2005年10月 のメッセージ

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「続『死の壁』を超えるもの」大川従道師 2005年10月23日

 「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。」
(新約聖書・テサロニケ人への第1の手紙4章13〜18節・口語訳)


特別賛美:アサリオン「しっかりするのだ」

 素晴らしい賛美のゆえに、神の御名を崇めます。本当に感謝です。今日初めてのお方もたくさんお見受けしますし、遠くトルコからお見えになられた方もいらっしゃいます。第2礼拝には韓国の忠武教会から長老様がお見えくださいましたが、このようにして皆さんと一緒に礼拝を捧げ守ることができることは、神様からいただいた素晴らしい恵みであると思います。
 少し大きな声で、朝のさわやかなご挨拶を致しましょう。おはようございます。

 先日ロサンゼルスから高村さんという方がお見えになられて、木先生のご家族、岡村先生のご家族と一緒にお昼のお食事をなさった時に、サレム君(岡村先生の長男)が、レストランに蜘蛛(くも)が出てきたことを見つけたらしくて、「高村シャン、どうして蜘蛛が、あそこで何してるのかなあ?」そういう質問をしたそうですが、高村さんは何と答えたかというと(さすがアメリカにいらっしゃるお方だと思いますが)、「それはね、サレム君が何を食べているかよーく見ていてねえ、誰かに報告するの。だから、『スパイだー!』っていうの。」(笑い)これは、英語で蜘蛛をスパイダーと言うことがわかると面白いジョークで、サレムちゃんは何のことだかわからなかったようでありますが、みんな大笑いということで、本当は神学校に1日入学なさったんですが、この地下室にも蜘蛛が出たようでありまして、「この蜘蛛は大川先生の回し者(間者)である」と、神学生達が居眠りしていないかどうか後で報告するんだ、これで「スパイだ!!」って、これを言いたかったらしくてですね、高村さん、用いましたよ(笑い)、メールで昨日送られて来たんですけれども(笑い)、今用いているわけであります。

 朝日新聞の「言わせてもらお」に、息子が62歳のお母さんに質問しました。「英語で"last name"(ラストネーム)っていうのは、なんと訳す?」と言ったら、お母さんはすかさず「それは、戒名」と訳したそうであります(笑い)。

 今日の中心テーマは、無知でいてもらいたくない。知らないと困りますよ、というね。知らなくても大丈夫なことがたくさんありますけど、知っていないと大変なことになりますよ、そういうお話であります。テサロニケ人への第1の手紙の第4章13節からお読み致します。興奮する内容ですねえ。エキサイトしますねえ。こんなことが聖書に書いてあるかと、びっくりするような内容です。第1テサロニケ、テサロニケというその町の人達に送った、パウロの手紙であります。

 「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを(希望を)持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨(=再臨、再び臨む)の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ(この引き上げられるのは"携挙〔けいきょ〕"って言うんですよ。lapture〔ラプチャー〕って英語で言いますけど、専門用語ですけどね)、空中で主に会い(空中携挙ですね)、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。」
(新約聖書・テサロニケ人への第一の手紙4章13〜18節・口語訳)


 初代の教会が、こういう聖書の御言葉の内容で励まし合ったということにお気づきいただけると、そう思います。初代の教会に混乱がありました。まだ聖書が無い時代でありますので、よくこの再臨のことがわからなかった、誤解したという面があろうかと思います。

 私達の教会は、毎週ここで「五重の福音」を述べておりますので、「五重の福音」の素晴らしさを、今一緒に覚えたいと思います。
 (スクリーン:新生・聖化・神癒・祝福・再臨)
 新生というのは、新しく生まれ変わる、born again(ボーン・アゲイン)ということでありますよ。新生児って言うでしょう?
 聖化というのは、キリストによって、もっとアップグレードされるというね。聖められる(sanctify:サンクティファイ、sanctification:サンクティフィケーション)。
 神癒(しんゆ)というのは、healing(ヒーリング)、いやされる、心と体がいやされるという。
 この教会は祝福、神様が霊的にも精神的にも経済的にも祝福してくださる。
 最後は、再臨(=再び臨む)。クリスマスは、初めてだからfirst coming(ファースト・カミング)と言いますね。"再び"だから、second coming(セカンド・カミング)ということでありますけど、今日、五重の福音を一緒に読みましょう。いいですか、覚えましょうね。新生・聖化・神癒・祝福・再臨。この教会に来たら、これを覚えましょうね。これは大きな神様の恵みであります。
 
 13節に、眠っている人々について、無知でいてもらいたくない(これは、礼拝中眠っている人々のことではございません)。死んでしまった人達のことを、「眠っている人々」という風に表現致しました。
 愛する者をなくすというのは、悲しいことであります。寂しいことでありますが、悲しんでも良いけれども、悲しみすぎるのはクリスチャンらしくありませんよ、という。
 新改訳聖書は、「悲しみに沈むことのないためです。」と訳しました。無知から来る悲しみ、そのお方がどこに導かれたかということをわきまえないで、いたずらに泣くということは、信仰が問われることですよ。
 旧約聖書の申命記(モーセ五書の最後)の最後の節は、モーセが120歳で亡くなったけれど、目はかすまず、気力は衰えなかったけれど、神様が天にお召しになられた。その時に、面白いことが書いてありまして、偉大なるエクソダス(出エジプト)を致しました指導者モーセが亡くなったわけですから、国をあげて国民が泣いたわけですが、「30日で泣くのはやめた」って書いてあるんですよ。すなわち、泣いてもいいけれど、きちんと区切りをつけて前進しなければ、生活ができないでしょう、前進できないでしょう、約束の地に入ることができないでしょう─という、そういう内容であります。
 ピリピの3章の20節と21節を、ご一緒に朗読致しましょう。この前勉強しましたね、はい。

「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(新約聖書・ピリピ人への手紙3章20〜21節・口語訳)

 この、病気をするような、しわくちゃになってしまうようなこの"卑しいからだ"って言いましょうかねえ、これが栄光の姿に変えられるという、神様のお約束の言葉であります。
 元日本の検事総長をしておられたお方が、「人間は、死んだら、みなクズになる」と発言して、物議をかもしたことがあります。これは恥ずかしい、無知からの発言と言ってよろしいでしょう。インテリのくせに、すなわちそれはクズの発言、意見と言ってもよろしいかと思います。

 まあ私は牧師でありますから、比較宗教というのをしょっちゅうしているわけでありますが、ひろ・さちやさんという有名な宗教哲学といいましょうか、仏教の説明をする専門家でいらっしゃいますけれど、仏教では死後の世界をどう考えるかという『死後の世界入門』というね(こういうものも牧師は読まなければいけないわけですけれども)、ちょっとびっくりしました。

 「仏教では、死の旅とはいえ、途中で食べる物が必要である(おお、死んだ後にも食べるものが必要だ!)。もう、そんなにがっついて食べることはないので、お線香の香を食べるんだ。だからこの地上では、線香を絶やしてはいけないんです。」なんていうことを書いてあります。
 「食べ物だけではなくて、お金も必要です(えーっ、死んだ後にも金が必要だ!)三途の川を渡るためにはお金が必要である」、というね。だから棺の中にお金を入れたりする。昔は六文賎、というようなことでありますね。
 「川の向こうには爺婆がいて、衣服を剥ぎ取る仕事をしている。衣服を剥ぎ取って木に掛けると、枝が重さでしなる」というね。このしなることによって、この地上で罪を犯した量がよくわかって、それでしかられる。
 特にびっくりしたのは、幼くして死んでしまった子供達は、生きている間に、何も良いことをする余裕が無かった。布施行をする余裕がありません。善行を積む暇もありませんでした。生きている間に何もできなかったという思いに責められます。3歳、4歳の子供の作る塔は(あの世で塔を作るというのは、石をこう積み上げて塔をこう作るんですけど)、すぐに子供だから崩れちゃう。またやっていきますと、今度は鬼が出てきて(鬼に金棒って言いますが)、金棒でその積み上げた塔を壊したりなんかする。壊すだけではなくて、その金棒で子供を叩いたりするので、泣き叫ぶ子供達に鬼が言う。『何を泣くんだ。これは、みな、お前たちが犯した罪じゃないか。オレを恨むんじゃない。自分を憎め。お前のために何もしてくれない父母を憎め。』と、こういう風に言われる。
 仏教の教理に従うと、子供の罪は非常に重いのです。なぜなら、自分が早過ぎて死ぬ、早過ぎる死によって、父母を嘆き悲しませたからです。それは、少々のことでは償えるような罪ではないのです。善行を積んだり、布施をする余裕も無かった子供達に代わって、地上にいる、シャバにいる親が仏道修行をしなければ、浮かばれないのです。子供に先立たれて悲しんでいる絶望感は、体験しないとわからない苦しみ、だからと言って泣いてばかりいるのは、子供がもっと悲しみ苦しみます(どっちになったらいいんでしょうね)。  死んだ子供は生き返るはずが無いのですから、いつまでも悲しんでばかりいないで、あきらめることも大切なのです。忘れることが最良の供養となるのです。」(『死後の世界入門』より)

 うわー、私はこんな思想の中に生きられないねえ。キリスト教とあまりにも違うので、圧倒されました。皆さんにもっと紹介してあげたいことがありますけど、あんまり話しておると今日、なんかお寺さんみたいになってきてですね(笑い)、なんか仏教講話になってしまうから、もうこれ、やめておきます。どこの本屋にも売っている、そういう書物であります。
 まことにグッド・タイミングで、今日この美しいお花は、中島さんの一人娘さん、くみこさんが2人のお子さんを亡くされて天に召されました。ちょうど7年経ちます。その記念のお花であります。今日、2人のお子さんとそのお葬式の時に棺の前で洗礼を受けられたご主人様が見えておられますけども、グッド・タイミングで、(皆さん、ひとりっ子ですよ)一人娘さんが亡くなった時から7年経つんですよ。その後、この中島さんが私に昨日お手紙をくださいました。

 「私は、『ローマ人への手紙』の8章28節が大好きです。『神は、神を愛する者、御旨(計画)に従って召し出された者達の為には、万事を益にして下さるという御言葉が大好きです。」
 あの御言葉は、私の釈義によれば、「神は愛する者、そのお方らをご計画の中で召し出す」というのは2つの意味、"この地上で召す"という意味と、"天に召す"、天に召された者達は、悔いが一杯残るでしょう。あれもしたかった、これもしたかった。心配事もあるでしょうが、すべてのことを働かせて、万事を益にしてくださると、私は知っています。」
 これが大好きです。娘が天に召されて7年が経ちました。本当に御言葉通りになって、驚いています。家族は全員救われました。親より先に子供が召されるのは親不孝と申しますが、私達家族をこの教会に導いてくれました娘です。私共にとっては、最大の親孝行をしてくれて、感謝しております。」

 私も子供を持つ親でございますが、子供が先に死んだら、どんなにつらい思いであったであろうかと思います。残された子供達も、普通では味わえない経験を(ご主人もそういうことですが)、どんなマイナスもプラスになります。そして、どんな災いも祝福の基、奇跡のはじめになります。信ずる者は、アーメンと言いましょう。アーメン。

 私は天国でくみこさんがこれを聞いて喜んでいらっしゃると思います。せっかく信仰を持って天に送り出したんですから、「うちの子供は親孝行です!」と宣言をする、感謝を捧げたら、召された者も召してくださったお方も喜ばれるでしょう。先に召された順番から言うと、親が最初でありましょうが、あの親は私達に天国を示してくれたと言ったら、これは子供に対する孝行、(そんな日本語はありませんが)親孝行ではない、子孝行、おじいちゃんおばあちゃんは孫孝行、命懸けで天国への道を示してくれているからであります。それであるから、いつまでも悲しんでいてはいけないという内容は、そういうことであります。

 京都に2日ばかり行ってまいりました。神学校時代の同級生、同窓会がありまして、神学校で同窓会、17年卒業しまして、私と同級生で一番年上は12ぐらい差があるんですけど、私が一番若い。全員が集まったわけではありませんけれども、先々週、私は同級生が1人、天に召されました。立派な牧師先生でした。卒業して42年間、伝道を今日まで過してまいりました。
 お昼ご飯をどこで食べるか?って言ったら、その京都の同級生、新谷(しんがい)牧師は「お寺で食べよう」ということになって、牧師のグループがですね、お寺さんに行くっていうのもなんでございますけど(笑い)、良い経験だから(ちょっと反発しようとしたんですけども)、キリシタン大名の大友宗麟(そうりん)が建てたお寺だって言ったら、「ああ、じゃあ行きましょう、行きましょう!」ということで、予約も取れておりまして、瑞峯院(ずいほういん)というね、皆さんも京都で「どこで食べるか」と言ったら、あそこへ行ったら面白いですよ。
 で、2つお庭がありまして、1つはですね、独座庭(どくざてい)と言いまして、あの竜安寺のように白い砂(独特ですねえ)きれーいな砂がこうありましてですねえ、今日の賛美のように、人生っていうのは、波、嵐が来るようなことだけど、その中でこう岩がですね、がちっとこうしておりまして、「どんな波が来ても大丈夫だ!」という。そこで座禅を組んでですね、それを瞑想するという風になっておるんでありますが、どうもそれを調べてみるとですね、それがポンポンポンのポンポンポンなんですが、十字架の格好をしているんですよ!「ほんとかしら?」と思うでしょう?ですけど、裏の庭に行きましたらきちんと説明が書いてありまして,閑眠庭(かんみんてい)というんでありますが、お寺さんが出している案内書の中に、「これはキリシタン大名大友さんがそういう風に考えたことであろう」と、そう書いてあるんですよ。
 
 京都にお寺がどのくらいあるかというと、3000ぐらいあるそうでありますよ。大きいの小さいの合わせて。そんなところで伝道しているっていうのは、大変なことであろうかと思いますけども、あの長い間、あの鎖国であったところの250年もの間、どうして牧師がいない、神父がいない、教会が無い、そしてメッセージも無い、そういう状況の中で、何ゆえ信仰を保つことができたか。これは本当に不思議なことでありますが、私はねえ、あれだけのお寺さんに囲まれて行ったら、悪霊も来るでありましょうけれど、もうどういう風になっていいかわからないと思うんでありますが、大友宗麟は、あそこで瞑想する、座禅を組みながら目をそーっと開けたら、そこに十字架の巌ですねえ。わかる者はわかる、という世界でございますよねえ。
 裏に行ったって、わからないですよ。そう言われてみないとわからない。でも大友宗麟やクリスチャン達が(ガラシャ夫人達も同じことでありますが)、少し斜めからねえ、誰からもばれない時に目を閉じて、そして目を開けて、瞑想して、そこにあるのは十字架のイエス・キリスト様を想起することができるというのは、それは驚くべきことであろう。このことのゆえに、十字架のイエス様を見上げて耐えることができたのであろう。なぜあの厳しい迫害に耐えることができたのであろう。なぜあの厳しい迫害、耐えられなくて転んじまった人達もいるわけでありますけれど、私達の為に十字架にかかられたイエス様がおられるという。

 豊臣秀吉が、1597年、26聖人と言われておりますが、長崎で処刑したでしょう、有名でしょう?中高生もわかるでしょう?あれは京都からスタートしておりまして、26人をしょっ引いて、そして京都の町を、「キリスト教を信じると(キリシタンになると)、こんな風にされるんだ」と、引きずりまわされるわけですよ。縄のひもで縛られて、裸足で、そして引きずられてつばきをかけられたり石を投げられたり、ムチ打たれたりするわけですが、「途中で信仰を捨てれば、直してあげる」ってなもんでございますが、彼らは京都でスタートして、1月の2日(まだ寒い京都でございましたよ)、そして京都から大阪、大阪から堺に行って、堺から900kmのその長旅を、彼らは歩いていくわけですよねえ。よく信仰を失わなかったと思いますけど、それはやっぱり十字架信仰ですよ。
 イエス様の十字架、私の為に十字架にかかられて、死をもってあの神の子キリストがこの私達の人生を贖(あがな)って、永遠の命をくださった。どんなに難しい問題、困難があったとしても、荒波がやって来ても、十字架信仰を失わなければ、私達は保つことができるんですよ。そして彼らは京都に行きますと、自分達が用意されたところのその十字架が、26並んでるわけですよ!「私の十字架、どれだろう!」と言って、喜び勇んで、飛びついて十字架のところに行った─という風に伝えられて行くのであります。1月2日に出て、2月の5日に長崎に着くということでございます。すごい十字架信仰だと思います。死ぬことを恐れない、永遠の命をしっかりと持っている、そういう信仰です。

 もし日本のキリスト教会が、プロテスタント教会は、1859年にヘボン式ローマ字のあのヘボンさん達(色々あの時代に福音が伝えられたわけでありますけれども)、私はねえ(こんな発言をキリスト教会がするのは初めてでしょうけれど)、1549年、ザビエルを通して福音が伝えられたにもかかわらず、1859年にこのプロテスタント教会が伝えられて以来、今日まで146年間、原則としてはカトリックを拒絶する─「違う、信仰が違う」、ね。「あれはおかしい、あれはどっか変わっている」というようなことでありますけど、今マザー・テレサを否定するような牧師も信徒もいないでしょう。
 私達は大きな間違いをしてきたんじゃないか、神様がせっかく福音をザビエルを通して伝えて来ていただくことができたのに、今から146年前に福音が伝えられた時に、「それとこれとは同じですよ。我々も十字架信仰ですよ。復活信仰ですよ。再臨信仰ですよ。」─こう言えば良かったでしょう。神様の働きを無視するかのごとくに、プロテスタント教会はあそこで断絶したまま、スタートを切ったわけでありましたけれど、私は神様の御前に宣言します。カトリック教会を認めます。そして、(お洋服は違いますよ、ちょっとスタイルも違いますよ、でも)今日まで456年、キリスト教、イエス・キリストが伝えられてきたことのゆえに、主の御名を崇めます。
 これよりも(ザビエルよりも)もう少し前に、日本に景教という形で福音が伝わっているということも、いつかお勉強してみたいと、そう思っておるのであります。

 カトリック教会から学ぶことは、マザー・テレサもコルベ神父さんもそうですが、現役では曽野綾子さんという方がいらっしゃいます。曽野綾子さんも、たくさん書物を作っていらっしゃいますが、曽野綾子さんの一番新しい書物で、『悪の認識と死の教え<私の実感的教育論>』(学校の先生がたくさんいらっしゃいますけども)、彼女は、臨時教育審査委員会(臨教審)の1人でした。その中で彼女は、何度も政府に対して、文部省に対して「death education(デス・エデュケーション:死の教育)というのを子供達にしなきゃいけない」、と言ったんですけど、「文部省は誰一人それを言うことを聞いてくれなかった」、とそういう風にこの中に書かれておるのであります。
 今ね、日本の国が(子供達が)もう全くおかしくなってねえ、もっと悪くなりますよ。死ぬことがどういう意味があるのか、 生きることがどういう意味があるのか、誰も教えてくれないまま子供を過ごさせてしまっている─そういう状況の中で、蒔いた種を私達は刈り取らなければならないわけでありますねえ。彼女はねえ、「義務教育の中でそれを教えていなければならない」、というねえ。
 「もし明日の朝、世界中の人類が死滅するということになりましたら、誰もがいっせいに今まで必要と信じきっていたもの、今まで必要と信じていたものの99パーセントは、もはや不必要になっていることを知るでしょう。死を考えないこと、死を考えることを教えないことは、年長者の恥ずべき怠慢なのである。」─その通りですよ。
 昔は、みな家で死にましたから、誰でもが「おじちゃーん、死んじゃいや。おばあちゃん、死んじゃいや。」というこの場面を見ていたけれど、今はみんな病院で亡くなりますので、それを伝えるということができない。 「人間は死ぬのは必ず死ぬのよ」、と教えなければいけません。死んだ後に裁きがあることも、教えるべきである」、とね。この地上において、良いことをしたのか、ね、悪いことをしたのか。
 「これらのいと小さい者の1人にしたことは、私にしたことだ。神様にしたことだ。これらのいと小さい者の1人にしなかったことは、神様にしなかったこと、イエス様にしなかったことだということで、永遠が分かれるんだ」というメッセージを、もっと教育界の中で教えていただかなければいけないであろう、ということでございます。

 曽野綾子さんは、カトリックの信者さんでいらっしゃいますが、幼稚園からカトリックでありまして、カトリックの幼稚園では、毎日、臨終の時のための祈る習慣をつけるそうであります(幼稚園からですよ!)。死ぬ時にどうお祈りするか。ICAの先生達も、日曜学校の先生達も、自分が死ぬ時にどういうお祈りをしたら良いのかと、そう意識なさっていらっしゃいますか?人が死ぬ、家族が死のうとした時に、私達はどういう風にお祈りしたらいいのかということを教えておくべきであるということ─よろしゅうございますか?誰でもが、黙ってて天国に行くことができるということではありません。
 最近テレビを観ておりますと、芸能人達が、お葬式の場面がこう出てきますと、「あいつも天国に行って、ゆっくりしてもらうよ。」なんていうようなことを言っております。仏教徒だったら、「あいつも極楽に行って」と言いますが(極楽なんていう言葉は、誰も使わなくなりましたが)、誰でも天国に行けるとは、聖書は言っていない。

 ヨハネ14章6節、(これは有名な聖書の言葉ですよ)「イエスは彼に言われた。私は道である。」ね?英語の聖書では、「I am the way,the truth(真理であり),the life.」定冠詞がつきますよ。「だれでも(どんな人でも、どんな立派な人でも)わたし(キリスト)によらないでは父のみもと(天国)に行くことはできないと、明確に書かれております。
 私はそういう信仰を持っている牧師だから伝道しているわけでありますけど、どうしたら福音を伝えられるかということで、考え、考え、考えてきました。
 『どうぞお入りください』というので刑務所の中で信仰を持った人がおります。これを読めば、イエス様のことがわかるし、救われるという内容であります。

 今日から発行でありますが、素敵でしょう?「私は道である」、ね。そして下の方に、「『死の壁』を超えるもの」(教会員の尾崎さんが表紙をお書き下さったんですけど)、この内容は、私が以前「『死の壁』を超えるもの」という説教をしました。それを編集したものでありますが、よーくできています。聖霊様が与えてくださいました。そして最後には、今日信仰を持つ人は、この祈りをしたらよろしいというところまで書いてあります。 私はお葬式の時に、知恵を尽くして説教します。お葬式には、日本は義理人情が強いので、どの宗派の人でも、無宗教の人でも、キリスト教反発の人でも教会にたくさんお見えになる。だから私はもう、本当にもっとズバッと説教したいけど、それは「人の弱みにつけ込んで…」と反発されるから、それはやらない。さりとて、曖昧模糊(あいまいもこ)とした説教もしない。もう本当に祈って知恵を尽くして説教しますが、不充分でありますねえ。忘れちゃうでしょう?書物を、「『バカの壁』を超えるもの」というのは厚いでしょう?あれを全員に配るわけにはいかないでしょう?タオルを配ったり、ハンカチを配ったり、クオカードを配ったり、テレフォンカードを配ったり、「お返し」というのを日本人はするでしょう。私はお返しに必要な(これだったら100円ですから、誰でも買えるでしょう?)、神に会う、主に会う備えもすると同時に、葬儀の備えをいつもするということは、重要なことであります。
 みなさん、これをねえ、日本中でこういう書物は無いんですよ。葬儀の時に配るものねえ。これはもう是非、みなさんに利用していただきたいと、そう思っております。本を出す、小冊子のような物でも、結構苦労するものですが、この教会で発行しました。主の御名によって、一緒に感謝の拍手をしてくださいますか?─主イエス様、感謝します。イエス様の御名によって感謝します。栄光は、主のものであります。イエス様、感謝します。
 
 旧約聖書のエゼキエル書の3章というところに、こう書いてあります。よく知ってください。
 「もしあなたが、お友達に家族に聖書の福音を伝えなければ、イエス様が道、"I am the way"、これ以外に救いはないということをお伝えしなければ、その人は罪のゆえに地獄に行くでしょう。死んで行くでしょうが、その血の責任はあなたにありますよ」と書いてあるんですよ。
 私はこれで、今日まで50年過してまいりました。あなたが福音を伝えなければ、あなたに責任がありますよ、あなたに最初に福音を伝えたのは、そういう意味ですよ。私達は手を替え品を替え、時が悪くても時が悪くても伝道しなくてはならないということは、そういう時であります。
 私は高校の同級生、3年間同じクラスだったんですよ。聖学院高校、そして1年C組で3年過ごしたんですよ。でも、1人も救いに導けませんでした。私は本当に心痛いんですよ。それで私はこれをね、同級生達にね、配ろうって。それで責任が果たせたと思えないけども、「やれることだけはやろう。聖霊様が絶対働いてくださる」と、そう信じています。みんな真似してください。
 伝道の為に私達は知恵を尽くすということがどんなに重要なことか、良い物を蒔いたら良い物を刈り取ることができると信ずるのであります。

さあ、聖書に戻ります。テサロニケ人への第1の手紙、今日のメッセージは、無知でいてもらいたくない、何を悲しんでいますか、もっと喜びなさい!「行くべき所に行かせていただいたんだ」、ということを感謝しなさい。

 第2番目は、「突然いらっしゃる」と。16節から読みます。16節から。

 「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる(宮田兄弟なんか、天国に行ったら、絶対この係をやると思うね)。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう(アーメン!)。だから、あなたがたはこれらの言葉をもって、互に慰め合いなさい。」(新約聖書・テサロニケ人への第1の手紙4章16節〜17節・口語訳)
 
 5章の1節〜2節、ご一緒しましょう。はい。

 「兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書き送る必要はない。あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜来るように来る(であろう)。」(新約聖書・テサロニケ人への第1の手紙5章1節〜2節・口語訳)

 アーメン。盗人のようだ。イエス様がいらっしゃるのは突然だから、よーく準備していなければなりませんよ。コスタメサのカルバリーチャペルの玄関の入り口に(この道路の入り口のところに、ガソリンスタンドがあるんですが)、ガソリンスタンドの壁にね、大きく「イエス様は間もなく来られる(Jesus is coming soon!!)」と書いてある。あそこに行きますとねえ、もう礼拝の度に興奮する所であります。

 当時の教会(テサロニケの教会)は、バランスを崩しました。私達の先輩達も、そういう時代がありました。11節をご覧くださいますと、

 「そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身を入れ、手ずから働きなさい。」(新約聖書・テサロニケ人への第1の手紙4章11節・口語訳)

 当時の教会の人達が、やがてイエス様がいらっしゃる、いらっしゃる、いらっしゃるから働くのがばかばかしくなる。昭和の初期にもそういう人達がいて、「学校に行かなくてもよろしい」と、ねえ、「仕事をしなくてもよろしい」と、「イエス様がいらっしゃるから、お祈りだけしておりましょう。」─同じ事だったんです。そしてパウロはそういうような状況ではいけないから、「働かざる者は食うべからず」であるかのごとくに、落ち着いて生活をしなければならないんだということ。

 よく知ってください、純粋であることは素晴らしいんですけど、孤立することは良くないんですよ。誰でもわかるように妥協してお話をするのはいいんですけど、命を失うのはいけない。だから、「妥協の埋没」と言うんですよ。
 「クリスチャンはどう生きるか?」って、純粋性を保たなければいけないんだ。「これ以外に救いはない」という、そういうメッセージを持たなきゃいけないけれど、孤立しちゃいけない、入って行かなきゃいけない。入って行って、いつの間にかイエス様の命を失って、「これでもクリスチャンか?」というような命を失ったら、地の塩、塩の味が失われたら、それは外に捨てられますよ、と聖書に書かれているでしょう。
 「純粋性の孤立」もいけない、「妥協の埋没」もいけない、この緊張関係の中で、知恵を用いて社会に生きなければならないということだ。

 私は今回、同級生達とお寺参りをちょっとしたわけでありますけど、おかしなもんでありまして、色々まあ私達のことですからいくつか質問したりしたんですが、(もしこの時に再臨のイエス様が来られたら、どうしようかなあ?)ってね。「ああ、君、君は今どっから来たかね?」「…お寺…」(笑い)とかなんとか言ったんじゃ、ちょっとまずいかなあと、そう思ったりしますが、まああんまり心配することもないでしょうけれど、低俗なテレビやもし雑誌を見ている人がおりましたら、お止めになられて聖められることをお勧めしておきたいと思います。

 天国に我らをお召しくださる主イエス様、ご再臨してくださる主イエス様はどんな方ですか?整理します。

 第1番目、救い主である。
 我らの主は救い主である。どんな罪人も、天国に導いてくださいます。私達の身代わりに、十字架にかかって死んでくださいました。今日、今信ずるなら、テレビを観てらっしゃる人、今日今信ずるなら、誰でも救われます。あなたが良い事をしなくても救われます。イエス・キリストを罪からの救い主、人生の主として、心の中心にお迎えする人は、アーメンと言いましょう。アーメン。

 第2番目は、聖霊の恵みであります。テサロニケ人への第1の手紙の結論は、5章の16節(有名ですよ!)、16、17、18とご一緒しましょう、はい。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」(新約聖書・テサロニケ人への第1の手紙5章16節〜18節・口語訳)

 素晴らしいでしょう?「いつも喜んでいなさい」、クリスチャンのスタンダード(標準)だと言うんです。「絶えず祈りなさい。すべての事を感謝しなさい。」聖書にこう書いてあるから、こういう生き方をしましょう。これがキリスト・イエスにあって、神が求めておられることです。
 「そんなこと、できそうもない」っていう人は、19節にこう書いてあります。19節、

 「御霊を消してはいけない。」(新約聖書・テサロニケ人への第1の手紙5章19節・口語訳)

 聖霊様をないがしろにしてはいけない、「聖霊様がそうしてくださるんですよ」と仰る。だからいつも、「聖霊様、あなたを歓迎します。ご一緒してください。」

 第3番目、主はいやしてくださいます、心と体を。

 第4番目、神様は私達の現実を祝福してくださいます。この教会に属するすべての人の祝福をいつもお祈りしておりますが、(ちょっとえこひいきして申し訳ありませんが)私は自分の子供の為には必死になって(うちの子供の長男は30何歳、2番目の方は20何歳ですが)、私は祈りを忘れたことは、1度もありません。朝と夜、必ず祈ります。断食して祈ったことも、度々あります。私が数十年間お祈りしたんでありますから、私は必ず神様は、絶対神様は祝福してくださる、祝福からもれない、と私はもう強い信仰を持っております。
 今度は孫が生まれました、孫2人ね。私は毎日朝と夜、孫の為に、一生懸命お祈りしています。
 最近ね、私はね、祈りがちょっと変化しましてねえ、笑ってもいいけど笑わないでね(笑い)、孫のね、結婚相手の為にお祈りしているわけ(笑い)。孫が成長するように、健康で恵まれて成長するように、ね。そして、やがて…どういう男性が来るだろうと思っただけで、胸がわくわくと、ちょっとイライラ(笑い)、「どういう人の所に行くかな?」─最近教わったんですよ。ひ孫の為に祈って、ですね。
 私の知っている先輩が、「私はいつもひ孫のためにも祈っていました。」
 結婚したい人は、結婚することを前提として、先取りして感謝する。仕事をしているビジネスマンが沢山いらっしゃいますけど、先取りして感謝する。教えて来たでしょう?受験生達は夢を持って、まるでそうであるかのごとくに。
 
 私は今日まで、この教会が1000人教会になるなんて、どういう風に計算しても、そんな、考えられない。日本で誰もやったことのない教会なんか、この愚かな者ができるはずがないと、そう信じ込んでいるような堅物(かたぶつ)でありましたけど、夢を持つようになると、夢の中でも生きられる。皆さん、天国の夢を(間違っても地獄の夢なんか見ることはないですよ)、"天国に行ってこの人と会える、あの人と会える、お母さんと会える"って、ねえ。先取りして感謝できるでしょう!病気をしてらっしゃる人も、ガンである人も、僕は真剣に断食して祈るけど、いつか死ぬでしょう!死んだ後のことをもっと考えて、行くべきところがはっきりしていることを感謝して、「あそこに行くんだ、みんなに会うことができるんだ、一足、ちょっとばかり先に行きます。私達は、永遠のスパンでものを考えなければ、不幸が山積みされるでしょうけど、すべてのことを感謝する。やがて天に召される時が来る。
 孫も、ひ孫も、親族全員、一生懸命お祈りしています。先取りして、感謝しておるのであります。詩篇1篇3節、一緒に読みしましょう。今年の標語です。はい。

 「このような人は、流れのほとりに植えられた木の、時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。」(新約聖書・詩篇1篇3節・口語訳)

 「時が来ると」って言うんですよ。孫の成長、ひ孫の成長─そんなのは、時が来ないとわからないでしょう?でも、「祈ってる」っていうのは、天国に僕が行ってからの話でしょう?「ああ、祈ってた子供が、孫が、ひ孫が、あんな風に成長してる。教会も同じでしょう?いつか召される時が来るわけですよ。ねえ。先取りして感謝する、その中で生きられる。神様のblessing(ブレッシング:祝福)ですね。

 第5番目、死ぬことを恐れない、永遠の中を生きる幸せであります。小林和夫っていう私の大先輩、小林先生がお母さんを引き取って生活しておりまして、お母さんがね、ソファーにいる時に、隣に居たそうです。お母さんが今死んでいく様子がわかったって。「おかあさーん!」って叫んだら、自分の懐(ふところ)の中で死んでいった─幸せな男だと思いますよねえ。彼がこう言いました。「どんなに愛していても、死の川並みの向こうまで一緒には行けない。どんなに愛してても、尊敬していても、死の向こうまでは一緒に行くことができないが、一緒に行くことのできる唯一のお方、「I am the way(私は道だ)、私を通してでなければ父のみもとに行くことができないとおっしゃる、この救い主なる神の子、キリスト様はご一緒してくださる。こんな幸せな約束の言葉を絶えず口ずさんで、流れのほとりからもれることなく、時来りなば実を結び、その成すところ、皆成功する。成すところ

「愛Q・害Q・宣Q」大川従道師 2005年10月16日

 「神の御旨(みむね)によるキリスト・イエスの使徒パウロと兄弟テモテから、コロサイにいる、キリストにある聖徒たち、忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父なる神から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神に感謝している。これは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである。この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基くものであり、その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである。」(新約聖書・コロサイ人への手紙1章1〜6節・口語訳)

 特別賛美:ゴスペル・クルー『He Reigns Forever』

 初めて教会に来られた方が、今日はたくさんいらっしゃいますけれど、びっくりなさった人もいらっしゃるでしょう。聖歌隊がガウンを着て穏やかなクラシックの賛美歌が奏でられると思いましたら、元気の良い賛美で、これが新しいゴスペルの世界であります。King of kings(キング・オブ・キングス)、王なる主イエス様に、もう1度感謝の拍手を送りましょう。アーメン。
 テレビを観ておられる方もインターネットの方も、世界中で何億という方々がこの時間帯に礼拝を守っていらっしゃるわけですが、ご一緒できることを大変嬉しく思います。少し大きな声で朝のご挨拶をしましょう。おはようございます。

 お祈りいただきまして、先週は月曜日は大阪の大学(かなり大きい集会でありましたけど)、守られて、火曜日は朝から田貫(たぬき)湖(静岡県富士市ですかね)、ああ、(写真がスクリーンに)出ましたね、美しいでしょう?日本に生まれて良かった、という。朝富士と言いましょうか、ねえ。昼の富士ですよ。そして夜の富士。本物は、もっと美しかったですよ。私、静岡で育ったんですけれども、こんな美しい富士山は初めて見ました。この日、初雪が降ったというオマケ付きでありまして、ナオミ会もドルカス会も本当に幸せな時であったと思います。ありがとうございました。
 そして私は水曜日の朝の2時半頃、車で羽田の飛行場まで行きまして、そして韓国で金曜日(2日前)まで過ごして、夜帰って参りました。昨日は結婚式がありましたから、こんなに忙しい週も珍しいかと思いますが、神様のお守りの中にありましたことを、またお祈りを心から感謝したいと思います。

 今日は週報にすごいジョークが入っておりまして(以下週報より)、
 「ある中年の女性が心臓マヒになって入院。死を目前に天国の夢を見た。彼女は神様の前に立って質問しました。『神様!これで私の人生は終わりでしょうか』 すると神様が応えました。『とんでもない。まだまだ生きますよ。まだ43年間も残っています。さあ、地球にもどりなさい!』地上にもどった彼女は、自分に言い聞かせました。『まだ43年も生きられるぞ、わが魂よ、安心せよ!』 彼女は若返るために、整形手術をし、顔だけでなく、体中新しくされ、本人も間違ってしまうほどきれいになりました。
 整形外科に通う最後の日になりました。彼女は病院のお医者さまに『お世話になりました』と挨拶をして、駐車場に行きかけたとき、突然救急車があわてて走って来て彼女をひいてしまいました。今度は本当に死んでしまったのです。彼女は神様に文句を言いました。『神様!あなたは私に、あと43年も生きられる、とおっしゃったではありませんか。あの約束はウソでしたか?』神様は、彼女をじっと見て驚かれました。『なんだ!あなたでしたか。あまりに若返ったので、気がつきませんでした』…!?
 聖書には、人間は『ひとたび死ぬことと、死んだ後、神様の前に立ち、裁判がなされる』(ヘブル書9章27節)ことが書かれています。お互い、神様が見間違うほど美しくならないように注意いたしましょう?!今のまま、そのまま、ありのままでも、主なる神様は大歓迎してくださいますよ!!(マタイ11の28)」

 一緒に礼拝を守れることを喜びたいと思います。コロサイ人への手紙の1節、2節を最初にお読みしたいと思います。新約聖書でありますが、コロサイ人への手紙第1章というところをお読みしてみたいと思います(今はもうコロサイっていう場所はないんですけれど、コロサイの人達に対する、パウロによって書かれた手紙であります)。1、2節。

 「神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロと兄弟テモテから、コロサイにいる、キリストにある聖徒たち、忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父なる神から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」(新約聖書・コロサイ人への手紙 1章1〜2節)

 挨拶の言葉はだいたい同じようなパターンでありますけれど、「エペソ人への手紙」を勉強しました時にも、同じように神の御旨によって生かされているんだ、ということが冒頭に書かれていたことをお覚えでいらっしゃいますでしょうか。パウロという人物は、自分の存在というものが、自分の人生というものが神の御心(みこころ)、神の御旨の中にいるという核心、それが人間を生かすのであるということを知っておりました。牢獄の中でも耐えることができたのは、自分勝手に生きているのではなくて、私は神の計画、御心の中に生きているという自覚であります。

 私は13歳の時にクリスチャンになりましたが、それまでは人生の目的がわかりませんでした。何のために勉強するのか、なぜ私は嫌いな勉強をしながら生きなければならないのかと、苦しんだ時代がありました。イエス・キリスト様を信じる時に、生きる力が与えられ、生きる目的が与えられました。生きる力もなければ、さりとて死ぬのも怖いという人生から変えられたわけでありました。
 ある日私は出生の秘密を、聖書を通して知りました。「私は母の胎を出でざる先より、神の選びの中にあった。」私はもう、愕然といたしました。私が自分の人生を選んだのではありません。神様がお選びくださって、既に母の胎を出でざる先より、私はあなたの存在を知っていて、私はあなたを愛している。」という世界があるわけであります。今日申し上げたいことがあります。個人だけではなくて、国の使命というものもある、ということを申し上げたいのであります。

 先週イ・チソンさんの話をしました。大火傷(やけど)をして、人生が変わってしまいました。「火傷をする前の美しい顔に戻りたいですか?」という質問に対して、「いいえ、このままで結構です。」
 星野富弘さんを知らない方はいらっしゃらないでしょう。「ケガをする前に戻りたいですか?」「いいえ、このままで結構です。」確かに苦しんだんであります、悩んだんであります。けれども、「苦しみにあったことは私にとって良いことでした。私はそのことによって、神様の恵みの世界を知ることができました。」という、そういう世界があるということを、「生かされていることが初めてわかった」という。

 韓国に3日間だけおりましたけども(これで37回目の韓国旅行でありましたけれど)、私は行く度に、リバイバルの国・韓国の恵みを体験させていただく喜びを、いつも感ずる、外れたことは一度も無いのであります。焼肉は一度も食べられませんでした、忙しくて。でも、感謝でありました。苦労に比例して恵みの世界が開かれているという風に申し上げて宜しいのではないかと思います。
 39年前に私は生まれて初めて韓国を旅しました(大学生10人連れて)。国交回復40年と言われますが、39年前は道を歩く時にも日本人であることがばれたら、まあ、ボコボコに殴られる、日本語なんか聞きたくない、という時代でした。みじめな、汚い、乞食が溢れ、孤児(親を失った子供達)が町中に溢れていました。今はそうではありません。大変美しい、立派な国になっておることを、皆様もご存知だと思います。日本の終戦直後の様子と同じでありました。
 北朝鮮から命がけで脱出した人がたくさんおりました。申賢均(しん・けんきん)先生に言わせると、命懸けでありました。もし1時間遅れたら、もう全員だめだっただろう。若い20代の牧師が、大八車に荷物を乗せるかのごとくにして、教会員達を集めて北朝鮮から逃げて来る、というような現実がありました。イスラエルのエクソダス(「出エジプト記」)の経験というものを、彼らは民族大移動ということで経験したわけでありました。日本の国が36年間も植民地化したことによって、聖書の中のバビロン補囚と同じような経験をしました。苦しかったですけれども、その代わり、世界で最も聖書の世界を理解できる国として選ばれたと申し上げてよろしいでしょう。
 「お恵みなんかいらないから、あの苦しみだけは嫌だ」と言って歴史を元に戻すわけに行きませんけれども、「もう一度その苦しみを通過しますか?」と言ったら、全員が「NO!」と仰ると、そういう風に思いますけれども、その苦しみ、悩みのおかげで、祈りの国、宣教の国になりました。

 人生は本当に不思議なことであります。マイナスはプラスになるといつも申し上げますが、神の御旨と申し上げましょうか、神の摂理と申し上げましょうか。神の選びによる使命と申し上げましょうか。私達が今ここにいる存在、ここに生かされているということは、神様の深いご計画の中にあるということを改めて感じざるをえません。エレミヤ29の11、「私はあなたがたに対する計画を持って、私はあなたがたに対する青写真を持っている。私の御心は、私の御旨はあなたに苦しみを与え、災いを与えるためではない。私は目的のある人生を送らせるために、私はあなたを計画の中に置いた」という、そういう世界であります。
 個人だけではありません。家族も同じことであります。国家も同じであります。神の赦しの中に今存在していると、そう信ずる幸いを得ているのであります。1章の3節、ご一緒しましょう。1章の3節、

 「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神に感謝している。」(新約聖書・コロサイ人への手紙 1章3節・口語訳)

 アーメン。パウロは(原文のギリシャ語では)、この頭の部分に「私は感謝している」という言葉が入ります。「いつもあなたがたのことを考えて祈る時に、感謝で溢れるのです。」という、そういう内容であります。2節によれば、"あなたがた"というのは"聖徒"という風に訳されておるわけです。日本人はよくセイント(聖人)のように思いますが、"聖徒"はクリスチャンのことであります。世から選び出された存在、「あなたがたのことを考えると、いつも本当に感謝なんです。」
 コロサイの教会にも問題がありました。選ばれたとはいえ、上等な上品な人達ばかりではありません。悪いやつもおったでありましょう。ヘソ曲がりもおりましたでしょう。どうも気に入らないような存在もいたでしょう。人に迷惑をかけるような人達もいましたけれども、「私はあなたがたを聖徒と認めます。あなたがたのことを考えて祈る時に、私の内側に喜びが溢れるのです。」という、そういう内容であります。私は自分に戒めるようにして(2000年の5月に、この礼拝堂は献堂式をしたのでありますが)、献堂式の記念の聖会の時に、「神様、私は嬉しくてたまりません。ですから私にできる精一杯の献金をします。」と、(中身は申し上げることはできませんけれども)私にできる精一杯の献金を、各聖会ごとにこうやって封筒に入れて致しました。
 聖会が終わりましてから、問われました。戦いでありました。「お前は、もう感謝はそれでおしまいか?」─いいえ。正直申しまして、私は、この礼拝堂に入る度に、胸がいっぱいになるほど、幸せを覚える牧師でございます。今日も3枚の封筒に「新しい礼拝堂を感謝します。」と第1礼拝でお捧げしました。第2礼拝では、「2人の息子を用いてください。」と書きました。もちろん、お嫁さん、その新しい家族、それに対する祈願、誓願をいつも願って捧げ物をします。これが第3礼拝の献金でありますが、「主よ、愚かで弱い僕を助けて下さい。」と、この中にお金を入れて主の前に献金するということを、5年続けております。

 私は最近、自分の書斎でよく泣くことがあります。「老化現象かなあ?」って、自分で思うこともありますけれど、どうもそうではなくて、今まで鈍くて理解できなかった恵みの世界、聖書の世界、永遠の世界、霊的な世界が、こう毎週のように開かれると、ありがたくてありがたくて、本当に主の御前に感謝を捧げているものでございます。こんな愚かな弱い者を…日本一幸せな牧師であります。今日も1200人ぐらいの人達がこの礼拝に3回、4回の礼拝にお見えになりますが、インターネットで、そしてテレビで聴いておられる人達を合わせますと、何千、何万という人達が毎週この礼拝の恵みにあずかるわけであります。素晴らしい嫁さん達、その親戚が増えました。この立派な礼拝堂に入る度に感謝を捧げています。
 しかし、聞いてください。目に見える祝福に対する感謝は、今申し上げたようなことでありますが、目に見える祝福をたとえすべて失ったとしても、私が感謝をする心を持っていることを、神様は私のことをよく知っていていてくださいます。
 「あなたがたが私を選んだのではありません。私があなたがたを選びました。」それだけで、この言葉によって私は50年間、感謝を捧げててまいりました。少年時代、あまりにもひどい貧しさの中で、両親の気持ちが理解できなくて、ほんのひと時でありますけれど、家庭内暴力をしたことがございました。母親をいじめぬいておった時に、母親は私に対して、「やがて世界中に伝道して歩く、福音を伝える人になる」と、よく言ったもんだなあと思いますけれど、今振り返ってみると、そのように変えられていることを不思議に思います。

 3日前のことでありますが、韓国は、オンヌリ教会の大きな大きなキャンパスの中で、建物と建物の間に、こうピロティといいましょうか、広場がありまして、勉強して、「ちょっと外に出よう、外の空気に触れよう」と言って外に出て、私がブーラブラしておりますと、1人の男性が私に近づいて来て、私の周りをウロウロこう回ってですね、私の顔を見ると、「もしかすると、あなたは日本人ではありませんか?あなたはテレビで説教しておりますか?」ということを仰いました。私は韓国語でもなんとなくわかるものでありまして、びっくりしました。急いで通訳者をどっかで見つけて行きまして、そのお方とお話を致しましたら、これ(名刺)を見て、(韓国語で読めないんですけど…さっき書いていただいたんですが)、このお方は長老派のシンチョン教会の牧師様(モクサニム)で、南海郡という、田舎の田舎の田舎でありますが、ソン・ヨンギュン牧師先生が名刺を下さったのであります。私のメッセージが毎週(金曜日か土曜日か、日本でもキャッチできるそうですが)衛星を通して、アジア全体に流れているそうでありまして、その田舎で「私は毎週あなたのメッセージを聴いているんですよ」と言われました。本当に嬉しく、また驚きました。

 もう1人の出会いは、高見沢教授と言いまして、韓国にはTrinity Theological Seminary(トリニティ・セオロジカル・セミナリー)という神学大学院がございますが、その教授であります。
私が1974年、32歳の時にこう考えました。どうしても学生伝道したくて、役員さん達にお願いしました。「私の給料を半分カットしても構いませんから、私は月曜日から金曜日までお茶の水の学生会館に出向いて、朝の9時から夕方5時まで(サラリーマンのようですけれど、家内にもアルバイトしてもらいました)、学生伝道を一生懸命しようと思いまして、教団から(女性でしたけれど)伝道師、アシスタントを迎えて、しばらく過ごしたことがございました。金曜日の夜は「フライデーナイト」といって、夜の集会を担当しておりましたが、その時に来ておった大学生が、今博士号をアメリカで受けて、そしてこのオンヌリ教会の中にあります、あの有名なTrinity Theological Seminaryの教授をしておられるんであります。
 ああ、あの時代に、体を酷使しながら伝道に行ったけれど、神様にこんな実りを見せていただいて、ただただ主の御名を崇めました。選びの秘儀、従う者への祝福の豊かさを味わいました。愛する兄弟姉妹、神の御旨の中、選びの中、ご計画の中で生かされていることを感謝する者は、主に対して大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。本当に主よ、感謝しております。1章の4節、5節をご一緒に朗読したいと思います。1章の4節、5節でございます。ご一緒しましょう、はい。

 「これは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである。この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基くものであり、その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。」(新約聖書・コロサイ人への手紙 1章4〜5節・口語訳)

 アーメン。博報堂の生活総合研究所という、有名な日本の研究所がございますが、その研究発表であります。現代の若者は、愛情というものを数値化したがるという。今日の説教のタイトルですが、"愛Q"ということであります。「携帯電話の請求書がどのくらいの金額になっているかということで、愛情をはかる。」と、ね。「結婚をしようとする時に、指輪の値段によってその愛情をはかる。これを"愛Q"と言う。」というね。まあ、そういう研究でありますね。
 "愛Q"の次に"害Q"と書きましたが、これは私が作りました。自分の行動が、どのくらい他人に迷惑をかけ、心配させているか、というね。
 "宣Q"というのはですね、日本基督教団総会議長の山北宣久(のぶひさ)先生が"センキュー"と音読みできますので、いつもあのお方はふざけて、今回は特に寅キチでありますので、阪神タイガースが優勝したので、「センキュ−!!」と言いながら感謝献金をしているに違いありません。どのくらい伝道しているか、町の何パーセントにトラクト配布をしたか、それを数値化したら、それを"宣Q"と言えるでしょう。

 あなたの生涯の中で、どのくらいの時間を神様の栄光の為に使っているかということを数値化するなら、それも宣教の値として"宣Q"という風に言うことができるかと思います。「キリストに対する信仰の数値化」と言いましょうか、今朝早く起きて祈っておる時に開かれたのでありますが、イエス様はヨハネ福音書の2章で、水がぶどう酒に変えられるという奇跡物語の後で、こういう風に仰っておられる箇所があります。
 「多くの人々は、その行われるしるしを見て、イエスの名前を信じた。しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」─考えてみますと、不思議なことであります。"彼らは信じた"というんですけど、"イエスは信じない"と、こういう内容であります。言葉の意味を、新共同訳聖書では、イエス・キリストは「みんなはしるしや奇跡を見て信じたんだけど、彼らを信用されなかった。」と訳しました。尾山令仁先生の現代訳では、「多くの人々はイエスの行われた奇跡を見て、イエスを信じた。しかし、イエスは彼らの進行がうわべのものに過ぎないことを知っておられるので、彼らを信用されなかった。」─厳しいなあ。
 
 東京神学大学の学長をしておられました松永先生は、「何気ない、さり気ない言葉であるが、恐ろしい言葉である。イエス様の澄んだ目が、私達の心の奥深くまで見通しておられる。脳天から唐竹割りに切り下げられたように、己の正体を暴露され、主の前に立ちすくんでいる姿である。私は昔このメッセージをしたことがありますが、今朝私がここを開かれたのはそういうレベルではありませんで、どうして韓国にリバイバルが興って、他の国にリバイバルが興って、日本にリバイバルが興らないか─これは私の痛みでもあります。私達も信じているんですけど、神様は私達を信用されないで、魂をお任せにならない、お委ねにならない。あるでしょう、そういうことが。クリスチャンになって、確かに「信仰薄い者よ」、本気で神様に献身しているかどうかが問われるでしょう。

 しかし、今朝私が教えられたのはそうではありませんで、大人が幼稚園の子供に、小学校の子供達に大きな荷物を持たせることはございません。神様の"愛Q"と言いましょうか、愛を数字で表すかのごとくに、私達のこの国にリバイバルが興りませんのは、私達がだらしがないから、不信仰であるからという面がないわけでもありませんでしょうけれども、主イエス・キリスト様は日本の国をよくご存知で、私達の能力を、私達の力をよくご存知で、重たい荷物を担がせることをなさらないで、成長することを、円熟することをお待ちになられて(寂しい思いをしておりますけれど)、「さあ、その次は成長したかね、大人になったかね、福音宣教の為に立ち上がるかね」と仰るかのごとくに待っていらっしゃるんだ、という風に受けとめることができて、今朝大きな大きな力をいただいたのでございます。
 すべてのキリスト者の"愛Q"をはかります。今回オンヌリ教会は100点満点をつけたい感じでありましたが、ガラテヤ人への手紙の6章の10節には、「良い物を蒔きなさい。蒔いた物を刈り取ることになるから。」10節には、

 「だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙6章10節・口語訳)

 先週勉強したものばかりでございます。私達の教会も近い将来、成長して、乏しい教会、聖徒達を応援するものでありたいと思っております。この教会のエレベーターの近くに、こう大きな文字でですね、"We live to give,we love to give.(私達は人に与えることを喜んでおりますよ、愛しておりますよ、私は与えることに生きるんですよ)"という、私達の思いが書かれておりますが、まさにここでそれを見つけることができるわけであります。

 パウロ先生は、この短い4節と5節の中に何度も信仰と希望と愛という、パウロのメッセージの本質的なものを書いております。「この世の中で最も素晴らしいものは、信仰と希望と愛である。その中で最も大いなる物は愛である。」と第1コリント13章13節に書かれておりますが、この中にも信仰と愛とで望みに溢れている姿を見つけることができます。

 数週間前に私は山口県に行きまして、宇部の教会で特別集会をした後、山口市のザビエル記念礼拝堂を訪ねたことを、2度話しましたね。あれから私はカトリック研究と言いましょうか、ザビエル研究に打ち込んでおるのでありますが、ザビエルがあのように素晴らしいお仕事をした、ある意味においてカトリック教会における大スターでございますが、その背後に隠れておりますのは、イグナチオ・ロヨラという人物であります。
 この人物は優秀なお方でありましたけど、戦争で怪我を致しまして、重症でありました。まともに歩くことができない、足を引きずって歩むような人間になってしまいました。彼の夢は、王様に仕える騎士(ナイト)になりたいと準備をしておりましたが、そんな夢は砕かれて、吹っ飛んでしまいました。面白くなくて、退屈しのぎに『キリスト伝』と『聖人の華』を読んでおります時に、彼は捉えられて、キリストによって溶かされて、キリストを救い主として信じて生まれ変わるのであります。
 地上の王様に仕えないで、キリストという先ほどの賛美歌のように、王の王に仕える道を選びました。祈りの勇者となり、1日何時間でも祈る、その中でフランシスコ・ザビエルという青年を見つけました。「兄弟、人が全世界をもうけても、自分の命を失ったらなんの得になるか。兄弟、人が全世界をもうけても、自分の命を失ったら(死んだらという意味だけではありません)、本当の神が持っていらっしゃる神のご計画、それを失ったら、あなたは何の得になるか。」─ザビエルは心捉えられて、日本に伝道に来るようになったというお話、彼はウラカターズに徹した、陰の人に徹した、華やかな仕事はザビエルがしましたけれど、ロヨラは隠れておりました。

 オンヌリ教会の3000名のこの伝道者達、リーダーシップを求め勉強しに来た人達に仕える人達の姿は、本当に素晴らしいものでした。牧師のビジョンに応えて、お役に立ちたくて、寝ても覚めても「どうしたら主に喜ばれる人生が送れるか」ということを考えて生きている姿をそこで見て、本当に感動したのであります。イエス様に用いていただきたい、そう願う者はアーメンと言いましょう。アーメン。

 昨日読んでおった本でありますが、『CLAY(クレイ)』の11月号、カリフォルニアの伝道者のお話です。原稿を依頼されて、急いで書いてなかなか原稿が書けなくて、娘さんのクリスティーナが<思いやりの心賞>という賞をいただいて、その授賞式に出ることになっていたのですが、忘れてしまいました。
 奥様から電話があって、「あなた、どこにいるの〜?」車を飛ばして行くんですけど、もう間に合わない。「結婚記念日を忘れてもゆるしてくれるかもしれないけど、もうゆるされないような失敗をした」と、この男性は落ち込むわけです。奥さんに近づいて、「キャッシーごめん、本当にごめん。ゆるしてくれ」と言うと、奥さんは、「あなた、ラッキーよ!ビデオに撮ってあるから大丈夫よ」─明るい声で、でも自分はどん底に落ち込んだ、ということでありました。
 朝、娘と約束しました。「絶対に行くからね、お父さん。頑張れよ、絶対に見に行くからね!」と言ったクリスティーナに合わせる顔がない。しかし娘は飛びついて来てキスをしてくれました。お父さんが「ごめん!」と謝りますと、娘が言いました。「OK、お父さん、OK、大丈夫よ!」奥さんと一緒に事務所に行ってビデオを観ます。涙をこらえることが大変でした。
 原稿を書かなければいけない。締め切りを前にしているから、1人になって原稿を書いて夜遅く(深夜)戻り、忍び足でベッドルームに入りますと、奥さんも起きて、4歳の娘が(妹の方ですが)、このフェイスというのが目を覚ましてしまいました。そして(アメリカの女の子かわいいねえ)、私に飛びついて「パパ、パパは世界で一番 いいパパよ。」彼は言いました。「でも今日はねえ、世界で一番悪いパパだよ。お姉ちゃんの授賞式、忘れちゃったよ。」すると4歳の娘は、「でもね、お姉ちゃんはパパをゆるしていますよ。」─えっ?!4歳の娘から"ゆるす"という言葉を聞くことができるとは思いもしなかった。4歳の娘に質問しました。「"ゆるす"って、どういうことなの?」─フェイス(娘)が、「あのね、それは誰かが『ごめんなさい』って謝ったら、『いいのよ』って答えて、もう二度とそのことは考えないっていうことなの。」って(笑い)。

 イエス様が私達を赦すということは、まさにこれであります。韓国に行って、私は何回も土下座して謝罪をしたことを(今年もそういうことをしましたが)、今回はしませんでした。もう教会に"ゆるし"が溢れていました。日本人をゆるして最大級の愛と親切でもてなして、同じキリスト者として共に賛美してくれることは、感謝、感激でございました。もし「私達の教会に応援に来てくれ」と言ったら、本当に何百人でも何千人でもここに送り出して、町中トラクト配布をしてくださるでしょう。彼らは本気で日本人をゆるし、本気で私達を愛していてくださると信じられる。本当に嬉しいことでありますね。1章の6節をご一緒に朗読したいと思います。1章の6節、よろしゅうございますか?

 「そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである。」(新約聖書・コロサイ人への手紙 1章6節・口語訳) 

 アーメン。今日は『世界中で』という賛美をしていただきましたが、「ほんとうに理解したとき以来」と新改訳聖書に書かれています。「ほんとうにこの福音を理解したとき以来、あなたがたの間で見られる通り、すごい勢いで世界中に広げられています。」という訳であります。

 私は今回、たくさんの感動をもって勉強したことを皆さんにお伝えできることを嬉しく思いますが、その中で、大変すごい音楽家にお会いしました。お名前はソウ・キョング(Kyung Sohm)という女性のバイオリニストでいらっしゃいますが、スタンフォード大学を卒業して、エール大学の大学院で修士と博士(ドクター)号をお取りになった大変有名な音楽家で、数々の賞をお取りになった方でいらっしゃいますが、障害者の為にバイオリンを教えてチェロを教えて、(自閉症のお子さんてわかりますか?ノーベル賞の大江さんのお子さんの光君でわかりますか?)まさかと思っておりましたけど、光君が大変な音楽の才能を持ってるっていうことにお気づきになられて、本当に立派な音楽家として用いられておりますでしょう?─あれですよ。ああいう状況の姿を見ました。素晴らしい演奏を聴かせてもらいました。
 もう1つは、5人の盲人の若者達の合唱(1人ピアノ、1人ドラム)。3重唱、動きを取り入れた小さなミュージカルのようでありました。歌の内容を聞いてください。

 「♪私は財産はないけれど、ひとの持っていないものをいただいている/私は知識はないけれど、ひとの持っていないものをいただいている/私は健康はないけれど、ひとの持っていないものをいただいている/ひとが見ていないものを見/ひとが聞いていない声を聞いて/ひとが受けたことのない愛を持ち/ひとが悟らないことを悟らせていただいた/私達は ひとが持っているものは持っていないけれど/公平な神様は、ひとが持っていないものを持たせてくださいました/私には財産はないけれど/私には知識はないけれど/私には健康はないけれど/私はひとが持っていないものをいただいた/ひとが見えなかったものを見る/ひとが聞いていない主の声を聞き/ひとが味わったことのない愛をいただき/ひとが知らないことを悟らせていただいた/公平な神様が、ひとが持っていないものをくださいました♪」

 会衆みんな泣きましたよ。私達は通訳のイヤホーンでね(通訳者が泣いておるんでありますけど)、ああ、この人達の存在を通して、神の御名を崇めます。会衆はもう泣いているもんですから、演奏が終わりましても拍手が止まらない。主任牧師の河(ハ)牧師が、立ち上がって講壇に上がりました。コメントを述べました。
 エール大学でドクターを取ったこの超一流の音楽家が、超多忙な中で5年間も良く続けて下さいました。私は考えました。「福音の為に何でもする」という、ね。「福音の為に何でもする」というメッセージを今申しあげた時に、この原文の釈義はもう一つあって、「福音の為に何でもする」という思いがあってもできない人はたくさんいらっしゃるけれど、「福音"によって"、何でもする」という。
 福音とは一体なんであるか。天におられた御子イエス・キリストが、この地上に肉体を持って来られて、馬小屋で生まれて、私達の内側に住んでくださる。この甦られた、今も生きておられるイエス様が、この汚い罪人の中に住んでくださる─これはgood news(グッド・ニューズ)だ。この福音を持つならば、福音によってそれをすることができる、という世界を勉強したわけでございましたねえ。今年もいくつも開かれましたねえ。

 さあ、この福音は何であるか、整理します。

 第1番目、救いの恵みであります。神様に「ごめんなさい」と言うと、完全に赦してくださる神様であると先程申し上げました。
 加古川バプテストの牧師婦人の証がリバイバル新聞に載っております。両親の為に祈り続けてきましたが、仏教徒で、堅くて難しかった。不可能に見えた。クリスチャンになって20年祈っておったが、父親が70歳の時に突然危篤になった。車を走らせながら、「神様、助けてください。私の祈りをきいてください。私が病院に行く前に命を取らないでください。『神には不可能はない』と日曜学校で教えたばかりです。もし父親の命が取られて、天国に行けないような、地獄に行ってしまうようなことであったならば、私は子供達に『神には不可能なことはない』と言えなくなります。もう2度と日曜学校の教師はできなくなりますから助けてください」と談判するようにして祈ります。病院に着きますと、苦しみの中に呼吸が止まりそうであった(主人というのは梅谷牧師ですが)。「お父さん、イエス様を信じて、天国に行ける人になりましょうね。」お父さんが、なんと、うなずいた。『私の後について祈ってください』と言いますと、大きな声で全精力を振り絞るように祈ってくれた。『よかった、よかった。父は天国に行ける。』嬉しくて涙が止まりませんでした。」という証が載っておるんであります。
 今日、主イエス・キリストを救い主として、人生の主として心の王座に(中心に)お迎えしようと思う者は、アーメンと言いましょう。アーメン。

 第2番目、聖霊の力をいただくことができます。
 
 3番目、神様は私達の心、体をいやしてくださいます。

 4番目、祝福で満たしてくださいます。
 兄弟姉妹、私達は本当は恵みに囲まれているにもかかわらず、鈍いので、罪深いので、不信仰なので、本当はびっくりするような恵みの中に生きているにもかかわらず、感謝ができないのは、気がつかないから。悟ることが鈍いからであろうと思われます。

 第5番目、天国の喜びを先取りして生きるという世界であります。

 パンダ先生が、先週お亡くなりになりました。91歳、とうとう最後まで本名をわからないままで過ごしました。中国の大リバイバルを指導した器です。数年前に、牧田兄弟とそこを訪ねました。
 44歳で無期懲役、中国の厳しさであります。伝道者達が軒並み捕まりました。21年8ヶ月、黒竜省(こくりゅうしょう、シベリアの近く)、−30℃の水の中で強制労働させられました。クリスチャンをやめるなら、すぐに回復したのでありますが、1日9時間、そして思想改造学校に入れられました。もう60過ぎたから働けないから、20年間も洗脳したから、政府はあきらめて釈放してくれました。
 「どうして21年8ヶ月も生きられたんですか?」と質問をすることに対して、「1989年、自由時間が(刑務所の中で)ほんのちょっとだけありました。なんとそこにあの有名な王明道(おう・みょうどう、ワン・ミンタオ)牧師が、ちょっと離れたところにおられました。恩師、先生にお会いしたんだから、飛びついてひとときを過ごしたいと思ったけど、そんなこと許されない。そして、知らんぷりしながら、お互いが顔と顔とを合わせて、目と目を合わせて、王明道先生がしばらくの間じーっとご覧になられて、ちょっとだけ顔をお上げになった。これだけの仕草、これは無言のメッセージだった。『兄弟、つらいだろうけど、苦しいだろうけど、なお主を仰いでイエス様を仰いで生きるんですよ。』という、あの無言のメッセージをいただいたために、私は21年8ヶ月の間辛抱することができました。」と仰っておられました。
 釈放されて私達がその家に行きました時に、本当にいまどき珍しいほどの貧しいお家でした。だるまストーブがありありました。そこにお芋かなんかを焼いてくださいました。汚い、狭い家でした。奥さんが出て来られました。一緒に「日本からよく来てくださいました」って、もてなしてくださいました。忘れることのできない、主の霊的なシェキナー(栄光)と言いましょうか、臨在の中に身を置きました。
 もう急いで帰らなければ私達が捕まると(もうみんな盗聴器で録られていますから)、立ち上がって帰ろうとすると、「兄弟、慌てなくてよろしい。」「だって、先生が捕まったらどうなりますか。」「私は長い間刑務所に入っていましたから、大丈夫です。」と。「賛美歌を歌おう!」一緒になって賛美歌を歌い始めました。「♪ハレルヤ…」最初は小さな声で(だって、もし密告されたらアウトですから)「♪ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ」先生はだんだん大きな声になって、私達も(もう捕まってもいいや)と、一緒にハレルヤを賛美しました。天国の心地でした。
 あの偉大なる聖徒は、天に凱旋して行きました。91年の生涯を終えられました。やがて私達は、御国でお会いすることができるでしょう。福音に生きるとは、十字架にかけられ、愛を示され、死んで3日目に甦られたイエス様を見上げて生きることであります。イエス様にどこまでもお従いして行く。イエス・キリストを王の王、主の主として信じ従う者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。

 お祈りを致します。天のお父様、御名を崇めます。あなたがこの地上に来てくださって、生きることを知りました。私の目にはあなたは高価で尊い、私はあなたを愛しているという、具体的に私達の為に十字架にかかり、死んでくださいました。
 罪の無いお方が我らの身代わりになり、救いの道を開いてくださって、「私は道です、真(まこと)です、命です。私によらなければ、誰も父の御許(みもと)に行くことはできません。」と、福音を明らかにしてくださいました。信仰と希望と愛と、主がくださったこの恵みの中で生きられることのゆえに幸せを覚えます。
 知りませんでした、自分で勝手に好きな道を歩めば良いと思っておりましたが、神が私達に対する計画、使命、御旨、御心、そんなことを知るようになって、どうにかして主をお喜ばせ申し上げる人生を送りたいと願ってまいりました。力の無い、弱い愚かな者達でございますけど、私達を憐れみ、私達の家庭を顧み、この国を覚えていただきとうございます。経済を追いかけながら、エコノミック・アニマル(獣)と悪口を言われるような国でございます。国の政治家達を助け、教育者達を助け、日本のリーダー達に、知恵と力と神を畏れる心を授けたまえ。キリスト・イエスのお名前で、祝福してお祈りします。アーメン。

「今また涙を流して語る」大川従道牧師 2005年10月9日

 「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(新約聖書・ピリピ人への手紙3章17節〜21節・口語訳) 

(特別賛美 : エフェメール合唱団 『Duo Seraphim』)
 素晴らしいですね。もう一度感謝しましょう。ハレルヤ。ありがとうございました。エフェメールという言葉の意味は"ムラサキツユクサ"、フランス語であるそうであります。私の大好きな花の1つでもありますが、「つかの間の幸せ」という名前であるそうです。「歌は一瞬のうちに消え去っていき…」ということですが、言葉や音は消えますけれど、その内容は残るでありましょう。今日は私達にとってびっくりするような曲でした。イザヤ書の第6章に、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。」とこの天の使い、セラピムがですね、神の契約の箱に乗って声をかけ合っているというところを、賛美してくださったわけですね。いつか私、このメッセージしましょうね。そして皆さんがなおこれを深めてくださるようにということを願っているのであります。本当に感謝します。また後で1曲、今日はテレビ局の人がびっくりして聴いておられると思います。

 私達のこの教会の様子は、今インターネットで世界中に発信されているわけでありますが、今日私の言葉が同時通訳で英語で流れておりまして、英語圏の人達にもこれが届き、そしてまた私の語りますこの早口がですね、文章化されてインターネットに流れますので、これは、ろう者の方々にとりましても、大変素晴らしいことだと思います。また、韓国に行きますと、私の言葉が韓国語に訳されておりまして(自分で韓国語聴いているのもおかしなもんでありますけれども)、世界に向かってメッセージが届けられるということは、素晴らしいことだと思います。世界中の皆さんにご挨拶申し上げます。少し大きな声で、皆様おはようございます。

 私の最近書きました『バカの壁を超えるもの』という書物に、水間さんがインターネットで発見された個人のホームページでありますが(どなたか名前はよくわからないんですが)、「『バカの壁を超えるもの』という本を図書館から借りてきました。著者はどうも牧師らしい。聖書の解説が、笑える文章でまとめられています。この本の特徴は、客観性、そして公正な歴史観です。」なかなかのお方じゃございませんか、ねえ。

 もう1つ、『ハーザー』というお堅い雑誌がありますが、今月(11月号)の『ハーザー』の中で、書評が書かれておるのでありますが、これは大げさでユニークでありますね。
 「日本が誇る1000人教会、大和カルバリーチャペルの大川牧師の最新説教集である。大川牧師は、人生において笑いがとても大事なことを知っている人で、日夜ジョークを研究しているらしい。」(笑い)聖書を研究していますよ。
 「その成果はこの本にもイカンなく現れていて、たとえ空から核バクダンが降ってきたとしても、こんな教会で笑いながら昇天したいと思わせるユーモアに満ちている。」ちょっと大げさだと思いません?「昇天・召天・笑天」(字幕・笑い)で、昇る天、天に召される、笑いながら天に昇る、というんで、まだ続くんですよ。
 「また大川牧師は、義理人情の人である。私は、日本文化の最大の美徳は、義理人情に尽きると思う。この義理人情を無視して、日本の芸術、日本の伝統文化、歴史の正当性、文化適応を語ることは空しい。しかし、日本のキリスト教会が、圧倒的なアメリカの影響下にあるせいか、これをないがしろにしている牧師が増えている。大川牧師は、徹底的な義理人情によって、見事に日本への文化適応に成功し、1000人もの人々を集めているのではないかと思う。」─この評論家はねえ、自身の言いたいことをねえ、私を利用してねえ、もうどんどんしゃべってるんだって、そう思いますねえ。教会の名前を変えて「大和義理人情教会」にしたらですね、バレンタインの時に"義理チョコ"がいっぱい来るんじゃないかなと思います。もう少しあるんですよ。
 「伸び悩んでいるキリスト教会の牧師は多いと思うが、とりあえず、何も考えずに、大川牧師のマネをすれば、必ず成功する。」って(笑い)、ちょっとあぶない気がしますがね。
 私のマネをしても成功するかどうかは別問題といたしまして(失敗するかもしれませんが)、今日の聖書のテキストは、パウロ先生が「ぜひ自分のマネをしてほしい」という箇所であります。

 聖書を開きましょう。「ピリピ人への手紙」の3章の17節(聖書をお持ちでない方は、スクリーンに出ますのでそれをご覧いただけるとよろしいかと思います)。有名な箇所でもありますので、ご一緒に朗読してみましょうか?ピリピの3章の17節をご一緒しましょう(口語訳聖書)311ページの下の段、ハイ。

 「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。」(新約聖書・ピリピ人への手紙3章17節・口語訳)

  アーメン。何かのマネをしなさい、模範がありますよ、ということであります。生き方に関してだと思いますが、数節前の13節、14節をご覧いただきますと、

 「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 」(新約聖書・ピリピ人への手紙3章13〜14節・口語訳)

 「私に倣(なら)う者でありなさい」ということの意味は、「謙遜に、満足しないで、なお豊かな真理を求めて積極的に、前向きに前進するのですよ。」ということでありますならば、その意味は深いと思うのであります。

 「わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。」(新約聖書・ピリピ人への手紙3章18節・口語訳)

 A.D.61年、ローマの牢獄から(石牢でありますが、私そこに訪ねたことがありますが)、「ピリピ人への手紙」はヨーロッパにおける最初の教会でありますが、その教会に送られたそのお手紙であります。いてもたってもいられない、牢獄にいるのですから、お手紙に託して語りたいことがあります。他に方法がないので、偉そうに聞こえるかもしれませんけれども「私に倣う者になってください。」ということであります。

 「今また涙を流して語る」と表現されておりますが、一流の生き方をする人は三流、「一流は三流」という表現があります。
 第1、それは汗を流す。一流になる人は、労を惜しまない。
 2つめ、涙を流す愛情がある。
 3つめ、それは血を流す、犠牲を払うことをいとわない。
 「一流は三流である」ということは、そういうことであろうと思いますが、パウロ先生はそういう人物です。パウロ研究をしますと、歴史の中で最も強い男。どんな迫害、試練、拷問にも耐える人。大学者なんでありますけど、実践家でありました。神様以外何人も恐れない勇敢な人でありましたが、「涙を流す」というのは異常であります。「どうしても知っていただきたいことがある」という。説教とは、まさに今死なんとする者が、まさに死なんとする者の危機感の中で何を語るかという、そういう内容であろうかと思います。

 今回会衆の中にはお父さん、お母さんがたくさんいらっしゃいますね。お子さんがいらっしゃる人はお手を挙げてください。お子さんのいらっしゃる人はお手を挙げてください、というと、随分たくさんの人達がお手を挙げるのではないかなと、そういう風に思いますが、遺言に何をお語りになるか、考えたことがありますか?─遺産相談の問題ではないんですよ。その内容の問題について、これだけは知っていて欲しい、これだけは伝えていなければならないというようなものを持っていらっしゃるでしょうか。

 三浦綾子さんの『塩狩峠』という映画になった書物がございます。こんなに薄くて安くて買うことができるんですよ。これは新潮文庫でありますけど、この中で、例の永野信夫さんが鉄道の中に飛び込みます前に、その親御さんが子供達を座らせて、奥さんを座らせて遺言を述べる箇所があるんですよね、遺言書というのをね。
 「私は特別な遺言はないけれど、普段妻に対して語っていること、子供達に語っていること、妻の前でふるまったこと、行なったこと…これを遺言として受けとめなさい。」すごいねえ。「そういう自覚で生きてまいりました。」って書いてあるんですが、その中で、まあ、それでも「信夫は永野家の長男として母に孝養を尽し、妹を導き、よき家庭の柱となって欲しい。」─ずーっとこう書いてありましてね、最後のところに「父親の死によって経済的に困窮(こんきゅう)することがあるとしても、驚きあわてないこと。必要なものは神様が与えてくださると信じなさい。」と書いてるね。「私の葬式は、キリスト教式で行われたい。以上、このごろ時々疲れを甚(はなは)だしく覚えるので、万一の為に記して置く。」という風に書かれておるんですよねえ。これは、どうしても伝えたいものを普段から意識しながら子供に伝えていますよ。
 よく「子供には何も押しつけない」とか、「自由にのびのびとやってくれればいい、個性を生かして好きなことをやりなさい。」という親御さんがたくさんおられると思いますが、それはよく理解した立派なお父さん、お母さん、であろうかと思います。

 神様はね、人間をお作りになった時に、エデンの園でアダムとエバを前にしてね、「何をやっても自由ですよ、好きなことをやりなさい。何を食べても構いませんが、1つだけ守りなさい。それは、善悪を判断する木の実から食べてはいけない」ということが重要なポイントでありました。これは人類に対するメッセージでありまして、善と悪とを決定するのは神様の領域であって、神の領域に入り込んではいけない。神様を無視したら、善悪を決定する決定とその基準というのが失われます。
 私達の理性でようわからんでも、神様がしてはいけないということに対して、してはいけない。神様がやっちゃいけないということに対しては、やってはいけない。これは善悪を知る木の実、神の領域に入り込んではいけない。
 これは神様の遺言ではありませんけど、私達が覚えておかなければならない重要なことであろうかと、そう思うのであります。

 「今また涙を流して語りますよ、理屈抜きにダメなことはダメですよ、そういう世界があるんですよ。」─どこに証拠が?「聖書がそう言ってるでしょう、神様がそう言ってるでしょう!」という世界をわきまえるべきであろうと思います。神様の前に恐れを抱くこと、それを"敬虔さ"と言いますが、シュバイツァーという人物は、親と一緒に教会に行って賛美歌を歌ったり牧師の説教を聞いていたけれど、結局よく説教はわからなかった。でも、お父さんお母さんの姿をいつもこう横で見ながら、"敬虔(けいけん)さ"を学んだ。敬虔というのはね、あんまり使わない言葉ですけど、英語ではPiety(パイエティー)、Godliness(ガッドリネス)というね、神様を畏れ、敬う心はどこで持ちますか?アルバート・シュバイツァーは「聖への畏敬(いけい)」ということを言いましたが、それは「教会で聖書を学びながら、親御さんからそれを学んできたんだ、これは涙を流して伝えていかなければならないことだ。」という風に知っていただきたいと、そう思います。子供が親の背中を見て学ぶケースでありましょう。3章の18節行きますよ、3章の18節。

 「わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。」(新約聖書・ピリピ人への手紙3章18節・口語訳)

 19節をご一緒しましょう。

 「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。」(新約聖書・ピリピ人への手紙 3章19節・口語訳)

 ─ というようなね。パウロ先生は、「ダメだよ、そんな生き方をしては。最後は滅びですよ。」内容は、十字架に敵対して歩む者が多い、というんですよねえ。リビング・バイブルでは、「今までもしばしば注意してきたことでありますし、今また涙ながらに訴えたいのですが、クリスチャンとして歩みながら、実は、キリスト教の十字架に敵対している者が、大ぜいいるからです。彼らの行き着く先は、永遠の滅びです」。このことはクリスチャンであってもクリスチャンでなくても、十字架の意味がわかりますと、それに背中を向けるということはどんなに恐ろしい滅びにつながるかということがわかります。

 私がいつも申し上げる十字架の意味が3つありますねえ。
 1つは十字架の格好がプラスだから、人生におけるどんなマイナスもプラスになります。マイナスは必ずプラスになります、一緒に言いましょう、ハイ。「マイナスは必ずプラスになります」。これを否定し、これに敵対する人は1人もおりません。

 2つめ、それはイエス・キリストの十字架についてであります。イエス・キリストが私達罪の身代わりとなって十字架におかかり下さいました。どんな罪人でも、イエス・キリストが十字架の上で「父よ、彼らを赦(ゆる)してやってください。彼らは何をしているのかわからずにやっているんですから、赦してください。」という十字架の恵みを否定したら、彼らの最後は滅びであるというメッセージであります。ヨハネ3章16節(毎日毎週読んでおりますが、覚えてくださいね)、一緒に読みましょう、ハイ。

 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(新約聖書・ヨハネによる福音書3章16節・口語訳)

 イエス・キリスト様がこの地上にプレゼントされたのは、私達が地獄に行かない、滅びないで、永遠の命を得るためであるということが、明確に、キリスト教の中心的なメッセージとして語られていることを、心にお留めいただきたいのであります。

 三浦綾子さんの作品の中、『道ありき』という自伝がありますけれど(これをお読みになるといいですねえ)、その中で彼女がまだクリスチャンになります前に、堀田さんという、まあ、独身時代は堀田綾子さんといったんですけども、ご自分の家の隣に前川正さんという北大の医学部の秀才が(この人がクリスチャンだったんですよねえ)、この人が綾子さんを旭川の丘の上に連れて行って散歩するような、そういう場面があります。
 綾子さんはですねえ、結核を患っているにもかかわらず、煙草(たばこ)がやめられなくて、煙草にこう火をつけようとすると、もう前川正さんはいてもたってもいられなくて、まるで"今なお涙を流して語る"というようなことで、その地面に座り込んでですね、そこにある石ころをつかんで、自分の足をこう叩き続けたと、こう言うんですよ。綾子さんはこの異常な状況を見て、「正さん、いったい何が始まったの!?」と言うと、正さんは、「だって綾ちゃんがまじめに生きてくれないんだもん!『まじめに生きたって、ろくなことがない』なんて言うんだもん!僕の言葉の足りなさ、愛情の足りなさ─それでもう不甲斐(ふがい)なくて、どうしていいかわからないから、自分の足を叩いているんです。」、とね。
 三浦綾子さんは、自伝の中に書いてありますよね。「間違ってもいい。私を1人の女性として扱っているのではなくて、1人の人格ある人間として私を認めて、こんなに誠実に『こっち向いて欲しい!そんな生き方はやめて欲しい』と言っているこの姿に対して、私はこの人が信じているイエス・キリストを信じたい」という、感動的なところがありますよねえ。
 皆さんのために石で足を叩いてくれる人っておりますか?「涙を流してもう1度言うが」って自分の足ではなくて、あなたの足が叩かれたりして(笑い)、「まだわからないか!」とかなんとか言って(笑い)。イエス・キリストはそういうお方ではなくて、石でお体をお打ちになるのではなくて、十字架にかかられて血だらけになって釘打ちされて─知って欲しい。「今また涙を流して語るが」というのは、イエス様のお姿に描写される状況であろうかと思います。

 第3番目の十字架の意味は、イエス・キリスト様が私達の罪の重荷、人生の重荷を受けとめてくださったんですけども、今度は私達が自分の重荷を受けとめるという。マタイ第16章の26節が今スクリーンに出ますが(開ける人はお開きになったらいいと思いますが)、大変素晴らしいところです。ちょっと開きましょうね。今またここへ戻りますよ。マタイの16章、マタイは新約聖書の一番最初の箇所ですよね。16章の24節から─イエス様が「もう十字架の話をしてもいいだろう」なんて言うと、ペテロが「イエス様、そんなこと言っちゃダメですよ」ってね、お弟子さんからいさめられる、というね。「邪魔するな、サタンよ、引き下がれ!」、その後24節からね、ご一緒しましょうか?24から26までね。ハイ。

 「それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(新約聖書・マタイによる福音書 16章24〜26節・口語訳)

 アーメン。楽をするために私達の人生はあるわけではありません。よく知ってくださいね。この教会に素敵な文字で「すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。私はあなたを休ませてあげよう」。これはキリスト教の中心的なメッセージです。
 重荷を負うて苦労している者、つぶされそうになっている人、自分の十字架、自分の重荷、罪という荷物を担いでいたら、必ず人はつぶれます。必ず破れます。人間はそれに勝つことのできる人は1人もおりません。だからイエス様が「私のもとに来て休むがよい。」と仰ってくださったんですけれども、クリスチャンはそのように安息を得た後、楽をするために人生が与えられているのではありません。お年を召しておられても、ご病気の方でも、すべての人に使命があります。私達は天国に行きますと、もう楽の楽の楽の楽でございますけれども、この地上にあっては、今のところでお読みしたように、「私についてきたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を担いで私に従って来なさい。」これはもうすごいメッセージが、イエス・キリスト様のお口から吐かれたわけでございます。「これを否定したら、滅びますよ」ってね。「こういう生き方をしなさいよ」ってね。

 ドイツ語ではGabe(ガーベ;賜物)とaufgabe(アウフガーベ;課題)という言葉がありますが、神様からお恵み、贈り物をいただいたら、即、課題につながる。例えば声の良い方々が今日集まっていらっしゃるわけですけど、"歌を忘れたカナリア"じゃダメなわけですよねえ。与えられた賜物を生かす─それぞれが、持っている賜物を神の栄光のために用いるということが重要。すべての人に使命があります。これを発見できたら、どんなに重い十字架でも「これは私の担ぐべき十字架ですから、担がせてください。」─十字架無くば、冠なし。一緒に言いましょう、「十字架無くば、冠なし。」英語では"No cross,no crown(ノー・クロス、ノー・クラウン)."ハイ、「No cross,no crown..」
 これはもう子供達も、机の前に貼っておくんですよ。苦労しなければ、絶対良い修学は与えられることはないんです。あなたに独特に与えられる使命、十字架があることを自覚なさってください。

 私、大学が青山学院大学なんですけど、最初に教育を勉強したくて(もう牧師をやってたんですけど)、教育学部に入ったんでありますよ。で、学校の教師の免許を取るのに、初等教育原理という授業を受けたんであります。最後は英文科のお嬢様方、きらびやかな、と言いましょうか、青山のお嬢さん達がたくさんいる英文科の学生と、一緒に授業を受けましたんですよ。
 で、最後に木下マサヒサ先生という助教授でありました。素敵な先生でしたが、大きな200人くらい入る教室で、最後の授業をしました。「今日は、初等教育原理の最後の授業でありますが、私は授業をしません!」なんて言って、みんなびっくりして。黒板にですね、とても綺麗な字で"使命"とお書きになられて、お話を始めました。
 「諸君は、黙っていても家の跡取りになる、社長になれるようなお立場の人が多いでしょうが、私は何年も前に病気をしました。そして医者から見離されました。私は神様のことは知らなかったんですけど、ひざまずいて祈りました。『神様、もしあなたがいらっしゃるなら、僕を助けてください。僕に命を与えてください。僕がもし病気から解放されて元気になったら、私は世のため人のため、神様、あなたに喜ばれる人生を送りたいと思います。』」と祈ったんですって。奇跡が起こって病気が治った─という話を涙ながらに話すんですよ。
 私、大学5年も行っておりましたけどね、涙流して話した教授、初めてでしたよ。「今また涙を流して」って、よーく聞くと毎年この授業では、授業の最後はご自分のお証をして(体験を話して)、「諸君、諸君には使命があることを知ってください。人間にはすべて、命をかけてあなたの命を使う使命があるということを、あなたはそういう生き方をして欲しいんだ、楽をするために人生があるんじゃないっていうことを知ってください。」って、涙を流して語るそうですよ。私も一生あの状況(もう学生たちもみんなもらい泣きをしてるんですけど)、うなずきながらその話を伺った次第でございます。

 パウロは、牢獄の中にいて殺される可能性もあったにもかかわらず、「今また涙を流して語る。さあ、十字架を担ぐ意味を知りなさい」。イエス様はご自分の担うべき使命を果たされて、逃げることができたのに逃げないで十字架におかかりになりました、全世界の救いのために。パウロは「私に倣う者になれ!」と言いましたが、やがて殉教をして死んでいくのであります。私達も喜んで自分の十字架を自覚して、担ぐべきであろうと思います。

 昨日この教会で結婚式がありました。今週もあるんですよ。ねえ。結婚式では第1コリントの13章「愛は寛容にして慈悲あり」という、有名な"愛の賛歌"を読みますでしょう?あの最後はですねえ、愛というものは「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛は永遠である。」という風にお読みするんですが、インスピレーションが与えられて、昨日はこの若い夫婦、新婚さんに対してねえ、私メッセージしたんです。
 「いいですか、あなた方は今日読んだ聖書の御言葉のように、どんなことがあっても、健やかなる時も病める時も、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍び、すべてを耐えるんですよ。今耐え難いことが起こってキレちゃう人がたくさんいますけれど、もしあなたが聖書の御言葉、神の言葉のように生きたら、神様が必ずご褒美を下さるからね、期待しなさい。神様のご褒美は素晴らしいから!どんなことがあっても結婚生活、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐えるんですよ。お願いします。」─そういう説教をしました。神様からご褒美をいただけなければ、私が与えましょう。しかし必ず神様はご褒美を下さるというメッセージをお取次ぎ申し上げたわけでございました。

 私達の教会に、イ・チソンさんという方が、12月25日アメリカ、ボストンからいらっしゃいます。
 これを読んだ人はたくさんいらっしゃるでしょう。韓国の空前の大ベストセラー『チソン、愛してるよ』というね。
梨花大学というのはお嬢様学校というかエリート学校ですが、4年生の時に交通事故に遭いまして、車が燃えました(おっかないですね、ガソリンがもれて燃え上がりました)。中にお兄さんが運転していたんですが、妹は中で燃えてしまいました。引きずり出したんですけども火だるまということで、大火傷(やけど)もいいところでありまして、皮膚上55%アウト、生存できない。車は爆発しました。で、このお嬢様は7ヶ月間病院で手術を致しました。「十数回にわたる手術。身の毛もよだつ苦痛に満ちた治療が連続されて、親指以外は8本の指全部切断せざるをえませんでした(よく耐えたと思いますねえ)」。
 CDのケースに映る自分の姿にびっくりしました(写真見るとねえ、とっても綺麗なお嬢さん)。突然、(ちょっと失礼ですけど)ともかく火だるまになって、どんなに美容整形しても話にならないお顔になってしまったんですよね。この人物、もう生きられないでしょう?ねえ。彼女の顔を見た子供達は、びっくりして逃げる。「こんなになって死なずに生きられるのか!」と言う人がいたり、「オバケ!」という、心無い、デリカシーのかけらもない人によって笑われる─深い傷を受けます。お兄さんの愛と両親の愛によって、支えられる。かろうじて生きる。教会に行きます。教会で十字架のメッセージを聞きます。
 ねえ、みなさん、十字架は人を生かすでしょう?イエス様がみにくいお姿になって血だらけになってムチ打たれて釘打ちされて、「父よ、彼らを赦してやって下さい。何をしているかわからないからやっているんですから。」
 この十字架のイエス様に触れて、彼女は新しく生きる力が与えられました。センセーションというか、ニュースが世界中に散りましたよ。ある人が質問しました。「火傷をする前に戻りたいですか?」と言ったら「いいえ、これで結構です。」
 星野富弘さんに「ケガをする前に戻りたいですか?」「いや、これで充分です。」何かをつかんだんでしょう?
「ある日、顔を鏡に映して、見慣れぬ自分に手を振って挨拶した。『こんにちは、イ・チソン!』鏡の中の新しいチソンも挨拶を返しました。『チソン、愛してるわよ!』と。荒野で主の恵みを得た、と言いますが、チソンさんは3つの十字架の意味を受けとめました。
 1つは何でしたか?マイナスは必ずプラスになる。彼女の生き方が変わりました。今、ボストンに留学をしてこの専門の勉強をして、傷ついた人のために生きようと思っていらっしゃいますよ。
 2つめ、イエス様の十字架の恵みによって救われました。
 3つめ、自分が担ぐべき、逃げてはいけない十字架を発見して、それを喜んで「これは十字架。私はこの十字架を担いで行くんだ」ということであります。

 整理をします。聖書が教える神の恵みをどう受けとめるか。

 第1番目、イエス・キリストによって、永遠の救いにあずかることができます。誰でも「イエス様、ごめんなさい」とお詫びする者は、罪赦され、神の子とされ、永遠の命をいただくことができます。良いことを積み上げて、たくさんの献金をして、聖書を充分に読んで─そうではありません。信ずるだけで、今、救いの恵みにあずかることができます。

 先週、私は山口県に伺って、宇部神召教会で特別講演をしたわけですが、その教会の牧師は(若い牧師夫婦なんですけど)、面白い人でして、お名前がまた珍しいんですが"善徳(ぜんとく)"というんですよ。で、もう青年時代は"善徳"と全く違う生き方で、悪徳の仕事、生き方をして─もうどうしようもない、学校も嫌い。そして朝から晩までパチンコ屋に入りこんで、プータローをしておったというね。
 そういう男でありましたが、ある日家出をした、夜逃げをしたそうですが(ボストンバッグ1つで逃げたそうですが)、ボストンバッグを開いてみたら、その中に中学時代にもらったラブレターが入っていたんですって。14年間持って歩いていたんですって。だから、生涯1通しかもらえなかったのね、この人ね(笑い)。で、それを大切に(もうボロボロだけど)、大切にしておって、それが出て来たんですが、お電話をしたくなって電話をしたんですって。
 (名古屋にいるそうですけど)名古屋に電話をして、「僕は行き詰まって、生きる力を失った。」と言ったら、その女の子クリスチャンで、牧師の娘だったんですって。で、「うちにいらっしゃいよ」ということで、彼は彼女のところに14年ぶりに行ったわけですよ!感動の面会をしたわけですよね。
 教会に行くようになりまして、自分の内側が探られて、キリストに接ぎ木されるかのごとくに「古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しい。」─彼は生まれ変わったんですよ。そして生まれ変わったら、もう、自分の生き方が変えられて、「私は神学校に入って伝道者になります」と言って、今立派な牧師をしていらっしゃるんですよ。先週お話しましたねえ、後の部分もねえ。
 イエス・キリストによって、イエス・キリストを罪からの救い主、人生の主として心の中心にお迎えする者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。

 第2番目、聖霊の力をいただいて、私達は不思議なエネルギーで満たされます。

 3番目、神様は私達の心と体をいやしてくださいます。

 先週、2通お手紙をいただきましたよ。
 1つはね、「臭覚が戻りました。」─臭覚が無くなっちゃったんですって。お料理も、お花も嗅げないというのは寂しいですよねえ。「いやされました」とお手紙いただきましたよ。
 2つめはねえ、目のいやし。
 これは先週お話したんですけど、この人ねえ、私がねえ、「ちゃんと医者に行ってくるんですよ!」─主観だけじゃいけないからねえ。「目がいやされました。」今まで近所の周りの人もみんなジャガイモに見えたそうでありますけど、もう遠くまで文字も読めるし、色々ね。
 でね、医者に行ってねえ、このカルテをもらってきたんですよ。ね。3枚もらってきたんですけど、すごいカルテですよね。僕ねえ、眼科のカルテ読めないんですよ。これ、なんだかようわからんですけれど、専門─これわかる人、どうぞご覧になったらいいと思いますね。お医者さんはねえ、これを見ながらねえ、「どうして治っちゃったのかなあ?」って言ったら、その人ね、「イエス様によっていやされたんです!」って言ってねえ。「そんなバカなことがあるか!」みたいな感じでねえ。「これじゃ学会で発表できない!」(笑い)と言ってねえ。学会で発表するのも難しいそうですよね。<どうして治ったか、この難しい病気が。キリストはいやし主>─なんていうわけで(笑い)、そうは学会はいかないということでね。本人はガッカリ(笑い)しておるそうですけど。テレビの画面が見えるようになりました。蚊が飛んでいるのが見えるようになりました(笑い)。すごいですねえ。主の御名を崇めます。

 第4番目、神様は私達の人生を祝福で満たしてくださいます。神様との出会いと、教会における人々との出会い─こんな幸せなことはありませんでしょう。毎日そう告白していらっしゃいますか?「私は幸せです」と環境に支配されないで宣言し続けるんですよ。朝起きた時、夜休む時、1日中「本当に幸せです!」ねえ。ヘレン・ケラーはそう言いましたよ。"I am so happy!"三重苦でありますけど、ねえ。"I am so happy in Christ."、一緒に言いましょう、ハイ、「I am so happy in Christ」。キリストにあって本当に私は幸せです。四六時中言ったらいいんですよ。サタンは入り込むことができなくなるでしょう。

 第5番目、死ぬことを恐れない天国の喜びをもって先取りして生きる。
 最後の話ですよ。ピリピ3章に戻りましょう。一緒に読みましょう。20節と21節をお読みしたいと思います。(スクリーンに出ておりますけれど)ピリピ3章20節、有名な箇所ですねえ。ご一緒しましょう、ハイ。

 「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(新約聖書・ピリピ人への手紙3章20〜21節・口語訳)

 アーメン。「わたしたちの卑しいからだ」っていうのはねえ、すぐ病気しちゃうというねえ。齢をとると、しわくちゃになっちゃう、歯が抜けてしまう、髪の毛も抜けてしまう、卑しいからだ、病弱なからだ、罪をすぐに犯してしまう─そういうからだがご自身、キリストの栄光のからだと同じ形に変えてくださるであろう─聖書って、すごいことが書いてありますねえ。これをglorify(グローリファイ)と言いますよ。"栄化される"というんでありますよ。
やがて私達は、このイ・チソンさんのように、火だるまになって顔中移植の連続で、まあ元の皮膚が無くなってしまったようなお顔であってもお体であったとしても、どう変わるでしょうねえ、元に戻るんですか?いいえ、栄光の姿に変えられる、というんですよ。栄光の姿に変えられる、というんですよ!
私達に与えられた永遠の祝福であります。この20節に、「私達の国籍は天にある。」ね。人間は死にますと国籍を失いますけど、天国を夢見て生きることができるわけですね。

 横浜鴨居のカルバリーチャペルにお墓ができまして、お墓のためのオープンの祝福の祈りを木曜日にしてまいりました。素敵なお墓ができましたよ!そこにねえ、「私達の国籍は天にあり」って書いてあるんですよ。中を開けてもらったんですけど、空っぽでしたよ。ゆっくり入れますよねえ、あれはねえ。一晩泊めてもらえるぐらいのお墓でしたねえ。
 天国が国籍であるという、ねえ。いろんな国の人が見えていらっしゃいますが、最終的にあなたの国籍は天にあり。私達の国籍は天にある。一緒に言いましょう、「私達の国籍は天にある」。

 私が今回山口県に行って、時間を取って津和野を訪ねたことを先週話しましたが、その資料の中に長崎の大浦天主堂の後、3500人ぐらいのキリシタンが隠れていて、どうして牧師も神父もいないのに、集会もできないのに信仰を保つことができたか─すごいですよねえ。歴史的に、こういうことは珍しいそうですねえ。
 当時の政府が頭にきてですね、3500人を散り散りバラバラに分けて、150人を津和野に移したっていう話をしましたね?で、津和野で乙女峠の1番上の辺りで、だいたい殺されたっていう話をしたでしょ?旅行で行ったことのある方いらっしゃるでしょう?
 
 で、その話が書いてありましてですねえ、もうどうしてもムチ当てても"ころばない"、すなわち信仰を捨てようとしないんで、14歳(中高生よ)のユウジロウって少年が捕まってねえ(長崎からわざわざ山口まで来た坊やですよ)、これを捕まえて裸にしてね、ムチ打つんですけどね、「イエス様をすてない!」と言うんですよ。それでですねえ、褌(ふんどし)一丁で十字架につけられるんですよ、裸にさせられて。で、近所の人達からバカにされたりつばきをかけられて槍で突かれたりなんかするんですけど、「イエス様をすてない!」って言うんですよねえ。
 そしてねえ、十字架から降ろしてねえ、当時の亀井藩主、モリオカというのがですね、「ムチ打て!」といってですね、ひどい拷問に充てるんですよ。そうすると14歳のユウジロウ君ねえ、悲鳴をあげるんですよ。「ギャー」とか「キャー」とか上げるんでしょうねえ、しょうがないよねえ。それでもイエス様を捨てないんですよ。
 途中からね、彼は変えられるんですよ。「これじゃあ死んじゃう」と言ってね、その藩主は彼を家族に戻すんですが、やがてこの人は飢えと、まあこの打たれたゆえに殉教する(死んでしまう)─14歳の坊やが死んじゃうんですけど、家に戻った時にね、お姉ちゃんにこう言うんですよ。「おねえちゃん、ごめん!叫んだりして。僕は叫びたくなかったんだけど、本当につらくて叫んじゃった。」と言ったらね、お姉ちゃんがこう言うんですよ。「私だって同じだから大丈夫よ、心配しないで。」って。
 「でも、どうして耐えられたの?」って言ったらね、このユウジロウ君、こう言うんですよ。「僕ね、ムチ打たれてた時にパッと顔を向けたらねえ、屋根の上にねえ、子スズメがねえ、鳴いてた」っていうんですよ。「あ、スズメも鳴くんだなあ」、と思ったって。そしたらね、母親鳥がプーッとやって来てね、餌をこの赤ちゃんというか子供の、その鳴いている口の中にね、入れたっていうんですよ。で、「私はその時、思った。」って。「スズメだって親がいて助けてくれるんだから、私だって天のお父様が助けて養ってくださるに違いない、と思えた。」っていうんですよ。そして「やがて私は天国に導かれるんだということを意識してから、泣かなかったんですよ。」という─泣けますよね。

 十字架の意味を深く、永遠のスパンでものを考える生き方、それがクリスチャン。「私達の国籍は天にあり」。この地上にあっては、全力を注いで、自分を捨て自分の十字架を担いでイエス様に従って行く輝きを与えていただきたいと思います。イエス様を心から愛しお従いする者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。

 お祈りを致します。天のお父様、もったいなくもかしこくも、やがて私達は栄光の主のお迎えの時にこの地上で苦労をして、胃を取ったり、あっちを手術してこっちを手術して、また病弱でたくさんの苦しみや困難を経て来た人も、やがて栄光の姿に変えられるという。主よ、イエス様のお姿を見上げて心から感謝し、御名を崇めます。
 地上にあってどうしてかと思えるほど次々に問題が起こりますけれど、どんな環境、どんな状況の中にあっても、また、愛が奪われ、愛が壊され、また私達は失望し絶望するような時にあっても、すべてをキリストにあって忍び、すべてをキリストにあって信じ、すべてをキリストにあって望み、すべてをキリストにあって耐える人生でありますように。
 ある時は恐れることなく大胆に世の光と

「成長と整腸」大川従道師 2005年10月2日

 「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。」(新約聖書・エペソ人への手紙4章11〜16節・口語訳)

 ホルンもピアノも素晴らしい演奏をいただいて、私達は恵みを受けました。解説が音だけでありますと分かりませんことが、スクリーンを観ながら「ああ、そういうことであるか!」ということで、演奏家のお気持ちも理解できて、大きな恵みをいただいて心から感謝でございます。今日はじめての方も、何人もお見受けします。今日は水木先生もご夫妻でお見え下さって、ご一緒に礼拝を守ることを許されて、本当に感謝であります。少し大きな声で朝のご挨拶をしましょう。皆さん、おはようございます。

 今日は、10月の最初の日曜日ですが、誕生祝福のお祈りをしたいと思います。10月生まれの方(今日初めての方も含めて)、洗礼記念日の方、そして結婚記念日の方。いらっしゃいましたら、お立ち下さいますか?ひとことお祈りをさせてください。この教会は1500人くらいのメンバーがいますが、10月生まれが1番多くてですね、今週だけでも私、誕生日カードを40枚も書きましたよ、今週だけで。10月5日だけでね、15名いましたよ。すごい。10月生まれの人、本当にご苦労様でございます。激しい競争に耐えて来られた方々でごさいますけれど。お祈りします。アーメン(2階にも沢山いらっしゃいます、ハレルヤ)。
 恵み深い天のお父様、主の御名を崇めます。もしあなたの恵みを知りませんでしたら、いたずらに齢を重ねるだけでしたが、今はそうではありません。本当に恵まれて感謝して生かされているということを自覚して前進する時になりました。立っておられる方々の中には、泣いてばかりいた人、そして苦しい中でもがきながら、光を見出せないトンネルを通過なさった人。でも、今こうやって礼拝で一緒に主を賛美しております。本当に感謝します。演奏されたように、ロシアの冬のように厳しい試練の中を通過しておられる方も、やがて春が来ること、そしてどんなマイナスもプラスに変えられること、信仰を持って前進できますように。ある時には世の光として、大胆に輝くことが出来ますように。ある時は己を隠し、血の塩として味のある人生を送ることができますように。愛が壊される時代ですが、心を尽くして神を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、主に喜ばれる生活を送ることができますように。健康を強め、このお立ちの兄弟姉妹達に何か素晴らしいプレゼントをさしあげてください。お願いします。明るく元気でのびのびとお過ごしなされますように、主イエス・キリストのお名前で祝福してお祈りします。アーメン。
 
♪God Bless You ハレルヤ God Bless You ハレルヤ God Bless You ハレルヤ God Bless You ハレルヤ♪"God Bless You!" 

 お立ちの方に、後で集会の後で近づいてご挨拶してあげてください。
 この度は、阪神タイガース優勝おめでとうございます。─誰ですか、拍手したのは、もう。まあそれでもトラキチさんが何人もこの教会におられてですねえ、4月の頃から優勝を先取りして感謝献金しているのがおりましてですね(笑い)、まあ、その人にとってはどんな喜びであろうかと思います。
 昨日はアカペラコンサートがもう大成功でありまして、皆様がお祈りくださったこと、本当にご協力くださったことに対して、深くお祈り申し上げたいと思います。

 先週は、私の山口県宇部神召教会における特別集会のためにお祈りいただきまして、本当に感謝です。素晴らしい集会でした。今日フルートを吹いてくださった華子さんのご家族は、私の特別集会の前に、わざわざと言ってもいいくらい山口に(宇部に)引っ越して来られてですね、本当に感謝なご家族で、お交わりをすることが許されて、本当に感謝でございました。20周年記念ということで、私が講師で呼ばれて行ったわけですが、10数年前にそこを訪ねたことがありまして、その時には、街の様子がそんなにきれいな街とは思えない、そういう街でありましたが、今回は電柱も電線も全部地面の中に入っておりまして、とても綺麗な街に変えられておりました。私は2つのことを心配しました。「スズメが来たらどこに止まるのかなあ?」(笑い)というのと、もう1つの心配は「犬が散歩した時に、どこで(笑い)やるのかなあ?」という、えらい心配しました。
 昨日は国勢調査でありました。日本における大切なお仕事でありますが、今までは考えられませんでした。今朝の新聞によりますと、協力的でない人が日本でも出てきたそうでありますね。ヨーロッパでも、そうだそうであります。これはジョークでありますが、アイルランドっていうのは非常にケッチいお方がいらっしゃって、「国勢調査なんか協力するかい!」っていうような人がおるそうでありまして、どういう風にしたかというと、道路でお金を(コインを)ですね、ジャリーンと流しますと、みんな引っ込んでいた人が出てきてですね、その時に数えるんだという、まあそういうジョークがありました(笑い)。失礼なジョークでありますけど、「国籍は何ですか?」という箇所があったと思いますが、「国籍は天にあり」なんてシャレたことを書いた人はいないでしょうね(笑い)。私達の国籍が天にあるということを一緒に喜びたいと思います。

 さあ、聖書です。エペソ人への手紙の第4章(祝大から皆さんにおすすめを申し上げます)の1節からお読みいたしますが、3節までご一緒したいと思います。エペソ人への手紙、AD61年、パウロ先生がローマの獄中から書いたと言われる、まあすごい手紙であります。だから、獄中書簡という風に言われるものであります。4章の1節からご一緒しましょう、3節まで。

 「さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」(新約聖書・エペソ人への手紙 4章1〜3節・口語訳)

 アーメン。まさに聖書、という内容であります。「召しにふさわしく」と1節に書かれてありますが、新共同訳聖書は「招きにふさわしく」「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい。」─英語の聖書のほとんどは、この召しとか招きをcall(コール)、calling(コーリング)という風に訳しておるのでありますが、榎本保郎(やすろう)先生は、その書物の中で「信仰というのは"賭け"のようなものである、と言いますが」と書いてありまして、パスカルという人物が「信ずること、洗礼を受けることは"賭け"みたいなもので、この"賭け"は決して外れることがない」というようなことを言っておりますが、榎本保郎先生は、この私達が"信仰"とか"神様"に賭ける前に、神様が私達に賭けておられる。神が私達を信頼して、招いて、選んでくださっておる。ちょうどそれは競馬馬のように(って、よく競馬が出てきたと思いますが)、やせ馬と言いましょうか、まあ、つやの無い、情けないような貧相なその馬に賭けるようなものである。私達はその賭けに応ずる人生でありたい。大川流に申し上げますれば、「欠けだらけの私たちに賭けてくださった"神の賭け"は、絶対に外れない」、と言いたいところであります。1節と2節をお読みして驚いたことは、神様の選びや召しの信仰が分かれば、私達の内側に変化が起こる、ということであります。
 2節に「できるかぎり謙虚で」。私はもう、パウロ先生が大好きであります。ロマ書で勉強した時には、「できる限り平和で」って書いてありましたねえ。パウロはパーフェクトな人なんですけど、私達にお手紙を書きます時には「できないこともあるでしょう?でも、できる限り謙虚に過ごすんですよ。」というね。かつ「柔和であり、できる限り寛容であり、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい」、という。

 一致をするっていうのは難しいことで、必ずしも一致をしなくてもよい世界もあります。違いの分かる男っていうのは、コーヒーの問題だけではありませんで、教会にはいろんな方々がお見えになりますが、そう書いてあるんでありますよ。夫婦の間が一つになれますか?親子が一つになれますか?─なれないものはなれない。それぞれが個性を持っているからでしょう?でも、一致するんですよ、聖霊様によって。聖霊によってということはね、聖霊様に主導権を渡すということなんでありますよ。"聖霊に満たされる"ということは、聖霊様に支配権を委ねるということなんですよ。そのことがどんなに素晴らしいことにつながるかということを、ここで見ることができるわけであります。
 聖霊なる神様を畏れ、助けていただかなければ、こんなことできるはずはありません。私達の教会に委ねられたメッセージの1つに、聖霊様をご人格(ペルソナ)として、お認め申し上げる、というのがありますね。聖霊がここにいらっしゃること、我が内にいてくださること、家庭にいてくださることを認め、感謝し、委ね、歓迎する人は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。これは人生をどんなに変えて下さるかわからない、そういうメッセージであります。

 宇部の教会に行きましたら、若い牧師先生で、ご夫妻は赤ちゃん、お子さんのいらっしゃらないご家庭で、ちょうど1年前の9月24日に生まれた赤ちゃんを養女としてお迎えになられたそうであります。事情がありなさってのことでしょう。「小さな命を守る会」の辻岡先生が来られて、そして12日目でありますかね、教会で「親子対面式」というのをしたそうであります。生まれてきた赤ちゃんは(意識は弱いでありましょうけれど)、歓迎されないでこの地上に生まれて来たということは、寂しいことであろうと思いますよね。生まれてお母さんのお腹に命が与えられた時に、喜ぶことができなかったんでしょうかねえ。できたら生まれなかったほうがいいのに…と、お母さんは思ったかもしれませんよねえ。複雑な事情の中で養女をお迎えになったんですが、かわいいことかわいいこと、もうメチャクチャかわいい。うちの孫の次にかわいいような(笑い)、すっごいかわいい赤ちゃんでした。
 "我が家"と言ってはなんでごさいますけれども、9月9日生まれですから、ちょうどこのお嬢さんと(優実・ゆうみちゃんというんですけど)同じ学年、同じ月に生まれたわけですが、うちなんかすごいですよ。お嫁さんのお腹に命が与えられたといったら、もう大騒ぎですよ。十月十日(とつきとおか)、大騒ぎの毎日ですよ。今はどうしているか、食べ物はどうしているか、太り過ぎないか、痩せ過ぎないか、ケガをしないか、風邪をひかないか、もうこの生まれるまでの励ましというものは大変なものでございますよ。そして緊急入院を致しましたら(私だって産院に駆けつけたみたいなもんでありますがねえ)、あの産院のガラス張りの中に赤ちゃんがずーっと並んでいるんですけども、どれを見ても赤ちゃんでございますが、この赤ちゃんを見ながら、もう「やっぱりうちのが一番いいもんだなあ」(笑い)っていうようなことを思っているわけでございますよねえ。「ああ、動いた!」「ああ、ニヤッとした!」「あ、あくびをした!」とかですねえ、もう赤ちゃんをだっこしてからもですねえ、すごいもんでございますよねえ。毎日変化が起こりますから。もうすごい喜びでだっこして、そしてあやしてですねえ、オシッコをしても喜ぶし、ウンチをしても喜ぶし、赤ちゃんのくせにオナラをしたりなんかすると「したわよ!」とかいって大騒ぎをしたりですね、そういう風にして大歓迎されて、子供は育つものでありますが、この優実ちゃんは、お母さんのお腹の中にあたえられた時から、歓迎されないままこの地上に来たのでございましょうかねえ。
 「マイナスはプラスになる」と言いますが、親が育てられなかったからこそ、牧師にもらわれてきたという、9月24日から10月6日まではどんな状況だったんでしょうか。かわいそうのようでありますが、親に見放されたような存在でありますけど、神様がくださった素晴らしい恵みであると思います。やがて自分の存在がわかる時が来るでしょう。牧師の家にコーリングされた(召し抱えられた、招かれた、選ばれた)ということ、見捨てられても、見放されても、抹殺されても文句の言えない小さな存在が、命懸けで愛し、見守り、育ててくださる人が与えられた。長じてその愛に感じた時に(この1節にあるように)、召されたその召しにふさわしく歩むということ、選びに対して、招きに対して応える歩みというものが始まるのであると思います。

 私は13歳になるまで、人生の意味がわかりませんでした。「勝手に親は歩みやがって」、と思っておりました。何のために勉強しなければならないのかわかりませんでした。13歳の11月6日にイエス・キリストによって選び出された存在。招かれた存在。召し出された存在だということが分かった時に、今でもその日の朝のことを忘れることができません。涙を流して罪を悔い改め、神のご愛にほだされて、私は献身の道を歩む決心をしました。あれから50年、私は少しでも神様の召しにふさわしく歩み続けていきたい、と願ってまいりました。
 兄弟姉妹、自覚をなさってらっしゃいますか?勝手に歩んで洗礼を受けちゃった、というレベルではありません。あなたを主がコール(call)して、コーリング(calling)を与えて、召しを、招きを、選びを与えて、そのご愛にどう応えるかというのが私達の人生であります。アーメンでしょうか。4節からお読みします。

 「からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。」(新約聖書・エペソ人への手紙 4章4〜7節・口語訳)

 「召しにふさわしく生きる」ということは難しいことのようでありますが、この7節には「恵みの賜物を下さるからできますよ」、という、そういう励ましの中に身を置くことができます。

 「そこで、こう言われている、『彼は高いところに上った時、とりこを捕えて(逮捕された)引き行き、人々に賜物を分け与えた』。さて『上った』と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。」(新約聖書・エペソ人への手紙 4章8〜9節・口語訳)

 実を申し上げますと、私が時々申し上げて日本のキリスト教界では少々問題視する、"セカンド・チャンス"の問題がありますが、日本基督教団出版局から出しております『説教者のための聖書注解書』という、非常に高価な書物がございますが、その中で関茂(せき・しげる)先生が、このテキストから"セカンド・チャンス"を言っておりまして、ウフフのフ、ですねえ。このリベラルな先生がそう書いていることに驚きを覚えるのであります。10節からお読みします。13節まで。ご一緒に読みましょう。10節ですよ。宜しいですか。10節行きましょう。ハイ。

 「降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」(新約聖書・エペソ人への手紙 4章10〜13節・口語訳)

 アーメン。時々教会には、奉仕とは牧師が、伝道者が、神学生がすべきものと誤解しておられる方がいらっしゃいますが、この11節、12節に書かれておりますものは、神様がある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師としてお立てになられた理由が明確に書かれています。「それは聖徒たちをととのえて」、聖徒っていうのはどなた?─これは皆さんのことであります。皆さんが整えられて、奉仕の業をさせる。だから牧師や神学生や、そういう者達だけが奉仕をする教会は、絶対に成長しません。伝道者は立場をわきまえて、「聖徒達をどのくらい整えることができるか」ということに心を向けるべきであります。
 先週の礼拝はガラテヤ書の6章でしたが、ガラテヤ書の6章1節で「もし間違っている人がいたら、柔和な心で正してあげなさい。」というのをお勉強しましたね。
 「あ、間違ってる!」って指さすのではない、指摘するだけではない、柔和な心で正しなさい」というその"正す"という言葉が"整える"言葉と同じギリシャ語なんであります。すなわち、信徒達が間違っていたら正してあげなさい。もう1箇所はね、マルコ1章19節に「網を打っては魚を獲る、魚を獲ると破れちゃう、破れた網を繕(つくろ)う」という時に使われる言葉がここに使われておるんであります。すなわち、破れがあるでしょう?破れを整える、繕うということが伝道者の務め、なんの為にか?それは奉仕をきちんとすることができるためですよという、そういう内容であります。

 今日の説教のタイトルは『成長と整腸』という、ちょっとおふざけが入っててごめんなさいねえ。2番目の"整腸"は腸を整えるって、整腸薬というのがございますけど、これは半分は真面目であります。クリスチャンは礼拝で恵まれるだけではなくて、糖分を摂りすぎの人は当分控えてください(笑い)。塩分を摂り過ぎの人もお気をつけあそばすように。血圧の高い人もお気をつけくださいますように。栄養をきちんと摂って、最近はお水を飲まないといけないと言いますよ。血液がサラサラになるように、恵まれているだけではありませんで、努力をしてください。運動不足もいけませんねえ。運動を致しましょう。健康を管理いたしましょう。それが調整という言葉で、あまり忙しい人達はスケジュールを管理する、時間の管理で私達の人生が幸せに生きられる為の人間側の努力をするように、ということを申し上げたいわけであります。

 しかし今日の中心は、"成長"の方でありますね。私は伝道者として人を整える前に、自分が成長し、整えられなければならないと深く自覚している牧師でございます。来週の日曜日は4回の礼拝に出席して、月曜日は大阪で大きな大会がありまして、その講師になっておりまして、お休みの日にそちらで大聖会をして、日帰りで帰ってまいります。火曜日、水曜日はナオミ会とドルカス会で、富士山で愛修会がありますね。私はその聖会に出て、水曜日の朝、羽田の飛行場に行ってですね(韓国はオンヌリ教会でリーダーシップのカンファレンスがありまして)、その聖会に出て、金曜日の夜に戻ります。土曜日は結婚式ということで、まあ忙しいなあ、ということであります。

 そのオンヌリ教会のリーダーシップ・カンファレンスは非常に内容が豊かで、どうしても出席したくてスケジュールを変えたのでありますが、パンフレットにこんなことが書いてありますよ。
 「リーダーシップの位置が高くなるほど(私はこの教会でリーダーシップとしては一番高い立場にあります)、私達を教える人が少なくなります。これが危機のはじまりです。リーダーは、自ら熱心に磨いていく人です。どんな困難の中でも自らの霊性、知性、感情を絶え間なくアップグレードさせるべきです。リーダーが変わらない限り、従う者も変わりません。変化は指示するものではなく、模範を示すものです。失敗にも屈せず、成功を自慢せず、聖なる渇きを持ち、限りなく学び、実践すること。これがまさに生きたリーダーシップです(いい言葉でしょう、もう少し!)。リーダーは、休むことなく自分を整えなければなりません。昨日の力で今日を生きることはできません(私にとって、これは大きな刺激でした)。私達の霊性と実力と人格は、絶えずアップグレードさせるべきです。自尊心を打ち砕き、安逸さとマンネリズムの束縛から抜け出るべきです。捨てるべき物は捨てなければなりません。学ぶべきことは学ばなければなりません。」
 韓国の厳しいリバイバルの中でトップを走っているこの教会が、このようなメッセージをもって招待状を送ってきてくださいました。私は心を揺るがされて(今日のメッセージではありませんけれども)、聖徒を整える前に自ら整えられたい、ということであります。私はもう教える立場の年齢でありますが(教えられに行くというのはとても恥ずかしいんですけれど)、へりくだって、厳しい学びをしていきたいと思います。人を整える前に自分を磨き整える、という心境であります。どうぞ覚えてお祈りしてください。

 13節をもう1度ご一緒にお読みしましょう。4章13節、ご一緒しましょう、ハイ。

 「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」(新約聖書・エペソ人への手紙 4章13節・口語訳)

 アーメン。2つのゴールがあるかと思います。1つは信仰の一致、ということであります。私達は信仰の一致も、プロテスタント教会だけでも難しいんでありますよ。元気のいい教会から来られた人は、「この教会は静かだ」と言うでしょう。同じプロテスタント教会でも、洗礼のやり方が違う。静かな、手なんか叩かない教会から言えば、「この教会は賑やかだ」と言うでしょう。同じプロテスタント教会でも、洗礼のやり方が違う。
 違いがわかるというのはコーヒーの問題ではありませんで、私達は「違いがあっても1つになれる」と申し上げてまいりましたが、この教会は、そのお証をすごく持っております。何によって教会は1つになることができるかというと、このところに書かれておりますのは「神の子を信じる信仰の一致」、ということであります。イエス様が神の子、救い主であるということを、信ずるだけで一致できます。
 その他、色が違っても、お洋服が違っても、少々流れが違っても、私達はキリストにあって1つになることができます、とパウロが言うのであります。もう1つのメッセージは、後半「キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るため」に、私達は整えられていかなければならない、という。
 兄弟姉妹、忘れないでください。私達クリスチャンは、キリストに似た者に変えられる。キリスト様の内側に溢れている徳の高さにまで(レベルは高い!)、これを生涯かかって私達は追い求めて行くということであります。

 私が出た神学校だけではありませんで、日本中そうだったんですけど、プロテスタント教会がカトリック教会を異端視した時代がありました。私はその時代に勉強しました。プロテスタント教会っていうのは、聖書だけ、聖書のみ、これが中心でありますね。カトリック教会は聖書プラスアルファ、伝統とか外典とか、それも大切にするわけでありますね。マリアさんが出てきたら、もう我々プロテスタント教会はもう拒絶反応がありますから、異端のように扱うわけですから。
 神学校で教えられましたから、私は"カトリックつぶし"に気分を良くしておった牧師でありますよ。私は神学生時代に地方の伝道に行きますと、必ずカトリック教会に(まるで道場破りのようにしてですね)お話しに行って、質問して、最後はとっちめてあげよう!とね、「あなた方がいかに間違っているかというのを教えてあげよう!」なんて、そんな気持ちでねえ、カトリック教会をのし歩いた時代がありました。恥ずかしいねえ。
 しかし、今はどういう風に考えるか。変わって欲しいこともありますけれど、本当にプロテスタント教会は"Justification by faith"(ジャスティフィケーション・バイ・フェイス=信仰による義)ということで、信ずるだけで救われる、ということを強調したために(これは正しいんですよ)、愛の実践が乏しくなって、恥ずかしいですねえ。
 カトリック教会も、プロテスト(抗議)した新教=プロテスタント教会が「戻って来い!」というようなところであったんでありますが、第2バチカン会議後、柔らかくされました。なんと日本の国においてもですよ、聖書を翻訳するのにカトリック教会の学長と、プロテスタント教会の聖書学者とが仲良く知恵を出し合って、「新共同訳聖書」というのが今出ておるんでありますよ。
 元来カトリック教会は、イエス様のことをイエズス様と申し述べておられる。イエズス様、クリスト様という風に言われておったんですけど、彼らは「イエス・キリストを神の子として信じる信仰の一致のために、妥協しましょう!」と言って、プロテスタント教会の方に、カトリック教会の方が愛をもって近づいて、「構いません、何百年の伝統をつぶしても構いません。"イエス・キリスト"と翻訳してください。」─偉いことだと思いません?私達はできませんねえ。私達は「イエス様、イエス様、イエス様」とは言えても、「イエズス様」、なんてなかなか言えないでしょう?(まあ、"ペテロ"のことを"ペトロ"と言うのは名前が残してありますけれど)肝心かなめのことで妥協してくださって、そのことを通して信仰の一致を保つことができるように努力をしていてくださるんだ、ということで、私達は本当にカトリック教会の方を尊敬したいと思いますね。マザー・テレサのような生き方をした人、コルベ神父のような生き方をした人、私達はもう拒絶できません。シャッポを脱ぐだけでございますね。願わくは、私達は仲良く1つになって、協力したいと願ってやみません。私の気持ちを宣言しました。

 このたび、宇部神召教会の特別集会に行きまして、私のもくろみが1つ、地方に行きますとどこか見て来ようっていう気持ちがありまして、前もって牧師先生に「次の日ゆっくり帰ってきてもいいから、どこか見せてください。」─あの辺は、考えてみると、萩とか(萩焼の萩ですねえ)、津和野とか、よく旅行に行く観光地でもありますねえ。素敵ですねえ。綺麗ですねえ。でもあまりそちらには行かないで、山口にはザビエルの記念礼拝堂とザビエル資料館がありまして、私はこれにタイミングよくですね、行きたい、という気持ちになったんでありますよねえ。
 フランシスコ・ザビエルがどうして山口と関係があるかということでありますけど、1549年にフランシスコ・ザビエルが日本にやって来られたわけでありますけど、ザビエルのお父さんは非常に優秀な学者でもありましたし、当時の(スペインになる前でありますけども)、国の大蔵大臣であり総理大臣もしたことがあるような人。もう、ザビエルもものすごい頭のよい人でありましたが、パリ大学に留学するということは憧れでありまして、パリ大学に勉強に行った時には、寮(宿舎)に入る時には、召使いと馬も一緒だったっていうんですよ。今でしたら車付きの学生っておるでしょう、時々お坊ちゃまでござったんでございますよねえ。
 この人物はめっちゃくちゃ勉強したんです。信仰も豊かだったんです。そこに、足の不自由なイグナチオ・ロヨラという人物が入ってまいりました。ロヨラは学生伝道、学内伝道を一生懸命やったんですよ。伝道を一生懸命した。これはね、宗教改革が終わった後、カトリック教会は自らの腐敗を反省し、悔い改めて変わった、ということなんです。我々はそういうことに注目しないで生きて来たんでありますが、ロヨラは一生懸命伝道して、そしてこのザビエルを見つけたんですよ。「この優秀な人物が宣教師になって、アジア伝道に行ったらいい!」といって口説くんですけど、このフランシスコ・ザビエルは口説き落とされない。「私はね、自分の郷里に戻ってですね、司祭(牧師)をやりますよ」ってカトリック教会の司祭になって、そしたら収入も得られて豊かな安定した生活ができるでしょう、というようなことで逃げるんですが、ロヨラが黙って聞いているはずがありません。もう毎日のようにそばに行っては「人が全世界を手に入れても、どんなに豊かになっても本当の自分を失ったらなんの得になるか」ということを説き続けたんです。そして、フランシスコ・ザビエルの心が動いたんですよ。
 で、彼は(まあ早く言えばですね)伝道の道を歩もうとして(彼はもうスペインになってしまったんですけど)、スペインからアジアの伝道に行こうということで、命懸けで船に乗ってインドまで来ますと、マラッカというところで日本人に会うんですよね。なんていう人物か?─ヤジローっていう男が、鹿児島で間違って人を殺しちゃった。それで、彼は逃げるんですよ。船に乗って逃げるんですが、船長にこう言うんですよ。「船長、私は不安です。人殺しであります。この罪のゆえにいつ殺されるかわからない不安と恐れがあります。」ということで悩みを相談しますと、船長がこう言うんですよ。「大丈夫よ、神様に赦していただきなさい。平安があるように。マラッカに着いたら、素晴らしい人を紹介するから。」っていうことだったんですよ。で、マラッカに誰がいたと思いますか?─フランシスコ・ザビエルがいたわけですよ!
 ザビエルと話しをしているうちに、ザビエルは聖書の話をする。で、ヤジローが日本のクリスチャン第1号になるんですよ、洗礼を受けてねえ。そこでザビエルが「私達がもし日本に伝道に行ったら、どうですか、(日本人は)クリスチャンになりますか?」と聞くと、ヤジローがこう言ったんですよ。「先生、日本人ていうのは理性的だからねえ、理屈に合わないようなことを話したってねえ、絶対言うこと聞きませんよ。理屈に合ったようなことでもねえ、先生の生活がきちんとしていなければ(教えと生活が一致していなければ)、誰も信用しませんよ。」─もうフランシスコ・ザビエルはものすごく感動してですね(他に行く予定だったんですけど)、「日本に伝道に行く!」っていうことでヤジローを連れてですね、どこに行ったと思いますか?1549年に鹿児島に行くんですよ。
 鹿児島っていうのは、ヤジローの家があったからね、ヤジローの家でしばらく生活するんですよ。そして日本の様子を聞いてねえ、そうするとそれを当時の領主の島津貴久という人物が認めて(「これは儲かる!」と思ったんでしょうけれど)、伝道することを許すんですよ。立て看板なんか立てちゃいましてねえ(水戸黄門に出てくるでしょう?)、「この伝道を妨げてはいけない!」ってなことで。
 彼は伝道して伝道して、驚くべき伝道をして(カトリック教会っていうのはねえ、当時短期間に30万人のクリスチャンを見つけたんですよ。大リバイバルですよねえ?)、彼はねえ、そして平戸(長崎)の方に行くんですよ。そして彼は考えた。「トップを狙った方がいい」って言って。天皇に会いにいくんですよ。「天皇陛下が伝道の許可を下ろしたら、日本全体に影響を与える!」って。歩いてですよ!京都まで行くんですよ。彼は、でも天皇陛下にも力が無いっていうことがわかって(会わせてくれなかったこともあるんですが)、戻って来るんですよ。彼はもう短期間に素晴らしいことをしてですね、山口でも彼は伝道する。山口に来ました時に(長崎から山口ってすごいねえ)、1日2度は伝道(説教)したっていうんですよ。そして彼はですね、2日間で500人の受洗者を見出したって。山口っていうのはそういうリバイバルの都市だって、私全然カトリックのこと勉強していなかったから、知らなかったんですよ。
 ある時に路傍伝道しておったら、顔につばきをかける男がいたっていうんですよ。ペッてつばきをかけられたら、普通は怒ったり、顔色変えるでしょう?その時にね(こう書いてあるんですよ)、「顔につばきがかけられた。顔色も変えずにハンカチでぬぐう。その態度に感動して、信者になる人が出た」んですよ。これがキリストの徳の高さにまで至るというね。1つになっていればいいわけではない、キリスト様の品性が私達のものになる。キリスト様の性質が自分のものになるんだ!ということで、伝道の御業は進められていくんですよ。彼は1度郷里に帰るんですが、47歳でお亡くなりになるんですけども、短い期間に驚くべき主の働きを進めることができた主の器をご紹介申し上げました。

 13節に「神の子を信ずる信仰」という表現がありますが、5つご紹介します。
 第1番目、神の子を信ずると、救いの御業をいただくことができます(皆さんその経験をしました)。信ずるだけ、イエス様がすべてをしてくださいました。私達の身代わりに十字架にかかって死んでくださいましたから、今日イエス様を信じたら、罪を赦していただいて、そして神の子供としての立場を与えていただいて、永遠の命をいただくことができる。ヨハネ3章16節(毎週これを読んでるような気がしますが)、ご一緒して読みましょう。

 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(新約聖書・ヨハネによる福音書3章16節・口語訳)

 アーメン。間違っても地獄に行ってはいけません。はいつくばってでも天国に行ってください。
第2番目、聖霊の恵みをいただきます。                                       
 3番目、今日もいやしがありましたよ、さっき。主の御名を崇めます。心と体が健康で、生きられるように。
 第4番目、神様は祝福の基(もとい)に、私達をしてくださいます。水上さんが向こうにいました。18年前にこの教会から宇部に引越しなさった方がいらっしゃいました。懐かしいですねえ。恵まれておられました。牧師夫妻が私にこう言いました。「先生、用意してくださって、ありがとうございます。この人がいらっしゃらなければ、私はつぶれていたでしょう。祈りの相手です。話を聞いてくださる貴重な存在です。」嬉しいねえ。教会の祝福の基、家庭の祝福の基になる、こんなに素晴らしいことはありません。
 第5番目、死ぬことを恐れない、天国の喜びを先取りして生きるという。

 "イヤー、ロッパさん(1868年)、もう明治だよ"、だから1868年が明治元年でありましょう?その数年前、1865年に長崎は大浦天主堂が建てられました。立派な建物ですよね。しかし日本人は誰も来ませんでした。なぜ?迫害を恐れたから。2百数十年前にわたっての弾圧が起こるという状況であるかと思いますけど、何がなされたか?というと、1ヶ月くらいしてから、隠れキリシタンが次々に出てきました。これは歴史上まれに見る、2百数十年の間信仰が守られていた。例えば日本人でしたら、石像、仏像を作るふりをして後ろに十字架を彫って"マリア観音"というようなことで(いいですか?)、聖書も無い、牧師もいない、そしてミサ(礼拝)もあげられない状態で2百数十年守られた。これは認めてかかるべきであろうと私は心を変えているのでありますが、3000人以上の人達が大浦天主堂、すなわちあの中に隠れてクリスチャンがいたわけであります。
 政府はこれを一網打尽(いちもうだじん)に捕まえまして、ムチは打つし拷問はするし、ひどい目にあわせましたけど、クリスチャンをやめませんでした。彼らは悩んで考えた結果、どうするか。もう散り散りバラバラにさせようということで、今のような乗り物のない時代に、20箇所に分散させようということでありまして、その1つが山口県の津和野で、150人ぐらいのキリシタン(クリスチャン)を追いやったんです。お寺で匿(かくま)って教育をして改宗させようとするんですが、誰一人キリスト教をやめる人はいませんでした。そのうちムチをあてる、食べ物を与えない、そして三尺牢(さんじゃくおり)という中に入れられるというようなことで、ころんで行く人(=やめる人、改宗する人)も起こったということでありますが、まあ弾圧の中でも最も残酷な弾圧がなされたということであります。
 皆さんは津和野に行ったら乙女峠をご覧になったでしょう。あの辺はもうカトリック教会が自分の所有地にしたということですが、乙女峠をこう、ずうっとずうっとずうっとずうっと細い道を上がって行きますと、ちょっとした平らな場所がありまして、そこに礼拝堂が建っておりますよ、記念の礼拝堂がねえ。「ここで迫害を受けたんだ」という箇所でしたよ。ちょっとした池がありましてね、その池、今のように温暖化ではありません時代は、雪がたくさん降って凍った時に、このクリスチャン(キリシタン)達を上の氷を割って氷の中につけたんですって。「キリスト教をやめなさい!」ってね。そしてそして、上から水をぶっかけたんですって。でも、やめなかったんですって。命を懸けて守るものって、何でしょうねえ。おつきあいでクリスチャンになって、みんなが「イエス様が十字架にかかって死んでくださった。私達も命懸けでこの信仰を守り続ける!」ということ。
 素敵なエピソードを聞きましたよ。"モリちゃん"っていう女の子、5歳の女の子、かわいい女の子。みんな捕まって牢獄に入ってるんですけど、子供だけは遊ぶことが許されたそうで、その番人(番兵さん)が「モリちゃん、いらっしゃい。いくつ?5歳?─そう。おじちゃんね、ホラ、お菓子持ってるよ、お菓子。(もう、食べ物がない時ですからね)。『イエス様なんて、大きらい!』って言ったらね、このお菓子をあげるからね、『イエス様なんか、きらい』って言いなさいよ。」─モリちゃんは言ったそうです。「そんな悪いことは言えません。私はイエス様大好きです!天国に行ったら、もっとすばらしいお菓子をいただけるから。」と言って忍ぶそうですよ。そして飢えて、高熱のために病気になってこの幼子が死んでしまった、とそこに書い

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