2006年9月6日祈祷会メッセージ

第12章 神との友情を育む

 「人生を導く5つの目的」という、世界的なこのものに挑戦できることを大変うれしくおもいます。

「神はその友情を神に従う者たちと分かち合わされる」(箴言3;32NLT)

なんとすごい、びっくりするようなお言葉でしょう。
神はわたしたちと友情関係を持ちたい。そしてお従いするものと友情を分かち合われる。

◎どれだけ神と親しくなれるかは、あなたの選択にかかっています。

 きょう私は、韓国の韓流ブームのペ・ヨンジュさんのお相手をしたチェ・ジュウさんと電話でお話したと言うとびっくりするでしょうけれど、電話をしたお相手の方は教会の牧師で、この教会にお出でくださる様にお招きをいたしました。直接本人に話すことは大変むずかしくて、でもチャンスがあれば、ということでありますが、彼女は現在、聖書を一生懸命勉強して、信仰告白しているそうであります。今のところでは東京に10月の末にいらして、衛星放送のご奉仕をして下さることになっております。

 お交わりのことでありますが、私の方は十二分に交わりたいという思いを持っておりましても、向こうが拒絶すると成立しないということであります。
その次に書かれていることは、友情を深めるために努力をしなければならない。

 〇努力―願い―時間を割き―エネルギーを注ぎ込む。

 努力をするだけではない。
自分の中に偶然には起こり得ませんから、心からの願いというものを持つ必要がありますね。“神様と親しくなりたい”というね。そのためには洗礼を受けるだけではなくて、神さまと親しい関係になりたいという願い。
 そのためには、時間を割かなければなりません。通りすがりの人とか、電車で会う人とか、テレビに登場するような人と親しくなることは難しいことであります。
 時間を割いてそこにエネルギーを注ぎ込むということが必要であります。
チョウ・ヨンギ先生が6月6日にこちらにおいでになられたときに、先生は講壇から私のことを 「大川先生は私にとって親しい友達の一人です」と、そういう風に仰られて私は本当にびっくりしました。まあ、少しは気を遣っておられるかとは思いますけれど、単なるお友達の一人というよりも親しいということは親友ということですね。親しい友達の一人です、と仰って下さったのです。
 チョウ・ヨンギ先生のためというよりも私のためでありますが、先生が日本に来られ、特に関東地域に来られましたら、私は一度も多分ミスしないで先生の講演を聴き、そして、先生とお交わりをすることができる努力をしてまいりました。
 先日もこの教会に来られたときに、うちの息子たちが先生に按手して祈ってほしいと、応接間で祈って頂いて、祈り終わった瞬間にわたくしは先生の手をぐっと掴んで自分の頭に強制的に按手祈祷をしてもらいました。私の気持ち、願いということであります。
 ベニー・ヒン先生の追っかけをやりまして何10回も行きましたから、いつのまにか先生は顔を覚えて下さいました。ベニー・ヒン先生は、私の名前を覚えようとしませんから覚えませんけれど、超先生は最初から覚えて下さいました。私のことを大川じゅうどう、と最初に覚えた名前を今も使うわけでございます。どっちでもいいんですけれども、親しくなるための努力、願い、時間を割く、ということの重要性であります。

〇もっと深く=正直な対話、命令の実践、御旨を大切にする。
  EX:アブラハムの正直な交渉力と食い下がり。(創世記18:22〜33)
  EX:モーセの力と食い下がり。(出エジプト記33:12〜17)

 神さまとの親しいお交わり。
友情を深めるために、もっと深くするために、この先生のユニークなところは正直な対話が必要である、という風に言っているわけであります。
 正直な対話の内容は何であるかといいますと、友情を深める対話の第一歩は正直であること。♪つつまず述べて などかは下ろさん 負える重荷を・・・♪という賛美歌がございますが、わたくしたちの内側を洗いざらいと言いましようか、正直に神様にお語り申し上げることが必要であります。

創世記18章22節から33節まで、これは有名な箇所ですよ。知っておかなければならない箇所です。
「その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。 アブラハムは近寄って言った。「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。 たとい、 あの町に50人の正しい者があってもあなたは尚、その所を滅ぼし、 その中にいる50人の正しい者ためにこれをゆるされないのですか。 正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、 あなたは決してなさらないでしょう。 正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。主は言われた、「もしソドムで町の中に50人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。 アブラハムは答えて言った、「わたくしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。もし50人の正しい者のうち5人欠けたなら、その5人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。 主は言われた、「もしそこに45人いたら、滅ぼさないであろう」。 アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに40人いたら」。 主は言われた、「その40人のために、これをしないであろう」。 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに30人いたら」。 主は言われた、「そこに30人いたら、これをしないであろう」。アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに20人いたら」。 主は言われた、「わたしはその20人のために滅ぼさないであろう」。アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。私はいま一度申します。もしそこに10人いたら」。主は言われた、「わたしはその10人のために滅ぼさないであろう」。 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。

 30人、20人、10人とアブラハムは神様に立てついた男であります。
「神様、あなたがこの町を滅ぼすとおっしゃいますけれど本気ですか。正しい者も一緒になって滅ぼすなんて、あなたらしいとは思えません。この町に50人正しい人がいたら、滅ぼされない。45人だったらどうですかね。そのくらいはいるだろうと。そのくらいはいいだろう。40人だったらどうでしょうね。30人だったらどうですかね。なんか、ねぎっているみたいですけれども、20人では・・・10人では・・・ってなことですが、10人もその町に正しい人がいなかったためその町は滅ぼされてしまったということでありますが、アブラハムが喜ばれるというのは、そういう正直な神に対する訴えということが喜ばれたのだというそういうメッセージであります。

出エジプト記の33章12〜17節
 モーセは主に言った、「ごらんください。あなたは『この民を導きのぼれ』とわたしに言いながら、わたしと一緒につかわされる者を知らせてくださいません。しかもあなたはかつて『わたしはお前を選んだ。お前はまたわたしの前に恵みを得た』と仰せになりました。それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えて下さい」。主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。モーセは主に言った「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここから登らせないでください。わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」。主はモーセに言われた、「あなたはわたしの前に恵みを得、またわたしは名をもってあなたを知るから、あなたの言ったこの事をもするであろう」。

 神様はお怒りになられて、 モーセがリーダーとなっているにもかかわらず神様に逆らい、そして言うことを聞かず、神様はもうあなたがたと一緒に行くのはやめた。勝手にしなさい、というような時にモーセが間に立って、あなたがご一緒して下さらなければ世の人たちが見て、それは証にならないでしょうと、食い下がっているわけですよね。あなたのご好意を得ますならば、恵みをいただきますならば(これは英語のメッセージトランスレーションですが)、もしあなたが、そのご臨在によって導いてくださらないのでしたら、この旅は取り止めにして下さい。
 そうすると、神はモーセに言われた。『分かった、分った、あなたが言ったそのことも、わたくしはしよう。あなたは私にとって特別な存在なのだから』って純粋な友情関係を持っていたというようなことが解説されていますけれど、面白いですね。
 もう一度申しあげますが、親しくなるそのことのためには正直でなければならない。
正直であるということは、失敗も感情も神様の前に明らかに。
 神様はあなたに完璧を求めてはいらっしゃいませんで、正直であることを強く求めていらっしゃいます。ですから、図々しいと思えるようなことでも、私達の神様はそれを正直さの表れだと見て下さる神様だと知るべきですと言うことですね。

※「神との間に生じた、隠れた不一致(ひび)」の温床を作るな!
 
 これはとても重要なウイリアム・バックスという人の言葉でありますけれども、神様との間にひびを作るとその中にサタンが入り込んで、いつの間にかそこにサタンが住み込んでしまうと言うのです。
 このことは、夫婦の間でも解決しないまま人生を過ごして行きますと、うまく行かなくなります。親子の間でもそうですね。嫁と姑との関係。人間関係はみんなそうですね。
 教会で牧師と信徒の関係。役員さんとの関係。一般信徒同志の関係でも、気まずい関係を持ちますと教会に行くことが嫌で、彼はいつも下の方に座るから私は2階席だというような人もいるかもしれませんね。 彼はいつも2階だから間違っても2階にはいかないとか、彼はいつもトイレはあそこに行くから、あそこには絶対行かないとか、そういう人がもしいるとしたら問題でしょう。

 〇苦々しさは神との友情を妨げる最大の障壁です。
  EX:エペソ4:26・27。怒りの賞味期限は1日のみ。

エペソ人への手紙4章26・27節
 怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない。

 悪魔にチャンスを与えてはいけないんですって。 このところで温床と言われてるのはですね、 苦々しさを抱えて、 ぶつぶつ言ってるのはサタンが入り込む温床になるんだって。ですから、怒りの賞味期限は1日だけ。日が暮れる前に「ごめんなさい」しちゃいなさいと言うのが、わたしたちが今まで勉強してきたことですよね。
“苦々しさ”。こんなことを許す神様なんて大嫌い!友達なんかになりたくない!正直に私達の内側を言い表すことを習慣づけておくと、心も癒されるわけですよね。

 ジョークでこんなものがありましたね。
神父様に懺悔にいった女性が 「神父様、 私は懺悔します。高慢な罪を犯してしまいました。私は夜、鏡を見るたびに、美しい女だなあ。なんて美しいんだろう。これは高慢の罪だと思いますから懺悔します」。 神父様は言いました。 「それは高慢な罪ではありません。単なる誤解です。」というのがありますが。

 正直に表現をするということが、クリスチャン生活の中で重要な清めの流れを汲んで来ると、いたずらに表現出来ないことが沢山あります。
 榎本先生の“チイロバ”を是非お読みいただきたい。漫画で出ましたからね。みんなお読みになったらいい。回し読みしたらいいと思います。
 榎本先生が本を出すときに校正をしようとしたら、チイロバの中にはどのページにもページごとに、 “腹が立った、 腹が立った”って書いてあるんで、自分でこれはちょっとまずい! 削除しようと思ったのですけれども、ホーリネスの清めの流れですから、 “腹が立つ”ということそのものに問題があって、腹が立つとは、それは清められていないからだという論法の中に生きてまいりました。そうするとどうしても正直でなくなるわけでありますが、腹が立つ、それはあることに対して腹が立つのはいいけれども、自分の内側の肉とか、わがままとか、自己中心で腹が立つことは問題で、その内側が清められなければならないわけでありますけれども、神様の前に正直であるということは、とても重要なことであるということを忘れてはいけないと思います。

「私は神のみ前に私の苦情をそそぎだし、私の問題をすべて神に申し上げよう。私は押し潰されそうだから」 (詩142:2、3 NLT)

 先日、私達は、呟きは罪であるということを勉強しましたよね。鏡としての歴史ということを勉強したわけでありますけれども、呟きの問題ではなくて、自分が神様に対して愛の関係がきちんとしていて自分の思いをはっきりと述べるという習慣を持つことは重要なことで神様はそれを愛して下さるという内容であります。

◎友情の条件(神様との関係の友情条件)

第1の条件
 @従順―ヨハネ15:14、ヘブル5:7,8。サムエル15:22,23。
 みんな赤鉛筆で線を引いてほしい内容ですよ。

ヨハネ15章14節
 「あなたがたにわたしが命じることを行なうならば、あなたがたは私の友である。」
友である。あなたがたが私の戒めを守るならば。

ヘブル5章7節8節
 「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、」
 イエスさまが、学ばなければならないことは従順であった。

サムエル上15章22、23節
 サムエルは言った、「主はみ言葉に聞き従うことを喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲に勝り、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、(占いの罪もいけないことになっていますよ)強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主の言葉を捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。 わたしたちは神様に従順であるということが要求されているということですね。
その次の聖句はすごいでしょう?
ルカ福音書2章51節 
 イエスは、両親とともにナザレに戻られ、彼らと共に従順に生活された」(ルカ
2:51Meg)こんな訳はじめてですね。

 彼らと言うのは、ヨセフさんとマリアさん、ご両親とともに従順に生活された。
実は、新改訳聖書の場合には、彼らにお仕えになった、という風になっておりますが、イエス様はご両親に従順に生活された、従順された、お仕えになられたと言うのです。
 イエス様のご生涯は、マルコ10章45節に、人の子キリストがこの地上にこられたのは、人々から仕えられるためではなく、人々に仕えて自分の命を提供するためであるというのが、マルコ福音書におけるキーポイントであるわけでありますが、30歳になって洗礼を受ける前から、幼い12歳の時からこのイエス・キリスト様はご両親にお仕えになられた。

 若い方々も沢山いらっしゃいますが、どうですか? 自分の意識の中に、私は父や母に仕えよう、従順しようという意識をお持ちになられたら、神様がそこに素晴らしい聖霊の働きをして下さいます。
 もし、私達が両親に伝道し、結束してクリスチャンにしてしまおう、というようななことでありますならばそれは上手く行かないでありましょう。あなたが両親に従順しよう、仕えよう、そういう気持ちを持つならば、それは、どんなにキリスト様の名が高められることであろうかと思います。アーメンでしょうか。アーメン。

第2の条件
 A神様が大切にしておられるものを大切にする。(嫌がることはしないと書きました。)
  EX:新生(救霊)―成長・訓練―福音宣教
 
 築地の料亭のおかみさんは、どうして人々が喜ぶかといったら、相手の嫌いなものは決して出さない。相手の嫌いなものを覚えておくという。
 私達も人間関係、今恋愛中の人が何人か、今交際中の人が何人かいらっしゃいますけれども、 相手が何が嫌いであるか判らないでやっていくというのはおかしいんですよね。こんなことは絶対やってはいけない、言ってはいけない、こういう仕草、こういう食べ方、こういう言い方、こういうやり方、これは相手が嫌いなことだから、愛する者が嫌いなことはやらないんだということです。

 神様が一番好んでいらっしゃる、大切にしていらっしゃるのは、新生と書いてありますね。赤ちゃんが生まれること。救霊と言うのは魂が救われるということ。
 神様はヨハネ3章16節で、その独り子を下さるほどに、わたしたちを愛して下さった。
何と言ったって、人間が滅びないようにすることを神様は喜んでいて下さる。魂を、命を大切にしていらっしゃる。すべての人が救われて真理を悟るに至ることを願っていらっしゃるのですから、このことを私達は大切にする。

 この教会は祈りを通して聖霊様が働いてくださって、 日本で最も祝福された教会になったわけですが、あえて要因を申し上げるならば、それは、神様が喜ばれること、この教会が大きくなっても伝道を忘れないということ、魂が救われるためになら何でもするということ。
 “宴会礼拝”もそうです。何だか訳の分からない名前をつけて伝道しているのは、どうにかして一人でも多くの人に伝道したいということ。オペレッタをここにお呼びするといいうことも、これも、どうにかして福音を伝えるチャンスをつくりたいということです。
 この大和市内の市長さんは土屋さんとおっしゃるのですけれど、土屋市長さんが来週訪ねてきて私と面談することになっているのですが、彼がもっておられるバンドがあるそうで、どうしてもここで演奏させてほしいというのですが、演奏させて欲しいと言ったって、世の中の歌を礼拝で演奏されてもちょっと困るでしょう? でも、最後の2曲ぐらいは賛美歌にして下さいって、今から賛美歌をお願いしようと思っているのでありますよ。どうにかして教会なんかには一度も行ったことのない人たちにも福音を伝えたいという姿勢を、神様が喜んで下さるのだと思います。
 
 救われた赤ちゃんが成長する。 訓練される。 訓練されれば誰でもが用いられるのですよ。そして、福音宣教に当たることが出来るのです。そして、もう一度また救霊に戻る。そして、魂が救われると成長して、訓練を受けて福音宣教に。また、ぐるっと回って救霊に。そして訓練。福音宣教。これがクリスチャンの生き方であります。

「私が心に堅く決めている目的、それは神を知ることです。(素晴らしいですね)私は日を追うごとに、さらに深く、さらに親しく神を知り、そしてさらに強く、さらにはっきりと神の御人格の神秘に迫り、また認識し、理解したいと願っているのです」(ピリピ3:10詳訳聖書)

 もう凄い訳し方だと思いますけれど、神の御人格の神秘に迫るなんていうことでありますがね。私は毎日、日を追うごとに、さらに深く、さらに親しく神を知り、そしてさらに強く、さらにはっきりと神の御人格の神秘に迫り、また認識し、理解したいと願っているのですという願いを、神様の前にパウロが告白している、そういう内容であります。
もう分っちゃったとか、卒業しちゃったとかは、絶対ありえない世界にわたしたちは導かれているということですよ。凄いですね。

◎痛みの経験―罰ではなく、愛に満ちた神からのモーニングコール。
 ・神はあなたに対して腹を立てておられるのではなく、あなたと腹を割って話したいのです。
 
痛みの経験。痛い目に遭う大切さと申し上げたら分かり易いでしょうかね。
 痛いことに遭うとか、失敗するとか、辛いこと、悲しいことに出会うのは、罰があたったことではなくて、愛に満ちた神様からのモーニングコール。モーニングコール、分かりますか? 寝坊スケさんが起こしてもらう。ホテルでモーニングコールして下さる。起こして下さるという。さあ、目を覚ましなさいと。

 ヨーロッパに行きますと、教会の十字架が風見鶏になっているところがあちこちにありますけれど、目を覚ましなさい。あなた洗礼受けているでしょう。クリスチャンでしょう。はじめの愛から離れているでしょう。目を覚ましなさい。モーニングコールであるという風に受け止めなさいという。

 ・神様はあなたに対して腹を立てておられるのではなく、あなたと腹を割って話したいのです。凄いですよね。この翻訳はね。神様は腹を割って話したいのですという。

 うちの息子のことを礼拝で申し上げて皆さんにお祈りして頂きましたが、昨日、むこうから電話がありまして、荷物が出てきたそうであります。大切な荷物が飛行場で失われて泥棒されたのか、何処かに行ってしまったのか、まあ、外国旅行するとそういう経験は1回や2回はあることですけれども、初めてそんな経験をした者にとりましては、ちょっとパニックのようにしんどい経験をしたのでありますね。飛行機もキャンセルして次の飛行機を見つけて、というようなことであったのですが、荷物が出てきたわけであります。私は荷物の問題を聞いたときに、あー、あの孫の祝ちゃんが元気であれば、命が守られていれば、それで荷物はどうにでもなると思いました。でも、こういう時に、うちの息子や嫁さんがどういうふうに神様と対話したでしょうかね。
「神様、これは一体どういうことでしょうか。教会をあげて祈って頂いて出てきたにも拘わらず、こういうハプニングはどういう意味があるのでしょうか。どうして私の荷物がお祈りしてきたのに失くなってしまったんでしょうか。お祈りをしなかった人がいっぱいいてみんな荷物を持っていく。わたしたちの家族だけがここにとり残されちゃいました。祈られていた私達がどうしてこんな目に遭うのでしょうか」。 こういうふうに正直に言うことは悪いことではないでしょう。心の中でブツブツ言って、大川牧師の祈りは効き目がないとかですね、教会なんか祈ってはいないんだ、とか色々言ってですね、それは愚痴でございますよ。 でも直ぐに マイナスは必ずプラスになると心を入れ変えることができたか。
ロマ書8章28節 すべてのことを働かせて益となる、ということをわたしたちは経験していけるかどうか。こんな小さな事だけれど、私にとって良い経験をさせてもらった。これから勉強するのに、生活するのに、神様は不思議なことをして下さるんだ、という風に期待していくことが重要なことであろうかとそう思いますよね。

 向こうに行きましたらゴキブリはいなかったそうですが、住む家にコオロギがいっぱいいて、ちょっと抵抗があったそうでありますけれど、小泉八雲はですね、日本人と言うのは、虫が鳴いてもそれを俳句にしたり、和歌にしたり、短歌にしたりする凄い国民だと言っておりますがね。

“ふる池や 蛙飛び込む 水の音”。 
 それがどうしたの? これが、アメリカ人が考える考え方であります。ふる池に、カエ  ルが飛び込んで、ポチャン!と音がした。それが何なのよー、とね。

“痩せカエル 負けるな一茶 ここにあり”。 
 カエルが相撲とったの? ほんと? それが一体どういうことなの?

“岩にしみいる セミの声”。
 なによ、それって。これ日本人じゃないと分からない。

 八雲は日本人の血をひいていらっしゃるから。我々はちょっとしたことでも素晴らしいことに変えることのできる、そういう文化的情緒を持っていることも素晴らしいことであると思います。

 もとに戻りますが、痛いことに遭う経験は罰ではなく、愛に満ちた神からのモーニングコールである。信じる者はアーメンと言いましょう。アーメン。
こういう信仰の素晴らしさ。

※最も重要な関係を奪い返せ!(Tテモテ6:20,21 口語訳、LB、新改訳、共同訳)

Tテモテ6章20、21節
 テモテよ。あなたに委ねられていることを守りなさい。そして、俗悪なむだ話と、偽りの「知識」による反対論とを避けなさい。ある人々はそれに熱中して、信仰からそれてしまったのである。恵みが、あなたがたと共にあるように。
 この21節に、ある人々はそれに熱中して、信仰からそれてしまったとありますが、

リビングバイブの21節では、
 テモテよ。神様から託された任務を完全に果たしなさい。知識を鼻にかけ、かえって無知をさらけ出しているような人と、くだらない議論にふけらないよう、気をつけなさい。彼らの中には、人生で最も大切なものを見失った者、すなわち神様を知らないものがいるのです。と訳しておりますね。

新改訳聖書21節では、
 これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。

共同訳の21節、
 その知識を鼻にかけ信仰の道を踏み外してしまった者たちもいます。恵みがあなたがたと共にありますように。

最も重要なことは、神様との関係を持ち続ける。神様との友情を育む以上に重要なものはほかにありません。神様との関係は永遠に続くからです。何が起こっても神様との関係を切ってはいけません。

 わたくしにとりましては大変驚く記事が、少し前のクリスチャン新聞に載っておりました。
 山本七平さんという方は少し前膵臓癌でお亡くなりになりました。91歳でしたが、クリスチャンでいらっしゃって、日本における昭和思想界の巨人と言われる人物でした。彼はたくさんの本をお書きになりました。
 亡くなった後も奥様が山本書店を経営していらっしゃいますが、山本七平さんは、「年をとっても、高貴な精神を持ちつづけている人は美しく見えるものだ。わたくしは、母親と娘の両方に惚れた。結婚をする時にはその娘に惚れるわけですけれど、母親に惚れた。」
れい子さんとお見合いしたときの七平さんはこう述べている。
 れい子さんのお母さんは伝道者で、れい子さんは伝道者の子供でありました。
お母さんは宝田愛さんといって、青山学院を首席で出た人だそうですが、終戦直後1945年一家は東京の自宅を売り払い、父の故郷である新潟県村上に引越した。疎開先で待っていたのは貧しさであった。弟に騙され家財と土地すべてを失い、住む家もなく長屋の2階に住みこんだ。 ところがこのお母さんが教会で聖書研究会を始めたら人が集まってきた。
聖書研究会に一人のご婦人が来られましたが、その人は身重のお母さんであった。神の栄光を現す健康な子供が生まれるようにと、二人はいつも集会の後にお祈りをしていましたが、生まれてきた子供は40日目に小児マヒに罹ってしまいました。まあ、新潟の田舎のことですから大変なことを言われたそうです。ヤソの集会なんか、キリスト教の集会なんかに出るからこんな事が起こるんだ、そんなところに行くからいけないんだと、姑さんや近所の人から非難されて、その女性は次第に礼拝に来ることもなくなり、音信不通になってしまったそうです。伝道者にとってこれが一番つらい出来事でありますが、無教会派の伝道者として生涯を捧げたこの宝田愛さん、すなわち山本七平さんの奥さんのお母さんは、晩年87歳の時にもう一度、新潟伝道に出かけて行きました。30年来、気になっていた、あの時いつも礼拝の後に一緒にお祈りしていた、出産後暫くして子供が小児マヒに罹ってしまったあの時の女性と連絡を取ることができた。なんと、その子どもは伝道者になっていた。 現在、れい子さんが通う杉並教会の牧師大竹海二さん、音楽家でもあります。愛さんが集会で教えた賛美歌を子どもたちに教えて、大竹夫人の影響でこの大竹先生は教会音楽に興味を持ち東京芸大を卒業した後、神学校に行って伝道者として献身なさいました。
 30年ぶりに大竹牧師に対面したいま、私の祈りは30年後に聞かれました。まことに「神は愛なり」ですと叫んだという。

 兄弟姉妹、祈りを途中で切ってはいけません。私の祈りは30年後に聞かれました。神様は生きておられます。ずーっと関係を持ちつづけて行く。神様との真実な関係に神様はお答え下さるということであります。
 神様を愛しお従いしてゆく者はアーメンと言いましょう。アーメン。


お祈りします。
 天のお父様、伝道者として一番つらい事は、神様の悪口を言われること。神様なんか生きていないんだと或る者は教会を離れる。そうゆう姿を見ることが一番つらい事ですが、この教会も神様の哀れみで毎週のように人が戻ってまいります。
 放蕩息子よ放蕩娘よ戻って来い!といつも叫びます。せっかく洗礼を受けたのにいなくなった者よ、もう一度神様のもとに帰って来い!と叫んでおります。クリスチャン・ホームで祈られている者たちよ、サタン悪魔から解放されて教会に戻れ!といつも叫んでおります。あなたはその叫びにお答え下さると信じます。
 神様との関係が切れてしまった、そういう方々が次々に戻ってきて、日本にリバイバルが起こりますように助けて下さい。ミッション・スクールで蒔かれ種がもう一度芽を出すことが出来ますように助けて下さい。日曜学校で蒔かれた種が芽を出すことが出来ますように主よお助け下さい。
 神様との親しい友の関係がおかしくならないように、私達は正直に神様の御前に対座し、神様から溢れる恵みを頂くことができるように導いて下さい。ご一緒下さるイエス様のお名前によってお祈りいたします。               アーメン