2006年6月28日祈祷会 メッセージ

             ※説教のレジュメ(要約)はこちら

第6章 人生は一時的な務めである

○ヘブル人への手紙11章13節
 「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。また約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」
 
 先ず、ジョークを。
 茨城の娘の家に行ったときに、貰ってきたゴミ袋にボロ布を入れて廊下に置いておきました。夫が「おお、やせるゴミと書いてあるのか、しっかり減量と書いてあるし・・・」、とびっくりして云いました。よく見ると、最初の「もやせるゴミ」の『も』の字が見えなかったらしくて、やせるゴミと見えたらしい。私は脂肪を燃やしたい人間です!…ちっとも笑いが取れなかった! 7月からゴミを出す方法がこの町は変わるので、皆さん注意して下さいと、市役所の代わりにわたくしが申しあげようと思ったわけです。

 【人生を導く五つの目的】は、世界的に有名な、リック・ウオーレン先生がお書きになった書物でありますけれども、40日に渡ってお勉強するようになっております。今日は第6章であります。
 
 前回の5章は、何を勉強したかと言いますと、忘れたでしょうが、人生について三つ申しあげますと、二つだけ申しあげたのですが、三つと申し上げた筈であります。

 1番目は、「人生はテストである」。
 神様は、私たちを事あるごとにテストなさいます。
 信仰の気質、信仰、従順さ、愛、正直さ、忠実、勤勉さをテストなさる神様でいらっしゃることを知らなければなりません。
 人生には無駄なことなど一つもありません。 テスト中のテストは、主の臨在を失うことです。
 ベニー・ヒン先生は、「油注ぎを失ったら、私はご奉仕はできません。死んだ方がましです。」というようなことをおっしゃったことがありますが、伝道者たちは皆んなそんなことを意識しております。
神様のテストに合格するということは、結構なことであろうかと思いますが、ミケランジェロは、あの複雑な絵をお描きになるときに、天井の隅っこまでお描きになられて、どうして誰も見ないようなところまで描きになりましたか?神様が見て居られるからです。見ていて下さるからです。
  同じように、神様は見ていてくださるばかりでなく、私たちは、神様がどんなことでも聴いておられるという意識を持つことは重要なことであろうかと思います。
 私たちのおしゃべりは、神様が聴いておられるという意識を、時には持った方が良いと思います。
最近はコンピューターができて、ブログと言いましょうか、また、ミキシー と言いましょうか、私のよくわからない世界ですけれど、この前、福島県で牧師会がありました。大教会主任牧師12人ばかりが選ばれて勉強会があったのですけれど、そのときに、関西の方の牧師が「先生ご存じですか、先生のことも結構書いてありますよ。」何を書いてあるかと言いますと、誉めことばではなくて、悪口が書いてあるわけであります。
 世界中にこれは発信されます。個人が勝手に日記の様に、また教会の悪口を書いたといたしましても、それは、天使の噂になるでありましょう。私たちの教会には、弱さや、欠点があることは私も存じあげおりますが、この教会は主の教会であります。もし、皆さんがこの教会の牧師や、伝道師や、また、教会の悪口を言うことを喜びとすると言いましょうか、いつの間にかそのような表現を使うとするならば、主は見ておられるだけではなくて、聴いておられるし、そしてまた、そのコンピューターの中身をご存知であることをよく知っておいてほしいと思います。

 私は昨日、外国に居られるあす宣教師の先生から電話が入りまして、Deputation と言いますが宣教師の派遣報告をさせて欲しいと言われました。その先生は昔、どうも、問題を起こしたという噂を聞いたことがあるので、その本部に問い合わせの電話を入れまして「実際の所はどうですか」と尋ねましたら、噂が間違っておりました。電話をしてよかったなと思いました。なぜなら、噂のまま先生のスキャンダルと言いましょうか、悪いことを心に止めていたら、主はお喜びにならないからであります。

 歴代志下16章:9節 ご一緒に読んでみましょう。
 「主の目は、あまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。」
私がよく引用しますので覚えてて下さいますでしょう。 主は、全世界中を見まわされて何をしているか、何を話しているか、聴いておられ、見ておられるということを意識することは重要なことであります。

 2番目は、「人生は頂いた物であることを意識しなさい」、というお話をしました。
 管理を託されている。これをスチュワードシップと言いますけれど、マタイ25章から、ある人はご5タラント、ある人は2タラント、ある人は1タラント。そんなことは不公平に見えますけれども、1タラントが5タラントの人を羨むこともなければ、また、5タラントの人が1タラントを馬鹿にすることもありません。
 神様がくださった管理の仕事をきちんとしなければなりません。これが先週勉強した人生についての二つのことで、三つ目は次の週にしますと本に書いてあるから、次の週で、今日はこの三つ目であります。

 3番目は「人生は一時的な務めである」、ということであります。
 1番目はテストされますよ。事あるごとに。
 2番目は管理。頂いた物ですよ。
 3番目は一時的なものです。

 ヘブル11章13節。どうぞ、聖書を開いてください。教会にいらしたら必ず聖書を持って入ることにいたしましょうね。
 この前アメリカに行ったときに、感じたことを申し上げましたが、違う人も私にこう言ってました。「アメリカの教会に行って回りを見たら、聖書を持ってこない人がいっぱいいました。献金しない人がいっぱいいました。それで先生のおっしゃることが正しい事だとわかりました」、と証明されました。
 「中には、コーヒーを礼拝堂で飲む人もいます」と私が云いましたら、福島でお勉強会をしました大教会主任牧師会議でその先生「私も実はコーヒーを持って会場に入っております」とか言っておられましたけれど。「では、全員がコーヒーを飲んだらどうしますか」と云いましたら「やっぱりいけませんね」とか言っていました。コーヒーが良いんならコーラはどうですか?イエス様の時代はみんなワインですからワインはどうですか。また、タバコはどうですか、と言われたらどうなるでしょうか。

 この教会は、教会堂の中でそういう物を飲むこと、することは禁止しておりますが、お水は流行ですからボトルがここに置いてある場合もありますが、全員がボトルを持って会堂に入って、みんなボトル、ボトル、ボトル、ボトルだと結構おかしいから、水を日本人としては、礼拝中ラッパ飲みしているのも、あんまり良い格好ではありませんから、気を付けてなさってください。ちょっと下の方に隠して置いて下されば、私としては非常に有り難いと思っております。これは、全国に影響を与えるお話をいま申し上げました。

 ※ヘブル書11章13節  ご一緒に読みましょう。
 「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした」。
 これは有名な、有名な、有名な聖句であります。私たちは地上では旅人、寄留者であることを自ら言い表して、人生を過ごしなさったということであります。
 
 ※詩篇39章4節 (NLT)これは英語を訳したものであります。
 「主よ、どうか私に、この地上における人生がいかに短いものであるかを思い起させてください。どうか私の余命がもうわずかでしかないこと、また私の人生がどれほど儚いものかを教えてください」。
 これはタイミング良く今週の礼拝で、「晩年の美学」ということを、曽野綾子さんの書物から皆さんにご紹介申し上げたことを覚えておられると思います。老年と違って晩年と言うのは、10歳でも晩年、20歳でも晩年、50歳でも60歳でも晩年、亡くなる前の時を晩年。「晩年の美学」、どう言う風にして死んでいくかということの準備をする必要がありますよ。
 先月シアトルから電話があって、21歳の女性が、私が祈ってサポートしていた女性ですが、亡くなった話をしたことがあるかと思いますが、亡くなる前、晩年の美学ということで、皆さんの持っている身の回り周辺を整理することを、この前申し上げたわけでありました。しかし、どんな整理処理ができても、何にも増して大切なことは魂の問題、魂を神にゆだねることを、毎晩、休む時跪いて私の霊を主にゆだねます。み手にお委ねいたしますと祈る習慣をつけてください。イエス様の真似をすればイエス様が喜ばれますよ。

 2番目は、赦しの問題
 赦しがあるということ、人を赦す、自分を赦すということ、自分を赦していただくということは、大変大切なことであります。               
 この会堂によその教会の牧師がお入りになられて礼拝に出ておられました。すぐお手紙、メールを下さいました。「私は、先生のビジョンに驚きました」。老人ホームを作りたい、青少年伝道、特に幼児伝道をきちんとやりたい、開拓伝道もしたいという幻を、私は宣言いたしました。主のみ心でしたら不思議なことが起こると信じます。
日野原先生は90歳を超えてから、10冊以上、正確ではありませんけれど、たくさんの書物をお書きになられました。それまでは、そんなに書物を書いてはいらっしゃらないのですけれど、お年を召してから、すなわち、私が申し上げたいことは、年齢に関係なしに、神様に召されるまでに、私たちは書物を書けなくても、良い生き方をするというのを、晩年の美学という風に考えることが良いと思います。

 ※ 「この地上の人生は、一時的な務めにすぎません」   これが今日の中心テーマであります。
 Ex:人生は、霧、息、ひとすじの煙、ほんの束の間、影のようにはかない。
この人生、これが私の人生のすべてではないという。これは聖書の引用ですが、人生は霧のようだという、息のようだ、一筋の煙のようだ、ほんの束の間であると言うか、影のように儚い、これはヨブ記8章9節でありますが、アッという間に過ぎる。
 今日、教会のスタッフ会議で朝礼がありましたときに、高木先生でありましたかねぇ、「もう6カ月すぎます。あっという間でしたね」。うーん、みんなそうだ、そうだという。6ヶ月があっという間という日本語は面白いですね、「あっ」という間で6ヶ月が過ぎてしまうということでありますが、この6カ月間、集会出席に対して、ご奉仕に対して、また、献金、捧げものに関して、どうでしたでしょうか、私たちはチェックすることが重要なことであります。

 ※人生を最大限に生かすために、忘れてはいけない真理が二つあります。
 (1)永遠と比べると、人生は非常に短い。
 (2)地上は、一時的な住まいにすぎない。
  Ex:在留外国人、巡礼者、外国人、よそ者、訪問者、寄留者・・・。

 1番目は、永遠に比べると人生は非常に短いという意識を持つことが忘れてはいけないこと。
 2番目は、地上は一時的な住まいに過ぎない。余り愛着をおもち過ぎてはいけないということ。
 この先生は立派だなあと思っているのですが、先週も、先々週でありましたかね、「赤ちゃんがお母さんのお腹にいるのは10カ月、それは、この地上に生まれて来るまでの準備期間である。この地上は、永遠に対する準備期間である」という、あれはすごい真理だと思いますね。
 この地上はほんのわずかの人生ですよ。在留外国人といいましょうか、駐在員といいましょうか、巡礼者と言いましょうか、外から来ている外国人と言いましょうか、よそ者といいましょうか、訪問者と言いましょうか、旅人、寄留者と言いましょうか。
 海外に出張なさっている人、留学から戻ってきたばかりの人もいますが、ちょっと行って働いてきなさいよ、とイエス様と言うか、ご主人から言われて、マタイ25章では稼ぎなさいと言っていますが、戻ってきて、どうだったという、清算するときがある、決算するときがある、清算を要求される時があるという風に聖書は私たちに教えています。

 「彼らが考えていることは、みなこの地上のことだけです。しかし、私たちは、主イエス・キリストが住んでおられる天の国民なのです」(ピリピ3:19.20NLT)
 英語版を日本語に訳したものであります。ユニークな訳し方ですね。私たちは主イエスさまが住んでおられる天国の国民なのです。
 Ex:ブラザー・ユン「天国の人」

 ブラザー・ユンという大変著名なお方が、この秋 (2006年11月) 日本にいらっしゃいます。私はその顧問団の1番上に私の名前が書いてあるのですけれど、『天国の人』という書物を書かれた人です。これは、非常に優れた素晴らしい、世界中をうならせた書物であります。ヒズ・ブランドに置いてあるかと思いますけど。

 私がサンフランシスコで牧師をしていたのは1968年から70年の初期まででありますけれど、北川さんという長老さんがいらっしゃいました。立派な長老でありました。この人はアメリカに行きたくて当時、密入国をして、凄いことだと思いますね、貨物船の中に入り込んでサンフランシスコにたどり着いて、(坂本竜馬もそうだったんでしょうかね)、そんな生活をしておりましたから、いつも、ビク、ビク、ビク、ビクして、給料は下げられて、今でもメキシコの人たちを脅かして使っているアメリカ人は沢山いるんですけれど、「お前、密入国だろう、ビザがないだろう。訴えるぞ、しっかり働け!」なんて脅かされて働いておったんですが、あるときに大統領が「いま密入国で入ってきた人、ビザのない人、全員出てきなさい。市民権をあげましょう」、と言って、市民権を頂いたときの喜びを私に教えてくださいました。素晴らしいことだと思いますね。
 メキシコから必死でアメリカに入って来るそういう人たちの映像が、時々、テレビに出ますね。命がけでありますよね。国籍が欲しいんでしょう。収入が欲しいからでありますが。東南アジアで国から国へと移るときに、袖の下といいましょうか、お金で入れてくれる国を知っていますが、税関にお金をちょっと渡すと、見て見ぬ振りをするから、行きなさいみたいな、とんでもないところ見たことがありますが、天国はどうでしょうかね。お金で入れるわけではありません。私たちはイエス様の御血潮によって天国人となりました。「私たちの国籍は、天にあり」。信じる者はアーメンと言いましょう。アーメン。ハレルヤ。嬉しいね。

 ※ 真の信仰者は、単にこの惑星で過ごす数10年よりも・・(この日本語の訳し方ってすごいじゃない!なんか猿の惑星という映画があったと思いますが、観ておけば良かったな、何の映画か知りませんけど)・・真の信仰者は、単にこの惑星で過ごす数十年よりもはるかに優れた人生があることを理解しているのです。

 本当の信仰者っていうのは、この地上がすべてではなくて、やがて、やがて、あの世界があるんだということをわきまえて生きる。常識人でしたら、神様が生きていることを信じるならばこの地上は不公平だらけです。頭の悪い親から、頭の悪い人が出て来るし、そうでない場合もあり得ますが、器量の悪い親を持ったら、器量の悪いのが出て来るし、背の高さも、肥りかたも、だいたい親と子、似てきたり何かするところがありますし、スポーツのセンスのある人とない人もおられるし、我々は日本の国民であることは親のせいでもございますし、これは不公平といえば不公平なことが山とあるわけです。
 病弱で生まれる人もおられるし、環境の悪い人もおられるし、でもこの地上はほんの一時、永遠の世界の準備ですよ、という信仰を強くもつことができれば、この地上で何があったって「屁の河童」って牧師が言っちゃいけない言葉ですけど、言っちゃいましたね、礼拝では決して言わないから勘弁してください。
私たちのふるさとは天にあるとね・・♪うさぎ追ういし・・兎がおいしかったっていう人もいるけれど・・うさぎ追いし彼の山 小鮒つりし、かの川 夢に今も巡りて、忘れがたき、ふるさと。故郷、とね。

 僕は東京生まれで、静岡に6年いましたが、やっぱり静岡が故郷で、あべかわ餅があるでしょ、安倍川の話を聞くと、もう、ゾクゾクするというか、思い出すというか、懐かしいというか、3番町小学校とか、たごうえ中学校とか、それだけでもう、ぐっと来るわけですけれど、これは地上の問題でありまして・・・うさぎ追いしかの山、これは過去の問題でしょ。♪やがて天にて・・・我々は天に、未来ですよ。本当の故郷はね、本当のふるさとは天にあるんだと。・・♪やがて天にて 喜び楽しまん 君にま見えて 勝ち歌をうたわん・・アーメン。
うちの親父にだんだん似てきましたと、家内は必ずあとで私に言うでしょう。

 ※「あなたがたは、神を欺いているのです。もしあなたがたの願いが、機会さえあれば好きなようにこの世と戯れることであるならば、あなたがたは神を敵に回し、神の霊に逆らっているのです」(ヤコブ4:4Msg) すごい訳ですね。ヤコブ4章4節のメッセージバイブルです。
 Ex:国を代表する大使・・・王と国王を裏切る者

 あなたがたは神を欺いています。あなたがたの願いが、機会があれば、チャンスがあれば、好きなこと、好きなようにこの世と遊ぶこと、戯れることであるならば、あなたがたは神を敵に回し、神の霊に逆らっているのだ、と言うね。リック・ウオーレン、この本を書いた人は、あなたがたは霊的な姦淫を犯していることと同じであると、いやー難しいことを言ってるなぁと思います。
 今日は、ですから聖歌521番の「キリストには変えられません」、と信仰告白をみんなと一緒に賛美をしました。

 国を代表する大使であることを忘れてはいけない。私たちは神様から権利を託された大使だというんですよ。みなさん大使だって。大使、大使、私たちはみな大使だって。主から命令を受けた大使、派遣されている大使。・・大したもんでございますと言うと思ったでしょう?我々はキリストの大使です。キリストの評判をおとしてはいけません。派遣されたことを忘れ、その国の人と恋をして、国に戻れず使命も果たせない、これは国と国王を裏切るものであります。

 「友よ、この世界は、あなたの故郷ではありません。ですから、そのぬるま湯につからないように気をつけなさい。・・すごい訳文だね・・自分の魂を犠牲にしてまで、欲求に溺れてはなりません」(Tペテロ2:11Meg)

 友よ、私達のこと、この世の中は故郷ではありません。そのぬるま湯につからないように気をつけなさい。あなたの魂を犠牲にしてまで、その欲望、欲求に溺れてはなりません。黙示録の3章には、ラオデキヤの教会というのはね、熱くもない、冷たくもない、生ぬるいから、その口から吐きだされてしまうラオデキヤの教会になってはいけません。
 「過激」はダメよ、とラオデキヤの好きな人って結構いるんですがね。今日、私はラオデキヤと書いたときにね、フランス語なんかで、ラ、ってという言葉を最初に書く場合があるでしょうが、ラ・オデキヤと読んでですね・・あー笑いが取れませんでしたけど・・、ぬるま湯につかっているのは、ラ・オデキヤさんだと思います。
蛙も熱い熱湯の中に入れると、パーンと跳ねていなくなりますけれど、まず、ぬるま湯の中に入れるとカエルは気持ちよく泳いでおりますが、徐々に熱くなっていくと、忘れて出そこなって煮えてしまうという実験をした人がおられましょう。
 牛乳風呂に入ったというジョークがありますね、カエルが牛乳風呂の中で泳いで、泳いで、泳いで、泳いでいたら、いつの間にか牛乳がチーズになってカエルが動けなくなったというのもありますけれど。

 ※ 「今私たちがここで見ているものは明日には消えてなくなります。しかし、今この目で見ることのできないものは永遠に続いていくのです」(Uコリント4:18Msg)
これは開いてみましょう。第二コリント4章18節。これは、口語訳聖書の方が良いような気がしますねえ。ご一緒に読みましょう。
 「私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである」アーメン。 素晴らしいみ言葉ですね。

 *この地上に愛着を持ち過ぎることがないように、神は、私たちが受け入れがたい体験をすることをお許しになることがあります。

 前回も、前々回も、正直申しあげまして世界でこれがものすごく用いられているということはわからないわけではないんですけれど、しかし、ちょっと、心臓に来る言葉が前回もありました。また、私が牧師として気付かない表現がありました。こうして、コツコツ勉強することが、こんなに大きな収穫があることか、とびっくりしました。その中の一つは、これであります。びっくりでしょう。

 この地上に執着しないように、愛着を持ちすぎることのないように、神様は私たちが受け入れがたいような体験をすることを、お許しになることがあります。
 ex:愛する者の死、病気、疲れ、裏切り、いじめ、貧しさ、不快さ。

 愛する者の死なんて、絶対に受け入れがたいなんて思えません? 死んだら困るでしょう?

 病気。なんで家のお父さん、癌にならなくちゃいけないのか。なんで難病にかからなくちゃいけないのか。うちの子供に限ってどうして病気しなくちゃならないのか。どんな悪いことをしたのか。神様にたて突き文句を言いたくなるでしょう。

 疲れるということ、裏切られるということ。牧師先生が1億2000万円、詐欺にあったという話、教会はつぶれかかったけれど、そのことのゆえに教会が素晴らしく今、成長している証を聞いたばかりであります。裏切られた。

 いじめ、貧しさ。こんなに忠実に主に仕えているのに、なんて貧乏なんだろう。神様本当に祝福して下さるって本当なのかしら?

 不快さ。不愉快さ。もう一度読みますよ。この地上に愛着を持ちすぎることがないように、神様は或る時、受け入れがたいような体験をすることをお許しになることがあります。
今、宿題が丁度旧約聖書のヨブ記で、早天祈祷会でヨブ記を勉強してるのですけれど、1章の最後は「私たちは裸で来て、裸でかえる。主与え、主取りたもう。主のみ名はほむべきかな。」 神様に文句言うことはないでしょう。この地上にあって。

 この前、或る教会で特別集会をしたときに、知恵遅れの息子さんを連れてこられたお母さんが、真剣な顔でこう言われました。「先生、お願いですから祈って下さい」。「何て、祈りましょうか」。「この息子が死ぬまで、私を生かしてほしい。死んだら、次の日、死んでも構いませんから。神様、どうぞ、この知恵遅れの子供が死ぬまで、私を生かしてください。次の日、コロット逝くように祈ってください」。チョット、あまりにもリアルな祈りなので、しにくかったのですけれど、そのとおり祈りました。

 信じがたい、受け入れがたいような体験をすることがあります。せっかく学校に入ったのに、なんでこんなことが起きるのか。せっかく就職したのに、どうしてこんなことが起こるのか。なに悪いことをしたのか。しかも、次から次へと、呪われたような、こうゆうことが一体何であるのか。
 主の哀れみを求めたいと思います。

 ペットが死ぬ場合もあります。受け入れがたいと言って、何日も何カ月も泣く場合もあります。僕はよく知らないけれど、尾崎豊が死んだとき、たくさんの若者が死んだりしました。この前、池田千鶴子さんが亡くなって葬式をしたばかりでありますが、生かされている使命が分からなければ、後追い自殺をする、もし許されるならば。犬のために泣く人たくさんいますけれど、後追い自殺をしますか?もし許されたら。猫のために泣く人がおりますけれど、後追い自殺をしますか?

 神様は、私たちの知恵をはるかに超えて、受け入れがたいような体験を通して、最も大切な出来事をお教えなさる神様。神様にお間違いは決してありません。

 *この地上の人生は、一時的なものにすぎないという認識は、あなたの価値観を劇的に変化させます。
 魚は陸の上では幸せにはなりません。私たちも、この地上で完全な満足はありません。
 ヘレンケラーは、I am so happy 私は本当に幸せです in Christ キリストにあってと言われましたけれど、天国の幸せとは、比較することはできません。

 *人生のゴールは、物質的繁栄や名声を得ることだと考えるのは、致命的な間違いです。
 リック・ウオーレンの鋭さは、こういうところにあると思います。
 「致命的な間違い。」激しい表現であります。致命的ですよ。致命的だって言ってるんですよ。
 人生のゴールは「繁栄の目的」をみんな読みました。私たちは、それを信じます。でも、それはゴールではありません。目的があります。物質的繁栄や名声を得ること、それはゴールではありません。致命的な間違いです。

 ヨハネ4章34節  ご一緒に読みましょう
 イエスは彼らに言われた、「私の食物と言うのは、私をつかわされた方のみこころを行い、そのみ業をなし遂げることである」
 イエス様がそうであるならば、私たちも、私たちの食物はそこに意味があるということですね。

 ピリピ3章13・14節
 「兄弟たちよ、私はすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かって、からだを伸ばしつつ、目標(目標があります)を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞与を得ようと努めているのである」。
 パウロの信仰は私たちの信仰であるべきでしょうね。

 *あなたが地上で過ごす時間が、人生の筋書きのすべてではありません。続きの章は、天国で始まるのです。

 私は牧師をしてたくさんの方々に触れております。頼りにされて祈ることもあります。受け入れがたい出来事がたくさん起こります。この地上がすべてであると思ったことはありませんけれど、この地上が、かなり重要であるという風に思いながら過ごしてまいりましたが、神様は私たちにたくさんのテストを与えて、この地上は一部分であって、やがて、永遠の世界が待っていること、そして、永遠と地上と比較したときに、天国に入ったときに、腰を抜かすほどと言いましょうか、エレミヤ流に言えば、気絶するほど、シバの女王流に言えば、私たちは気が遠くなるほど、すごい世界を見るときがあると思います。

 東大の教授が、中根という方であったと思いますが「純粋であることは良いけれど、純粋性の孤立はいけない。」 教会が純粋で孤立するのは困る。信仰は純粋で孤立するのは困る。だからといって、妥協して命を失うのはいけない。妥協の埋没は困る。どうしたらいいか?その緊張関係のなかで生きなければなりません。まあ、恵まれておられる人達は、少し寛容でなければならないと思います。また、ちょっと、ぬるま湯と言うか、ラ・おでき屋さんの人達は、純粋性を求めることが必要、そのバランスをどうしたらいいか。しかしながら、この地上でも喜び楽しませてくれますが、それが全てではありません。この教会は、この地上で楽しむということを、この数年、勉強してきました。楽ではないが楽しい人生。これはすごい真理を私たちは発見しました。私の杯は、この地上で溢れます。これも素晴らしい真理であります。私たちを癒して、私たちを健康にして、明るく、元気で、伸び伸びと、この地上で誰にも負けない、世の誰にも負けないほどの素晴らしい喜びを、私たちは経験できる。これは、素晴らし真理であります。しかしそれは全てではありません。たとえ、もし、それがなくても、病弱であっても、貧乏であったとしても、頭が悪くて名声、名誉、地位が、上がらないようなことがあったとしても、やがて受ける栄光と比べれば、たいしたことでないことを、自覚すべきであります。私は、永遠に生きる。私は永遠に生きる存在です。さあ、いっしょに言いましょう。 ハイ、「私は永遠に生きる存在です。」 この地上が私のすべてではありません。 ハイ、「この地上が私のすべてではありません」。

 ある宣教師が、宣教地からまだ飛行機のない時代に、船に乗ってアメリカ本土に帰国いたしました。自分の郷里に帰国しましたら、たまたま、その船に大統領が乗っていて、大統領が船から降りるときに赤じゅうたんで、ブラスバンド言いましょうか、それがついて、そして、たくさんのテープが投げられて、新聞記者やリポーターがいて、拍手喝采する群衆がいて、横断幕があって、ところが宣教師は、誰の目にも止まることなく一人静かに船を降りました。彼は、やるせなさと憤りの気持ちでいっぱいになり、神様に不満を言い始めました。「神様!私は誰も迎えてくれる人がいませんが、あのアメリカ大統領はなんですか。ずいぶん差がありますね。」主が彼に言われました。「しかし、我が子よ。お前はまだ、故郷に戻ってきたわけではないだろう?」。 あなたは天国に着くやいなやこう叫ぶでしょう。「どうして自分はこんな一時的なもののために一生懸命やってきたんだろう。自分は何を考えていたのであろうか。なぜこのような残らないもののために時間とエネルギーを費やし、思い患ってきたのであろうか」誤解なさらないでほしいこと、この地上に遣わされていて、私たちは1タラントは1タラントなりに、5タラントは5タラントなりに仕事をしなければなりません。手を抜いてはいけません。それが、世の光としての務めであることを忘れてはいけません。  
 しかしながら、困難な状況を迎えたとき、疑いの雲に包みこまれたとき、あるいは、キリストのために生きることに何の意味があるのか、といぶかしく思ったときに、どうか、思い出してください!どうか思い出してください!あなたはまだ、故郷に戻ってはいないのです。やがて死を迎えるとき、あなたは故郷を後にするのではなく、ようやく本当の故郷に戻るのですから。信じる者は、アーメン、と言いましょう。
 アーメン。

 お祈りします。
 天のお父様。時々私たちは世の中の習慣や、常識や、教科書に洗脳されて、聖書を信じていながらも、いつの間にか忘れてしまうことがあります。受け入れがたいことが起こりますと、頭にきたり、憤たり、直接神様に祈りのなかで文句は言わなくても、ぶつぶつ言ってみたりすることがたくさんあります。
しかし、この地上ではテストだという、この地上ではいろいろテストされて信仰が問われ、お前は何を大切にしているかいつも問われることがあるということでありました。そして、預かりものであることを忘れて、自分勝手に、自分のほしいままに動いてしまうものでありますが、管理をきちんとしなければ、スチュワードシップ、スチュワーデスとしてそれは失格であります。
 今日は一時的な務めであることを忘れるな、旅人、宿れる者てあることを忘れるな、と警告をいただきました。
 愛する天のお父様、やがて私たちの行くべきその故郷は、まだまだこれからの問題であります。過去に縛られやすいものですが、主に顔向けて、たとえ受け入れがたいような体験をするようなことを経験したといたしましても、天に顔向けて前進することができますように、助け導いてください。
 信仰の弱い私達に聖書を正しく理解し、本当に悟りをきちんと持ったキリスト者として証人たることができるように、われらを天国の国民にしてくださったことを心から感謝いたします。胸をはって、故郷にふるさとに凱旋できる特権を心から感謝し、キリストのお名前で感謝し祝福してお祈りいたします。アーメン。