2006年10月4日祈祷会メッセージ

第15章 神の家族になるために造られた。

「神の家族になるために造られた。」

 私たちの世界は2000年の中で過去100年間、驚くべき変化が起きました。この変化は人間を幸せにもしましたが、多くの不幸ももたらしました。もし、農耕文化でありましたら少しのんびりした、そういう世相でありましたでしょう。ストレスもありませんでしょうしのんびり出来たでしょう。また、病気にならなくてすんだと思いますけれども、世界はこのスピードのゆえに幸せになると思ってスピードアップしましたけれど、このことのために不幸が驚くべき勢いで蔓延しているというのが現実であります。
 今日のメッセージは、この現代社会のなかで最も大切なものは何であるか、ということに触れたいと思います。順番ではありますが、今日は、神の家族になるためのテーマであります。神の家族になるために私たちは造られた、というテーマであります。

「すべてのものを造られた方は神であり、すべてのものは神の栄光のために存在しています」(へブル2の10 NCV)

 以前、宮田四郎さんが、詩篇第19篇、ベートーヴェンの曲を演奏されたことを今でも感動的に覚えております。「もろもろの天は、神の栄光をあらわし、大空はそのみ手のわざをしめす」というそれを演奏して下さったわけであります。すべてのものは神の栄光のために存在しているという。へブル人への手紙2章の10節がそこに書かれています。

「わたくしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。わたくしたちは、すでに神の子なのです」(第1ヨハネ3の1)

 賜ると言うのはプレゼントの意味でありますから、私たちはすぐに考えられます。たくさん太陽の恵みを与えていただき、月を与えていただき、水も与えていただき、すべて生活に必要なものを与えていただいておりますが、どんなに大きな賜物、贈り物を賜ったかと言いますと、それはヨハネ3章16節「神はその独り子を賜ったほどに・・・・」私たちはイエス様を頂くほどに、プレゼントして頂くほどに私たちは愛されており、それがどんなに大きな愛なのか、それは考えも及ばないほどの愛であると思います。
 お子さんを失って痛み、そして悲しみ、そしてもう生きていけないぐらいほど辛いと思いますけれども、父なる神さまは私たちに御子イエス様をくださって愛を示して下さいました。その結果、私たちは神の子と呼ばれるものに変えられた。
 私たちは神の子です! ご一緒に言いましょう。私たちは神の子です!

◇あなたは神の家族となるために造られました。

 私たちが神様によって恵まれているのには目的があります。
第一の目的は、救われて永遠のいのちを頂くことだと思います。
第二番目の目的は、神の家族になるということであります。
 大川牧師がいつも心配しておりますことは、例えば、♪私と家族は〜〜〜とかですね、
♪私たちはみ国の世継ぎ 御子イエスとともに〜〜〜家族ですよという賛美をするときに、一つの心配は独身組の方々のことであります。お子さんのいらっしゃらない方々の前で私があえて孫の話をしたりするのでありますけれども、これは私も心を痛めることが度々あります。一人暮らしで生活していらっしゃる未亡人の方々が沢山いらっしゃいます。祈っているのですけれど結婚に導かれないという方々もいらっしゃいます。しかし反対に子供がいるために苦労して、こういうジョークがありますが、
“こんなに孫が可愛いのであるならば、子供を生まないで孫を生んどけばよかった”というジョークがあります。
 しかし、では孫はみんな可愛いかと言うとそんなことはありませんで、孫が2歳、3歳ぐらいの時は問題はありませんけれども、これがだんだん大きくなって、ふてぶてしくなるというか、言うことを聞かないと言うか、年寄りまたは親の言うことを聞かない不良になったり、愚連隊になったり、脇道にそれたりすると、ああ、長生きするんじゃなかったみたいなことだって起こらないわけではありません。それが現実であります。
 私たちがここで勉強しなければならないことは、私たちは神の家族であるということであります。

「変わることのない神の御計画とは、イエス・キリストを通して私たちを、ご自分のもとに引き寄せ、私たちを神の家族の一員とするために養子として迎え入れて下さるというものでした」(エペソ1の5 NLT)

 私たちを神の家族の一員とするために、赤の他人であったのですけれども養子縁組をして頂いたのだというのがこのところで言わんとしている聖書のみ言のお約束であります。
私たちは神の家族として養子縁組をされたということを忘れてはいけないと思います。

 〇神の本質は、その関係にあります。(父なる神、子なる神、聖霊なる神=三位一体)
 〇教会は霊的な家族。クリスチャンは、霊的は兄弟姉妹です。
 〇神の家族の一員となる唯一の方法は、新しく生まれ変わることです。
 「神の知恵とそのご計画の範囲について考えるとき、私は膝をかがめ、偉大なる神の家 族・・・その者たちはすでに手にあり、またある者たちはこの地上にいます・・・の父であられる方に向かって祈らずにはおられません」。(エペソ3の14・15 LB)

〇神の本質はその関係にあります。
 これは素晴らしい理解であります。 どういう関係であるかというと、 父なる神様は、お父さま、Our Father、アバ・父よ、というお父さん。お父さんということはその子供しか呼ぶことが出来ないわけですね。我が愛する子よという、親子関係であるということです。そこに聖霊なる神さまが加わって誰が一番かというと、位からすると第一位なる方は父なる神様、そして子なるイエス様、次が聖霊なる神様、と神学では教えますけれど、まったくもって三者が一つである、トリニティ、と言いますね。三位が一体であるという、少しも欠けるところのない関係であるという。

ジョン・マックスウェルという方が、その書物の中で(斎藤孝さんが訳しておるのでありますが)、人間が何に成功するにしても、 REAL(リアル)が大切であると語っておられます。

1番目は、R:Relationship・・・かかわり合い。
人間関係がうまく出来ない人は、どの部門でも成功しませんということを彼は語っておるのでありますが、その通りであると思います。
 商売をしておられる方もおられますし、 社長さんも、 立場ある方々もいらっしゃいます。お医者さんもいらっしゃいます。サラリーマンも、OLもいらっしゃいますけれど、リレイションシップ、この関係ということが上手に出来ない夫婦と言うものはうまくいきません。Marriage able personality、すなわち結婚適合性をもっていない人は結婚すると不幸になります。一人で生活していたのが急に二人になって、我が儘+我が儘でしたら必ずぶつかり合いがあります。教会の牧師も同じであります。信徒同志でも同じであります。今はこのリレイションシップ、かかわり合い関係づくりを作るのが非常に難しい時代であります。

2番目は、E: Equipping・・・これは備えるということであります。
私たちは一人では仕事は出来ません。十分に備えて準備をしてチームを組んで始めてうまくいくという。

3番目は、A:Attitude・・・態度、姿勢の問題であります。
どういうふうに人との関係をもつか。謙遜であるか、威張りくさっているか。また、何よりも神様との関係の態度というものによって、その人の人生が決定していくというのは本当であると思います。

4番目は、 L:Leader ship・・・リーダーシップであります。
上に立つ者のリーダーシップによって会社、そしてチーム、青年会も学生会も、どのグループもリーダー次第であるという風に思われます。教会の牧師も同じようなところがありますけれど、私たちは神様がこの教会のリーダーであるということが最も大切なことであるかと思います。

 リレイション・シップに戻りますけれど、親を認めない子供は、親がいても孤児のような者であると、いま、河(ハー)先生が説教したばかりでありました。
孤児は終戦後の韓国にはたくさんいました。日本も上野の山にはたくさんの親が戦争で死んだ、東京空襲で死んだ、孤児たちが溢れていました。上野の山の西郷さんの周りには孤児がいっぱいいました。 ホームレスの話をしているのではありません。 子供で親がいない。まっ黒けで、泥だらけで、風呂に入ることのない、頭はシラミでいっぱい。ガードの下は孤児だらけでありました。孤児のみじめさは、「お父さん!」と呼ぶ事の出来る人がいないということでありましょう。暖かい愛情で育てられたことがないということでございましょう。
 同じように、現代社会のなかで親を親として認められないと、親との関係がうまくいきません。そうすると親の愛情があってもそれを受けとめられません。親が育てよう、また養育しようと思ってもそれが分かりません。すなわち、親があってもないのと同じで、孤児ということ。
 同じように、これはサラリーマンの説教の中でありますが、神様が私たちの親に、お父さんになってくださると言うのにそれを拒絶すると、この地上における孤児のようなものであります。
 しかし神様をお父さまとして認めると、私たちは親子関係がきちんとして私たちに愛情が注がれます。そして、私たちに必要な養いが与えられます。方向づけも与えられます。神とのリレイション・シップとの関係がどんなに重要か、という伝道メッセージが語られていたのであります。私は本当にそこに感動を覚えたわけであります。

○教会は霊的な家族。教会というものは霊的な家族であると書きました。クリスチャンは兄弟姉妹ということであります。

 青山学院で勉強していたときに、非常にリベラルというかラジカルな教授がおりまして、「諸君の中には手紙を書くときに、主のみ名を崇めます。主のみ名を賛美しますとか書くけれども、ああ言うウソは書かない方が良い」という人がいました。そこで私は手を挙げました。「先生、ウソで書く人もいるかもしれませんけれど、私はいつも手紙を書くときにはお祈りして書きます」。私はその頃、純粋な牧師、なりたての牧師ですからね。私は「ああ、そういう人も世の中にいますか。すみません」といって謝っておられました。
 また、その先生はこうも言いました。 「教会の中で兄弟姉妹と言うのは、あれは気持ちが悪い!気持ちが悪い!教会がなんで兄弟姉妹だ」私はまた手を挙げました。「聖書の中にそう書いてありますから」。 「そうか、そんなことが書いてあるかね」。
 私たちは、結婚式のときには兄弟姉妹と言わないようにしていますよ。ある教会に行きましたら、入り口に結婚式場と書いてですね、ナントカ兄弟と、ナントカ姉妹の結婚式場と書いてありました。日本で半分ぐらいがそうしています。それを未信者が見たら、“兄さんと姉さんが結婚するの?”お笑いでございましょう? 世の中の知恵というか考え方がキリスト教会のなかでは完全にストップしてるということでありまして、もうびっくりしてしまうようなことが平気でなされるわけでありますが、それは注意しなければならないわけであります。

 この書物(5つの目的)はバプテストの先生が書いたわけでありますので、非常にバランスが取れているそのことのために世界中で何千万部と用いられているわけですが、ちょっと危ないこと―珍しいですね―危ないことが書いてありますので、それを紹介します。危ないことを紹介しますね。
 あなたの霊的な家族関係は、あなたの血縁関係よりも大切なものです。なぜなら、この霊的関係は永遠に続いてゆくものだからです。この地上における家族も神があたえて下さった素晴らしい賜物です。しかし、それは一時的で壊れやすい関係です。それはしばしば離婚、別離、子供達の自立、そして誰も避けることの出来ない死、などによって破壊されてしまうのです。
 一方、クリスチャンたちの関係は永続する関係です。ですから私たちはこの地上における肉の関係よりも、霊的な教会の兄弟姉妹の方が重要であり、大切なのです。という言い方、書き方であります。
 これはアメリカのように「個」を重んずる国でありますから許されると同情して申し上げますが、それは必ずしも正しい物の考え方ではありません。何故ならば、パウロ先生のこれは “Back to the Bible”であります。

 聖書の第Tテモテの5章に
「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい」とそう書かれています。
 愛する兄弟姉妹!私たちの家族は全員救われます、と私達は宣言していつも祈りますけれども、99%の親族がクリスチャンでありませんでも、私たちは真剣に取り組んでいかなければなりません。あなたがあなたの家族のためにお祈りしなければ、誰が祈るでしょうか。諦めてはいけません。どんなことがあっても諦めてはいけません。私の母が言うように、這いつくばってでも天国に行って欲しいと、遺言を書くべきでありますし、伝えるそのことの努力をすべきであると思います。
 霊的な教会の家族というものは、肉の家族よりも大切だという表現は或る意味において当たっております。なぜならば、それは永遠に続くからであるという、そういう説明であります。しかし私たちは諦めていないわけでありますから、この地上におけるところの神様の摂理的に兄弟姉妹がどこで生まれたか、どういう家系の中で生まれてきたかということは重要であって、そのことに対しては放棄しては絶対にいけないと思います。
 未信者よりも悪いとパウロが言いましたように、当時の教会の中にもクリスチャンの兄弟姉妹が完璧であるとは記述されておりません。
 この教会は本当に素晴らしい教会ですよ。教会でお友達を作ったら、もし、自分が病気だったら断食して祈ってくれる人がいっぱいいます。もし私が瀕死の、何かに行き詰まったならば、本当に涙を流してくれる人が沢山いらっしゃいますよ。しかしながら、どんなに教会が素晴らしくありましても、 肉の関係、喧嘩している関係であるかもしれません。疎遠になっているかもしれません。何年も郷里に戻っていないかもしれませんけれども、それは神の摂理的な下さった関係でありますから、どうぞ大切になさっていただきたいと思います。アーメンでしょうか。

〇神の家族の一員となる唯一の方法は、新しく生まれ変わることです。
「神の知恵とそのご計画の範囲について考える時、私は膝をかがめ、偉大なる神の家族・・・その者たちはすでに、天にあり、またあるものたちはこの地上にいます・・・の父であられる方に向かって祈らずにはおられません」。(エペソ3の14・15LB)

 もう一度読み直します。
神の知恵とそのご計画の範囲について考える時に、私は膝をかがめ、偉大なる神の家族−(飛ばします)−父であられる方に向かって祈らずにはおられませんということ。私は神の知恵とそのご計画の範囲について考える時に、父なる神様に対して祈らざるを得ないということについて、今日もそれを深く感動させられました。

 CGNTVが開局されて2002年の礼拝の様子が順番に送られて、いま、世界中に回っているところでありますけれども、Iさんという男性で、テレビの“火曜サスペンス”なんかを書く人でもありますけれど、この方がこの教会に来られました。そして私の説教と人物に惚れ込んでくれました。この世的に言いますと、“火曜サスペンス”などは一発で5000万円ぐらいかかるそうですね。横溝正史賞をとったという人ですから、本屋にいけばこの方の本があちら、こちらに置いてあるわけでありますけれども、私に惚れ込んでくれたついでに、私が群馬県の田舎で集会をする時に、この人はわざわざ東京から車を飛ばして応援に来てくれました。田舎の公民館でしたけれど、多分300人くらい入る公民館に30人ぐらいしかおりませんでした。でも、私は全力で、物凄い忙しいときでしたけれども、全力で伝道説教をしました。集会が終わって次の日曜日に、その方が私のところに来ました。 「先生、私は先生が全力で説教したことは認めますし、そして先生の誠実さが分かりましたけれども、二度とああいう集会には行かないで下さい。先生のお体は貴重なお体です。どうぞテレビ放映を始めて下さい。テレビ伝道やりましょう。テレビと言うのは今の時代どの位の人が見ると思いますか?先生がわざわざ時間をかけて群馬県に行って公民館で説教したとしても、30人とか50人、せいぜい100人位でしかないでしょう。テレビで一回説教するならばどんなに沢山の人たちに福音が伝えられるか分かりません」。そんなこと言ったって私、神学校で聞いた事もないし、やり方が分からないし。 「私テレビの専門家ですから私に任して下さい。私はお金を全部払いましょう。私はゴルフ場を経営しております。私はそのためのお金を出しましょう」。
 役員会にかけたら「金を出してくれるのなら、良いんじゃないですかねぇ・・」。うちの役員も情けないといえば、情けないけど。金を出してくれるのなら・・。でもちょっと考えました。おんぶにだっこではなく少しは出そうかなって、それで始めたのですが、その人、倒産しまして何処かにいなくなっちゃったんですよ。それで私たちは、ちょうど、“二階に上がって梯をはずされた”という表現があるでしょう。あれですヨ!
 「先生、地方の伝道はやめてテレビで日本全国に電波の届かないところまでいくんですよ・・」って言われてその気になって始めたんですけれど、そして専門家を入れたんですよ。専門家が森チャペルの時にPAのところでですね、色々言うわけで、「ハイ、右!右!」とか。うるさいって。こっちまで聞こえるじゃないですか、こっちまで。おっかない人でしたねぇ。あの人の息子さんクリスチャンなりましたよ。えぇ、あのおっかない人の息子さんね。
 テレビ伝道に触れて、私たちは二階に上がったけれど、梯とられたみたいでどうしようもないけれど、継続しないわけにはいかないから、皆さんに協力していただいて継続することが出来ました。そんな状況に在っても尚継続できたのはこの教会がはじめてでしょう。礼拝そのものを放映したのもこの教会が始めてですよ。ウィンドウ・ショッピング伝道と言いますけれど、教会を覗いて頂くというか、見て頂く。このご近所の人だってこの教会に入りたくても入れない人が沢山いるわけですけれども、教会の中をお見せすることによって伝道は進んで行ったという風にわたくしは考えているのであります。
 私ずいぶん非難されましたよ。あんな礼拝を流したならば教会に来なくなる人がいるではないか、ということでありました。武井先生に相談しましたら「そんなことはない。巨人戦をテレビでみたら必ず野球場に行きたくなるものです」と。あの人は巨人フアンなのよ。阪神の方には申し訳ないけれど、まあ何でも、ともかくテレビで映すということに意味があります。元やっぱりNHKの方ですよね。テレビの効用というものは物凄いものがありますよ、と言って励まされて今日までテレビ伝道をやってまいりました。テレビを通して救われた方は沢山おられます。そして、信仰を失った人がリバイブされた方も沢山おられます。
 しかし今考えてみますと、乗せられたということによって、今日までどんなに苦労はあったかと思いますけれど、いま、こうやってオンヌリ教会が衛星放送をあげて、世界中、私たちのこの教会の礼拝をアフリカでも、インドでも・・あと、何処いったらいいのかなぁ、北はアイルランドでも、南は南極でも、どこででも見ることが出来るという、こういう時代に私たちは1998年の5月の3日からスタートして、苦労してまいりましたけれど、“世界は我が教区なり”を実践している教会。比類ない喜びと感謝しています。
 オンヌリ教会の河先生の信仰の素晴らしさに、もう一度撃たれますけれども、私たちのような教会がこういうことを今日まですることができたということは、神様の知恵と、そして、そのご計画の範囲について考える時に、膝をからめ、この父なる神に向かって祈らずにはおられません。
 いっしょに拍手で感謝いたしましょう。(拍手)イエス様感謝します。イエス様感謝します。イエす様感謝します。アーメン。

 奥山先生が度々わたくしに言う言葉があります。「俺は優秀だけど(ウッ、フッフッ)、牧師の子供にはかなわねぇ。やっぱり、二世と言うのは違うな。」奥山先生は、もう、繰返し私の耳に、10回や20回そう仰ったでありましょう。そんなことはありません。でもそういうこともあります。(フッ、フッ、フッ)。 なぜならば、親が播いた種を私が刈り取らせていただき、親が天に積んだ宝を私が頂いているからであります。
 しかし、神様のお知恵とご計画と言うことに対して、わたくしは本当に圧倒されることが度々ございます。
 なぜ私は東京に住んでいたのに静岡に行っていじめられなければならないのか。私はいじめをたくさん経験しました。だって東京と静岡ではイントネーションが全然違うんだもの。東京人が急に静岡に行ったら、コトバが違うんですもの。たくさん私はバカにされました。今はテレビであまりそんな問題はありませんけれど。
 私は東京から静岡に移ったためにずいぶんいじめられました。いじめの経験がありますね。でも、そこで救われました。でも、絶対に受かると言った高校の受験に失敗したおかげで私は人の痛みが分かる牧師になりました。インドネシアでマラリアになったおかげで宣教師の痛みが分かるようになりました。二人の娘の流産は家内にとってはどんなに辛いことであったかと思いますが、あれは殉教者でした。でも、苦労している伝道者たちにそれは言うことはできません。「大川先生はなんでも順調だと思っておりましたら、そうではなかったですね・・」。裁判で6年かかりました。一つ一つ神様の深いご計画の中で・・。こういう話をすると、いくらでも出て来るのでありますけれど、神様のお知恵とご計画の範囲の素晴らしさのゆえに、主のみ名を崇めたいと思います。アーメン。

◇神の家族の一員であることの利点。

 ○驚くべき誕生日プレゼント(ガラテヤ4の7 口語・NLT・ピリピ4の19)
 ○天的遺産@私たちは永遠を神と共に過ごす(Tテサロニケ4の16・17)
      Aキリストの似姿へと完全に変えられる(Tヨハネ3の2)
      Bあらゆる痛み、死、苦しみから開放される(黙示21の4)
      C私たちの労は報われ、新しい奉仕の場が与えられる(マルコ9の41、
        マタイ25の21)
      Dキリストの栄光に与る(ロマ8の17)

○驚くべき誕生日プレゼントが与えられます。

 ガラテヤ書の4章7節。口語訳。
「したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である」。 これは頭があっても到底理解出来ない世界がこのところに書いてあります。同じくNew Living Translation(NLT)では、「あなたが神の子供である以上、神のものは全てあなたがたのものなのです」。 凄いことを聖書は表現していますね。これは神様を信じて生まれ変わり神様を「お父様」とお呼びするという関係ができた者、私たちに与えられる誕生日プレゼントであります。

○天的遺産
 1番目;私たちは永遠を神と共に過ごすことができます。

Tテサロニケ4の16・17
「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。 その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」。
 天的な遺産の1番目は私たちは永遠を神と共に過ごすことができます。
 
 2番目:キリストの似姿へと完全に変えられる。
第Tヨハネ3の2。
「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、また明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの似姿を見るからである」。アーメン。
 これは神様が下さった約束であります。

 3番目:あらゆる痛みと、死と、苦しみから開放される。黙示録21の4。飛ばします。

 4番目:わたしたちの労は報われ、新しい奉仕の場が与えられます。(マルコ9の40、第25の21)
 マタイもマルコもわたしたちが神様の前に一生懸命働きますと、さらに良い報いをもって奉仕の場を下さるという内容であります。

 5番目:キリスト様の栄光にあずかることができる。(ロマ8の17)
「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」。
 こんな罪深い者に、イエス様がすべての物をお持ちになられていても私たちには何の文句もない。 私たちはもうすでに永遠の命をいただき、神の子としての立場をいただき、これ以上の何も無くたって全然文句なんかありゃしない。でも神様は与えたいんだって。親子の関係を認めるのでありますならば、私の財産をあなたに与えたいんだって。

 エペソ人への手紙の1章では、「天上におけるもろもろの祝福をもってあなたがたを祝福したい」。 考えられないというよりも誰も考えることのできない、天上におけるもろもろの祝福をもって、私はあなたの人生を祝福したいと仰られるのです。
 「あなたの神様は、小さすぎる」という書物がありますけれど、わたしたちの信仰をもっと広げて、神様のみ業に参与したいと思います。  
最後の言葉をご一緒にお読みいたしましょう。

※ あなたが受け継ぐ永遠の遺産と言うのは、値段のつけられない純粋なものであり、また継続するもので、 誰もそれをあなたから奪い去ることは出来ません。
アーメン、アーメン、アーメン!

 ヨセフはお兄さんたちが眼の前で涙を流して跪いております時に、ヨセフは高いところから降りてきて「兄さん、私は弟のヨセフですよ」とそう言いました。へブル人の手紙の2章の11節には「彼らを兄弟と呼ぶことを恥とはなさらない」。こんな罪深いいい加減なものですが、

ヘブル2:11 CEVでは
「イエスと彼によって聖められた人々は皆、同じ家族に属します。それゆえイエスは彼らをご自分の兄弟、姉妹と呼ぶことを恥とはなさいません」。
 ヨセフはお兄さんたちに、私は弟ですと平気で言うことができたと同じように、わたしたちも神様がイエス様を通して家族ですよ、兄弟と唱えることは恥とはしない、とそうおっしゃって下さるのであります。
 この素晴らしいお言葉に恥じないような素晴らしいクリスチャンになりましょう。
そして、成長しましょう。そして主の栄光のために用いられるようにしましょう。
わたしたちは神の相続人です! ご一緒に云いましょう。
わたしたちは神の相続人です。これに挑戦したいと思います。

お祈りします。
恵み深い天のお父様。私は青年時代、少年時代クリスチャンになりましたけれど、こういう世界を全くもって知らないまま過ごしてきました。貧しいことは良いとしても、信仰が貧しかったなと、 それが今になって振り返ってみると寂しかったなぁと思います。 しかし、今は宇宙大に信仰を広げて下さって、もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はそのみ手のわざをしめすというように、こんなちっぽけなものが神の栄光を現すために今生まれ変わって、選び出されて、そして、やがては天において永遠に主と共にいることができる。この地上で2歳7ヶ月で召される人もいれば、50代、60代、70代で、長くて90代、100代で召されるとしても、我々は永遠にあのお方と一緒に住むということのために、この地上で色々な訓練を受けています。
 愛する神様、教会に与えられた使命を果たしたいのであります。オンヌリ教会が、また、ヨイド純福音教会が、日本のためにあれだけ熱心にお金を使い、人材を使って伝道して下さいますが、日本がもう一度心を燃やして熱心に祈りをし、日本のすべての人に福音が伝えられるように、1千万人の救霊が成就しますように。奇跡が起こりますように。大リバイバルが、トランスフォーメーションが、ブレークスルーがなされますように、教会をレベルアップして下さい。グレイド・アップして下さい。私達の信仰を強めて下さい。
主イエスキリストのお名前でお祈りいたします。

アーメン