2005年11月 のメッセージ

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「愛はがまん!」大川従道師 2005年11月20日

 「神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している12部族の人々へ、あいさつをおくる。わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かされるがよい。あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。」(新約聖書・ヤコブの手紙1章1節〜8節・口語訳)
 
特別賛美:宮田四郎

 素晴らしい演奏をありがとうございます。先週読んでおりました書物に、「天国に行きましたら、このモーツァルトが奏でられるであろう」と、そういう本がありました。イエス様がちょっとお留守をなさったら、バッハが演奏されるんであろう。どちらにしても、天国では素晴らしい賛美であろうと思いますが、詩篇の御言葉をこのモーツァルトの作曲、そしてホルンに託して素晴らしい賛美を聴かせていただきまして、まことに感謝でございます。今日はたくさん初めての人をお見受けしますが、心からご歓迎申し上げます。少し大きな声で朝のご挨拶を致しましょう。皆さん、おはようございます。

 新聞の投書欄であります。1人のおばあちゃんが歩いておりましたら、後ろから「おばあちゃん、おばあちゃん、おばあちゃん!」自分のことだとは思わなかったので、スタコラ前に進んでおりましたなら、肩を叩かれて、その人も追いかけて来て、息を切らせながら「おばあちゃん、おばあちゃん、これ落し物ですよ。」よく見ますと、「ボケないための生活習慣セミナー」の入場券が落ちていた。「あ、そういえば私はその方向に行くんだ!」ということを忘れていた、というね(笑い)。

 もう1つはひどい投書ですが、先日羽田飛行場から飛行機に乗りますと、離陸前に機長がご案内。「私は機長○○です。この飛行機は羽田行き、あ、間違えた、あ、あの、あれ、どこ行くんだったかなあ?(笑い)…あ、わかりました、この飛行機は、大阪、伊丹空港に参ります。」と。えー、ひどい話でございますけども、こういう人は、是非ボケ防止セミナーに行った方がいい。必要であります。

 3つめ。いのちのことば社の会長さんが、2日前に必要があって訪ねて来られまして、タクシーで大和の駅からここまで「カルバリーチャペル。」と仰って来られたそうでありますが、そのタクシーの運転手が色々、車の中で話されたそうです。「お客さん、カルバリーチャペルは素晴らしい教会ですよ!」と言われたので、「クリスチャンかな?」と思ったら、そうではなくてですね、「この建物が建て上げられる前、私は土台を掘っている時から見ていますが、あんなにすごい土台を作って、この土台の上に乗っているので、どんな地震がやって来ても大丈夫です!」自信を持ってお入りください…そうは言わなかったけど(笑い)、えー、「凄いですね、先生!タクシーの運転手が、この教会の建物を誉めておりました。」というね。イエス様は、山上の説教の結論として、土台が人生には重要であって、岩の上に土台を築く。"家"というものは、素晴らしいですよ。嵐がやって来ても、雨がやって来ても、風が吹いてきても、洪水になっても大丈夫。それは、イエス様の御言葉、聖書の言葉を聞くだけではなくて、それを行う者が岩の上に家を建てる者のようであると、そう例え話をもってお話をされました。ですから、私達はまず聖書の言葉をよく読んで、そしてそれを聞いて、そしてその上に私達の人生を築いていく、ということが重要であろうと思います。
 早速聖書を開きましょう。今日はヤコブの手紙の第1章の1節からであります。ヤコブといってもコブが8つあったわけではなくて(笑い)、えー、お読みしてみますね。

「神と主イエス・キリストとの僕(しもべ)ヤコブから、離散している12部族の人々へ、あいさつをおくる。わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かされるがよい。」(新約聖書・ヤコブの手紙1章1〜4節・口語訳)

 この1行目に書いてあります挨拶文は、主イエス・キリストの僕、原文ではドゥーロス(奴隷という意味でありますけど)、実は戸籍上のイエス・キリストの弟君でございました。イエス様の弟さん、妹さん、(だいたい6人以上いたと思われますけれども)、1人として、イエス様のご在世当時は救われませんでした。まあ、ヤコブの為に30年ぐらい祈っていたんでしょう。私達にとっては励ましですよねえ。イエス様は忍耐されたんでしょう、そして祈り続けたんでしょう。「イエス様がお亡くなりになられまして3日目に、このヤコブに現れて、このヤコブという人物が救われたであろう。」という風に想像することができるわけであります。
 ヤコブという人物は、パウロ先生のように巡回伝道者であちらこちらに行ったのではなくて、エルサレムに留まって、エルサレムを中心にしてこのヤコブの手紙のような(回覧版みたいなものですよねえ、公同書簡と言いますけれども)、あちらこちらにそれを発送するというか、お書きになった、と理解していいと思います。
 1節には、「離散している12部族の人々へ」とありますけど、イスラエルの民は迫害の為に、あちらこちらに散り散りバラバラになりました。それらの方々に対して、この手紙(ヤコブによって書かれたところの手紙)が回された─という風に理解することがよろしいことであろうと思います。2節に、「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」というね。試練なんていうことはですね、私達の人生にとって「いやなこっちゃ!」というところでありますが、キリスト教を理解する為に最も重要な、理解すべき内容は、この"試練"という言葉であると、ウィリアム・バークレーという人が言います。"試練"というぐらいですから、テストされる、試されるということであります。ある目的の為に試練によって、私達が整えられるというか訓練されるというか、純粋になるというか不純物が取り除かれて、キリストのものにふさわしく信仰が強くなるという。聖書の中のどういうところにこの言葉が使われているかと言いますと、旧約聖書では創世記の22章の1節に、アブラハムという、信仰の父アブラハムが、神によって試されるという。お声をかけていただくのに「アブラハムよ。」「はい、ここにおります。」と、非常に強い重要な言葉であると言われますけども、この時に説明句がありまして、「神はアブラハムを試みて言われた」という風に書かれておりますので、アブラハムのような信仰者でありましても、テストされる、試みられるということを受け止めたいと思うのであります。

 旧約聖書の士師記の2章の21節から3章の4節まで(今スクリーンに出ておりますが)、内容を申し上げますと(1節だけ読んでみますね)、

「わたしもまたヨシュアが死んだときに残しておいた国民を、この後、彼らの前から追い払わないであろう。これはイスラエルが、先祖たちの守ったように主の道を守ってそれに歩むかどうかをわたしが(書いてあるでしょう?)試みるためである。」(旧約聖書・士師記2章21節〜22節・口語訳)

という、ね。イスラエルの国が乳と蜜との流れる約束の地に入りましてから、結構大変だったんであります。そこに来るまでも大変だったのに、入りましてからも大変だ。なぜかというと、世代交代をしておりますので、この今お読みしました士師記の2章、3章には、戦争を知らない若い人達が次の世代を担っているので、その人達の為に、あえてこの古い住民、原住民を追い出すことをしなかったんですよ、それはこの人達があくまで私についてくるかどうかをテストする、そのことの為であります。「♪戦争を知らない子供達さ♪」とかなんとかいう歌がありましたが、私達若い人達にとりましては、わからない世界というのがあると思いますけれども、神様はあえてある種の苦労をさせることを通して、本物のクリスチャンにさせようとしておられることを私達は知っておかなければならないと、そういう風に思います。
 「ヘブル人への手紙」の12章というところには、この地上で訓練を受けない人は、それは私生児であって、本物の弟子である。本物の親子関係でありますなら、必ず厳しい訓練というものがありますよ、と聖書の中にはそう書いてあります。若い人だけではありませんで、中高年の方々も老年の方々も、天の国民、天国民としてふさわしく鍛えられるというその世界を知るべきであろうと思います。イエス様はこの地上で、この地上でイエス様は完成されたお方であるにもかかわらず、「ヘブル人への手紙」の5章では、「もろもろの苦しみを通して従順を学び」と、イエス様は「もろもろの」と言うんですから、あのゲッセマネの園のあのところで、「天のお父様、あなたにはできないことはありません(お父様はつらかったでしょうねえ)。私は十字架にかかるのは嫌です、嫌なものは嫌です!苦い杯は飲みたくありません。」こう仰っておりながらも、「もしあなたのみこころでしたら、私はそれに従順します。」ということでしたでしょう?ヘブル書は、「もろもろの苦しみを通して従順を学んだ」というんですから、あのゲッセマネの園以外にもいろいろあったんだと思うんですよ。
 私達の人生には、上手く行かないことってたくさんありますでしょう。結婚の問題に関して、若い人達でありますならば、恋愛の問題に関して、お仕事の面に関して、「私はどうしてこう上手く行かないんだろう?私はどうしてこの思うように行かないんだろう。神様、どっち向いていらっしゃるんだろう。神様、あなたにアドバイスがあります。こういう風にやった方がいいに決まってますから、こうやって下さいよ!」って祈りたくなることって、あるじゃありませんか。でも、「イエス・キリスト様はもろもろの苦しみを通して従順を学び、そしてイエス・キリスト様に従順であるすべての人の為に、永遠の源となった、救いの源となったんですよ」、と聖書がそう言っていることを心に留めるべきことであろうと、そう思います。  「ヤコブの手紙」の1章の2節、

 「私の兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」(新約聖書・ヤコブの手紙1章2節・口語訳)
 
という。新改訳聖書では、「このうえのない喜びと」─(試練なんか、いいことありゃしない)と思っているのに、聖書は、(good speed〔グッドスピード〕という聖書訳は)「最高の喜びと思いなさい」と書いてあるんですよねえ。3節、4節はご一緒に読みましょうか?「ヤコブの手紙」の1章の3節、4節、はい。

 「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かされるがよい。」(新約聖書・ヤコブの手紙1章3節〜4節・口語訳)

というね。新共同訳聖書は、これを「あくまでも忍耐しなさい。」岩波の新しい聖書では、「何がなんでも忍耐しなさい。」「何がなんでも忍耐しなさい。」─一緒に言いましょう、はい。「何がなんでも忍耐しなさい。」
 最近の流行語の中には、"読書力"とか"老人力"とか、"人間力"とか、"力"という言葉を用いておるケースが多くあるんでありますが、このところでは「忍耐力を十分に働かされるがよい。」現代人にとりまして一番嫌いなことは、こういう言葉であると思いますね。忍耐することは苦手ですよね。
 近代文明というものは、私達に忍耐を取り除くことが良い文明、文化であるという風に私達はこの何十年もそういうことを考えて商売をしてきたわけです。生きてきたわけですよねえ。赤ちゃんが今日もたくさん見えていますが、生まれた時から汗をかかないといいましょうかね、かく必要がない、という。暑ければ冷房を入れるでしょうねえ。冷暖房完備の中に生きているわけですから、一生汗をかかなくても済んでしまうというようなことが現実にあるわけですよねえ。水道なんていうと、水がすぐ出てくるわけでしょう?ねえ。昔は井戸で水を汲んだ人も、中にいっぱいいらっしゃるでしょう?私の少年時代はガッシャンポンプでございました。ガッチャンガッチャン、ガッチャンガッチャン、ガッチャンガッチャン、楽しかったねえ。注ぎ水を入れて、ガッシャンガッシャン、ガッシャンガッシャン…
 薪(まき)で風呂を沸かすという、ねえ。私は薪割りが得意でしたけど、このへん、鉈(なた)で切ったことがありまして、まだ痕(あと)が残っている、みたいなところがあるんでありますね。ご飯を炊くのも、コツが要りましてですね(昔の人は上手だったと思いますよ、ねえ)、「はじめチョロチョロ中パッパ、赤子泣いても蓋(ふた)取るな」、若い人は何言ってるかわからないでしょう?ねえ。炊飯器にスイッチを入れれば良い時代ですから。

 えー、携帯電話がなければ生きられない時代、コンピューターがなければ生きられない時代でありますが、反対にそのお陰でポルノにはまっている若者がたくさんおられますでしょう(若者だけではありませんね)。エレベーターがあって、エスカレーターがあって、なるべく歩かないように車社会になってみんな足腰が弱くなりましたね。テレビも画面まで行ってスイッチを押さなくても、遠くから"プチュッ"とこうやればですね、場面が変わるというですねえ。なるべくなまけるようにですねえ。
 電気も凄いですよねえ。部屋に入って行った瞬間に電気がつくっていうのもありますよねえ。トイレも凄いトイレがいっぱいありますよねえ。お湯が出てきて、おしりをきれいにしてくれるというのはね(「知りませんでした」っていう人もいるかもしれませんけど)、もう乾燥までやってくれるでしょうねえ。その結果どうなるか知りませんけれども、もちろん近代文明の便利さを私が否定して、原始生活に戻る運動をしたいというわけではないのであります。生きる為の真理というものを、何が大切であるのかということを悟っておかなければならないということ、これはもう重要な重要なことであります。

 結婚式が週に2度ありまして、第1コリントの13章を必ず読むわけでありますねえ。「愛は寛容にして情け深い」ということでありますけれど、愛はいったいどういうものであるか、新共同訳聖書は「愛は忍耐強い」と訳しました。もちろん、原文がそういう風に書かれて、「愛とは」今日の説教のタイトルは「がまん!」というね。「愛は、がまん、がまん、がまん!」"我慢をする、忍耐強い"と、これは神様が教えてくださったものであります。
 ロマ書の第5章というところに、「私達の人生の中には患難が来ますけど、患難をも喜んでいる」っていうんですよ。「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである。希望は失望に終わることがない。なぜなら、私達に賜っている聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからである。」誰が患難を喜ぶか?でも、喜ぶんですよ。患難をも喜ぶ。患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達、練られた品性を(忍耐がなければ品性は整って行かないんですよ)、希望を持って生きることができるように、聖霊様は私達に力を与えてくれるんですよと、そういう内容であります。
 もし私達が"忍耐"という聖書の教えるこの言葉に従う、この言葉を大切にするならば、いったい神様が何をして下さるか、という。これからが重要なメッセージであります。
 
 詩篇の第19篇をお開け下さいますか?これからが重要なメッセージであります。詩篇の第19篇をお開け下さいますか?ちょうど聖書の真中ぐらいですよ。またここへ戻りますよ。詩篇の第19篇。聖書をお持ちでない人は、スクリーンをご覧いただきたい。762ページになります。素晴らしいところです。読んでみますね。旧約聖書詩篇第19篇。聖歌隊の指揮者によって歌わせたダビデの歌。762ページ下の段。

 「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。」(旧約聖書・詩篇19篇1節・口語訳)

 "自然界が、神の栄光を表すために存在してますよ。"ということですよ。2節、

 「この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。」(旧約聖書・詩篇19篇2節〜4節・口語訳)

 これもう一度、文語訳聖書で読んでみますよ。1節からね。

 「もろもろの神は天の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日言葉をかの日につたえ、この夜知識をかの夜に送る。語らず言わずその声聞こえざるに、その響きは全知にあまねく、その言葉は地のはてにまで及ぶ。」(旧約聖書・詩篇19篇1節〜4節・口語訳)

 ベートーベンはこれに感動して、「♪諸天(しょてん)は神の尽きぬ栄え♪」─ものすごい賛美をお作りになりました。天も地も花も木も、鳥もすべてのものは神の栄光を表すために偶然に存在しているのではない、神の栄光の為の存在であるということであります。
 ご注目いただきたいのは、この19章の3節に、話すこともなく語ることもなく、その声も聞こえないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界の果てにまで及ぶという、この内容であります。沈黙の中で、語らず言わずその声聞こえざるに、主はその中でも働いていてくださる。  マタイ第5章の43節から、なんて書いてあるかと言いますと、「あなたがたは敵を愛するんですよ、迫害する者の為に祈るんですよ。天のお父様は、どういうお方であるかと言いますと、正しい者の上にも、正しくない悪い者の上にも、太陽を上らせてくださるお方、雨を降らせて下さる方ですよ。私達は考えますね。どういう風に考えるかというと、悪い者の上には雷でも落として欲しい、なんて考える人がいらっしゃるかもしれませんね。悪い者の上にはいつもなんかこう(梅雨時みたいにですね)、カビかなんか生えるようにして欲しい、とか考える人もいるかもしれませんが、神様は正しい者にも、正しくない者にも、雨を降らせ、太陽を昇らせて下さる慈悲深いお方なんですよ、と。
 いったい何を神様考えておられるかというと、「今忍耐しておられるその期間中に、忍耐しておられるその間に、神様は何かをしようとしておられるということを、みんな知っておいてくださいよ、という風に、(山上の説教の1つですが)マタイの第7章の6節、7節にこういう風にあります。「聖なるものを犬にやるな。」─すごい釈義(しゃくぎ)が大変なんですよ。「伝道しなくてもいいよ、噛みついてくるからねえ」ってね。
 また、「真珠を豚に投げてやるな。」大切なものがわからないんなら、わからないんだから。「恐らく彼らはそれを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」家族の為に一生懸命伝道しても、イエス様だってヤコブに何か福音を伝えようとしても、ヤコブも兄弟達も言うことをきかなかったわけですが、「聖なるものを犬にやっても、それは無駄になるだけだ。豚に真珠だから。」と。じゃあもう、彼らは地獄に行ってもいい、滅んでもいい、とそういうことを言っているのではない。それは私の領域である。良く知ってください、神様の領域まで侵すことはない。私にその者達をまかせなさい。あなたがたは、何をすべきであるか。「求めなさい、求め続けなさい。そうすれば、与えられるであろう。」という、そういう内容を理解するように。
 イエス様はヨハネ福音書の第3章の中で、「誰でも新しく生まれなければ(born again〔ボーン・アゲイン〕しなければ、新しく生まれ変わらなければ)天国に入ることができない。それでその後に、「新しく生まれろ」と言っても、不思議に思うことはないよ、って。霊から生まれる者はみんなそうですよ。"風"というものは(聖霊の働き)、どっから来てどこに行くかよくわからないけれども、聖霊様の働きも同じで(人間の理屈ではよくわからないけれども)、「霊から生まれる者はかくのごとし」という風に、主イエス・キリスト様は仰っておられるんですよねえ。

 私が大切にしております言葉に、イザヤ書第10章の御言葉がありますが、今英語でスクリーンに出していただきますよ(日本語の訳が、こういう訳ではないからであります)。King James Version(キングジェームス・バージョン)であります。"The yoke(ザ・ヨーク)"っていうんですから、よーく、よーくご覧になってくださいね。The yokeっていうのはねえ、だいたい"重荷"とか"くびき"とか、私達をこう縛りつけている、そういう物ですよね。"The yoke will be destroed(destroy〔ディストロイ〕っていうのは、"破壊する"とか"ぶっこわす"というね)、because of the anointing oil."油注ぎ、油注がれた聖霊様の働きというものは、理屈抜きにyoke(問題、くびき)を解放します、壊すものですよ。
 この経験をしたらねえ、祈りに力が与えられますよ。忍耐して、いつの間にかなされている主の働きというね。驚くべき出来事が、油注ぎによって教会に入ってきただけなのにねえ。牧師の説教に感動したということではない、賛美歌を歌っている中で、涙を流して救いの恵みにあずかるという不思議なことが、ここではspiritual atmosphere(スピリチュアル・アトモスフィア:霊的な空気)が祈られてあるから、私達はいつの間にか、「私達は最善を尽くしますけど、神様の働きというものは進められて行くんだ」という。何もしない、何もしていないんだけれども、祈って忍耐しているだけなのに、悪霊が出てくびきが取られて、重荷から解放される─というすごい世界があるという、ね。

 「ヘブル人への手紙」の12章の1節をご覧いただきましょうか(今日のテキストの前のところですから、開きやすいでしょう?)。「ヘブル人への手紙」の第12章(「ヤコブの手紙」の1つ前ですよ。「ヘブル」の第12章の1節)。一緒に読みましょうか。ねえ。素晴らしい箇所ですねえ。12章の1節。

 「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」(新約聖書・ヘブル人への手紙12章1節・口語訳)

 アーメン。ご注目いただきたいことがあります。「耐え忍んで走りぬこうではないか」─今日のメッセージの中心でありますが、「ヘブル人への 手紙」のメッセージの中心的なメッセージでもあります。このところに使われる"忍耐(ヒュポモネー)"という言葉は、"不屈の忍耐力"という、そういう特別な用語であります。どんな障害物にもひるまず、失意にも失敗にも、病気や倒産にも、絶望にも屈せず走り続ける力、それを神様から与えていただけるんだ、という。いったい、どういう風にしてこれを理解するかというと、この1節に「私達の人生は、マラソン・ランナーのようでありますが、陸上競技のようなものでありますが、多くの証人に雲のように囲まれているということを意識しなさい」という。
 私達はこちらからは見えないんですが(向こうからは見えるんですが)、信仰の先輩達(三畑長老様ご夫妻をはじめ、井澤先生ももちろんそうでありますが)、たくさんの信仰の先輩達(私の両親もそうでありますけども)、旧約聖書時代のこの「ヘブル人への手紙」の11章で、アブラハム然(しか)り、ノアもそう、モーセもそう、ダビデもそう、そういう信仰の先輩達が、みんな私達のことを見ています。私達はその中で、ランナーとして走り続ける。「途中でやめてはいけない、走り抜くんですよ」という、そういう内容をこのところで見ることができます。
 忍耐できないで失敗した人も、天において私達の為にとりなしの祈りをしていてくださるでしょう。もちろん成功した人も、忍耐するということが、忍耐して、途中で挫折しないであきらめないで、そして走り続けるということの重要性ということを思って、私達を見つめていてくださると思うんですよねえ。

 三浦綾子さんの書物というものは、お亡くなりになりましてからも生きて語っていると思います。
これは小さな本ですが、『明日へのあなた』という、集英社の安い小さな本でありますけど、本当に宝物のようなところがありますねえ。三浦さんのご主人が、ここにたびたび見えていらっしゃいますが、『道ありき』という(読んだことのない人は、是非お読みになったらいいと思いますが)三浦綾子の伝記でありますが、それを英語に訳されたものがあるので、それを見ておった時に、「ふっと気がついたことがある。」ということが書かれております。奥さんにこう言うんですよねえ(三浦綾子さん、奥さんですよねえ)。「綾子、私はうかつだったなあ。今これを読んでいてつくづく思ったんだがなあ、前川正さんは、どんなに切実に綾子の為に祈って、祈って、死んでいかれただろうなあ。」(前川正さんというのは、三浦綾子さんの恋人で、隣の家の人で、イエス様にお会いさせてくださった北大医学部の秀才ですけど、ご病気で早く亡くなったんですよねえ)ご主人の三浦光世さんは奥さん(綾子さん)の昔の恋人に対してこんなことを言って…「『前川さんは、綾子の為に祈って死んで行ってくれたんだよねえ。綾子が長い病床から立ち上がることはもちろんのこと、結婚のことも仕事のことも、綾子の全生涯にわたって神の恵みが注がれるように、祈りに祈って世を去られたのではないかと思うんだ。』三浦の顔は、感動に満ちていた。私は思わず胸を突かれた。その時、私に三浦はまた言った。『前川さんは、恐らく具体的に繰り返し綾子の為に祈られたと思うよ。』綾子が、前川さんとの死別のショックにめげずに立ち上がること、その与えられている才能を神に用いていただくこと、結婚も神に備えられること、その家庭生活にも神の導きが日毎に与えられること─それはそれは真剣に祈っていてくださったに違いないねえ。その祈りがきかれて、私達2人の今日があるんだよねえ。それにしても、今までどうしてそのことに思い至らなかったのかなあ?結婚31年にして、ようやく気づくとはねえ。1度も会ったことのない私の為にまで祈ってくださったような気がする。まったくうかつだったなあ。』三浦の声がうるんでいた。私はその言葉の真実に打たれて、言葉もなかった。」
 
 愛する者を早く失って、寂しい人もいらっしゃるでしょう。今日も記念のお花が掲げられておりますが、あのおじい様は、家族の為、遺族の為にどんなに祈っていてくださったか。信仰の先輩達が日本のリバイバルの為に、どんなに祈っていて下さったか。具体的に細かく。亡くなった時はまだ学生だった、(若いかもしれないけど)結婚のことについても、前川さんが祈っていて下さってその才能が生かされる、そのことの為にも祈っててくださったんだよね。
 「私達は祈られてここまで来ているんだ」ということを、今、結婚して31年でやっと分かった。うかつだったなあ。祈られて育っているということに対して重みを持たない人は、祈りの世界が分からないでしょう。「語らず言わず、その声聞こえざるに、その響きは全地におよぶ」という、その背後にありますのは、「いにしえの聖徒達が、殉教した聖徒達が、必死になって祈って祈って祈ってくださった事柄が不思議と答えられて、今日まである」ということを信ずる者は、アーメンと言いましょう。アーメン。
 それだけではありませんで、イエス・キリスト様、信仰の導き手(導き手だけではない、それを完成して下さる)イエス様からその信仰が与えられる、だからそこを見ているんですよ、というね。
 
 ほんの少し前に亡くなりましたヘンリー・ナウエンという方を時々私は用いますけれども、『スピリチュアル・メッセージ』という、大塚教授がお書きになられた(ヘンリー・ナウエンに関しての最も素晴らしい指導書であろうと思いますが)、信徒が牧師を訪ねても不在であるということは、好ましいことではない。牧師っていうのはいつもいて、信徒の相手をすべきである。しかしナウエンは、"不在によるミニストリー"(牧師がいないというところにおける、でも主の働き)とは、牧師が神と共に時を過ごす為に、仕事から一時身をひくこと。牧師のそのような不在を通して、聖霊なる神様が人々に働きたもう、ということであります。私が天に召されるようなことがあった時は、是非この"不在によるミニストリー"ということを思い起こして欲しいと思います。
 大塚教授がこう言いました。"聖霊様が働く為に牧師が身をひく"という、この言葉に出遭った時、私はスイスの宗教改革者、ジョン・カルヴァンの言葉を思い出した。「神様が働く余地を残せ。神の働きたもう余地を残せ。自分で1から10までやらないで、神様の働く余地を残せ。これが忍耐すること、我慢すること、耐えて主を見上げて祈り続けること、あせらないこと。神が働きたもう領域があるということを侵してはならない。」という、そういう世界を知るべきであろう。詩篇19篇の3節の、「話すこともなく、語ることもなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく…」というのは、まさにそういうこと。詩篇の46篇で、「汝(なんじ)静まりて、我の神たるを知れ。」という。"Be quiet.(ビー・クワイエット)"ということも重要、"Be still.(ビー・スティル:止まりなさい、やめなさい、止めておきなさい。主の働きを邪魔するな。)"という、そういう世界。

 私は25歳の時に、ふさだつぎお先生に質問をしたことがあります(日本にビリー・グラハムが来た時の委員長であります)。「先生、伝道はどういう風にしたらいいか教えてください。」と言ったら、先生はもう即座に、「君ねえ、伝道で最も重要なことは、神様のお邪魔をしないことだ。」と。私はもう何十年も心に留めている内容であります。あれこれしゃべるな、あれこれやるな、祈り続けなさい、求め続けなさい。主がお働き下さる世界がある。私達はジーッと忍耐して主を仰いでいるだけなのに、主が働いてくださる、不思議なことがなされている。本当に素晴らしいことだと思いますねえ。

 何をして下さるか。

 第1番目。「救いの御業を進めて下さる」ということであります。

 愛隣(あいりん)ちゃんが結婚して、開拓伝道をしておりますね。まだ信徒は0(ゼロ)なんですけど、中田先生のご両親がイエス様を信じて、先週の日曜日、洗礼をお受けになりました。素晴らしいねえ。

 金子さんという神学生をおぼえていらっしゃいますか?今富山の方に行きまして、家族をあげて伝道しておられるこの教会出身の伝道者、金子先生と先日石川県金沢でお会いしました。奥さんのまゆみさん、お父さんはキリスト教反対、もう迫害者。しょうがないお父さんでしたが、「9月の18日に病床で洗礼をお受けになられた」とお手紙をいただきました。
 ある宗教の熱心な、仏壇を毎日熱心に拝む、半端な人ではありませんでしたが、親子の関係が切れて、2年間音信不通でした。7月の4日、脳出血で職場で倒れ、仕事中に倒れて寝たきりになりました。取手から富山の大きな病院に移されて、入院されておりました。いつも怒鳴られてばっかりでお父さんに近づくのはおっかないけれども、危ない状況であるから、金子先生夫妻は、おそるおそる、ビクビクしながら病院を見舞いました。お父さん、なんて言ったと思います?「今までキリスト教を迫害してきて、悪かった。私の生き方は間違っていた。悪かった。」と、涙を流して言ったそうであります。
 5日後、教会員を連れて病院を訪ねて、「お父さん、お祈りしてもいいですか?」と言うと、お父さんはこう言ったそうです。「ああ、いいよ。実はなあ、私は昨日生まれて初めて、イエス・キリストに祈ってみたんや。イエス・キリストが本当の神のように思えたからなあ。」イエス様の十字架の話をして、信仰の告白を迫りますと、右手で"OK"をして、「イエス・キリストを私は信ずる。」と告白しました。なんという感謝なことでしょう。今まで私達夫婦に対して、「おまえら伝道するな!いつまで人に笑われるようなことをやっとるんや!」と、言っていた父親が、今は「おまえ達は最高に親孝行な夫婦や!私の自慢の夫婦だ!」と言うようになりました。本当に感謝です。一緒に拍手して、神様に栄光をお帰ししましょう。(拍手)イエス様、御名を崇めて、心から感謝申し上げます。

 2番目、神様が下さるのは、聖霊様の素晴らしい恵みです。

 お弟子さん達は、「聖霊の力をいただかなければまともなクリスチャンになれない」と思って、いうことをきいて(「使徒行伝」1章では)「10日の間待ち望みの祈りをした」というね。聖霊のバプテスマを受けました。私も、(私は福音派の牧師でありますけど)聖霊のバプテスマを求めて、1年ぐらい求め続けました。私は本当に幸せな経験をしました。皆さんにもそれをお勧めします。

 3番目、いやし。瞬間的にいやされる経験というものを、度々見てきました。しかし、時間がかかって、祈りに祈って忘れたような時に祈り続けて、神様の奇跡の御業がなされるという。心も体も信仰がためされて、マルコの2章では「彼らの信仰を見て中風の者がいやされた。」といいますが、"彼らの信仰"だから我々の信仰、私達の信仰が強くなるのを神様はお待ちになる、というね。
 今日、耳の不自由なお方がみえていらっしゃいますが、広島で牧師をしております牧師婦人は、鼓膜(こまく)のない人でした。鼓膜のない人が、耳がいやされて、そして雨の音が聴こえる─。その時に、私に電話をくれました。「先生、お祈り感謝します。雨の音が聴こえますよ。」(今電話しても、電話通じますよ。)神様の奇跡、時間がかかった。長い時間だったけど…。

 第4番目、神様は私達の人生を、祝福で満たしてくださいます。
 先週、私は2つ、手紙をいただきました(メールと)。それは大きな借金を抱えておった方ですけれども、本当に不思議なこと、今申し上げたら「ほう、そんな不思議なことが起こるんですか!」というようなことで、お手紙の中に詩篇1篇3節「することなすこと、皆栄える。」することなすことみな祝福される、という御言葉が、「この教会に来てよかったなあ。」と、そう書かれておりました。御名を崇めます。

 第5番目、主イエス・キリストは、再びこの地上に来られる。
 今ヘブル(書)でしょう?ヤコブ(書)でしょう?その次はペテロ。「ペテロ第2の手紙」、開けてみて下さい。開けやすいでしょう?374ページになります。「ペテロ第2の手紙」3章の8節。お読みしますよ、3章8節。

 「愛する者達よ、この一事を忘れてはならない。主にあって一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に作り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。」(新約聖書・ペテロ第2の手紙・3章8節〜10節・口語訳)

 イエス・キリスト様は、2000年前のクリスマスに、first coming(ファースト・カミング)、初めてこの地上に人間として来られました。でも、second(セカンド)、再びイエス・キリストがこの地上にいらっしゃる、その場面であります(クリスチャンはこれを信じます。"再臨〔さいりん〕"と言います)。
 天の使いがイエス様を突き上げて、「イエス様、もう準備出来てますよ!もうこの地上、あきらめた方がいいんじゃないですか。もう再臨を興しましょう。我々、千々万々の天の使いがご一緒します。もう備えてます。」イエス様はなんと仰ると思いますか?「まだまだ、まだまだ。見てごらん、あそこにいる人も救われなきゃならないでしょう?もう少しだよ、忍耐しよう!」─ひとりの滅ぶるをも望み給わずして─「まだあの人は福音を知らないから、宣教師が一生懸命伝道しているから、もうちょっと、もうちょっと待とう。あのクリスチャンホームは全員が救われていないから、今再臨が起こったらどうするの、地獄に行ってしまうの?」救いの恵みにあずからない人がたくさんいるでしょう。「もうちょっと、もうちょっと待ちましょう。」すべての人が救われて真理を悟るに至ることを願って、「ひとりの滅ぶるをも望み給わずして、いと長くまっておられる。」信ずる者は、アーメンと言いましょう。アーメン。

 『ユダヤ人のビジネス教本』という本を読んでおりました。ビジネスマンが聖書を土台にしてビジネスをするという、ね。旧約聖書の1ページに、「はじめに神は天と地を創造された。暗闇の中で『光あれ』と言ったら、光が生じた。」神の創造の御業でありますが、ユダヤ人はこう考える。聖書を、「光が見出される前にあったのは、暗闇だ、混沌(こんとん)だ、カオスだ。」って。水しかなかった。(その上に聖霊が働かれておったけど)「光あれ。」光の前に暗闇があったという、「暗闇が創造されていた」ということに、注目すべきだ。
 日本人の感覚は、1日というのは"朝、日の出から夜"という風になっておりますが、旧約聖書をよく調べてみますと、旧約聖書は夜から始まって(日没から始まって)、そして朝が来る。おかしいでしょう?でもこれはね、人生にとって重要なテーマなんですよ。夜があって、朝が来る。暗闇があって、光がある。暗闇がありますか?思うように行きませんか?忍耐して

「これぬきには、生きられない」大川従道師 2005年11月13日

 「それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。」(新約聖書・ヘブル人への手紙12章12節〜17節・口語訳)

 特別賛美:ヨシュア会「慕いまつる主なるイエスよ(聖歌557番)」

 いやー、素晴らしいですね。大和カルバリーチャペルの、40代の男声合唱団。(この前来た)アカペラも真っ青(笑い)。アカペラの合唱、もう一度感謝しましょう。アーメン。また是非来年早々歌ってください。お願いします。今日は初めてのお方を沢山お見受けしますが、心からご歓迎申し上げます。少し大きな声で朝のご挨拶をしましょう。皆様、おはようございます。

 本当に皆さんのお祈りによって私が救われて、献身をして50周年を先週迎えました。ご奉仕をしてくださり、ご出席くださり、心から感謝します。500名ぐらいの方々がお見えになったようですが、花束をいただいたりカードをいただいたり、お祝いの数々、なんとお礼を申し上げたらいいかわかりません。国内そして国外(海外)からも愛を示してくださって、心から御礼を申し上げます。

 先週は3日間、石川県の金沢、野々市クリスチャンフェローシップの特別ご奉仕に行ってまいりました。牧師は梶山先生、奥さんは志津さん。すぐ近所に生まれ育った姉妹が献身なさって、お子様達も一緒に、非常に恵まれて伝道牧会をしておられる姿を見て、感激致しました。座間教会時代、この教会で救われて献身して、金沢の地で伝道している姿を見るだけでも、もう本当に大きな喜び、特別な喜びでございました。「やがて会堂建築をする時には、みんなで応援しますよ」と、そう約束してまいりました。瀬戸カルバリーチャペルは、190坪の土地を買うことができて、来年には新会堂が完成するということ、謙司伝道師も美奈子伝道師も、初めての会堂建築に一生懸命取り組んでおります。続けて覚えお祈りいただきたいと思います。皆様方の何人かの方々が教会債やご献金をしてくださって、応援していてくださることを、瀬戸の皆様も私も感謝で一杯でございます。神様の祝福がありますように。

 さあ、ジョークが2つばかりあります。アメリカにもけちんぼうの人がおりまして、若い人が結婚した。結婚式が終わりますと、牧師に「先生、謝礼はいくらしたらいいですか?」で、牧師がこう言いました。「あなたの奥さん、花嫁の美しさに応じてしてください。」そうすると、彼は「しめた!」と思って、1ドルばかり謝礼をよこしました。(このケチな青年め…)あきれ果てた牧師は、嫁さんの顔をまじまじと見て、「兄弟、おつり50セント。」(笑い)とんでもない話であります。私の問題ではない、アメリカの話であります(笑い)。
 投書欄で、レストランのアルバイトから帰って来た大学生の娘が、「お母さんねえ、悪いことしちゃったなあ。」普通はレストランでメニューを出して注文を承る時に、「以上でよろしいでしょうか?」と言うところを、朝のバイトでテンションが上がらず、「それだけですか?」(笑い)って言っちゃったんですよ(笑い)。
 私は先日コンビニに行きましておつりをいただいたんですが(5円玉1個だったんですが)、「お確かめください。」と言われてですね、(どうやって確かめようかな…)と思いました(笑い)。習慣は恐ろしいものでありますが、良い習慣は第2の天性なり。毎週聖書を読んで礼拝を守れるというのは、良い習慣だと思います。ご一緒しましょうね。

 「ヘブル人の手紙」の、最初は9章でありますが、ヘブル書における4つの(英語の聖書は)without(ウィズアウト:これなしには)というね。説教のタイトルは、「これぬきには、生きられない」ということ。9章の22節を最初にお開きいただきたいと思います。大変有名な箇所であります。
ヘブル書の第9章22節、ご一緒に読みしましょう、はい。

 「こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」
 ⇒without shedding of blood is no remission.
(新約聖書・ヘブル人への手紙9章22節・口語訳〔日本語〕)


 アーメン。"血を流す"ということによってのみ救われる、ゆるしがあるという。英語の聖書がそうでありますが、新改訳聖書も、「血を注ぎ出すことなしには罪のゆるしはないのです。」イエス・キリスト様は「死ねばいい」ということではありませんで、イエス様が出会い頭に交通事故で死んじゃった、ということでは救いは成就しない。こん棒で殴られたということでも、だめであります。ガラテヤ書の3章によれば、イエス・キリストは十字架につけられてのろわれた。のろいとなった、ということに重要なポイントがあります。もう1つは電気椅子で死刑にあったのではいけません。血を流すことなしには救いはあり得ない。なぜならば、レビ記の17章には「血は血をもってあがない取るべきである」ということ、「血の中にいのちがある、いのちはいのちによって買い取られるべきである」、というところであります。
 エデンの園でアダムとエバが罪を犯しまして、楽園を追放されますと、神様は歴史の中で初めてエデンの園で血を流されました。すなわち、動物を殺しなさって皮の着物を着せて、いちじくの葉っぱや木の葉っぱで体を隠しているのでは、どうしようもありませんでしょう。恒久的なものでありましょう。血を流すことによって初めて皮の着物が作られたという、これはイエス・キリストの十字架を象徴している内容であります。

 神戸にあるお寺の賽銭箱(さいせんばこ)から、27歳の若者が、賽銭箱に2円だけ残っていたということで、窃盗罪で起訴されたということを、新聞では「生活費に困って盗んだ」ということでありますが、神戸なんですからもうちょっとシャレて、"シャレ神戸(しゃれこうべ)"というぐらいですから、「2円では食えん(9円)」とか、「せめてご縁(5円)があったら」…とか、何か考えても面白かったでしょう。事務所に来れば食事はできますよ、というのもいいかなあと、そう思いますねえ。

 私が渡瀬恒彦さんと共演したヤクザ映画というのがありまして(なーんて言いますと、ほんのちょっとだけですけれども)、あの時に渡瀬恒彦さん(ヤクザ役)がですね、教会の中に入って来て、牧師(私)の副牧師役はですねえ、小崎先生ではありませんで、あの時はミッキー・カーチスであったんでありますが、お腹が空いたということで、インスタントラーメンをごちそうするんでありますが、ビクトル・ユーゴーの『ああ無情(レ・ミゼラブル)』の場合にはそうではございませんでした。
 神父さんはすごいですねえ。19年間も牢獄にいた男性に対して、「兄弟(brother:ブラザー)」とこう言いまして、彼は感動してですね、「私はこんなにやさしい言葉をかけていただいたことがない」ということで、夕食の接待になりますね。燭台(しょくだい)が出てまいります。もう大切なお客様にしか使わない銀のお皿が出てまいりまして、そこで食事にあずかって、もう本当に感動して涙、涙ということでありますが、夜は神父様と一緒に寝る、ということでありました。あんまり感動して夜寝つきが悪いということで、神父さんは軽いいびきをかいて寝ておるということで、ささやきがありますねえ、サタンのささやき。「盗んじゃえ、盗んじゃえ、盗んじゃえ。」「恩を仇(あだ)で返すな。」─両方のささやきの中で、とうとう悪魔に負けてしまって、銀の皿を盗んで逃げるわけでございますけど、やっぱりつかまっちゃった。で警察に連れて来られるんですが、神父様が粋(いき)なことを仰いましてですね、「それは盗んだんではございませんよ、私があげた物です。」と言ってですねえ。かっこいいですねえ。「どっかのお寺の2円と随分違うなあ」と思うぐらいでありますけど、そして彼はこう言いますね。「さあ、お帰りなさい。神様の愛の赦しを忘れてはなりませんよ」、ということであろうかと思います。私達は、その場における罪の赦しというものは犠牲によってなされるわけですが、人間の本質的な罪は、罪の無い神の子キリスト、救い主の血を流すことによって、十字架によって救い出されるのであります。あなたが良いことをして、お勉強をして救われるということではないのであります。
 イエス・キリストを罪からの救い主、人生の主として心の中心にお迎えする人は、アーメンと言いましょう。アーメン。

 第2番目、withoutであります。11章の6節をご覧いただきますか?ご一緒に読みましょうかねえ。11章の6節。ご一緒しましょう。はい。

  「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」
  ⇒without mission
 (新約聖書・ヘブル人への手紙11章6節・口語訳〔日本語〕)


 アーメン。without faith(ウィズアウト・フェイス)ということでしょう。ご注目いただきたいのは、「信仰が無いと神に喜ばれませんよ。なぜなら…」という理由が書かれておりまして、神に来る者は(新改訳聖書は「神に近づく者は」)─今日はみんな、神に近づいて、神のそばに来たわけでありますよね─第1は、神のいますこと、神様のご存在がハッキリしますよ。2つ目は、ご自身を求めて下さる者に必ず報いて下さることとを必ず信じるからである、というのであります。
 ロマ書の3章には、「神を求める人はいない。義人はいない、ひとりもいない。神を求める人はいない。」よく聞いてくださいね。神様に何かを求める人はいらっしゃるんですけど、神様ご自身を求める人がいない。もしもあなたが「何かを下さい」ということよりも神様ご自身を求めるという、神ご自身を求めるという、神ご自身を喜ぶということでありますならば、ご自身を求める者に豊かな報いを与えて下さるということが「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうしたら、あなたの必要なことはもう最初からご存知ですよ、必要な物は添えて与えられるであろう」、という世界を私達は体験することができると思います。

 今日は午後の3時から石井十次の映画を観ることになります。「石井のおとうさん、ありがとう」ということであります。現代における、日本におけるジョージ・ミューラーは、孤児を3000人も養ったという風に言われて、ジョージ・ミューラーの伝記を読みますと、「これぞ信仰の人」というね。私達もあのような信仰が必要でありますが、石井十次も同じように岡山の地で孤児院を開きまして(まあ私はその現場に立ったことがありまして感動致しましたが、今日はその映画を観ることができるわけでありますが)凄い映画であります。また、凄い神に対する信頼であろうと思います。
 私の家内は女子学院の卒業生でありますが、(中学生、高校生)まだ10代の時に山本つち院長が、いつも詩篇の121篇の1節、「我、山に向かいて目を上ぐ。我助けはいずこより来るや。わが助けは天と地を作られた主より来る。」これが繰り返し語られたそうでありますが、少女の心の中に御言葉が留まって、今でも時々思い起こす。難しい問題、行き詰まった問題がありましたら、「私は下を向かないで『我、山に向かいて目を上ぐ。わが助けは、天と地を作られたあのお方様から、必ず来る。』」という、これはクリスチャンでない少女の心の中に留められて、それが今日まで、私達にその御言葉の素晴らしさを教えているわけであります。信仰が無ければ、神に喜ばれることはできない。

 第3番目、それは12章。1ページ開きまして、12章の1節からお読みしたいと思います。12章の1節。

 「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、(考えなさい)思いみるべきである。あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。また子(供)たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、『わたしの子(供)よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子(供)を、むち打たれるのである』。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子(しせいじ)であって、ほんとうの子ではない。」(新約聖書・ヘブル人への手紙12章1〜8節・口語訳)

アーメン。ここでも"without"という言葉が使われておりまして、弟子になるための訓練抜きには、神様の愛というものは訓練の中にありますよ。アンドリュー・マーレーという人物が、「どうしてクリスチャンは成長して用いられないのか」ということに対して、「信仰の導き手、このお方を仰ぎ見るということをしないからだ」と言われたのでありますけれど、同じようにクリスチャンが用いられるためには、どうしても訓練されようとしないから、「誰でも訓練されたら神様に用いられる」と申し上げてよろしいかと思います。

 今回の金沢の伝道旅行で、小松飛行場に降りましたら、梶山先生がヤンキースの松井秀喜さんのご実家が近くにありまして、そこを訪ねるということにしました。中に入れてもらったわけではありません。目の前に立っただけでございますが、隣に博物館のようなものがありまして、彼の幼い時からの写真であるとか、グッズであるとか、またバットやボールやグローブやなんかが置いてあるという、大変素敵な記念館がありました。一流になればなるほど、厳しい訓練を経ること無しに活躍しているスポーツマンは、1人もいないでしょう。イエス様は仰いました。「私について来なさい(Follow me:フォロー・ミー)。I will make you fishers of men(私があなたを作り上げるから。人をすなどる者にしますからね).」
 ですから私達の側は、作られやすい性質、教えられやすい体質、teachable personality(ティーチャブル・パーソナリティー)というようなことが、私達の人生に非常に必要なことで、生意気ばっかり言わないで、従順するという。
 私は幼い時に自分の名前が嫌いでありまして、なぜ?大川従道(つぐみち)って読んでくれませんで、学校の先生達は、"たてみち"と読んだり、("よこみち"とは読まないけど)"よりみち"と呼んだり、"じゅうどう"と読んだり、まともに"つぐみち"までたどる人は、1人もおりませんでした。ですから「いやな名前だなあ」と思いましたが、クリスチャンになりましてから、イエス様が「わたしは道です。」─この道にお従いする、という名前をつけていただきましたので、私は本当に喜んで、この名前を誇りにしております。ですから自分に課したのは、どんなことがあってもイエス様に従順する、だって私の名前は"従う道"だから─ということであります。神様から大変厳しい訓練を受けてまいりましたけれど、どんな時も神様にたてつかない、文句を言わない。温順で過すことができたことに対して、神様の恵みだと思います。本当に感謝します。

 梶山先生に(もう十数年前でしょうかねえ)、あることをなさったので、私が誉めました。「梶山先生、えらいねえ。」梶山先生がなんて言ったかというと、「当然ですよ!私は先生の弟子ですから。」って、(うわー、カッコイイこと言うなあ)と思いました。

 もう25年くらい前、座間教会の隣に柿谷(かきたに)先生が住んでおられた時代があります。カウンセラーの専門家である牧師でいらっしゃる牧師でありますが、私が聞いているであろうにもかかわらず、そっぽを向きながら、「この教会の若者達は、キリストの弟子であるということの自覚が無いんでしょうねえ」みたいなことを言って、私の心がグサリときました。「この教会は、弟子たる訓練を受けていない。弟子という自覚が無いままクリスチャン生活を送っているのではないですか?」と問われたような気がしています。今はどうでしょうねえ。キリストの弟子である誇りと自覚を持っていますか?「私はキリスト様のお弟子であることを喜んでいます、誇りに思っています。」そういう人は、アーメンと言いましょう。アーメン。

 先週私達は栞(しおり)をいただきましたね。素敵な栞でしたね。午後の集会でしたけど、「汝(なんじ)ら 我を選びしにあらず 我 汝らを選べり」献身50年、私はこのヨハネ15章16節の御言葉で、献身のお招きとして(召命として)受けとめました。ありがたいですねえ。私が神様を選んだと思っていたら、そうではない。「私があなたを(あなたがたを)選びました」ということに対して、私はもう、本当に神様に感謝を申し上げております。選ばれてそこに鎮座ましましているだけではない。「重荷を持って苦労している者よ、私の元に来なさい。「あなたの人生に安息を与えますよ」というだけではありませんで、神様の栄光の為に用いられるために、ある時には重荷を担がせ、ある時は私生児でない本物の子供である証拠で試練を、訓練を与えていてくださるということを自覚してまいりました。
 皆さん、どうですか?本当に試練や困難や行き詰まると文句を言う人は、弟子であることの自覚が無い方々でありましょう。弟子たるものは、必ず試練、訓練、トレーニング、エクササイズ、神様からそのように取り扱われることを光栄に思いましょう。つまらない困難な環境、マイナスと思えるような出来事の中に自らを置いた時に、「神様が私を今訓練しているんだ。逆境に勝る教育なし」という、そういう世界であります。主よ、私はどんな訓練にも耐えさせていただきますから、私を訓練してください。弟子として選んでいただいたことを喜ぶ者は、アーメンと言いましょう。アーメン。

 さあ、第4番目、これが今日の中心であります。ヘブル人への手紙の第12章の12節から、今日司会者がお読みくださいましたが、もう一度挑戦しましょう。第12章、12の12、覚えやすいですね。 

 「それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい(これは、"祈りのひざを強くしなさい。モーセのように手を上げて祈りなさい"というね、祈りのことでしょうね)。また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい(心と体がいやされること、過去がいやされること)。すべての人と相和し(仲良くし)、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ(ならなければ、ね)、だれも主を見ることはできない(ここに"without holiness"とね。きよくなければ、きよめられなければ誰も主を見ることができない、というね)。気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。」(新約聖書・ヘブル人への手紙12章12節〜15節・口語訳)

という。新改訳聖書は、この14節を「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」さあ、非常に重要な、何十年もの間、聖めを説く教会で誤解をして語ってきた牧師がたくさんおります。それは、救われただけでは天国には行けない。聖められなければ。洗礼を受けただけでは天国に入れない。「聖められなければ、主を見ることはできない」というこの御言葉に土台したからであります。それは間違いであります。良く知ってください。救いというものは、一方的な神様の恵み、アメイジング・グレイスであります。あなたが(いいですか?いいかげんであっていいはずはありませんけど)いいかげんなクリスチャンであったとしても、もし罪を悔改めしてイエス・キリストを救い主として信じて心の中心にお迎えしておりますならば、あなたの素行が少々悪くても、残念ですが聖書の世界が良くわからなくても、(いいですか?)聖書研究を良くしていませんでも、信ずるだけ、キリストを救い主として信ずるだけで、罪赦されて神の子とされて永遠の命をいただくことができます。これがキリスト教の最も優れたエッセンスであります。
 しかしながら、聖霊のバプテスマを受けていない、異言の賜物、他の賜物も持っていない、このところに出てきますholiness(ホーリネス:聖め、聖化)というものも持っていないとするならば、天国は行けますけれど、この地上で奥座敷、深い世界、これは特別な世界を理解すること、見ること、味わうことはできないという風に受けとめることが健全な教えであることを知っていただきたいと思います。 「安心した」ということと同時に、求める渇きが湧いてきたと思います。

 先週は、エペソ人への手紙の2章から、パウロ先生が敵意を十字架で滅ぼす、というメッセージをされました。エペソ書2章の14〜16節ですが、16節が今出ておりますが、ご覧下さいますか?覚えていらっしゃいますか?体が震えるようなメッセージだったと思いません?

 「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を(敵対する気持ちですよ)十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(新約聖書・エペソ人への手紙2章16節・口語訳)

という内容。内側が探られましたね。ガラテヤ書の2章の19、20と同じように、「わたしはキリストと共に十字架につけられました。もはやわたしが生きているのではありません。キリストがわたしのうちにあって生きているのです。」私の内側の肉が、自己中心が、selfがという話題でしたが、それが崩されて聖められるという世界、敵意と憎しみという、敵対心という、赦せない心という、そこまでまだ行きませんけれども(もうちょっとレベルは低いようですけれども)、「苦い根を張っていて」、と(レベルは低いように聞こえますけれども)そのことが私の人生をだめにし、そして周りの人生をもおかしくするという、そういう内容であります。

 エペソ人への手紙の、今2章の話ですが、4章(ちょっと開けてみましょうね、またここへ戻りますからね。いいですか、何か挟んでおいて下さいね)、エペソ人への手紙、305ページであります。4章の26節、よろしゅうございますか?4章の26節、ご一緒に読みましょうか?26、27、はい。

 「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない。」(新約聖書・エペソ人への手紙・4章26〜27節・口語訳)

 アーメン。悪魔に機会っていうのはね、トポス(場所)を与えてはいけないというから、若い兄弟姉妹よ、ねえ、コンピューターで悪い物を見ないように、チャンス、場所、これに「気をつけなさい」ということでありますが、26節に書かれておりますことは、非常に重要なこと、今までに話したことのないお話を致します。私は後日この話をしようと思ってため込んでおったメッセージでありますが、抑えがたくて今日お話をするような内容であります。

 マルチン・ルーテルは「私達の頭の上をスズメが通過することは拒絶できない。汚い思い、敵意、憎しみ。そういう思いがパッて通過しても、『男だもん、しょうがないや。』しかし、スズメが頭の髪の毛を利用して巣を作るというようなことは、『NO,やめておきなさい!』こう言うことができる」と言いましたが、「心の隙間にサタンに入り込まれないように注意しなさい」という。
 東京神学大学のオオキヒデオ先生(ピューリタンの世界的な権威者でありますが)、このお方がこんなこと、この「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで日が暮れるようであってはいけない」というのは、単なる道徳的な教訓を語っているのではない。「いつもニコニコしていなさい。」というレベルのことではない。よろしゅうございますか?怒りというものが怨念(おんねん)と化し、永遠化するという。怒りというものがいつの間にか罪に変わってしまう、という。この文字を見てくださいますか?<怒りの神化>という、もう英語に直したら大変な言葉であろうと思いますが、<永遠化の否定>という言葉を用いているのでありますが、怒ること(怒るということは相手の何かを見て怒る、さばくということですが)、少しはしょうがないんですけども、怒りの賞味期限というものは1日である。「怒りの賞味期限は1日である」、というすごい言葉を使っております。怒ることは、さばき続けることによって自らが正しく自分はさばかれる存在ではないと思い込んじまって、少なくとも怒る資格、相手を罪に定める資格など自分には無いということが分からない。
 エペソ人への手紙の2章というところには、「わたしたちは生まれながら怒りの子供であった」というのはねえ、(口語訳聖書は"怒りの子供"って書いてありますが)それは子供の時から"怒りっぽい"って、(確かにまあ怒りっぽい子供がいないわけではありませんけど)、そういうことではないんですよ。"私達は神の怒りの対象"という意味でありますが、こういうような存在であるという自覚をしていない。

 山本七平さんという、イザヤ・ベンダサンの名前を使って、大変歴史に残る書物をお書きになったクリスチャン、無教会派のクリスチャンがいらっしゃいますが、その自叙伝(評伝と言いましょうか)、そのタイトルがですねえ、『怒りを抑えし者』という。『怒りを抑えし者』というタイトルでありまして、私は以前この書物を読みました時に、まあなんて気の利かないタイトルをつけたものかなあ、という風に思ったことがありますが、今回はもう恐れ入りました。
 山本七平さんというのは戦争に行った人でありますが、内側にはですね、ゆるせない出来事をたくさん経験したと思います。義憤、「こっちが正しいんだ、向こうが正しくないんだ」ということで怒り狂ってもおかしくないけれども、『怒りを抑えし者』というのは、一体誰であるか。題名だけでも深くて圧倒されるようなことでありますが(韓国の方がみえていらっしゃいます。台湾の方もいらっしゃるんでありましょう。インドネシアの方もいらっしゃいます)、東南アジアの方々は日本人を憎しみ続けておられるわけでありますが、もしクリスチャンでありましても、もし憎しみ続けるというようなことがもし明日あると致しますならば、怒りというものを抑えるということができないと致しますならば、怒りを放棄する、怒りを神にゆだねるということができません、ということに問題がある。
 "怒り"というものを永遠化しない、というレベル、現代人の最も大きな問題、間違いというものは、人間の判断を絶対化する。エデンの園で、神様が「絶対1つだけやっちゃいけないことがある」と仰った、それは善と悪を知る木の実は食べちゃいけない、というものをアダムとエバは断った。善と悪とを知る木の実というその領域がある。それは神の領域であって、人間が侵してはいけない、入り込んではいけない世界というものを人間が侵した、そこに大きな問題がある。サタンが誘惑して、「これを食べたら、神のように賢くなるであろう。」と言ったけれども、そういう状況の中で今日まで歩みを続けて来た、白黒の決着をつけられる唯一の絶対者なるお方様は、全能の神様だけであるということ。
 ある程度怒ることは、しょうがないでしょう、感情がある以上は。しかしながら、手を引かなければ危険であるということ。現代人は、理性を絶対化するということが起こり得ます。すべての人間的なものを永遠化すると言いましょうか、その結果、バベルの塔のように混沌とするということでありますが、山本七平さんが、"怒るということを抑えし者"という、『怒りを抑えし者』というタイトルは、「山本さん、立派ですね。あなたがこのメッセージをとらえて、「私は怒らない。賞味期限は1日である。私は神の恵みによって、怒りというものを、復讐というものを神の御手にゆだねたんだ。山本さん、えらいね。」と、そういう風に第2礼拝まで思っておりましたが、今私はね(それもその通りであろうと思いますが)、「神様ご自身が怒り狂ってもおかしくないのに、『怒りを抑えし者』というのはどなた様か」と言えば、それは主イエス・キリストが唯一怒ることのできるお方、さばくことのできるお方がそれを抑えられた。抑えられただけではなくて、「父よ、彼らを赦してやって下さい。彼らは何をしているかわからずにいるのです。」と祈られたお方様を指差しておるとするならばすごいことだなあと、今、講壇でうなっているところであります。

 ヘブル人への手紙の12章に戻ることに致します。12章の14節。

 「(だから)すべての人と相和し(平和に過ごし)、また、自らきよくなるように努め(努力し)なさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない(あの世界に入ることはできませんよ)。気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。」(新約聖書・ヘブル人への手紙第12章14節・口語訳)

 放っておいたならば、天国に行けるかもしれませんけど、あの苦い根がちょくちょく出てまいりまして、私達の人生をだめにし、私達の周りを混乱させる、そのことに触れていただくこと抜きには奥座敷に入れませんよ。敵意の問題、赦せない心、冷たい心─それを十字架のあの恵みによって、滅ぼしていただきましょう。苦い根は、自分と周りを汚すことになるから、それを取り除いていただきましょう。これはまさに、聖霊様によるところの悟りであると思います。
 私は数ヶ月前に、本当に感動的な出来事を耳にしました。私がずうっと祈ってきたことでありますが、親子の関係が上手く行かない。お父さんはゆるしをこうているんですが、息子の方はゆるさない。絶対ゆるさない。その証拠は、会わない。そして、孫も見せない。皆さん、愛の関係を断ち切るということは、最も恐ろしい。神様との愛の関係を断ち切るということは、最も恐ろしいことであると同時に、人間の愛の関係を断ち切ることも恐ろしい罪であろうと思いますが、ある出来事を通して悔改めをするというか、涙をもって和解するという出来事を私はお伺いして、本当に大きな恵みでありました。サタンのやつは上手に縛りますからね、私達の心を。あなたは正しいと思っているかもしれない。あなたは「義憤だ、これは憤りだ、これは私が怒る権威があるんだ、あいつが悪いんだから、あの人が悪いんだから」と言うかもしれないけれど、それは1日ぐらいで賞味期限は切れますよ!私達は神様の御手にゆだねること無しに永遠化したら、あなたの人生はおかしくなりますよ、ということ、アーメンでしょうか。神様、どうぞこういう世界を私達に教えて下さい。

 私達の教会に、アメリカから宣教師で岡村ケン先生がみえていらっしゃいますが、英語礼拝で、先週「私は大川牧師との出逢いがなければ、今日はない。」そんな話をしました。そういえば、ケン先生も私が洗礼を授けました。お兄さんも、そして秀才のお姉ちゃんも、私が洗礼を授けましたよ。お父さんもお母さんも、今恵まれて過ごしていらっしゃいます。岡村先生はこう仰いました。
 「私は先生との出逢いがなければ、高木先生の1人娘、、真理さんと結婚することは無かったでしょう。そして、2人のかわいい子供が与えられるというのも、先生との出逢いがあったからこそです。」と涙ながらに出逢いを感謝され、50周年を祝ってくださいました。本当に「人生は出逢いで決まる」というのはこういうことだなあ、と思って私も感動したわけであります。御名を崇めます。栄光は主に。

 私は救われて50年、献身して50年、これを聖書的な表現では「ヨベルの年」と言います。"ヨベル"というのは、英語では"Jubilee(ジュビリー)"と言うんですけども、それはイスラエルの国、旧約聖書の中にそのことが書かれておるんでありますが、イスラエルの国は7年毎に(7は完全数なんですけども)、素晴らしい恩赦(おんしゃ)、恵みのようなことがあったわけですが、7×7=49(しちしちしじゅうく)、49年、もう1つ足して50年、この2年間は過去においてどんなひどい借金を持っておったとしても、チャラになるというね。これを「ヨベルの年」というんですよ、すごいでしょう?イスラエルの国は貧乏で、自分の田畑をねえ、人に売っちゃったとするでしょう?50年目のヨベルの年には、それが無償で戻ってくるって。すごいでしょう?ねえ。奴隷はねえ、自分がお金が無いからねえ、奴隷の身になっちゃったんだけれど、しかし奴隷生活から解放されて自由になる、と。これを、ヨベルの年と、こう言うんですよ。もう1から10まで「誰がこんなことを考えたか」ということが聖書に書いてあるんですけども、人間は、ちょっとずるがしこいところがありまして、ヨベルの年が近づいてまいりますと、「おい、間もなくヨベルだからたくさん借金しておけ、借金がチャラになるから。」こんなことをねえ、考えるようになったからでありましょうか?どうだかよく分かりませんけれど、歴史学者に言わせてみると、ヨベルの年というのは1度も実現したことがない。実現したら凄いね、日本でもヨベルの年が実現したら、「借金している人、手を上げなさい」って言ったら(もう、みんなニコニコしておられるじゃありませんか、ねえ)、あれが無くなったら…てなもんでございますよ。
 しかしながら、主イエス・キリスト様は(イザヤ書の61章の1節で、その「ヨベルの年」が書かれているわけですが)、それを引用されまして、御自らがルカ福音書の第4章の17節から19節まででありますけれど、

 「すると預言者イザヤの書物が手渡されたので(これがイザヤ書61章なんですが)、その書を開いて、こう書いてある所を出された、「主の御霊がわたしに宿っている(anointing〔アノインティング〕という言葉がある、油注がれた)。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしを(派遣して)つかわして、囚人が解放され(ね、ヨベルの年にはもう牢獄にいる人がみんな解放される、赦される、ね)、盲人の目が開かれる(ある世界が開かれる)ことを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年(というのは定冠詞がついておりまして、これは大解放の年、ヨベルの年を表す)を告げ知らせるのである。」(新約聖書・ルカによる福音書4章17節〜19節・口語訳)

というイエス・キリスト様ご自身のご自覚の中に、過去の歴史の中に、この偉大なヨベルの年が1度もなされていなくても、私を通してそれが実現されるのであるということを仰られたという風に風に理解してよろしいと思うのであります。大変著名なお方で、ジャン・バニエというお方がいらっしゃいますが、そのお方のお書きになられた『Becoming Human(ビカミング・ヒューマン)』という書物があります。新教出版社は<人間になる>と訳しておるのでありますが、その第5章に「ゆるし」という問題が書かれておりまして、「ゆるし」というのは原文のギリシャ語では「解放する」とか「束縛から解き放つ」という意味で、借金や罪や罰の赦免(しゃめん)を意味するんだ、と今申し上げましたね。その中に、凄いことが書いてあるんですよ。ジャン・バニエがですね、「集団の憎しみ」という話題をしているんですが、ある友人の叔父さんがですね(オーストラリア人なんですが)、若い時に戦争でドイツ人にガス攻撃を受けて、ガスの為に障害を受けて「自分の人生っていうのはやられた」、だからドイツ人も、憎しみを持ちながら何年も過ごして来た。憎悪の念を抱き続けてその話をするものですから、家族全体も「ドイツ人は悪い奴だ、ドイツ人はひでえ奴だ、ドイツ人なんかぶっ殺せ!」みたいなことで、叔父さんの口癖は「ドイツ人は蛮人(ばんじん)だ、野蛮人だ」というね。しかも日本語に訳しているのは、カタカナで"ド"を書きましてですね、"ド蛮族(ばんぞく)"というね。よっぽどひどい、そういう悪口を言い続けたので、その影響を受けて家族全体がドイツ人に対する憎しみというものを幼い時から持っていた。憎しみの言葉や霊で代々私の家庭は毒されて、怨念の雰囲気があった。これは私達の個人としても社会としても、ゆるしを選び取らなかった場合の人生の現実、山本七平さんの反対、怒りや憎しみを抑えきれなかった人生。
 東南アジアでねえ、(日本人が悪いんですけど、本当に申し訳ないと思っていますけど)ゆるさない為に、憎しみを持ち続ける為に、「絶対にゆるさない」と心の根の中に苦味を持っている為に、サタンの奴にまんまとやられている国や人々がどんなに沢山いるかわかりません。

 私の友人が手紙の中で、(いいですか)アメリカの北米の原住民の使った原則について書いています。つまり、「大事な決定の際には、いつでも子孫に及ぼす影響について考えなければならない」という原則です。凄い原則ですね。私達の中には他人を決してさばかず、ゆるさず、心の傷を第3世代へ、第4世代まで、あるいはもっと後までも、平気で伝えるような人達が何百万人といるに違いありません。このように、世界では心の傷が継承されて行くのです。」というね。
 "Remember,Pearl Harbor(リメンバー、パールハーバー)."、同じことでありますね。「

「イエス様との金婚式」大川従道師 2005年11月6日

「神のみまえと生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい。話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて、教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。わたしは、既に自分を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠が私を待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それをして授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいた。すべての人にも授けて下さるであろう。」
(新約聖書・テモテへの第2の手紙4章1節〜8節・口語訳)


特別賛美:WINGS「Mary's Song」

 素敵なマリアさんたちの歌声でした。今日は、群馬は桐生からもお越しくださいました。かなり遠くから来て下さった人達がいらっしゃいますけれど、また初めての方々も、受洗者の祝福に来て下さって本当にありがとうございます。少し大きな声で、朝のご挨拶をしましょう。皆様おはようございます。
 今日は11月の最初の日曜日ですから、誕生祝福のお祈りをします。誕生日をお迎えになる方、そして洗礼記念日、霊の誕生日の方、結婚記念日の方、(初めての方でも結構ですから)、ご起立くださいますか。ひとことお祈りをさせてください。アーメン(沢山いらっしゃいますね)。アーメン(2階席にもいらっしゃいます)。アーメン、お祈りします。

 恵み深い天のお父様、主の御名を崇めます。ご起立になっていらっしゃる方々は、この1年間、主の恵みの中にありながらも、いろんな試みに遭ったり、戦って来られた方々です。中にはいまだに、光の見えないトンネルの中を歩んでいる方もいらっしゃいます。しかし、「主の恵みは、あなたに対して充分です」、とお言葉をいただきながら、今日も礼拝を守りに来ました。どうぞ特別な恵みで満たしてください。あなたの恵みを知りませんでしたら、いたずらに年を重ねるだけでありましたけれど、このような記念日を迎えながら、年を重ねていきます。「生かされているんだなあ」ということを自覚して、前進します。目的があって、意味があっての毎日でありますことのゆえに、御名を心から崇めたいと思います。どうぞ兄弟姉妹達、あなたの息子娘に素晴らしいことをたくさん経験させてあげてください。鈍い私たちですから、しるしと奇跡をもって、主の御名を崇めさせてください。また主よ、ある時は恐れることなく大胆に、光の子供としての務めを果たせるように、ある時は知恵を尽くして己を隠し、知恵のある地の塩としての務めが果たせるように、助けてください。愛が壊される時代ですが、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なる神を愛し、己を愛するように隣人を愛し、この地上にあって、神を誉めたたえ、主に喜ばれることは何でもできますように。することなすこと、みな成功しますように、助け導きたまえ。主イエス・キリストのお名前で、祝福してお祈りします。アーメン。

 ♪God bless you ハレルヤ God bless you ハレルヤ God bless you ハレルヤ God bless you ハレルヤ God bless you ハレルヤ♪

 God bless you(ゴッド・ブレス・ユー).ちょうど「おめでとうございます」の時に花が映りましたけど、みんな、花束をいただくような気分になってください。
 先週のバザーは、天候も祝福されて、本当に素晴らしい委員会の皆さんをはじめ、ご奉仕された方々、男子の方々も大活躍で、楽しかったですねえ。かわいい幼稚園の女の子が、私に「芋掘りにいってきました」と言って、お芋を持って来てくれました。本当に、老いも(おいも)若きもみんな楽しんで(笑い)、素敵なバザーでありました。心からお礼を申しあげます。日本に四季があるということは、本当に素晴らしいことだと思います。教会の裏のお庭の柿もなりまして、熟しております。美しいですねえ。有名な(正岡)子規(しき)の歌でありましょうねえ。「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」 というね。"あの法隆寺というお寺はとてもハイテクで、柿がなる度にオートマティックに鐘が鳴るようになっている"と理解した人がいるそうですけれど(笑い)、残念でございました。
 これはユダヤ人のジョークであります。あるユダヤ人のご夫妻が、結婚50周年記念を迎える日が近づいてきました。息子に電話を入れました。「息子よ、父さんねえ、母さんと離婚するよ、離婚!」─ビックリした息子さんが、「お父さん、何が起こったんだよ。僕が行くまで、絶対に離婚証書にハンコなんか押さないでくれよ」。息子はもう慌てて、隣の町に住んでいるお姉ちゃんに電話を入れました。「ねえちゃん、大変だよ。うちの親父から電話があってさ、離婚するって言ってるんだよ。」お姉さん、またビックリして、お父さんに電話をかけました。「お父さん、何があったのか知らないけど、待っててね。私が行くまで、絶対に家を出たりなんかしないでよ。」受話器を置きました。年寄りのお父さんは、ニヤリ笑って満足気で、奥様に言いました。「母さん、喜べよ。新年にも、お正月にも来なかった、過越しの祭りにも来なかった息子娘が、飛んで来るんだそうだよ。ああ、これで50周年記念は万々歳だね!」というね。えー、私が作ったのではありません。ユダヤ人のジョークであります。
 今日は私の救いと献身の50周年記念で、特別にお電話をしたわけではありませんのに、駆けつけてくださってありがとうございます。では50周年記念(ヨベルの年と言いますけれど)、特別なメッセージをお取り次ぎ申しあげます。

 テモテの第2の手紙の第4章でございますけど、これは使徒パウロという先生の13の手紙の最後の手紙であるという風に言われます。今回は、AD67年ぐらい(この手紙が13の手紙の最後で、この手紙を書いた数ヶ月後に彼はネロ皇帝の元で、首を切られて死ぬという、まあそういうことが伝えられております。私は2度ばかり、彼が殺されたであろうと思われるその石畳の上に立ちました。そしてそこにこうちょっとしたポールのような石がありまして、そこに首を置いて、そして"上からやられたであろう"という所に立って、涙したことを覚えております。
 1章から3章までは、若いテモテに対して懇切丁寧にご指導なさったパウロの心、4章、今日のテキストは、パウロ先生の最後の様子であります。偉大なパウロ、百戦錬磨と言われるような、野武士のよう勇者が、孤独の中から若いテモテに「早く来て欲しい、早く来て欲しい」、と2度にわたって書いている。それは本当に不思議なことであります。テモテとは親子の関係ではありません─師弟関係でありますが、実の子供以上の関係で、「我が子よ」とか「我が愛する子よ」とか「真実な子よ」というような言葉で表現されておるのでありますけれど、「寂しいから来て欲しい」ということも無かったわけではありませんでしょうが、同時に「どうしてもお伝えしたい、知って欲しい」ということをそばに置いて指導したかった、という心境でありましょう。信仰の遺産を次の世代に手渡すということの重要性、9節には「急いで早く来て欲しい」とあります。21節には「冬になる前に急いで来て欲しい」と、そう書かれています。
 
 私は父親の死に目に遭うことができました。息子達、また妻の励ましがあって、私は父親が死ぬ前の数ヶ月間、何度も何度も通うことができました。本当に感謝しています。最期、あの恵まれた父親が、天を仰ぎながら召されて行きました。私と伝道の話をいつもしました。最期は衛星放送の話をしながら、目を閉じ、主の御許(みもと)に召されていきました。本当に幸せな、親子の別れでございました。
 母の時はそうではありませんでした。知恵がありませんでした。私がまだ未熟でありました。人間の心をわきまえないかのごとくに、「ねえ母さん、僕は伝道者、お母さんだって伝道者でしょう?伝道のために一生懸命なんだから、そばに来なくたってねえ、我慢してよねえ。」母は言いました。「わかっていますよ。伝道一生懸命、牧会一生懸命しなさい。お母さんのところに来る必要は無いからね。」ということで、私は行きませんでした。亡くなってから母を訪ねて、随分泣きました。「ああ、人の心の分からない、わきまえない伝道者だなあ」、とそう思いました。大失敗しました。若者よ、親御さんがもしご存命でありましたら、どうぞ大切になさってください。
 
 イエス様は弟子を選ばれる時、(マルコ福音書の第3章では)「メタ」というギリシャ語を使いまして、いつも側(そば)、側、側に置く為に弟子を選んだという風に書かれておりますが、十字架にかかられた時に、なーんとイエス様のお弟子さん達は、みんな散り散りバラバラにいなくなりました(ヨハネが、まあ、残っておりましたからねえ。天国に行きましたら、「ヨハネさん、どうもありがとう」と言いたいところであります)。4章の11節をご覧いただきますと、「ただルカだけが、わたしのもとにいる。マルコを連れて、一緒にきなさい。彼はわたしの務のために役に立つから。」とあります。ルカはお医者様でいらっしゃいます。お医者様が、最後までパウロ先生とご一緒していてくださったということは、私達にとって慰め─パウロの最期を看取ってくれたかなあ、というような感じがいたします。
 マルコという若者が出てまいりますが、この人物は箸にも棒にもかからないようなとんでもない男であったんでありますけれど、この人物はイエス・キリスト様によって変えられたんでありましょうねえ。「彼は役に立つから」というようなことが書かれておりますけれど、いや、彼が変えられたということもあろうかと思いますけども、パウロ先生自身が円熟して成熟して、この役に立ちそうもない目障りな男に対して、「彼も役に立つから私のそばに置いてくれ」と、パウロ自身が寛容な心が広げられて、マルコという人物を最後の最後の最後に仲直りをするかのごとくにして受けとめた、そういう風に考えることが正しいのではないかなと思います。

 「あなたが来るときに、トロアスのカルポの所に残しておいた上着を持ってきてほしい。また書物も、特に、羊皮紙の(もの)を持ってきてもらいたい。」(新約聖書・テモテへの第2の手紙・4章13節・口語訳)

とそう書かれていますが、この羊皮紙というのは(羊の皮の紙と書きますけど)、ここに文字を書きまして、当時の聖書を、これを丸めまして、巻物のようにしておるわけでありますが、聖書を最後の最後の最後にお勉強したいというようなこと、牢獄の中からの要請であります。ジョン・マクレーというキリスト教史のご専門の歴史家が、このパウロがローマの牢獄の中で生活したというのでありますが、彼の宣教生活、信仰生活の4分の1は牢獄の中にいたという風に言われるのでありますが、ローマの時代に投獄される前に、罪人が捕えられますと、裸にさせられてムチを打たれます。皮が破れて肉が裂けて、そして血だらけになります。40に1つ足らないムチ、40回打つと死んじゃうというようなムチを何度も受けて、そして、そこらへんに転がされるというようなことであります。非常に厳しい刑でありまして、恥ずかしめを受けるわけでありますが、傷の治療を受けないままで、手かせ足かせを繋がれます。洋服は破れるのでありますが、血まみれになりましたが、その寒い時でもそれが新しい物
と交換されることはありませんでした。耐えられないほどの侮辱もありますけれども、水が不足すると言いましょうか、喉が渇く、寒さに耐えることが難しい。狭苦しいお部屋の中で、トイレからたつところの悪臭がありますが、この劣悪な環境の中で、だいたい神経をやられてしまって、自ら命を絶つ、生きる意味がなくなるというようなことで死ぬ、自殺をするという人達が多く出たという、こういう状況下でパウロは励ましと喜びに満ちた手紙を書き、主イエス・キリストの証をしていった、という風に理解してよろしいと思います。
 13節に「上着を持ってきてほしい」と書かれておりますが、これは寒さをしのぐためであろうということが第一であります。差し入れてほしい、と。もう1つは、この上着はもしかすると、誰かから作られて、まあ「誰のものでもいいから」ということではなくて、「あの上着」と言いましょうか。使徒行伝の第9章では、パウロ先生が救われた出来事のちょっと後半に、ドルカスというね。「ぬいぬいクラブ」のメンバーのようにお針物が大好きで、当時ドルカスが死んでしまうと、周りに人々が集まって涙を流すというような場面が書かれております。パウロ先生も(多分、ドルカスからでありましょうか)親切にしていただいた(他の人でありましょうか)、「上着を持ってきてほしい」、その上着のことには思い出がたくさんある。まるでそれは祈りが積まれているかのように、祈りに包まれる気持ちになったのであろうかな、と思われるような内容であります。
 16節、17節をお読み致します。16節と17節。

 「わたしの第1回の(裁判)弁明の際には、わたしに味方をする者はひとりもなく、みなわたしを捨てて行った。どうか、彼らが、そのために責められることがないように。しかし、わたしが御言(神の言葉、聖書)を余すところなく宣べ伝えて、すべての異邦人に聞かせるように、主はわたしを助けて、力づけてくださった。そして、わたしは、(ライオン)ししの口から救い出されたのである。」(新約聖書・テモテへの第2の手紙・4章16節〜17節・口語訳)

という。裁判を受ける時に、わたしの味方をする者がゼロであったということは寂しいことであります。新改訳聖書は、この17節を「しかし主は私とともにお立ちになられ」って、ねえ。裁判は一人ぼっちだった。みんな私を見捨てて、でも主が「私と共に立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通して、みことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。わたしは、ししの口から助け出されました。」─まさか、ライオンの問題ではありません(いや、もしかすると、ネロのことですから、ライオンの問題もあったか)。ししの口から、よっぽどひどい拷問や迫害があったのでありましょう。孤独の中で、誰もそばにいなかったんですけれど、「主が私とともに立ち」という。英語の言葉が出ましたね。「He(『Stand By Me〔スタンド・バイ・ミー〕』だよね)stood by me(ヒー・ストゥッド・バイ・ミー:私のそばに主が立ってくださった).」私達の主が、the Lord(ザ・ロード:主ご自身が)、with me(ウィズ・ミー:私と一緒に)、ああ(見えなかったけれど、あの一人ぼっちの時に誰も味方はいないようだけれど)、主がそばにお立ちいただいたんだ─ということを、ここで語っているわけであります。

 先週は宗教改革記念日。マルチン・ルターが「あのヴィッテンベルグのお城の屋根の瓦が全部悪魔になったとしても、我、一人ここに立つ」というね。「誰も味方がいなくても!」ってね。「私と共に味方になってくださるお方が、私の生涯、隣に立ってくださる」と信ずる者はアーメンと言いましょう。アーメン。
 第2テモテの4章1節からお読みいただきました。1節と2節をご一緒に朗読致しましょう。4章の1節、ご一緒しましょう。はい。

 「神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。」(新約聖書・テモテへの第2の手紙4章1節〜2節・口語訳)

 アーメン。彼の遺言は、「神の御言葉を宣べ伝えなさい」という、そういうメッセージ。
 今日の第1のメッセージは、御言葉(神の言葉)を宣べ伝える時に不思議なことが起こりますよ、ということを学びたいのであります。
 Paul Reece(ポール・リース)先生がお元気な頃(もう私の20代前後でありますが)、箱根の山で「ケズィック・コンベンション」という大聖会がありました。忘れることのできないメッセージがいくつかあるのでありますけど、先生がこういうことを仰いました。
 インドの(ご存知)ガンジーが、そばにいたところのスタンレー・ジョーンズ牧師(宣教師)に対して、「先生、キリスト教っていうのは、しゃべりすぎと違いますか。しゃべってばっかりいないで、身をもって証をする必要があるでしょう。」で、その時にスタンレー・ジョーンズが、あの(例の)ガンジーに対して、「先生、あなたのおっしゃる通りでありますけど、この話をする、語るということに、意味がある。」というね。
 ポール・リースは、2つの"P"というね。presence(プレゼンス)というね。存在そのもので何も語らなくても証になるという、ガンジーの側と、そして、proclamation(プロクラメーション)と言いましょうか、宣言するということによって、そこから醸(かも)し出されることがあるという。確かに、この"プレゼンス"、存在をもって証をするというガンジーに意味があろうかと思いますけど、私達は「御言葉を宣べ伝えるというその状況の中で、神様の不思議な奇跡が起こるんだ」ということを知って欲しいと思うのであります。

 金曜日の夜、ここにロンドンの盛永先生がお見えくださいまして、メッセージをしてくださいましたが、その中で、こう仰ったんですね。わたしはもうビックリしました。金曜日の夜っていうのは、私たちの教会では、一番過激な集会なんですよね。祈祷会の秘密があそこに含まれていまして、ビックリするほど(つまずく人は絶対来てはいけない)、熱心な祈りが捧げられるんでありますが、祈る前に宣言をすることに、盛永先生は驚かれたんですね。なんという宣言をするかというと、「私の家族は全員救われまーす!」(私の後についてねえ、言うんですよ)「日本にはリバイバルが起こりまーす!私も用いられまーす!どんな問題も(『解決してください』と言うんじゃなく)解決しまーす!することなすこと、みな成功しまーす!(信仰の宣言ですね)あなたが(イエス様が)ご一緒ですから。ハレルヤ、主を感謝します。」盛永先生というのは、長老派の改革派の牧師先生、ロンドンの穏やかな先生でありますけど、ビックリなさった。「これは信仰がなければ、宣言することができませんね」、ということであります。

 クリスチャンの使命は、御言葉を宣べ伝える。教会の責任は、福音を語り続けるという。第1コリント1章の18節に、「十字架の言(ことば)は滅び行く者には愚かであるが、救われるわたしたちには、神の力である。」理屈をもって2000年前の十字架が私とどう関係があるかということを、理屈で探られてもよくは分からないかもしれないが、聖霊様が自らの罪、私達の罪を示しなさって、キリストの十字架が私のためであるとわかるから、これがまた不思議ということであります。
 私達の教会の若い伝道者で、大塚伝道師がいらっしゃいますが、高校1年生の時に、学校に行きます時に、お母さんがおいてくれたんでしょう。テーブルの上にある、私の説教テープを鞄に入れて(かな?)、ウォークマンで聴きながら学校に行った。学校で嫌なことがあって(中高生よ、学校で嫌なことがあるでしょう。いじめがあったりね、友達との関係がうまくいかないということがあるでしょう?)、彼は失望して、家に帰って来た。そしてこの男性は、お部屋の中の雨戸をぜーんぶ閉めて、真っ暗闇の中で座り、そしてもう生きる意味が分からない。何のために生きるか分からないから、死んでしまおう(絶対死んじゃダメですよ)と思った時に、今朝、大川牧師が語ったテープの神様の御言葉が、まるで神様から直接響くように、耳に響いて来た。コロサイ書の御言葉だったんですけれど、「あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」そのときわたしはリビングバイブルを引用して、「天国のことで、心が満たされていなさい。地上のことをあれこれ気に病んではいけません。」─すごい訳文ですねえ。地上のことをあれこれ気に病んで、今自殺をしようとするこの若者の高校生の心の中にこの御言葉が入り込んで、「死んではいけない」、彼はそして救いの恵みにあずかって、献身の生涯を送って、今一生懸命主に仕えているんですが、神の言葉に力があるというね、神様の御言葉を宣言する時に、そこで奇跡が起こるという。こういう世界があることを知って欲しいと思います。アーメンでしょうかね。

 第2番目はね、4章の5節であります。4章の5節をご覧くださいますか?4章の5節。

 「しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。」(新約聖書・テモテへの第2の手紙4章5節・口語訳)。

 「自分の務めを自覚して、それを全うしなさい」ということを申しあげたいんであります。
 先週この教会には、ワシントンDCからも、日本人教会の牧師の上原たかし先生がお見えになられました(ねえ、お客様が多い教会ですね)。この先生が、説教の中でこんなことを仰ったんですね。
 「私はこの教会に来て、(3階が応接間ですけど)3階からわざわざ降りて、(3階も2階もトイレがあるんですけれど)1階のトイレに入りました。」って、トイレに興味があるみたい、あの先生(笑い)。英語でトイレのことをW.C.と言いますけれど、あれはWashington Club(ワシントン・クラブ=W.C.)と(笑い)。先生はトイレに行って何をしたかというと、調べた。(噂に聞いて、トイレが綺麗だというけれど、どうであるかな)─だから、上原先生が来るとわかったら、トイレを特別にやっておかないとダメだよねえ(笑い)。で、トイレに行って驚いたって。本当にきちんとしていたと。そして先生は、それをお喜びなさったわけであります。手を出すと、水が出てまいります(すごい時代ですね)。水が飛び散りますよね。あとでそれを拭いて、次の人のために考えて…という習慣があるでしょう?習慣づきましたね。男子でもちょっとお行儀の悪い人は、オシッコがあちこちにこう散ったりしますよねえ。紙を2枚、3枚重ねて床を拭くというようなことをする人達もいらっしゃるようであります。
 教会の中の奉仕というものが、何十種類もあります。すごいたくさんのご奉仕があります。しかし、今日のこの御言葉は、「あなた自身の務を全うしなさい」というのは、教会の中の仕事も見つけて奉仕をすることができたら、それは素晴らしいですよ、天国に宝を積むことですから。しかしながら、「"あなたの"務めを全うしなさい」、主婦の方は"家のことを留守にして、教会のことに熱心"というのは、問題。家のことをきちんとしなさい、ということでしょう。サラリーマンはサラリーマンとして、営業マンは営業マンとして、学生は学生としてのその勉強を、「務めを果たしなさい」という。芸術家は芸術家として、賜物を生かしなさい。自分の務めを全うしなさい。それが、聖書が教えるところの内容でございましょう。健全ですよね。

 第3番目、それは6節7節、ご一緒に読みましょうか?4章の6節。ご一緒しましょうね、はい。

 「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。私が世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。」(新約聖書・テモテへの第2の手紙4章6〜7節・口語訳)

 アーメン。この6節には、「世を去るべき時は来た」とありますから、「もう死ぬな…」ということが予感、予想されたであろうと思われますが、この7節に、名詞が3つ出てまいります。"戦い"と、"行程(コース)"、"信仰"。これはそれぞれ原文では、定冠詞がついております。"the fight,the course,the faith(ザ・ファイト、ザ・コース、ザ・フェイス)という言葉でありますが、定冠詞がつくような戦いとは、いったい何を示すのか、という風に考えます。よっぽど厳しい戦いであったであろう、ライオンとの戦い、ししとの戦い、厳しい戦いを想像することもできないわけではありませんが、アフリカの宣教師で、リビングストンというたいへん著名な伝道者、探検家がおられましたが、お国に帰ってきた時に、インタビューをされたそうで、「リビングストン先生、あなたはアフリカで何の戦いが1番大変でしたか。野獣との戦いですか、原住民とのいざこざですか?」─しばらく時間をかけて瞑想された後に、リビングストンがこう言ったそうです。「それはself(セルフ:自分)」というね。「self、私自身との戦いが一番大きかった」と。パウロ先生も、「私の心の中に変なものが住んで、良いことをすることができない。わかっちゃいるんだけど、やめられない」という戦いのことが書かれていますけど、内なる戦いということは大きいですね。
 森永先生が、この金曜日すごい名説教をなさったんですよ。あとでテープを聴いてくださいね。その一部をご披露します。「この説教をまともに語ったら、もう私はアメリカに2度と入れないでしょう。私は数日後イギリスに戻りますが、もしこれをイギリスで語ったら、イギリスは私を入れないでしょう。追放するでしょう。」そんな説教をしたんですよ。で、一部でありますが、エペソ人への手紙の2章の14〜16、読んでみますよ。

 「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という(敵意ね、敵対する)隔ての中垣(壁)を取り除き、ご自分の肉によって(ね、十字架のこと)、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼(キリスト)にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて、平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を(私達の内側にある敵対心を)十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(新約聖書・エペソ人への手紙2章14〜16節・口語訳)

というメッセージ。愛する兄弟姉妹、私達の心の中には、いろんなものが入ってまいりますが、その中で一番恐ろしいのは、敵意であります。人との関係、夫婦の間で、親子の関係、人間関係の中で、憎しみが入ってまいります。敵対心でありますね。"ゆるせない心"っていうのが入ってまいります。そんなにきついものでなくても、苦々しい思いというものの無いような人はいらっしゃらないでしょうが、イエス様が十字架にかかられたのは、マイナスがプラスになります、というようなレベルの問題ではない。人類で最も大きな問題は、セルフですよ。自分自身との戦い、しかも内なる戦いに勝利するために、私たちの内側にあるところの敵意を十字架によって滅ぼし尽くす、そのことのために私は(イエス様は)、十字架におかかりになられた。
 長い間、世界は「敵を憎め」と言ってきた。「それは当然なことだ、敵なんだから。被害を受けたんだから、しょうがない。私達は反抗してもよろしい、復讐してもよろしいと思うのが常識であり、善行であると言われてきたけど、イエス・キリスト様は、「人々は長い間、『敵を憎め、敵と戦ってよろしい』と言ったけれども、私はそうではない。敵を愛し、そして迫害する者のために、祈れ。」
 歴史の長さの長いこと長いこと、その中における神学者も哲学者も、偉人と言われるような人も、こんなことを言ったことのある人は、1人もいない。「私は言っておくが、過去の歴史がどうであれ、人々がどういう風に言ったと致しましても、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天のお父様は良い者にも悪い者にも太陽を昇らせ、そして雨を降らせてくださるお方なんだ。こういう生き方があるということを知れというのが、聖書が私達に教えるところのクリスチャニティーとは、キリスト教とはこれだ。ヨハネ3章16節、ご一緒に読んでみましょう。ヨハネ3章16節(覚えましたか?)。

 「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(新約聖書・ヨハネによる福音書3章16節・口語訳)

 神様が、御子イエス様をくださるほどに、この世(汚い、罪を犯している、偶像礼拝をしている、神に背中を向けるような)、この世の中を愛してくださった。「敵を愛しなさい」って、誰がそんなことできるか。天のお父様が、身をもって証明してくださった。迫害する者のために祈るんですよ、と仰ってくださった。敵対するところの敵意というものを、十字架によって滅ぼし尽くしてくださるために、イエス・キリスト様は御自ら十字架にかかって血だらけになって、「父よ、彼らをゆるしたまえ」と仰ってくださったのは、その壁を取るために、その中垣を取るために、2つの者が分裂していないで1つになる、そのことの為に「互いに愛し合いなさい」というこのメッセージを履行する為に(施行する為に)、それが成就されるために、「私は命をかけて間の中に立ったんだ」というのが、キリスト教の中心的なメッセージ。「イエス様がそうであるから、私達もそうしましょう」、ということであります。心に苦みのある方々は、このことによって主の御前に砕かれなければならないでしょう。
 先生は深夜祈祷会だったから、夜遅くなるといけないので、私が(10時半ぐらいでしょうかねえ)急いで駅まで車でお送りしました。車の中は本当に短かったんですけど、非常に高度のというか、世界で誰も語っていないような話題をお互いに話しました。「先生、そのことのために立ち上がってくださいよ。」「いやぁ、僕はそんな器ではないですよ。」「でも、外国、ロンドンから烽火(のろし)をあげてくださいよ。」─そんな話題でした。
 私たちの内側の苦い心、敵意、憎しみ、ゆるせない心、一致させまいとするのは、あなたの罪、自己中心、わがままもあるけど、サタンが必死になっているということを、忘れてはいけない。(あんな奴にやられてなるものか!)十字架は私達の敵意を滅ぼすために、キリストが十字架にかかられた、これを忘れてはいけないんであります。私達が敵意を持って、苦みを持って、人生を過ごしていたならば、ゆるせない心を持っていたならば、それはサタンの奴が喜んでいる、そういう状況であります。「でも先生、難しいねえ。」という話題をしました。私たちが「難しい、できない」と放棄するなら、「聖霊様がやってくださるでしょう」というのが、「聖霊様が助けてくださるでしょう」というのがお互いのお話しでございました。4章の7節、8節行きましょう。4章の7節、8節。

 「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。」(新約聖書・テモテへの第2の手紙7節8節・口語訳)

 パウロのような偉大な人だけではなくて、どんな人も、義の冠をいただくことができるという、ね。
 『ウェストミンスター小教理問答』というのがございますよ。『ウェストミンスター小教理問答』というのがね。有名なんですよ。我々はこの流れでないからあまり用いないんですが、その第1の質問というものは、「人間の主な目的は、いったい何ですか?」というね。この"目的"という日本語を使うんですが、英語の方は、"END(エンド)"という、"the end(ディ・エンド)"のENDであります。すなわち"終わり"という言葉を日本語に訳す時に"目的"、とそう訳しておるわけであります。一般的には"終わり"と訳すものを"目的"と訳したわけですが、長津牧師の私訳によれば、「人間の終わり(end)、人生の目的(end)、存在の究極的なことは何ですか?」という質問に対して、答えは「人間の終わり(end)、主な目的(end)は、神をほめたたえ、神を永遠に喜ぶことです。」覚えていてくださいよ、クリスチャンは質問されるでしょう?「人生の目的は何ですか?」「神をほめたたえること」、もう1つは「神を永遠に喜ぶこと」です。いいですか?神様に何かをしていただいたから喜んでいるということも重要でありますけれども、例えば神様から何も良いことをいただいたことはないという人はないはずですけど、そのことのゆえではなくて神ご自身を永遠に喜ぶ人間の存在は、神をほめたたえ、神に何かをいただいたことではない、神ご自身を永遠に喜ぶ─これが中心的なメッセージでございます。

 私は今日献身50年ということで、今日の説教のタイトルは、「イエス様との金婚式」ということ、信仰生活の金婚式であります。50年前にイエス様と結婚しました。クリスチャンは花嫁、イエス様は花婿であります。結婚生活でトラブルの無かった人、衝突の無かった人は無いでしょうねえ。自我と自我とのぶつかり合いというようなことであるでしょうねえ。私は50年間、イエス様に愛されて(その前から愛されてたんですけど)、気がついて信仰を持って洗礼を受けて50年間、1度もイエス様との関係でトラブルはございませんでした。私の側に絶えず問題はあったでありましょうが、イエス様に私がたてついたことも文句を言ったことも、1度もございませんでした。主ご自身がそれをご存知でいらっしゃいます。イエス様に愛されていることに対して、不満などあるはずがありません。100%満足して、今日まで生きてまいりました。離婚話なんかありようがありません。年と共に罪がわかってまいりまして、罪の増すところ恵みもいや増せりということで(こんなに年を取りましたけど)、年と共に喜び、ヨハネの第2章に、結婚式のぶどう酒は最初よりも後の方が素晴らしい、そんな奇跡物語がありますが、私の人生もそうでありました。
 今日の午後、「人間劇場」というのを私の為にやってくれまして(誰が主役になるかわかりませんが)、私がナレーターになってお話をするようになっているんですが、みんな若い伝道者が作ってくれまして、私のしゃべるナレーション(セリフ)というものがありまして、練習をすることになりまして、昨日ですか、一昨日ですか、セリフをチェックしましたが、何度も泣いてしまいました(恥ずかしかったけど…)。ありがたい人生、ラッキーな人生、ハッピーな人生でございました。まあ、お楽しみに私の裸の写真が出てまいります。赤ちゃんの時です。ある箇所をモザイクで隠そう、という(笑い)。そうすると、ちょっと、もっとなんかおかしくなるから、と言って、みんなが工夫してくれました(笑い)。

 マルチン・ルーサー・キングがお亡くなりになりまして(暗殺されました)、どうぞこのスクリーンをご覧ください。凄いでしょう?彼は暗殺されてお葬儀に行きます教会の途中、この先頭を歩いておられる方は、わざと貧しさを象徴する洋服にしました。馬ではなくて、騾馬(ラバ)に引かれた荷車であります。世界で一番粗末な棺でございましょう。その中にマルチン・ルーサー・キングが納められました。後ろの方に、遠くまで見えないほど人々が惜しんで、この人の後ろについて「俺達もあなたと同じ考えだ。私達もあなたについて行きます。」と言わんばかりに、何万という人達が、もう見えないずーっと向こうまで続いている、貴重な映像写真であります。マルチン・ルーサー・キングは、偉大なるリーダーであります。その賞をいただくなんて、私は本当に光栄あることで、恥ずかしい。
 
 イエス・キリストは天の玉座からこの地に来られて、神の子が人間になられた。馬小屋でお生まれになられて、その最期は裸にさせられて、十字架にかけられて…マルチン・ルーサー・キングは、突然の暗殺でありますけれど、イエス様はなぶり殺し、『パッション』のごとくに長時間かけて十字架で殺されました。イエス様の死は、イエス様の後ろを何百万人、何千万人という人達が、歴史の中で従って来ました。マルチン・ルーサー・キングは人間死んでお終いでありましたが、イエス様は死んだ後に復活されて、神の子救い主であります。何をしてくださったか。
 
 第1番目、我々の為に、救いを完成してくださいました。兄弟姉妹、救いは難しくありません。イエス様が全部やってくれました。主イエス・キリストを罪からの救い主、人生の主として信ずる者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。

 第2番目、聖霊を下さいます。凄い世界です。

 3番目、いやしを下さいます。敵意を、傷を、私達のトラウマを、どうぞ持っていないで下さい。なにかそのことがあなたの誇りにならないように、あなたの傷も、あなたの敵意も、あなたの苦々しさも、それは全部溶かされて、イエス様の十字架を信ずる者としたら沽券(こけん)に関わる。イエス・キリストの十字架は、その内側を清めるため、いやすためであるということを信ずべきでしょう。

 第4番目、それは私達の人生を、祝福で満たしてくださいます。盛永先生が全国を漫遊してですね、巡回伝道をして私と食事をしている時に、こう仰いました。「若い伝道者達は、みんな苦労をしたがらない。みんなサポートを充分に受けたがる。経済的なことをいつも意識するが、あれはまずいねえ、先生。」ということであります。
 詩篇23篇1節、「主は私の牧者。私には乏しいことはない。」それはね、私達の人生で貧しくなければ、いいですか?貧しくなければ、欠けている所が無ければ、1から10まで満足していれば祈りませんよ、それは。主が私の牧者になってくださらなければ、私の過程は乏しいことがあるのです、という、そういう世界ですよ。神様は(言っておきますけどねえ)、必ず弱さを与えますよ。必ず貧しさを与え、行き詰まりを与え、そして人間の心の中が暴露されるような経験をなさいますよ。その時に初めて、「主よ、あなたが私の牧者です。あなたがいて下さらなければ、私の人生は上手く行きません、ということは、初めてその時に経験することができる。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうしたら、すべてこれらのものはそえて与えられるであろう。」本気でお従いするならば、御言葉に従順したならば、その祝福というのは、もう無限大でございますよ。本当に凄い世界ですよ、これは

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