない、罪深い、いい加減で不信仰な者のために十字架にかかって死んでくださいました。本当に主よ、神様の偉大な幸福の方程式に圧倒されております。「私の心は、あなたのなかに憩うまでは、落ち着かないのです。」すごい真理を、私達は今日学びました。いつもあなたを悲しませ、あなたを苦しませ、あなたご自身(どうしてわかってくれないのかな)と思っておられると思いますけれど、私達は今日、もう一度イエス様を心の中にお迎えし、主が仰る御言葉を通して生きる、これぞキリスト・イエスにあって天のお父様が求めておられる素晴らしい世界です。私達はなかなかうまくいかないんですけど、今日もう一度決断しますから、聖霊様、助けてください。主をadore(賛美)します。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝します。そして隠されること、力が無いこと、無力であること、小さいこと、小さくされたこと、目立たないこと、目立つような生き方ができなくなっちまったこと─それでも感謝。主はその者を用いて、人間劇場における人生の舞台の"シテ"として、主よ、齢をとってますます円熟の極み、柔和な成熟の極みを体験させていただいて、「ハレルヤ!」と賛美できるように導きたまえ。キリスト・イエスのお名前で祝福してお祈りします。アーメン。

「苦難と慰めの大洪水」大川従道師 2005年9月11日

 「神の御旨によりキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟テモテとから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである。 」
                           (新約聖書・コリント人への第2の手紙1章1〜7節・口語訳)


 アーメン。素晴らしかったですね。ヘゼカイア・ウォーカーという先生は、前にここにいらしたことがあります。素晴らしい器でありますけれど、グラミー賞もお取りになられた方ですね。9.11同時多発テロの後、この人達のために作られた曲を今日歌ってくださいましたから、ある意味において世界中でこの曲が今日流されることに意味があると、そう思いますね。「あなたも私も互いに必要だから、そばにいてください、祈ります  I love you 生きていて欲しい、大切なあなたに生きていて欲しい。」いいですね。一緒にもう一度感謝の拍手をしましょう。Thank you、アーメン。

 青年会がこんなに上手に歌うのを初めて私は聴きましたね(笑い)。素晴らしいねえ。また是非賛美して欲しいと、そう思います。今日はもう初めての人を沢山お見受けしますけれど、心から歓迎します。久し振りの方もいらっしゃると思いますけれど、一緒に礼拝が守れることは、本当に神様の大きなお恵みであると思います。さわやか挨拶をしましょう。皆様おはようございます。

 小学校5年生を持ってるお母さんから新聞に投書がありました。うちの娘は、わき見運転という言葉の意味がわからなくて、運転をする人が、脇の下をこう上げて、“わき見運転”という風にずっと思っていたらしくて、テレビなどで「わき見運転で交通事故になった」なんていうと、(どうやって運転するのかなぁ?)とは思っていたそうであります、というようなことが書いてありました。可愛いですね。

 ”わき見礼拝”というのもありましてですね、教会に来てキョロキョロしておられる人の中には、教会に来て「嫁さん探そう」と思って来る人もいらっしゃるそうで、私の知っている人は教会でお嫁さんを見つけました。それもまあ、良かったですねえ。東南アジアに行きますと盗難が多いと言いますけれど、ある教会では泥棒さんがですね、キョロキョロしてわき見をしておる、というようなこともありますね。わき見運転も困るし、居眠り運転も困ると思いますが、教会にいらしてわき見礼拝も居眠り礼拝もあまり気にしないで、礼拝の中にいらっしゃるということが素晴らしいことだと思います。そして神様の恵みをたくさんお受けになるようにおすすめ申し上げておきたいと思います。

 さあ、ご一緒に聖書を開きましょう。第2コリントの1章、順番に聖書を勉強してまいりましたが、今日の箇所も素晴らしい箇所ですね。278ページ(口語訳)であります。「コリント人への第2の手紙」は、パウロ先生がたぶん56年くらいに書いたであろうという風に思われる聖書の言葉であります。読みます。

「神の御旨によりキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟テモテとから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」(新約聖書・コリント人への第2の手紙1章1〜2節・口語訳)

 ご注意いただきたい言葉がいくつかありますが、第1節に「神の御旨により」と書かれておりますけれども、新共同訳聖書は「神の御心」、私たちの人生には自分の意思でゴーイング・マイ・ウェイ、自分で自分の人生を切り開く、とそう思っておられる方もいらっしゃると思いますけど、聖書は、私達の生き方は神様の御心の中で導かれる、という風に理解します。今日ここに来られたのも偶然ではありません。神の御旨、御心があって初めて、ゆるされてここにいらっしゃるんだと思います。

 ヨハネ福音書15章の16節には、「あなたがたが私を選んだのではありません。私があなたがたを選びました。行って実を結び、その実がいつまでも残るように」と書かれておりますが、パウロという人物も、「神の御旨によって私は選ばれて、使徒となった」と書いてありますが、"使徒"というのは派遣されるという意味であります。私達も同じように、教会から派遣されて家庭に、学び舎(まなびや)に、そして職場に存在するものであると理解することが良いことであろう、と思っております。2行目には、コリントにある神の教会ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒(セイント)という風に書かれておりますが、まあ、どう考えてみてもそういう教会ではないということ、自分が教会に行っておりましたら、自分は我慢できるけれども、お友達や家族を誘うなんていうことはとんでもない、考えられないというような、そういう教会だというのであります。

 どうしてこういう表現を使ったかというと、2つ考えられます。1つは「すべての人に寛容を示しなさい」、私達が今勉強中であります。「本質以外は寛容でありなさい」、一緒に言いましょう、「本質以外は寛容でありなさい」。まあ、これは心に留められて随分大きな力になっておられると思います。ですから、まあ難しい問題、この教会の出来事に関して、欠点に関しては目をつぶりましょう、という面だと思いますが、もう1つは、神の目から見ると、この問題なる教会も、これは”私の教会”=”神の教会”と言うことができるという風に言えます。

 使徒行伝20章では、パウロという先生は、「教会というのはイエス・キリストの御血によって贖われた教会だ」、と表現しました。多くの人達は、その建物の様子とか大きさとか、そういうようなことを意識するわけですが、そうではなくて、教会っていうのは、キリストの血によって贖われた、そういうものだから問題があっても、それは神の教会ですよ。ここにいらっしゃる方々、日本人は、信徒とか信者という表現を使いますが、聖徒というこの言葉も、聖いからということではなくて、“聖”というのは、“聖別された、世から選び出された”存在として、「あなたは聖徒ですよ」「あなたも聖徒ですよ」「あなたも聖徒ですよ」という風に表現することは正しい聖書的な理解なのだということであります。

 イザヤ書43章の4節には「神の目にはあなたは高価で尊い」というね、すごい言葉ですね、VIPですって。あなたは神様の目から見ると本当に価値のある存在ですよ、私はあなたを愛しています。人間の価値基準というものは容姿端麗とかですね、または成績によってとか業績によって物事を決めるというのが普通であろうかと思いますね。偏差値に苦しんでおられる方々もおられるかと思いますけれども、そういうような、こう、価値基準というものがあるわけでありますけれども、神様が決定したら、「私が決めた、どこに文句があるか。私の目(神の目)には高価で尊い。」ということであります。

 私は明日、孫の心愛(ここあ)ちゃんに会うんでありますよ。昨日、一昨日が2番目の孫の祝(しゅく)ちゃんの誕生日でありましたから、昨日誕生祝いに行ってまいりました。今日も礼拝に来ておりますけど、あの2人は私にとって超可愛いねえ。目に入れても痛くない、特別な存在ですね。他の人が「うちの孫の方が可愛い!」とかね「うちの娘の方が可愛い!」ってどんなに叫んでみても、ダメなんだよね(笑い)。うちが1番ですね。だって私、うちわを(取り出して)作ったぐらいだからね(笑い)。まあ、アホな牧師でございますね。今日初めて見せた。さっき考えて悩んでた。第2(礼拝)では見せなかったんですね。私にとっては世界一の美しい可愛い、「どこに文句があるのか!」っていうようなね。これが、絶対価値基準という風に言うことのできる問題であります。「私達を、目の瞳のように守る」と申命記の32章10節にありますが、私は50年間主からそのように愛されて、瞳というのはね、1番柔らかいところだから、特別に守るという意味なんでありますが、幸せな人生を過して来ることができました。だから、早く洗礼をお受けになった方がよろしいんですよ。

 イエス様が洗礼式の時に天から声があって、「これは私の愛する子、私はこの存在を喜ぶ」って。成績が良いから喜ぶ、というんではない、存在そのものを喜ぶから生きていて欲しいという、こういうメッセージを聖書から私達はつかむことができるんですよ。“役に立ちそうもない”とか、そういうことではないんですよ。神様はあなたの生きていることを、存在そのものを喜んでおられる。「私の目にはあなたは高価で尊い」ということであります。

 第2番目のメッセージを申し上げますが、3節から5節までをゆっくり読んでみたいと思いますね。ここは、「慰め」という言葉が繰り返し出てまいりまして、7節までは9回出て来るんですよね。苦難とか困難という言葉が6回出てまいります。珍しい箇所ですね。今日の説教のタイトルは「苦難と慰めの大洪水」という題でありますが、その洪水をご一緒に勉強していますよ。いいですか。

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めてくださり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。」(新約聖書・コリント人への第2の手紙1章3〜5節・口語訳)

 「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」、ねえ。イエス様だけが、あの創造主なる神を"お父様”と呼べるんでありますが、私達も呼ばせていただくことができるんですよ。「あわれみ深い父」おっかない、何かなぐられちまうような神様ではなくて、英語のある聖書には、a gentle father って書いてあって、gentle man、紳士であってね、乱暴をしない、そういう神様だっていうんですね。いいですね。「慰めに満ちた神様」。これだけで1時間ぐらい瞑想したら、素晴らしいと思いません?「慰めを豊かにくださる神様」という風に新共同訳聖書には書かれておりますが、「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めてくださり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにしてくださるのである。」わかりました?「それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。」素晴らしいですねえ。慈愛に満ちたお父様が、そして慰めを豊かに下さる神様が、どんな環境、状況の中にあっても、私達を慰めて下さるでし?う?その慰めの体験をもって、今度は苦しみの中にいらっしゃる人達を慰めることができる、そのことの為ですよ、という内容をここで見ることができますねえ。

 放蕩息子がさんざん悪いことをした。お父さんの愛情を知りながら離れてしまったわけでありますけど、お父さんのところに戻って来た時に、お父さんは慈悲深い方でしたねえ。憐れみ深い方でしたねえ。両手を広げて迎え入れてくださいましたねえ。そのことのゆえに、主の御名を崇めたいと思います。どんなに人生にぼろぼろになっても、くたくたになっても、受け入れてくださるお方がいらっしゃることを発見してください。  今5節を読みましたが、キリストの苦難が私達に洪水のように満ち溢れているように、私達の受ける慰めも、キリストにあって洪水のように満ち溢れています。

 私達は今、テレビで毎日のように、洪水であっという間に2階まで水が来た、というようなことを報道されているのを見ているわけでありますけれども、あっという間にそういう状況であります。私は少し前からのメッセージで共存共生の神学、平和の神学ということを申し上げているわけでありますけれども、神はそのひとりごを下さったほどに、この世を愛された。私達は愛されているんだから、愛されている者同士が仲良く共に生きるんですよ、ということですけど、この自然の大災害を見ますと、私達はこの地球を神様が愛していてくださるので、地球とも仲良くしなければならない、優しくしなければならない。私が少年時代の教会は、こういうメッセージは絶対にありませんでした。「イエス様を信じなければ、イエス様の再臨をいただかなければ、絶対世界に平和は来ないんだ!」、というメッセージでありましたが、今私はそうではない。人々と仲良くすること、平和に過ごすこと、平和を作ること、そしてこの大自然とも共存共生していかなければならない、というメッセージを語り続けているわけであります。

 パウロ先生の苦しみは特別でありました。私などには耐えられないような苦しみの中で、まるで苦しみを楽しんでいるように見えます。「私の杯は溢れます」、と言いますが、喜びが溢れる、豊かさが溢れる、楽しみが溢れる、賛美が溢れる。みんな素晴らしいことですが、パウロにとってはその杯は苦しみも溢れるという状況でありました。水がぶどう酒にいつの間にか変えられたように、苦しみがいつの間にか慰めに変質してしまう。しかも、「前よりも後の方がよっぽど上等なぶどう酒であった。」とヨハネには書かれてありますが、苦しみが流れてきた時点で、信仰をもって喜びが爆発する。これがクリスチャンライフであります。あくまで苦しみのど真ん中で神様に委ねて信頼して、「マイナスは必ずプラスになる!」というね。災いは祝福の始まりです。一緒に言いましょう、ハイ、「災いは祝福の始まりです!」だから、とんでもないことに出遭った時に、瞬間的に信仰を働かせて、神様の奇跡を(祝福を)期待するということであります。

 イザヤ書の53章11節には「わたしはこの苦しみの果てに(向こうに)光を見て満足する。」これがイエス様が十字架に掛かられた時のご心情であったであろうと申し上げたわけであります。詩篇119篇には、「苦しみにあったことは、わたしにとって良いことでした。」どうですかねえ。「苦しみにあったことは、わたしにとって良いことでした。」ある訳の聖書は、「いやしめられたことは、私にとって良いことでした。」と訳せるんですよ。「その苦しみ、辱め、そしてその厳しい出来事を通して、わたしは多くの戒めを守り、味わい、体験することができました。」そういう世界が、聖書が私達に教えている素晴らしい世界であります。「今はわからなくても、後でわかるようになるから」。天国に行ってからわかるんでしょうねえ。神様に対する信頼が私達に問われる、そういう内容であると思います。3節から5節までをもう1度皆さんでお読みしましょう。いい言葉ですねえ。1章の3節から5節まで、ご一緒にお読みしましょう。はい。

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス.キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でも私達を慰めてくださり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにしてくださるのである。それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。」(新約聖書.コリント人への第2の手紙1章3〜5節・口語訳)

アーメン。なんと素晴らしいことでしょう。ポール・トゥルニエという人物は、「我々にとりましては非生産的に見える苦悩、苦しみということが、まあ考えられないほどの創造的エネルギーを持っている」と言われましたが、「深いなあ」という風に思います。この世に苦しみに遭わない、例外的に恵まれている人があったとしても、その人は真(まこと)の人間になるために必要な(すごいこと言いますねえ)苦しみ、苦悩が欠けているという。いうなれば、彼らには“欠如”が欠けているという。人間を人間たらしめるのは、苦しみや困難や欠けているということを通して、神様の恵みが流れること。そのことを自覚しなさい、とそういうことであろうと思います。ヘブル人への手紙の5章の8節を今スクリーンで味わいます。

「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救いの源となり、」(ヘブル人への手紙5章8〜9節・口語訳)

 イエス・キリスト様でありますから完璧なお方であろうという風に誰でもが思うわけでありますけど、イエス様がこの地上で苦しみを通過する(味わう)ことを通して、従順を学んだっていうんですよ。だいたい苦しみというのは、テストされますと、従順しないで神様に文句言いますよねえ。どうですか、試練に遭って文句の中にいらっしゃる方々がいらっしゃると思います。それは神に対する信頼が足りないからでありましょう。「心を騒がせないがよい。神を信じ、また私を信じなさい。」と主は仰いましたでしょう。「私達は主を信頼して、苦しみを通してテストされて、人間が作られていって、そしてここで受けた慰めを通して、多くの慰めを必要とする人達に、その味わった慰めを提供する、そのことのために私達は生かされているんだよ。」、という。アーメンでしょうかねえ。これが、私達が味わなければならないことであろうと思います。

 今日は9.11ということで、世界中が4年前ショックを受けました。今日もきっとテレビで放映しておるであろうと思いますが、もう何十回、何百回と私達はあの現場を見せていただきました。私はすぐにニューヨークに飛んで、ニューヨークのあの現地を見せていただいて、あそこでひざまずいてお祈りをしてきたわけでありましたけれども、今度はこの9.11の前後にですね、アメリカはとてつもなくでっかいハリケーンが来て(日本も14号の台風によって同じように被害を受けているわけでありますが)、先ほども100万という数字がお祈りの中にありましたけども、すべてを失ったというような、身体をロープで縛って流されないようにと思った人達が全員死んでいたとか、戦場のようと言いましょうかねえ、私達世界が憧れているアメリカの国が、まるで開発途上国のような場面であります。貧しさの様子、苦労の様子がわかります。感染症が流行し始めます。

 こういう時にクリスチャンの愛がチェックされます。リック・ウォレン先生というカリフォルニアのサドルバック教会というバプテスト教会の牧師がいらっしゃいますが、すぐにアストロドームの方に飛んで、被災地の方々をお相手されたそうです。テレビで観るよりも悲惨だそうでありますが、その現場の中で、死臭漂う中で3日間、あの有名な牧師がお過ごしになられたと、インターネットで読ませていただいたわけです。もし皆さんもこの教会で応援に行きたい人がいれば、私はお手伝い致しますが、倉知先生を明日から派遣することに致します。さっきチケットが上手くいったそうでありまして(私が本当は行く予定で招かれたんでありますけど、私はもう向こうへ行って迷惑をかけるだけの年齢になりましたから行きませんが)、うちの若い伝道者達が、教会のクリスチャン達が行って、慰めて励まして、力をいただいたらよろしいと思っております。どうぞ、覚えてあの国のために祈っていただきたいと思います。私は、リック・ウォレン先生のようなお方が、遠く離れた州まで出て行って、3日間苦労を共にし、痛みを共にした─不便の中、悪臭の中でお過ごしになられた─ということのゆえに感動しました。

 今晩私は浜松浜北教会で説教をすることになっておるんでありますが、田中牧師がお亡くなりになられて心を痛めました。日本を代表するエバンジェリストでありました。主任牧師が失われた教会というのは本当に寂しいものだと思います。私、押しかけなんですよ。恩返しで今日集会をする、このメッセージをしに伺うんでありますが、お葬儀の時に天皇陛下様から電話が入りました。もちろん侍従を通して電話があったんですけれども、田中先生は皇太子時代から今の天皇陛下と親しかったということもありまして、お電話がありました。慰められましたね。しかし、もしも天皇陛下ご夫妻が、亡くなられたこの家族をお見舞いに来て一晩「私一緒に泊まります」、なんて言ったら、もう腰抜かすほど感動するというか、それは大きな慰めであると思います。アメリカの大統領が夏休みを返上して1時間でも早く苦しみの中にいる人達に対する慰めを始めていれば、評判は違っていたであろう。寝袋でも持ってアストロドームでもし数日夫婦で過ごすなら、もっと違う状況ができたであろうという風に思われます。破壊された街に、呪われた街に、死臭が漂う街に、略奪の街に、戦場と化したようなそ の街に、リック・ウォレン牧師が3日間過ごしたというのは素晴らしいことだと思います。

 しかし愛する兄弟姉妹、よく聞いて下さい。主イエス・キリスト様は永遠の昔からアルファでありオメガであり、神のお子様でいらっしゃいます。こういう肉体、bodyを、肉体を持ったことのない霊なるお方が2000年前に決意して、人間になるんだ、ということで「行ってくれるか」「行ってきます!」というようなものでありますよ。この地球にイエス・キリストは人間となってやって来られて、33年半のご生涯を、諸々の苦しみを通して従順を学んで、だから救い主キリストに従順なる者に対して救いの源になるという道を開いてくださったわけであります。これは、私達が感動すべき内容であろうかと思います。

 車のHONDAの創立者、本田宗一郎さんがアメリカのディーラーと契約が成立しました。本田宗一郎さんは結構お酒のお好きなお方で、「お祝いだー!」と言って、何でもすぐに「お祝いだー!」と言ってですね、飲んで、そして相手のアメリカ人がそのお酒に酔ってしまって悪酔いしてしまって、気持ち悪くなってトイレに行って、ブワーッと吐いたわけであります。汚い話でありますけど、その当時は、トイレが水洗ではありませんで、ポッタン何とかでありましたんでありますが、アメリカ人にとってそういう姿を見るのは珍しいんですが、ブワーッと吐いた瞬間にですね、口の中の入れ歯も一緒になって出ちゃったんですね。「入れ歯さん、あなたそこに、いれば?」てなもんでございまするけれど(笑い)、出ちゃったんでごさいますよ。それで、入れ歯がそこに落ちちゃったもんですから、彼はそれを拾おうとしたんでありますけれども、若い人が箸を持ってきていろいろガチャガチャガチャやっているうちに、引力の法則っていうか重力の法則で、入れ歯さんがどんどんどんどん下がって行っちゃったんですね。そうしたら大騒ぎになりまして(お客様でございますから)、HONDAの若者ががどうしていいかわからない時に、本田宗一郎さんが「お前一体何やっているんだー!」と言ってね。彼すごいねえ。上着をパッて脱いで、腕をめくって、そのままのお手々で、その汚物の中に手を入れて、そしてその入れ歯をつかんだんですね(もちろん洗って消毒して返したと思いますけれど)。

 我々は彼のエピソードにいつも感動しますが、イエス.キリスト様は、まるで汚物の中に飛び込んでその中で生活するかのごとくに地上に来られた。我々をもし“汚物”と言ったら失礼でしょう。「人間を汚物扱いにするな!」。でもね、永遠の昔から、神様(king of kings) が人間になられるというのはね、馬小屋はきったないですね。動物の排泄物の中にイエス・キリストがお生まれくださったというのは、私達の罪─汚い、臭いのするような死臭漂うようなその罪─の中にキリストが生きてくださった、ということでしょう。もしこのことがわからなければ、私達は永遠の世界をわからない、という世界であります。私達がどんなにひどい環境の中にある人であったとしても、イエス様はその中に住んでくださるお方だっていうことを知っていただきたい。これが、キリスト教の中心的なエッセンスです。

 もし高いところから手を伸ばして、“パッ”と取ってくださったとしても、私達は感動でありますけど、キリスト様は十字架の上におかかりになられて、血だらけになられて、釘で打たれて、「父よ、彼らを赦してやってください。彼らは何をしているかわからないでやっているんですから。」と私達の代わりにお祈りしてくださったから、信ずる者は全ての人が救われる。イエス・キリストは、私の罪からの救い主、人生の主として心の中にお迎えする者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。

 私の手元に『ザーラ』という雑誌がありまして、この中に、今日見えていらっしゃいます95歳の吉田さんの証が、また鷲沢(わしざわ)さんの証が入っておりまして、非常に恵まれますから、お帰りにお買いになったら良いと思いますねえ。吉田兄は95歳ですが、79年前に信仰を持ちました。すごいですねえ(笑い)。うちの教会に、そういう元気かくしゃくとしておられる方がいらっしゃるんですが、この中にね、感動的な御言葉の表現があるんですよ。それはねえ、ローマ人への手紙の5章から引用されておって、皆さん79年前といったらねえ、もう日本の国はどんな状況でしたでしょうねえ。その中に、聖書を読んで、ローマ書の5章で“患難をも喜ぶ”というパウロのことがね、「(苦しみってみんな逃げるんですけど)パウロは『私は苦しみ、患難をも喜ぶ。患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生ずと知ればなり。希望は失望に終わることがない。』私はこの御言葉によって励まされた。」こう書いてあるんですよ。「暗い洞窟のような家庭を明るく、希望の家庭にしようと決心した。その為にはまず自分の心が変えられて希望に満ちあふれていなければならないと思い、決心をしたんです。患難を覚え喜ぶ人生を送りたい。」というね。ちょっと第2コリントの今上の段でしたか、下の段8節からリビングバイブルで読みますよ。今スクリーンに出ましたね。

「愛する皆さん。私たちがアジヤでなめた苦しみについて、ぜひ知っていただきたいと思います。非常に激しい迫害を受け、打ちのめされて、もうこれ以上生き延びるのはむりかと思いました。死を覚悟し、自分の無力さを痛いほど思い知らされました。しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神様にお任せしたからです。救い出すことができるのは、神様だけです。死人を復活させることさえ、できるお方なのですから。」(新約聖書.コリント人への第2の手紙1章8〜9節・リビングバイブル訳)

 信ずる者はアーメンと言いましょう。アーメン。聖書の言葉って、すごいですねえ。あわれみ深い父なる神様は、一体私達のためになにをしてくださったか。

 第1番目、整理をします。救いの恵みを与えてくださいました。信ずるだけで救われる、神の子とされる、永遠に生きることができる。今心臓が止まっても、天国に導いてくださる素晴らしい世界ですねえ。ユダヤの社会っていうのは、1年に何度かお祭りがあって、神様を中心に生きている世界でありますが、旅を致しましてもその真ん中に天幕を張りまして、聖所、神殿を作りましたんですよ。幕屋と言いますけど。カーテンがありまして(緞帳のようなものでありますが)、その中が至聖所といって(普通の祭司は入れないんですが)、大祭司が1年に1度だけ、その至聖所に入ることができる。子羊の血を携えて、国を代表してお祈りしてこの国民の罪を赦してくださいと、すごいことをやってきたんですよ。ところがこの大祭司なる者は、聖い神様によって人間の罪が叩かれてしまうといけないから(=神様によって死を招いてはいけないから)、腰のところにひもをぶら下げて(これ、長ーいひもなんですよ)、鈴をぶら下げて、シャリシャリシャリ、チャンチャンチャン、と音がしている間は生きているっていうことがわかるでしょう。(うーん、生きてる、生きてる、うちの大祭司は。) でも、もしも中で、ウザ打ちのように叩かれたら(深い世界を経験する者はこういう経験があるんでありますが)、もし罪のゆえに不敬なことをして叩かれたら、至聖所の中で死んじまったら、助けに行くわけにいかないんですよ。大祭司以外は中に入れないから。そしたらひもがついていて、「ああ、鈴が鳴らなくなっちゃった!」と言ったらね、ひもで引っ張ってね、大祭司を引きずり出すんですよ。

 これは旧約聖書における“恐ろしい”と我々が考えている神様なんでありますが、本質はあわれみ深い神様で、私達に2度とそんなことをしなくてもいいように、「見よ、これぞ世の罪を取り除く神の子羊。」イエス様が、大祭司が血をもってではないのですが、イエス様ご自身が羊となって死んでくださって、私達の罪の代わりに血を流してくださったから、イエス様は2000年前に十字架で死んでくださることによってすべての人が救われる道を開いて下さった。これがOnce for all、一緒に言ってみましょう、はい「Once for all」。たった1回だけで、全ての人が民族を超えて、時間を越えて、すべての人が救われる道を開いてくださった。これが、キリスト教の中心的なメッセージであります。

 今日皆さんに悲しいニュースを申し上げます。教会員の右沢静子さん(88歳でしたね、89歳ですか)が、昨日4時30分にお亡くなりになりました。さっきピアノを弾いておられた詩恵ちゃんのおばあちゃんであります。孝治さんのお母さん。可愛らしいおばあちゃんでしたね。ゴスペル・クルーで時々歌われて、ゴスペル・クルーの華、といいましょうかね。着物を着て体をゆすりながら、舞踊家のようにして歌ってくれました。イナゴなんか田んぼでとってきて、私達に「食べなさい」なんて言って持ってきてくれましたが、亡くなる2日前に私は病室を訪ねました。皆さん、ガンの最後の苦しみを私は目の前で見ました。私の手を、“こんな力が残っているのか”と思えるほどキュウと握られて、「痛い、痛い!」って、お嫁さん達に「さすってくれ」って言って、みんな一生懸命さすっておられました。断末魔の苦しみと言いましょう。だから、もう絶対にイエス様信じて永遠の救いをいただかなきゃだめですね。私はその時に「イエス様の十字架を思って忍(しの)んでください」と申し上げましたが、痛みの中におられました。「主の慰めを得た」とそう私は信じています。亡くなったことは悲しいけれど、洗礼をお受けになっておられて良かったなあ、イエス様に天に導いていただいて良かったなあ、「私はあなたを贖った、私はあなたの名前を呼んだ!あなたは私のもの、You are mine」。役に立つとか奉仕をするとか聖書をどのくらい読んだか、関係なし!「たとえ水の中を過ぎるとも、私は一緒にいるよ」と、あの苦しみを一緒になめられたかなあ。「わたしの目にはあなたは高価で尊い」、「あなたの存在を通して栄光をあらわすために私は仕立てました。」ってね。今はほっとしてね。井澤先生に特別に愛されたからね、井澤先生と一緒に賛美していると思いますね。永遠の安息の中にいると信じます。

 第2番目、主がくださるのは、ホーリー・スピリット。このお方はパラクレートス(慰め主)であります。いつも私達をそうしてくださいます。

 第3番目、心を癒してくださいます。

 第4番目、神様は私達の人生を祝福で満たしてくださいます。原洋子(ひろこ)さんという方がいらっしゃいますが(麻里奈ちゃんのお母さんでいらっしゃいますが)、詩をお作りになって、今度また書物をお出しになるようでありますが、私はその原稿を見せていただきました。『チャペル』という題であります。

「神様!私にもっと苦労させてください!私はいつもこう祈ります。」高校時代チャペルで聞いた清水安三(やすぞう)園長の話。桜美林の創立者、清水安三先生。立派なクリスチャンでありました。この教会にもいらしたことがございますけれども、清水先生は口癖のように「神様、もっと苦労させてください!私はいつもそう祈ります。」この洋子さん、高校時代、「あえて『苦労させてください!』と祈る人などいるだろうか。その時の私は聞き間違いだろうと、問いただすこともしなかった。大人になって家庭を持って子育てをして苦しみや悲しみに出遭うたびに、神様の愛をやさしく語ってくださった清水先生のお声が私の心に響いてくる」というね。

 イエス様の為に苦労することは、誇りであり、宝であり、私たちにとって恵みであります。「イエス様、私をあなたの為に…。福音の為に苦しむことは、私にとっての光栄です。」と、私もいつもお祈りします。私はまだ60代ですけど、70になりましたら“古希(こき)”と言いますでしょう?古希は希(まれ)であるということですが、古希になった時に祈る言葉を決めているんですよ。「神様、私をコキ使ってください!!」というね(笑い)。イエス様は私のジョークを理解されて、ニコッと笑われると思います。その日が楽しみですね。イエス様の為に用いられること、この身をお捧げできることの幸せであります。

 第5番目、死ぬことを恐れない。天国を先取りして喜ぶ。人間は死を忌まわしいものという風に思っていますけど、三浦綾子さんはこう言いました。聞いてください。私達の人生で神様が下さる最後のご褒美は、「死ぬ」ということだと。あなたに神様はやがてご褒美を下さいますよ。ご褒美を下さる時には必ず言葉が添えられるものです。「よくやったねえ」。プレゼントをいただく時には何か言葉が、お手紙が添えられるはずであります。神様は私達に“死”というご褒美をくださる時に、「よくやった、善かつ忠なるしもべよ」と喜んでいただける者でありたいと願っています。イエス様を心から愛する者はアーメンと言いましょう。アーメン。

 お祈りをいたします。天のお父様、この地上でパウロ先生でさえ(もう生きることができない)と思えるほど自分の無力さを知らされて死を覚悟した、というようなことでありますけど、あんまり苦しいと死にたくなるというのが人間の弱さであります。けれども、「それが良かったんです」と、「苦しみに遭ったことは私にとって良いことでした、そこからしか学ぶことができない世界を学びました。」苦しみ(苦労)の中で、沢山の慰めをいただいて、その慰めを体験した者だけが、苦労をしておられる方々に慰めのメッセージを持って訪ねて行くんことができるんですよ、という。現実に、私達はこれだけの近代文明の中にいても不安と恐れの中にいますが、「心を騒がせないが良い。神を信じ、また私を信じなさい。」イエス様、どこまでもお従いして行きます。我々の人生、この国をお導きくださいますように。イエス様のお名前によってお祈りを捧げます。アーメン。

「愛は地球を救えるか?」大川従道師 2005年9月4日

「たといわたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を使っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、私は無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない、不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」

(新約聖書・コリント人への手紙第1 13章1節〜7節)


 なんと素晴らしいことでしょう。主の御名をあがめます。今日のメッセージのためにもよい賛美をしてくださって心から感謝し、主の御名をあがめたいと思います。

 皆様がお祈りしてくださいましたおかげで、昨日井澤豊先生の追悼メモリアルコンサートは、ほぼ満席で素晴らしいコンサート、そして福音が伝えられたことのゆえに感謝します。 今年の標語は「することなすことみな栄える(成功する)」、栄光を主にお返しして、感謝の拍手をしましょう。イエス様感謝します。主イエス・キリストの御名によって栄光をお返しします。アーメン。アーメン。アーメン。

 さあ、少し大きな声で、朝のご挨拶をしましょう。皆様おはようございます。今日は9月の最初の月曜日ですので、誕生祝福のお祈りをさせてください。誕生日を迎える人、また洗礼記念日、霊の誕生日、結婚記念日の方、恐れ入りますが、ご起立くださいますか。初めての方もどうぞ、ご遠慮なくお立ちくださいますように。今週は私の2番目の孫の誕生日でもあります。感謝します。アーメン。2階席にもいらっしゃいます。お祈りします。

 恵み深い天のお父様、心から主をあがめて賛美申し上げます。お立ちになっておられる方の中には、1年間、夜になると涙を流すというようなつらい経験をなさった方もいらっしゃいますけれど、苦しみの果てに光を見て、満足をもって今礼拝に来ておられます。御名をあがめます。イエス様を知りませんでしたらいたずらに年を重ねるだけでありましたが、そうではありませんで、今はイエス様によって生かされているということを自覚して前進する時になりました。兄弟姉妹たちがどんな環境の中にあっても、ある時は世の光として大胆に輝き、ある時は地の塩として己を隠し、味のある人生を送ることができますように。愛が壊される時代ですが、心を尽くして神を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、主に喜ばれる日々でありますように。必要のすべてを満たし、いつも明るく元気でのびのびと御栄えを表させてくださいますように。キリスト・イエスの名で祝福してお祈りいたします。アーメン。(♪God Bless You ハレルヤ)後で周りの方がご挨拶してくださると、大変嬉しく思います。

 これは第2次世界大戦の時ヨーロッパ全体に大ヒットしたジョークでございます。ドイツのヒットラーとゲーリング、そしてヒムラーという3大悪党がボートに乗っておりましたら、突風が吹いてそのボートが転覆しました。彼ら3人とも泳げなかったので、誰が助かったでしょう?というクイズでありますが、それはドイツ国民が助かったという、ちょっとブラック的なジョークであります。

 私が作ったジョークであります。日本は今選挙を前にしておりますけれども、各政党の代表者たちが日本丸という船に乗りました。突然激しい風が吹いてまいりました。ここまでは同じね。転覆しました。みんな水の中に出されましたけれども、本当は全員が泳げるんですけど、1人も助けられませんでした。どうしてでしょう?皆が足を引っ張り合ったから(笑い)。これは歴史的なジョークになります。来週は日本では大切な選挙になります。どうぞ皆さん、よく考え祈って社会人として日本人として必要な選挙に出てください。お願い申し上げます。

 暗い話題が多い昨今ですが、明るい話題は今日の説教タイトルであります。「愛は地球を救えるか?」って、いいタイトルですねえ。24時間テレビでご覧になった人たちが多くいらっしゃると思いますけれど、その最後はですね、丸山弁護士が100kmにわたってのマラソンを完走したということ。59歳の男性がまあ本当に痛々しいんですけれども、見事にやり遂げましたということでして、41.8%の視聴率ということであります。完走の感想を開きましたら、「俺は幸せだ」とか何とか言っておりましたけれど、あの瞬間、ものすごい視聴率になったということでございます。日本中、特に中高年層は完走したということに励まされました。傷を受けても、少々痛いところがあっても、つらいことがあっても忍耐して完走するんだという、私たちは人生の励ましをいただいたんだと、そういう風に思います。

 ヘブル人の手紙の12章がスクリーンに出ますけれども、

「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」

(新約聖書・ヘブル人の手紙12章1節〜2節)


 私たちのこの人生というのは短距離ではなくて、長距離ということでありますが、ご記憶いただきたいのは、ちょうど陸上競技場で何万という会衆が、向こうからこっちは見えるんですけれど、こっちからは向こうは、どこに誰がいるかっていうことはわかりません。それを雲のように証人に囲まれているという信仰の先輩たちが、私の人生の走っている姿を彼らが見ている。その中で私たちは応援団があることを意識しながら、与えられた人生を全うするんですよ、ということであります。

 生きるとは何ですか?という、その24時間テレビの中で繰り返し繰り返しインタビューされまして、興味がありました。多種多様のお答えでありましたが、皆さんでしたら「生きるとは何ですか?」と質問されましたら、なんと答えますか?「福音のために生きる」とか「私を愛してくださったキリスト様のために生きる」という、私たちが生かされているのは、最初に救われたのは、人々にこの救いの喜び、福音を伝えるためであるとか、いろんな表現があるかと思います。「生きるとは、愛すること」という言葉も素晴らしいことだと思います。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛し、そして自分を愛するように隣人を愛するということでございましょうか。

 なんのために生かされているかといえば、私を生かし愛していてくださるお方様をお喜ばせ申し上げるために…これはですね、私たちの人生はご主人様をお喜ばせするためのものであるということです。

 中心テーマは「愛は地球を救えるか」ということですが、今日第一礼拝に柴田先生が説教されまして、説教のタイトルが「I can」ということでありました。「できる」この「I」はloveの愛にひっかけてですね、「愛はできる」という、すごいいい駄洒落というか、ユーモアと言いましょうか、結論から申し上げますならば、否定的な学者は多くいらっしゃいますけれども、神様に従順し主の愛を受け入れるということがありますならば地球は救われる、という風に言ってよろしいと思います。ヨハネ3章16節をお読みいたしましょう。スクリーンをご覧ください。はいご一緒に。

「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じるものがひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

(新約聖書・ヨハネの福音書 3章16節)


 この世を愛してくださったのは"世人"ということで私たち人間を愛されたということでありますが、もう1つの意味は「地球を愛された」ということに意味があります。地球の温暖化のために難しい問題がありますが、私の重要なテーマは「共生共存」ということであります。この地球とどのように仲良く生きるかということ、神様はこの地球を、そして私たち世人を人間を愛されたので、私たちはこの愛を素直に受け入れる限りは上手くやれますよというそういう内容、またそれが人間側に要求される責任であると思います。

 今日はその愛のテーマを一緒に学びます。聖書を順番に学んでまいりましたが、神様の素晴らしいタイミングでありましょう。13章の1節からお読みします。

「たといわたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、一切は無益である。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない。」

(新約聖書・コリント人への第一の手紙 13章1節〜4節)


 そこまでにいたしましょうか。
 愛の第1番目の定義は、「寛容」ということが4節に書かれております。実は昨日井澤先生のコンサートのために、私は土曜日はいつも朝早く起きてお祈りをして備えるんでありますけれども、そのコンサートの準備のために、やけに早くですね、音楽家たちが集まって練習を致しました。私は3階に書斎があるんですが、3階まで音が響きましてですね、うるさいのうるさくないのって、うるさかったんですけれども(笑い)、ものすごい音が響いて参りました。「うーん、困っちゃったなあ。」というのは、土曜日牧師は誰とも話さない、電話を受けない、静まって神の声を聞く。ところがあんまりうるさいので少し腹が立ってですね、席を立って2階のドアがきっと開いているから音が3階に上がってくるんだ、ドアを閉めに行こうということで、3階から2階に来ましたら、どのドアもきちんと閉まっておりましたけれども、うるさかった。それで後はどうするかというとあきらめてですね、これはもう仕様がない、我慢する以外はないと思って、3階に上がろうとしたら、主の声が聞こえました。

 「大川牧師よ、最近あなたはどういう説教をしていますか?『本質以外は寛容でありなさい』」(笑い)「わかりました、どうもすいませんでした(笑い)」。「すべての人に寛容を示しなさい、主は側にいてくださる、主は近い」と賛美をしてくださったばかりであります。この13章の1節は「やかましい」新改訳聖書はね、"鐘"を"どら"と訳したんですよ。船に乗る時にどらがジャンジャンジャンジャン、ジャンジャンジャンジャンと、うるさいですねぇ。"ドラム"と訳しておいてもいいでしょうね。昨日はドラムの練習がうるさかった。そしてですね、この次に書かれているのは「うるさいシンバルと同じである」というね、やかましいどら焼きではありません、ドラムとうるさいシンバルと同じである。しかし私は、昨日聖書の御言葉で勝利をすることができました。そうだ、本質以外は寛容であろう。本質以外は寛容に生きましょう。一緒に言いましょう。はい、「本質以外は寛容に生きましょう」、いいですね。

 第2番目、愛は情け深いと書かれてあります。新改訳聖書は「親切」と書いてありますが、原文のギリシャ語は新約聖書の中でここだけ使われている、そういうギリシャ語であります。

 御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、その後新改訳は「親切」と訳してあるのであります。「愛は地球を救えるか?」と言いますが、皆が変えられて情け深く親切でありましたら、地球は変わるでしょう。少なくとも家庭は変わるでしょう。青年キャンプに行った教会員の親御さんが、また学生キャンプに行った教会員の親御さんが、ヤングチャペル、日曜学校のキャンプに行った教会員の親御さん達が、「いやあ、うちの子供はキャンプに行ってからすっかり別人になりました。本当に変えられたんですよ。」「どう変わったんですか?」って言ったら「なんだか知らないけど、すごく親切のかたまりになりました。」って言われたから、これは神様が喜ばれることでしょうねえ。親切な存在である、というね。

 第3番目、「ねたみません」というんであります。怒るということは恐るべき力を持っていますが、ねたみというものも国を揺るがす力を持っています。

 4番目からリズムがありますね、高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、というね。

 8番目までとびます、恨みを抱かずと書かれておりますが、これは人のした悪を思わないという。New International Versionという訳の聖書では「人の悪を記録にとどめない」というね。この反対の人、いますね。していただいた良い事はすっかり忘れているんですけど、悪い事っていいましょうか、傷を受けたことは永遠に忘れないというようなわけですね。

 愛は人がする悪をいちいち心に留めないで、その人に悪意を抱かないということでありましょう。時々質問されますが、「大川先生でも嫌いな人はいますか?」─いるんですよ(笑い)。私が人の子である証拠であると思いますね。私もね、あんまり好まない、好きでないっていうかね、嫌いな人っていうの、憎むっていうことはないんですけれども、嫌いな人がおるんですよ。

 で、どうしたらいいかっていうとですね、嫌いな人が頭にこうね、浮かんできますと、心が汚れるっていうか曇るでしょう?私はいつも名前を挙げられないんですよ。だって、憎いまでいかなくても、嫌いなんですから。嫌いな人の名前を口に出すのも嫌なわけですね。嫌なこと言われたりやられたりしたことがこう、"ふっ"と浮かんでくるからね、お祈りはするんですけれど、神様との前でねえ、「神様、あの人です、あの人!ご存知でしょう?」って、僕もちゃんと知ってるんですけどねえ、「あなたがご存じないはずないでしょう、あの人、あの人のために神様の祝福を流してください」ってなことを祈るとですね、いつの間にか心が変えられるものなんですよ。あなたがあまり好みでない人、好きでない人、嫌いな人のために祈り始めるとねえ、不思議なことが起こりますから、是非体験なさるとよろしいと思っております。

 私がある時にお祈りしておりましたら、主の声が聞こえてきましてねえ、「あんたはよくそういうことを覚えてるねえ!」ってね、主の声ですよ。「私はもうすっかり忘れちゃいましたよ」って、神様忘れてんのにこっちが覚えてるってのもなんでございましょうねえ。

 第9番目、不義を喜ばないで真理を喜ぶ。新改訳聖書は「不正を喜ばないで」ってね。カンニングをして点数が上がると「もうけちゃった!」とかですね、キセルをして、とかですね、万引きはしないかもしれませんが、おつりをごまかしたりすると「もうけちゃったわ、得しちゃったわ!」なんていうのはね、それはちょっとクリスチャンとして恥ずかしいですねえ。

 不正を喜ばないで真理を喜ぶ。兄弟姉妹、真理中の真理はイエス・キリスト、「I am the truth.」 私は真理そのものだってありますが、毎週日曜日この教会で、私は信仰生活50年でありますけれども、毎週私は聖書が開かれて皆さんに感動して語っているわけでありまするけれども、こんなに幸せなことはありません。聖書の御言葉を、真理の御霊なるご聖霊様が、私たちに悟らせてくださるというこの人生を、心から喜んでいる者はアーメンといいましょう。アーメン。聖霊様が喜んでいてくださいます。本当に感謝しております。

 第10番目、この13章の7節になりますが、「そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」ここに4つ出てまいりますよ。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」いいねえ、この4つを覚えるといいですね。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」先ほど申し上げましたNIV、New International Versionという英語の聖書ではですね、「すべて」というのを「いつも」と訳しておりまして、"すべて"を"いつも"ね、「すべてのことを」しかしいつも私は忍びますよ、耐えますよ、すべてのことをいつも私は信じます、信頼しますよ。4つ目、すべてのことをいつも(時々ではない)、いつも信頼しますよ、そしてすべての出来事に対して屈服しませんよ、いつも私たちは屈することをいたしません、という風に訳しておるんでありますが、本当に素晴らしいことだと思います。

 そして愛は決して絶えることがない、滅びることはない、私は「愛は永遠である」と訳しておるのでありますが、主の御名を心からあがめたいと思います。野辺地天馬(のへじてんま)先生は、「これは素晴らしいから、毎日読みなさい。」とご指導くださいました。ねえ、素晴らしいねえ。毎日読むだけではなくて、信仰の宣言をすることが。

 キリスト教の結婚式を挙げた方々がこの中にはほとんどだと思います。1人、2人、3人、神道式でやったり仏式で結婚式をなさった方もいらっしゃいますけど、ほとんどの人たちが(まあクリスチャンになってからそんなことをしませんけど)、みんな神様の前に約束したわけです。第1コリントの13章、これがキリスト教の結婚式の時は必ず読まれていまして、私たちが感動する内容であります。「私はすべてのことを我慢します。すべてを信じます、すべてを望みます、私はすべてのことを期待し、耐え忍びます」というのを結婚生活に当てはめたら、そういうことになるでしょう。「私は彼(彼女)のことを、キリストにあっていつでもどんなことでもすべてを忍びます。」どうでしょう。「私はいつもすべてのことを信じます。信頼します。私はすべてのことに、いつも望みを持ちます。私はすべてのことをいつも耐え忍びます。」と宣言することをお勧めします。宣言したらきっと何か不思議なことが起こりますが、神様もそう宣言しておられるんじゃないかと思います。

 天の使いがやってきて、「イエス様、あのね、私が担当しているあの人ね、あれひどいですよ。もうクリスチャンの風上にも置けませんなあ!」イエス様はなんとおっしゃるかというとね、「私はすべて彼のことを耐え忍んでおりますよ。すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐えるんですから。余分なことを言うなよ」と天の使いとですね、お話をするようなことがあるのではないかと思います。主の愛は永遠であります。エレミヤ31章3節(新改訳)を、今スクリーンに出してもらいます。一緒にお読みしましょうか。素晴らしいでしょう。

 「主は遠くから、私に現れた。永遠の愛をもって、私はあなたを愛した。それゆえ、私はあなたに誠実を尽くし続けた。」

(旧約聖書・エレミヤ書31章3節)


 アーメン。私達の口語訳聖書は「限りない愛をもってあなたを愛しました。ゆえに私はあなたに真実を尽くしました。」 気がつかないんですけれど、神様は私達に対して真実であり、誠実であります。それは限りない愛、永遠の愛をもって愛していてくださる証拠だという、そういう内容であります。「主は遠くから私に現れた」というのはねえ、遠くからっていうのはね、予想もしないところから神様は私に愛を示してくださいました。

 井澤先生がお亡くなりになって、昨日、美智子さんがこういう証をしました。「うちの主人は、井澤牧師はねえ、18歳の時お母さんを亡くしてね、異常にショックが激しくて、自暴自棄になって学校をサボるようになって、新宿の歌舞伎町を、ウイスキーのボトルをお尻に入れて飲みながらブラブラして」おったわけですよね。生意気な高校生だよね。私達は新宿の歌舞伎町のコマ劇場前の「シオン」というところで喫茶店伝道をしておったんですが、そこに彼は突然入って来たんですよね。そこでドラムがあって、ギターが弾かれていた。彼は音楽大好きでありますから、そこでイエス・キリストを信じ、捕らえられ、生まれ変わることができた。救われただけではなくて、音楽を通して伝道しようと、日本のゴスペルの草分けと言われるような存在に彼はなったわけですよねえ。遠くから予想もしなかったという。

 この会衆の中にも、「いやー実はねえ、私も予想もしなかった。うちの子供が洗礼を受けたからねえ、洗礼式に立合った、あれ以来ですよ。」とかですねえ、「うちの子供が日曜学校に行ったからねえ。」「ICAに入ったからねえ。」と色々あるかと思います。遠くから、本当は変えられない距離があったにもかかわらず、神様のお恵みによって私は変えられたのですよ。永遠の愛で愛され、この裏切り者のような罪人を、真実に誠実に取り扱い続けておられるということであります。私は言います。この愛をいただいたがゆえに、どんな状況、環境の中でも感動することのできるレベルの永遠の愛をいただいたと信ずる者、感謝する者はアーメンと言いましょう。アーメン。

 これが私達のクリスチャンの生活であります。

 永遠の愛はいったい私達に何をもたらせたかということを整理して申し上げますと、第1番目は永遠の救いにあずかることができました。今日初めて来られた人も、イエス・キリストはあなたの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。イエス様は十字架の上で「父よ、彼らを赦してやってください」とお祈りしてくださいました。「信ずるだけで救われる」私は50年間この道を歩んできました。本当に幸せな人生を歩んで来ることができました。

 三浦綾子さんの書物の中に、素晴らしいものを発見しました。おばあさんのことなんですが、三浦綾子さんは10人兄弟。今は、1人か2人の兄弟が多いでしょうけど、三浦綾子さんは10人のご兄弟がたが生まれる度に、おばあちゃんが出産後のために手伝いに来てくれるわけ。今もそういう風に手伝いに来られるっていう方がいらっしゃるでしょう?10人いるんだから大変ですよねえ。

 ある時にね、"あきよさん"といいましたかねえ、がお生まれなさった時に、おばあちゃんがお手伝いに来られた。おばあちゃんはねえ、実に優しい人で、まず怒った顔を見せたことがなければ、きつい言葉で孫達を叱ることもしなかった。いつも控えめなものの言い方をして、何かごちゃごちゃあると「あ、ばっちゃんが悪かったね」と謝る、そういう人であった。ある時母がこんな話をしてくれた。

 「あんた達が小さい時ね、おばあちゃんが家に手伝いに来てくれたんだって。ある朝早くのこと、台所でガサガサ、ゴトゴト音がするから出てみると、なんとおばあちゃんがね、台所で煮物をしておった」と言うんですよね。この七輪の上に土鍋をかけて、きのこを煮ていたって言うんだね。で、煮たきのこをこう取ってね、食べていたっていうんですよ。それでね、お母さんがびっくりしてねえ、おばあちゃんに対して「おばあちゃん、何やってるの?」と言ったらねえ、おばあちゃんが(見つかったあ!)そう思って、照れくさそうにこう言ったっていうんですよ。

 「あのねえ、昨日の夜、お隣の方がきのこを届けてくれたんだけど、どうも見たことのない形のきのこで、『もしも毒きのこだったら大変なことになる!』と思ったら、夜一睡もできなくて。朝早く起きて私が煮物をして毒見しておけば大丈夫、と思ったのよ。ごめんよ、起こしちゃって。」三浦綾子さんのお母さんはびっくりして「おばあちゃん、毒が入っていたらおばあちゃんは死んじゃうってことじゃないの?」、おばあちゃんはこう言いました。「それでもいいじゃないのよ、子供や孫たちが生かされればね。」、と。「忘れることのできない出来事でした」というのであります。

 イエス・キリスト様は私達のすべての罪を既に毒見するかのごとくに、わかっていながらも十字架の上ですべてのものをお受け止めになられて、毒きのこを食べて死んでくださったごとくに、はっきりと「この道は大丈夫!安全です。私は道、真理、命。この道を通してでなければ天国に行くことができない」という安全の道を開いてくださいました。今日ICAの入学式がなされますが、私は63年間、この毒きのこの中で生きてまいりました。青山学院大学の教育学部に2年籍を置きましたから、少しは教育のことを申し上げても許されるかもしれませんが、ICAは最高に素晴らしい学校であります。経営は成り立ちません。

 しかしながら、この教会がサポートしますから継続します。私は過去において経験した出来事を生かすことなしには神の前に出られないと、随分長い間思ってきました。この教会に、神様を畏れ毎日主を賛美する教会立の学校があるということは、なんと素晴らしい恵みではありませんか。赤ちゃんを生みなさる方は遠慮なく、何人でも何十人でも生んでください。教会が赤ちゃんを引き受けて育てることができるでしょう。一緒に協力しますが、神様が下さった永遠の世界に対して、私達は伝えられるという喜びを皆で一緒に味わいたいと思います。

 第2番目、聖霊によって私達の人生を祝福で満たしてくださいます。

 三浦綾子さんの書物を、必要があって先週ずっと読んでおったんでありますが、その中で『生きること、思うこと』という大変ヒットした書物があります。皆さんも必ずお読みになられると宜しいかと思いますけど、三浦綾子さんがご主人のことを書いておられます。この教会にも度々来ておられますけれど、三浦光世さんというのは本当に優しい男性で、我々は本当に彼の前に出ると恥ずかしくなるような男性でありますが、綾子さんがこう言っているんですよ。

 「うちの主人は優しいことは優しいが、厳しいこともまた厳しいんです。明け方の3時半まで仕事をして(原稿を書いている人はそういうところだと思いますね、作家ですから)、どうしても日曜日の10時の礼拝に間に合いそうもない時でも、彼は厳然として言います。『綾子!起きなさい。礼拝の時間。礼拝に行きましょう!』『だってあなた、今朝3時半に寝たのよ』『礼拝から帰って来て寝たらいいよ』。こんな時の彼は、いささかも妥協してはくれません。おかげで私は病気以外で日曜礼拝を欠席したことは、1度もありません。もし彼が温情主義であったらどうでありましたでしょう。私は午前2時頃に眠るのは、ほとんど毎日のことであります。毎日曜日『眠いだろうからな、ゆっくり休んでいなさいよ。礼拝は、夜にでも出たらいいんだよ。』などと甘やかされていたならば、ついに礼拝には出ない信者になっていたかもしれません。

 うちの主人は常日頃から、いかなることがあっても礼拝だけは守っていきたい、と願ってきて、私はそれについて来ました。」いいねぇ。Priorityというのはね、優先順位をどうするかっていうのはね、人生にとってものすごく重要なことなんですよ。聖書は「まず神の国と神の義を求めなさい。」損したように見えるかもしれませんよ、時間を取られたように見えるかもしれませんけども、神を第一にしますと結果的には素晴らしい祝福に預かることができる、と聖書は私達に保証します。

 実はねえ、先週ねえ、教会の会計担当の牧師にメールが入りましてねえ、こういうメールだったの。私は見せていただいたんですけど、「退職金の前払いをいただきました。その10分の1を教会に捧げますので、受けとめてください。送金しますが、銀行にきちんと納まっているかどうか明日調べて下さい。」という内容で、金額が書いてありました。私、びっくりしました。あの年齢でもう退職の話題。「退職金出すからね、早いところ…」、ていのいいリストラを勧告しているのであろうと思います。

 これが昨今の状況であろうかと思いますが、若い方ですよ、まあ中間管理職と言いましょうか、そういうお方でいらっしゃいますけれども、木曜日の朝に奥さんが見えておられたから、「奥さん大変だねえ、立派だねえ、リストラされたら不安でいっぱいでしょう。僕は感動しましたよ!」とお伝えしましたら、こういうことを言われたんですよ。こんなクリスチャン初めてねえ。

 彼は日本のトップの、素晴らしい有名な国立の大学を卒業して、一流大学を出て、一流の会社に就職して、サラリーマンとして大成功の人生を送ろうと思っておりましたんですが、就職してから色々行き詰まることがあって、それと同時にお母さんと大喧嘩をしたそうですよ。そして、夜3時くらいまで眠ることができなくて、会社も行き詰まってるし、人間関係もうまく行かないから、自殺をしよう、と考えた時に、なんと、イエス・キリスト様のこと、教会のことを思い起こして(種を蒔くものだと思いますねえ)、教会に行ったら解決が起こるかもしれないと思って、次の日会社を休んで教会に行った。牧師を尋ねた。

 その教会は礼拝堂の無い普通の家の教会だったんですけど、その時に、この聖書を通してイエス・キリストの愛に触れて、彼は涙を流して罪を悔い改めて本当に生まれ変わるんですよ。そして彼の人生はすっかり変えられて、まあ、あの奥さんもねえ、結婚式の1ヶ月くらい前に洗礼を受けるというようなことで、まあ結婚の状況はいつかお話することができると思いますけど、その奥さんに私が質問したんですよ。「あなたごの主人偉いねえ!」って言ったら、いやー私はね、びっくりしたんですよ。

 「私は主人と結婚して、主人が30歳の時にクリスチャンになったんですけど、考えてみると、30になるまでというのはイエス様のことを知らないから、神様のものを10分の1献金なんていうのは、考えもしなかった(考えませんよね、税金取られてるんだから、そんなの献金なんかしないよねえ)。で、ずーっと遡ってねえ、働き始めた時から自分が今洗礼を受けたその時までの働いた額の10分の1献金をうちの主人はしたんですよ。」私そんな人、初めて聞いたねえ。「私達はボーナスもらってもどんなことがあったとしても、うちの主人がいつも『これは神様のもの、これは主のもの』ときちんと横に置いて、そして捧げ続けて来ましたから、私はなんの心配もない。ただ主人について来ただけですよ。」と仰ってくださって、一緒に主の御名をあがめた次第であります。

 愛する兄弟姉妹、神様の約束の言葉を守る者に与えられる祝福は、無限大です。信ずる者は、アーメンといいましょう。アーメン。今年の標語は「流れのほとりに植えられた木の、時来りなば実を結び、その葉もしぼまざるごとく、その成すところ、皆栄える。」みんな経験しましょう。「することなすこと、みな成功する。」みんな体験しましょう。

 第5番目、死ぬことを恐れず、天国の喜びで生きるという人生であります。私は実は昨日のコンサートのために、牧師のくせにですね、イエス様のことを一週間考えるよりも井澤先生のことばっかり考えて1週間過ごしたんですよ。井澤先生は(ヘブル人への手紙の12章1節を先ほど聞きましたが)、信仰の先輩達ね、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、ヨセフもまた12人のお弟子さん達も、この競技場の雲のように、この商人達がいるその中に1人として加わって、長老さんも皆さんの愛する人達もその中に加わっておるわけでありますが、私考えたんですよ。天国に戻ったら確かに苦労はありませんし、いわゆる苦しみから来る、痛みから来る涙っていうのは無いですね。もう手術も無ければ事故も無ければ、交通事故があるはずもありませんしね、ガンがあるわけではありませんから天国に行けばもう万々歳ですよね。

 でも、考えてみると、ちょっと半分くらいしゃくにさわると思いません?美智子さんもそう言っておりましたが、なんでさっさと行っちゃったのか?というね。ずるいと思いません?ねえ、井澤先生ずるいよねえ。「いーちぬーけた」って言わんばかりにねえ。最後の最後の瞬間はそれは大変だったけれども、天国に行って万々歳。まさかねえ、シュークリームとピーナッツ食べてねえ、ブラブラしているとは考えられないけど、天国で一体何をしているかということを考えたんですよ。こう考えた。いいですか?ご再臨があるまで、イエス様が再び私達をお迎えくださるまでの間、その後に関しては、人間はひとたび死ぬことと死んだ後に裁きを受けるという審判の後は、何の苦労もない、神を賛美しながら天国の喜びの中にひたりますが、天国が正式にスタートする前、すなわちご再臨の前、審判の前、すなわち今の段階で天国に行った人達は一体何をしているか。賛美をしているでしょう、平安でしょう。

 しかし私はねえ、もう1つ考えたんですよ。それは、私達と痛みを共有しておられるに違いないと思う。どういう痛みであるか。奥さんに対してね「美智子、先に行ってごめんよ。昨日は最高だったよ。僕も一緒に歌ったよ。2人の娘のこと、頼みますよ。祈っているからね。娘たちよ、お母さんのこと頼みますよ。祈っていますからね。」

 この地上で苦しむこと、困難なこと、行き詰まった時に天にいる人達は、「俺はもう天国に来たんだから、ブラブラでいいんだ」とは思わないでしょう。その痛みを共有して、とりなしの祈りをなさっていてくださると、そう思うようになりました。日本のリバイバルの為に命をかけて伝道してきた1人の伝道者が、天に召されて「俺の仕事は終わったから」って、何もしないはずはありません!私達のこの教会のために祈り、家族の為に祈り、日本の99%の人が救われるために私達と痛みを共有なさった。

 同じように、イエス様も痛みを共有なさっておられる。新約聖書の最後の黙示録には、天国の門は12の真珠1つ1つによって作られているとあります。普通気の利いた牧師なら、「我々がこの地上で苦しんだこと、私達がこの地上で悲しんで涙を流したこと、それはちょうどあの阿古屋(あこや)貝が、異物が入れられたらそこに液が出てくることによって美しい真珠が生み出されるのと同じように、この地上で苦しんだことが、悲しんだことが、つらかった出来事が、あの天国の12の門の1つ、真珠の門を作る1粒となっている」という風に、この地上における苦しみや悲しみや困難を意味づけてくださいますが、天国の人達がブラブラしているのではなくて、天国でも同じように私達の苦しみと痛みを共にしてくださって、日本のリバイバルの為に涙を流して、そして祈っていてくださる、その祈りの痛みというものが、天国の12の門の真珠を作り続けているのであろうという風に信ずることは間違いではないのではないかと思います。

 井澤先生は仰います。「天国に行ったらもう大丈夫。天国に来たら100%神様に対する信頼は揺るがない。だからまず神の国と神の義とを求めて生きなさい。必ず必要は満たされますから!!天国に来てみて、初めて神様のすごさがわかりました。」

 「来なきゃわからないよ、来なきゃ。」井澤先生の口癖だった。「来なきゃわからないよ、来なきゃ。みんな早く来いよ。」なんて、みんな考えてるんじゃないかなあと思いますけど、そうはいきませんが、この地上にいるわけでありますが、私達は神様は最善以下をなさらないと信じ続ける人生を送らせていただきたいと思います。主のご愛のゆえに、私達は最善以下の人生はない。そう信ずる者は、アーメンと言いましょう。アーメン。

 祈りを捧げます。天のお父様、主に感謝します。あなたは私達に、この地上に生きることを要求されました。「生きよ、死んではいけない、行き続けよ。苦しみがあっても困難があっても、耐えられないような試練に遭わせせたもうことがないばかりか、解決、逃れの道があるから、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える、耐え忍ぶ、屈しない人生を送らしめてください。イエス様のご愛が注がれていることのゆえに感謝します。会衆一同に、激しい熱い主の愛の注ぎを与えて、この愛のゆえに生きる、どんな困難や出来事の中に追い込まれたとしても、主のご愛をいただいた、このことのゆえに感謝して感謝して人生を過ごすことができますように。主イエス・キリスト様のお名前によって、祝福してお祈りを捧げます。

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