2006年6月14日祈祷会 メッセージ

             ※説教のレジュメ(要約)はこちら

第5章 神の視点から人生を見る

信仰の宣言をして、みんなでお祈りしましょう。

 1)私の家族は全員救われます。
 2)日本にはリバイバルがおきます。
 3)私も用いられます。
 4)どんな問題も解決します。
 5)することなすこと、みな成功します。
 6)私の周りには奇跡が起こります。
 7)イエス様がご一緒ですから。   
ハレルヤ、主よ感謝します。

さあ、声を出して皆でお祈りしましょう。

私たちは、「人生を導く五つの目的」をシリーズで勉強しています。
今日は、第5章であります。
 
[神の視点から人生を見る]世界的に有名なこの書物であります。

 神の視点から人生をみるという、非常に素晴らしい内容であります。
先週、私たちはこの地上で生きている。お母さんのお腹の中に10カ月10日いたのは、この地上に生まれてくるための生活の準備期間である。それでおしまいかと思いましたら、永遠のための準備期間がこの地上であるという。私のこの地上での生活は永遠のための準備期間なのである、と言うものの考え方をしますと、人生観が変わると思いますが、今日は一歩中にはいり込んで、神様の目から見た人生をみたら、どういう風になるかということなのですよね。

 「あなたがたの人生は、一体どのようなものですか」。(ヤコブ4:14b NIB)
こんな聖句が、あるかなと思うんですが、口語訳聖書を開いてみましょう。

ヤコブ書4章14節
 「あなたがたは、あすのことも分からぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」という。
これを訳しましたね。英語の聖書は。「あなたがたの人生は、一体どんなものですか」と訳しました。

※あなたの人生の見方が、あなたの人生を決定します。
ex:クツーの連続。暗黒。メリーゴーランド。トランプ。 

☆ある学校の文化祭に行きましたら、古い靴が教室一杯ずーっと、つながっておりました。なんですか? これは人生。『苦痛の連続です』・・・。これは本田弘慈先生の話でした。

☆ある部屋に来たら、真っ暗で、穴が明いておりました。覗いてみたら、暗闇。 これは人生『暗黒だ』。こんな高校生、今はいないかもしれませんけれども。

☆この書物の中には、人生はメリーゴーランドのようなものだ。ぐるぐる回りながら上がったり下がったり、上がったり下がったり。そういうように感じる人もいるかもしれません。

☆人生とはトランプのようなもので、渡されたもので勝負をしなければならない。いろいろな考え方があると思います。

 「この世の標準に合わせるのではなく、むしろあなたがたの心を一新させ、神に内側から造り変えていただきなさい。そうすれば、神のみ心を知ることができるようになるでしょう」。(ロマ12:2 TEV)
この英語の聖書も面白いけれど、口語訳の聖書もいいですよね。開けましょう。

ロマ書12章2節 これは暗記していい内容でありますよね。ご一緒しましょう。
 「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって造り変えられ、何が神のみ旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかをわきまえ知るべきである」。アーメン。
お分かり下さいますか。
 この世の標準に合わせるのを、クリスチャンはと言わない、という。この世の標準にクリスチャンが合わせていたならば、これはクリスチャンとして情けないクリスチャンだ。この世と妥協してはならない。心を新しく造り変えられなさい。何が神様のみ旨であり、何が善であって、神様によって喜ばれ、かつ、全きことであるかをわきまえ知るべきである、という、クリスチャンはいつもどれが良いことか、何が神様によって喜ばれることであるかを、いつも考えながら生きるのを、クリスチャンと言うんですよ。

※聖書は人生について、3つの例え(イメージ)を提供しています。
 この5章では、2つだけを紹介します。来週3つ目を紹介します。

1.人生はテストである。・・・なかなかですねエー。人生はテストである。
 神様は、人々の気質、信仰、従順、愛、正直さ、忠実さ、勤勉さなどを事あるごとに試しておられます。テストしておられます。
 (試練、誘惑、精錬、試みといった言葉が、2百回以上出てくる。)
 試練を通して、誘惑を通して、精錬を通して、試みといった言葉が、聖書の中には200回以上出てきます。

 私は学生時代に、従順、私の名前が従う道、イエスさまに従うという、そういう名前であることも勿論ありますけれども、従順の人生を送りたい、いつもイエス様に従いたい、とそういう決心をしてから、意識的に[従順]のほかに、たとえば[聴従]聴いて従う、[黙従]ぶつぶつ言わないで黙って従う、[忍従]忍耐して忍んで従う、奴隷の隷を書いて[隷従]私は机の前にこれらの漢字を書いて、私の人生はイエス様にそうゆう従い方をしたいと意識的にいつも考えておりました。
これは私にとってテストでありますが、みなさんにとってもテストであります。

愛のテストもあります。
勤勉さ。勉強をきちんとするかどうか。僕は勉強が嫌いでした。成績も悪かった。だから通信簿は一つも残っておりません。家内は、通信簿を残しておりまして、見ましたら、ぎょっとしました。オールAというか、優というか。ウーン、私は1とか2ではなかったけれど、2、3というような、いい加減なものでありましたけど、信仰に、堅く立つようになってからは、めっちゃくちゃ勉強しました。勤勉でありました。それは、車田先生が僕の聖書に「勤勉でありなさい。」と、旧約聖書のみ言葉を引用して下さった時から、私は本当に一生懸命勉強してきました。伝道のために。教会員の方々が、わざわざ時間を取って教会に来てくださって、つまんなかった、と絶対思わせたくないという、ベストを尽くすんだと自覚してからは、一度も手を抜いたことがないといったら、気持ちの上で、一度も手を抜いたことはありません。主のみ知り給う。パウロ先生の説教みたいになってきましたけれど。
 「神様は全世界をあまねくみそなわし、自分に向かって心を全うするもののために力を現わし給う」とありますが、兄弟姉妹、熱心に祈るならば、手を抜かないで勤勉であるならば、一生懸命、失敗しても忠実であるならば、あなたが誠実であろうとするならば、神様はあなたに特別製の力をくださいます。 信じる者は、アーメンと言いましよう。
 僕は生き証人です。僕はバカな人間です。成績の悪い人間ですけれど、一生懸命イエスさまに従順したら、特別な祝福にあずかることができましたことを証します。栄光は主のものです。

ex;アブラハムのテスト(創世記22章)、アダムとエバの失敗、ダビデも。

 プリントにアブラハムのテストと書いてあります。創世記22章には何が書いてあるかと言いますと、「一人息子を捧げなさい。燔祭として捧げなさい」と書かれています。バカな!そんなことあり得ますか。私には孫が二人いますけれど、孫を神様にイサクのように捧げなさいと言われたら、体を張って「神様!それは困ります。私を使ってください。私は殺されても結構です」と私は必ず言います。アブラハムは、自分の子供を神様よりも大切にしたのでしょう。優先順位が間違って、アブラハムはイサクの方を大切にした。年寄りの子だったから、特別に愛してしまったであろうと思います。愛することは素晴らしいことですけれど、いつの間にか子供のことよりも、神様のことをないがしろにしてしまったのであろうと想像することができます。
 私の人生で、とても辛かったことがありました。ここに三畑兄弟がいらっしゃいますが、何人かその時代の人がいらっしゃいますが、私はご存じのように、6年間も続く裁判にあいました。初期の時代、裁判にあう前に私が「会堂建築のお金を使い込んだ」、とその人はプリントしました。ひどいでしょう。横領したと言って「横領罪」で訴える。手が後に回ると言いました。そして、それをどこで配ったかというと、教会の入口で配りましたよ。教会の入口で礼拝に来る人に「おまえたちの牧師は嘘つきで横領して、そして、アメリカに金を使って飛んだんだ」とか何とか言われて、もう、その日の説教何を喋ったか覚えていませんけれど、辛くて、辛くて…。
 プリントをもらわなかった人もいるけれど、中には「火のないところには、煙は立たない」なんて言った人もいるんですよ。私の心をグサリと刺しました。そんなことをしたら伝道できなくなります。
 座間の駅前でもプリントを配りましたよ。その次、私になんと言ったと思いますか。うちの息子はそのころ玉川学園の小学部に通ってたのですが、玉川の駅前でもこれを配ると言ったんですよ。
 私は神様の前でひれ伏してお祈りしました。「子供に迷惑をかけないようにしてください。神様、もし玉川学園でこのプリントを配ることがありましたら、私はこの教会をやめさせていただきます」とハッキリ言いましたよ。つらかった。本当に辛かった。牧師をやめよーなんて考えたことは一度もなかったけれど、この教会を責任をとって辞めようと思いました。でも、神様が守ってくださいました。主の御名を崇めたいと思います。

☆テストに失敗した人:アダムとエバは大失敗しましたね。ダビデも失敗しましたが、合格した人もいます。
☆テストに合格した人々:ヨセフ、ルツ、エステル、ダニエル
  ヨセフのように何の罪もなく、失敗したこともない人物が、見事にその人生をやりとげました。
  ルツもそうでした。エステルも命がけでした。ダニエルも見事にあの偶像礼拝の中で、信仰をもち続けました。
ダニエルの仲間のシャデラク、メシャク、アベネデゴは、火の炉のなかにくべられましたけれど、「私達は絶対に偶像礼拝はしません。神様が私達を守ってくださいます。王よ、知ってください。神様が必ず私達を救い出して下さいます。たといそうでなくとも、私達は偶像礼拝をしません」。彼等は見事にテストに合格しました。

 ☆人格は試されることによって成長し、真価が問われます。人生は毎日がテストの連続です。どのように反応するかが見られています。
 ex:献身者、SS教師、お掃除、ウェイトレスへの感謝、ミケランジェロ
  大川のテスト、父母のテスト、チョウ師のテスト、献金のテスト。
  愛のテスト、信仰のテスト、結婚生活のテスト、子育てのテスト。
◇献身者は、神学生のために祈ってやってください。みんな篩(ふる)われれます。篩(ふる)われなかった人などは一人もおりません。

◇日曜学校の教師も途中で「止めた」というような人がいます。みんなテストされます。お掃除もそうです。クリスチャンになってお掃除したことがない人、反省してください。どこかでお掃除しましょう。会堂を愛しましょうね、皆さん。

◇ウェイトレスに対する感謝と書いてありますが、これは書物の中に書いてあったのですが、私は今から十数年前、ロサンゼルスの土屋先生が食事のご馳走をしてくださいました時に、ハワイの素敵なレストランでお話をしていたのですが、水を持ってきたウェイトレスに対して、水を入れた瞬間に「Oh, Thank you!」と言われてビックリしました。私はウェイトレスに対して、こんな御礼の言い方があるんだとあれから私はほとんど99%位の率で、わたくしは水を入れてくれた時には、「ありがとう」ということにしています。そしたら、Rick Warrenのこの書物の中に書いてあるんですよ。あたりまえと思われることに感謝するんですよーてねえ。 

◇ミケランジェロは何でしたかね。いつか週報に書きましたね。
 「ミケランジェロさん、あんた隅っこの誰も見ないようなところを、なんであんなに丁寧に描くんですか?」。彼は答えました。「神様が見て居られますから…」。いいじゃないですかねえ。
 礼拝を休んだって、祈祷会を休んだって判らないじゃないですか。でも、「神様は見てらっしゃいます」これは素晴らしいことですね。

◇大川のテスト・・・これ書いていた時には憶えていたのですが忘れてしまいました。

◇父母のテスト
 私の父と母は、テストを受けました。41歳のときに、再献身が要求されました。1番上の姉が「お父さん、お母さん、わたくし、アルバイトするから、立ち上がって伝道者になりましょう」、と燃えていたんでしょーね。高校生の女の子がアルバイトして、なんぼ稼げるかと思いますけれど、テストを受けた父親は6人の子供を連れて、静岡の地に就任しました。飯など食えるはずがない。逆立ちして計算しても生活などできないけれど、立ちあがりました。神様は必要を与えてくださいました。
 若い伝道者たちよ!神様は必要を満たしてくださることを知りなさい。
「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればすべてそれらのものは、添えて与えられます」。 信じる者は、アーメンと言いましょう。アーメン

◇チョウ先生もたくさんのテストを受けました。
 自伝を読みますと、沢山のテストを受けて合格しました。失敗したのも知っていますけれど。

◇献金のテストもあります。
 10分の1献金してらっしゃいますか? 臨時収入を受けて10分の1献金をごまかしたという言葉は適切ではありませんけど、大切になさっていらっしゃる方もいらっしゃるでしょうが、神のものを盗んでいる、と聖書に書いてあるんですよ。ハッキリと神様の前に「主よ、主よ、そこまでの信仰に到達しませんから許してください。でも、必ず10分の1できるようにさせてください」ってお祈りしましょう。
 今日、悔い改めてから聖餐の恵み受けてください。

◇愛のテストもあります。あの人を愛するかどうか、赦せるかどうか。

◇信仰のテストもあります。
 私の母校の聖学院高等学校から手紙がきました。卒業生の中の牧師たちで、生涯を支える聖書のみ言はなんですかという質問。シリーズで書いているそうですが、私にその要求がありました。私はなんて書いたと思いますか。長年おつき合いしている先生に、それは詩編37編から「あなたの道を、主にゆだねよ」。
 僕は高等学校3年のときに不安だった。これからどうなるんだろう。だって、お小遣いゼロがずーっと続くんですから。神学校に入っても小遣いゼロの状況が続くときに、アメリカにいる小林先生に手紙を書きました。「小林先生、僕は聖書学院に入ろうとしているんですが、ちょっと不安なんです。大丈夫でしょうかねぇ」、と書きましたら、小林先生が手紙をくれました。聖書のみことば「あなたの道を主にゆだねなさい」。英語の聖書には、
 ”Commit thy way unto the Lord” よく私、申しあげるでしょう。
 神様に委ねないクリスチャンは、一人もいないけれど、”unto the Lord” 主に届くような委ね方をするんですよ。私の人生は決まってしまいました。そのときに。こうやってみことば経験、私の人生は神様に100%委ねるのだ。
 「私の人生を神様にお委ねします!」・・一緒に言いましょう。「私の人生を神様にお委ねします」。これが、私たちが信仰のテストを受ける内容です。

◇結婚生活のテストもあるでしょう。
「 健やかなるときも、病めるときも、あなたはこれを愛し敬い、これを慰め、これを励まし助けますか」、と質問して大体、大体「はい」と返事しています。いや、大体ではない、100%「はい」って返事してくれております。
健やかなるときも、病めるときもこれを愛し、これを敬い、これを慰め、これを励まし助ける、その命の限りこれを愛しますか? これは結婚の愛のテスト。これを合格しなければなりません。

◇子育てのテストもあります。
 神様の前にお祈りして子供が与えられたのに、「こんなの生むんじゃなかった・・・」、とこれテストでございますよ。
 お子さんがいらっしゃらない人も文句を言ってはいけません。神様が特別に意図してお子様をお与えにならない。これは特別に意味があり、この人はその人なりに神様の栄光のために必ず用いられます。思うように行かないときに、テストを受けるのです。

◇テスト中のテスト。これは私にとってビックリマークですよ。
 主の臨在を失うテストですって。神様はヒゼキヤを試して、彼がその心の中で何を考えているかをご覧になるために、彼からみ顔を隠された。考えられない聖書の言葉ですね。

 歴代誌下:32章31節。これは赤鉛筆を引くべきビックリマークのところですねエ。神様はこんなことをなさるんですかねえーって、言いたくなりますね。
 「しかし、バビロンの君達が使者をつかわして、この国にあったしるしについて尋ねさせた時には、神は彼を試みて彼の心にあることを、ことごとく知るために彼を捨て置かれた」。
 すごい聖句だと思いません? 神様は慈しみ深く、慈悲深いお方なのですけれど、ある人をキチンと整えるために、天国にぶらぶら行くんじゃなくて、この地上で人格を整え、信仰を強めるためにある時は捨て置かれた。世界中の、今試練にて遭っている、迫害に遭っている国の人達は、中国の地下教会の人達も、みーんなこの経験をしているのですよ。

 旧約聖書時代の人たちも今週の礼拝で、私はそのメッセージをしましたね。
 ヒゼキヤをテストして、彼がその心の中で何を考えているかご覧になるために、彼からみ顔を隠された。
 生きていけないよ。そんなの!神様は私たちを、ある時は見捨てられ『孤独にはしない』、と書かれてあるのに、強い信仰を生み出すためにこんなテストを受ける。
 「ああ、あの時はそういうことだったのか。6年間も苦しませて、神様には意味のあることだったのか…」
チョウ・ヨンギ先生があの立派な会堂をお造りになるときに、オイルショックで、彼は屋上から・・屋上と言ってもあの時まだ完全に屋上ができていたのでは無いけれど・・屋上から飛び降りて自殺をしようとした。神様なんか、もういないのかと思われた。神様はテストをなさった。
 人生がテストであることが分かると、無意味なことなど何一つない!ということ。無意味なことなど何一つない。

 第1コリント10章13節 聖書をあけましょう。これは有名ですよ。ご一緒に読みましょう。
 「 あなたがたのあった試練で世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に合わせることがないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えてくださるのである」。
 逃れる道は、解決の道も備えてくださる。
 人生が、テストであることが分かれば、無意味なことなど一つもないんだということを理解できるでしょう。

 今日イソカワさんと言う、いのちのことば社の、素晴らしい部長さんですけれども、わたくしに手紙をくださいました。「すばらしい書物です。ありがとうございます。カルバリーチャペルにいるような気がしました。“本質以外は寛容であれ”とサインして下さって本当に感謝します。つい、イライラして、肝心なものでないことで時間を費やしてしまうことが多いこの頃でしたが、まさしく“本質以外は寛容”ですね。先生は20年ぐらい前(20年前の話です)聖霊経験の証を、多分、ダビングにダビングを重ねたテープで(先生の声の質が変わってしまっていましたが)お聞きしたことがあります。その中で、「極端と思われる中に真理がある」ということが語られていました。わたくしは、「極端と思われる中に真理がある」をアクセルとするなら、今度の、「本質以外は寛容であれ」は、ブレーキのような役割のような気がします。アクセルとブレーキがそろって、何となく嬉しくなってまいりました」。

 わたくしは、バランスの取れた教会を作るために一生懸命勉強しました。
でも皆さん、人間の知恵とか、教養とか、常識とかでキリスト教会はつくられていきません。よく知ってください。聖霊様はとんでもない、考えられないようなことをなさるお方でいらっしゃいます。思いもしないハプニングが起こります。そして、主の業がなされます。いつもは、平生は、バランスが取れていなければなりません。しかしある時、神様はバランスを崩すかのごとくに極端な方法を通して、主のみ名が崇められる。頑固で、頑固で、頑固で、頑固で、このことを通さなければみ業が進められないということもあることを忘れないように、神様を信頼しましょう。アーメンでしょうか。アーメン。

2.人生は預かりものである。
 この地上における私たちの時間、エネルギー、知性、機会、人間関係、財産は、管理を任されている。命そのもの、私たちの命も預かり物であります。「世界とその中にあるすべてのものは主のものである。地球とその中に住むものは、すべて主のものである」(詩篇24の1 TEV)。

 神様は、私たちに物を預けて下さいました。創世記1章28節開きませんが「さあ、あなたがたにこれを管理させよというのであります」。(第1コリント4章7節)

 マタイ5章14〜30節は、キリスト様のたとえ話であります。ある人には5タラント与えました。ある人には2タラント、ある人には1タラント、少々不公平のように見えますけれど、1タラントでもすばらしい物ですが、5タラントの人は一生懸命それを用いて5タラント稼ぎましたよ。それで稼いだ分も頂きました。2タラントの人もそういうふうにしましたが、1タラントの人は地面に隠して置いて「あなたはおそろしい方ですから、このようにしました」なんて言って、御主人様からこっぴどく叱られてその1タラントを取り上げられてしまいました。神様が私たちに託しておられる、委ねておられる、管理しております物を、神様の栄光のために使わなければ、取り上げられてしまうのですよ。命もそうですよ。賜物もそうですよ。チャンスもそうですよ。だからチャンスの後にはピンチが来るということは、そういうことなのです。
 神様が波を起こしてくださったのに、波に乗らなければサーフィンにならないでしょう、というのがチャンスなのです。私たちには波を作ることはできません。波は神様が造って下さるのです。

 チョーヨンギ先生がこの教会にこられたのは、「波」ですよ。こんなチャンスはないですよ。この波に乗って、紙に標語を書いて、紙に数字を書いて、目標を書いて、ひたすら熱心にお祈りをするんですよ。あきらめないで。そして、その波に乗らなければなりません。

☆天国における3つの約束
 1)神のねぎらいのことば:「よくやったね」、と言っていただきたいですね。
 2)昇進: 昇進があるんですって。 なお、多くの物を司らせようという。持たぬ者は持てるものまでも取り上げられると書いてありますが、持っている者は、なお豊かに神様によって与えられるという。
 3)祝賀会: 主人と一緒に喜ぶ。私といっしょに喜んでくれという。

☆お金も主からの預かり物・・・テストの題材です。神様がテストなさいます。
 「もし、あなたがたが、この世の冨に対して忠実でなければ、誰が天にある本当の冨を任せるでしょう」
(ルカ16:11NLT)
最後、「誰でも多く与えられた者は多く求められ、多く委ねられた者は多く要求されるのです」。
(ルカ12:48)

 チョー・ヨンギ先生は、もう引退の年齢ですから、75万人の教会を牧しておられれば、よそに出る必要など全くありません。誰も非難しません。彼の忙しさをよーく世界中の人々が知っていますけれど、彼は、神様の召しに従って伝道をして歩かれます。どんなにたくさんの犠牲であろうかと思われます。申しあげましたように、今回、チョー先生からお電話がありました。チョー先生は、この教会に来て本当にお喜びになられました。あの世界一の伝道者が「日本の伝道は失敗した」って、世界中に言って歩いたんですよ。本当に言って歩いてるんです。「自分は失敗した!」って。ベニー・ヒンを前にして、「ベニー・ヒン君よ・・英語にそんなのないけれど、ベニー・ヒンよ、日本の伝道はあなたに任せるから頼むよ」って。本当に私は目の前にいましたからね、わたしはわかりましたよ。彼は日本の伝道に失敗して失望しきっていたのですよ。あんだけエネルギーを使って毎月きたのですよ。それで、失敗したの。
 聖霊様の働きを気にして、ある時には教団の名前は言わないけれど、「癒しの祈りはしないでください」、と言われ、それでも彼は説教しました。ある日、有名な先生の所に行ったけど、中にいるのに居留守を使われました。私は何人も、何人も、何人も知っています。彼は、日本人が大嫌いだったのに、心を変えられて、「日本を愛しなさい」というテストに合格して、日本を愛するようになったのですよ。日本語で説教ができるようになったのです。
 彼はフランス語でも説教します。ドイツ語でも説教する人ですけれど「日本語を使わないから日本語は錆ちゃった」と言って今通訳をつけていますけれど、本当に日本を愛してくれました。
 この度、この教会で希望を持ちました。それで、「今年、私のスケジュールはここが空いているんですけれど、大川先生どうですか」と言われましたけれど、私スケジュールが詰まってたんですよ。瀬戸の教会の献堂式だったので「だめですねぇ、詰まってますね」ってね、チョー先生の申し出を私は断ったのですよ。気持ちよかったねぇ。そしたら、チョー先生が「じゃ、この日はどうでしょうか、こっちはどうでしょうか?」って。そんなの世界の人が聞いたらビックリする話ですよ。もう、どんなスケジュールでも、先生に合わせるのは当たり前でしょうねぇ。でも先生は、もう一度やりたいんですって。日本の伝道のために。「一緒にやりましょうよ!」って。先生が講師というのではなく、私と一緒にやりたいという申し出だったのです。
 神様がこれを用いてくださる様にということを期待します。

 今日、私の所に、浅海先生が手紙をくださいました。「7月6日、相鉄線沿線の牧師会をやりたいので先生の教会で、大和の教会で出来ませんでしょうか。午前の祈祷会、そして、一緒にお食事をして一時半から牧師会をしたいのです。いかがでしょうか?」ということでした。この教会で牧師会もするということは、お食事をご馳走して下さいという内容なのですよ。ですから、これは家内のテストでもあるのです。
 これだけ忙しければ、人の面倒・・「ごめんなさい」これ本心ですよ! 人の面倒を見きれないほど忙しいんですから、他の牧師先生たちの教会ですれば良いのに。毎回、何時も大和でやっているんですから。食事のお世話をするのも大変ですし、時間をとるのも大変だし、この事を通して私テストされていると気付きましたから、直ぐにOKしましたよ。

 昨日、電話がありました。38(さん・ぱち)会という、昭和38年に卒業した私の同級生会が、この教会で同窓会をやりたいというのです。この教会でやるということは、伝道者、私と同じような伝道者、私が一番若いのですが、そうゆう人たちのお食事のもてなしをしなければいけないのですよ。これは家内のテストなのですよ。でも、私たちは喜んでお仕えさせていただきます。
 「多く与えられた者は、多くのことを求められる」のです。
 私たちは、こうやって、テストに合格して、委ねられた人生の目的を果たしたいと思います。

 イエス様に天国に行つて喜んでいただきたい、そう、願う人は大きな声でアーメンと言いましょう。  アーメン。

 お祈りいたします。
 天のお父様、この教会にも使命が与えられて、こんなに盛んにして下さいました。
 この教会よりも、熱心な教会はいくらでもあります。熱心に祈る教会もあります。そして
 この教会が必ずしも上等ではありません。また私もそんな立派な牧師ではありませんけれど、神様が目をかけてくださいました。ありがとうございます。
 こんな幸せな、毎週、毎週、毎週お祭りのような教会は、日本中何処にもありません。次から次へと、ゲストが向こうから押しよせてきます。
 詩篇23編6節「恵みと慈しみが追いかけて来る」、ということは、このことであります。「私たちの杯は溢れます」
ドン・モーエンも来ますし、オクサーナさんもお見えになられますし、毎週、音楽の素晴らしさ、そして、ここに注がれる 説教する牧師も驚いてみ言葉を語っております。神様は何もかも、みんな祝福されています。
 これは他者のために、人を生かすために与えられているチャンスであります。
 このチャンスにきちんと合格して、持てる者がもっと豊かに持てて、もっと日本のリバイバルのために用いられる教会としてください。 
 イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。