2006年11月1日祈祷会メッセージ

第17章 あなたの属するところ

 人生は出会いで決まるというメッセージを先日の礼拝でもお話をさせて頂いて、この月曜日、あのチェ・ジュウさんが来られるCGNTVの日本の開局式に行ってまいりました。私はなるべく前の方の席と思いまして、1時間くらい前から並んだのでありますが、会場はラブソナタと書いたネオンがきれいにステージに彩られて、会衆も早くから興奮した感じが、チェ・ジュンさんが来られるんだいう雰囲気が、そこに漂っていました。みんなが興奮しているので逆にわたくしは冷静になろうと思って聖書を読んだりしてですね、気持ちを色々整えていたわけですけれど、オープニングの華やかなバレエのダンスがあって、それが終わったと思いましたらヒップホップのブレイクダンスというのでしょうか、激しいダンスがありまして、しばらくしますとサックスの美しい演奏でアメイジング・グレースが、“驚くばかりの恵みなりき”が演奏されたのですね。そうして、その後です。おもむろにその音楽が、“冬のソナタ”に変わるわけです。そしてサックスの美しい“冬のソナタ”が流れはじめますと、スクリーンに冬のソナタの映像が流れ始めるのです。ヨン様が出てきて、チェ・ジュウさんと冬の雪景色の中を走り回っている映像が出てきてですねぇ、もう、みんな興奮して、そこらへんにチェ・ジュウさんがいるのかなぁと言って、私もいつの間にかお尻がちょっと浮いているのが気付かなかったりしてですね、それでいよいよその演奏が終わりまして、出てくるのかと思いました。そうしましたらですね、なんとチェ・ジュウさんはステージにではなくて、スクリーンに出てこられて非常に申し訳なさそうな顔を・・・あんまりしてなかったですけれど、「今日は本当に申し訳ありませんが、東京に行くことが出来なくなってしまいました。」というようなことで、でも「皆さんに祝福があるように。」というメッセージが流れて、本当にがっかりいたしました。会場全体がヒルマン監督になったような感じで「信じられな〜い。」と言った雰囲気が流れておりました。

 しかしながら開局式では本当に多くの感動がありました。大川先生が祝辞をして下さったのでありますが、皆さんもいつもそういうふうに思われると思いますが、大川先生が大きな大会や、こういう大集会などで祝辞とかスピーチをされると本当に素晴らしいお話をしてくださって、自分が大和カルガリーチャペルの一員であるという事実を誇りに思う、そういう思になられる時があると思いますが、今回も素晴らしいご奉仕をして下さいました。何よりも私は礼拝でもお話させていただきましたが、オンヌリ教会のハ・ヨンジュ先生が本当に日本をこよなく愛してメッセージをして下さったことが心に残っております。

 一つのフレーズが心に残りました。
それは、「日本は政治も、経済も、文化も世界最高の国です。あらゆる分野で最高の水準を保っております。あとはイエス様だけです!」というメッセージでした。
「あとはイエス様だけです!」アーメン。そう思いました。でも考えてみますと、この韓国の本当に大きな教会の先生が日本を評して、皆さんの国は世界最高の国だ!と言い切って下さるのは、これもまた凄い姿勢だなと思わされました。莫大な投資をしてテレビ伝道を始めて下さるわけでありますが、上からやってあげようという、そうゆう雰囲気ではなくて、「私は日本に片思いです」という風に言って下さって、本当に日本に仕える姿勢で開局式をして下さいました。
 皆さん、この国は期待されています。日本の教会には大きな、大切な使命が委ねられています。

 今晩も私たちは「五つの目的」の本を通して学ぶわけでありますが、私たちがこの本を通して霊的に豊かに成長して、この教会が、また日本中の教会が、主の栄光を現す存在に変えられていくように、そしてこの国に主のリバイバルが進められることを期待してこの短い時間を共に過ごしていきたいと思います。
イエス様は必ず来られます。アーメン。
主に期待してご一緒に学んでいきたいと思います。

第17章「あなたの属するところ」

目的に導かれる人生=生きている理由がある!目的がある。
第二の目的:あなたは神の家族になるために造られた。

 さて、このシリーズ第17章に入りますが、今どこを学んでいるかを思い出すために、簡単に復習してみたいと思います。
 この本は、人生を導く「五つの目的」という本でありますが、The purpose driven life
ということでありますから、目的に導かれる人生、導かれた人生という風にも言うことが出来ます。
 あらかじめ人生には神様が定めて下さった目的というものがあるんだ。それが、前にあるんだ。ご計画というものがあって、それに私たちは、まぁ、引っ張られるようにして
ドライブされてゆくのだ、という内容であります。それに引っ張られるようにして、今度は私たちがその人生の歩みを設定して、また選択して歩んでいけるということ。これが一つの大切なポイントであるかという風に思います。
 目的や夢を、私たちは目の前に何もない虚無的な状況のなかで探して行かなければならないというのではない、ということであります。
 神様はすでに私たちのためにご計画をもっていて下さって、そのラインの上に、勿論私たちが選ぶわけでありますが、歩んで行くことができるということ。愛と興奮をもって私たちの人生を創造して下さった、造って下さった方がおられるという素晴らしさをいつも心にとどめたいと思います。

 10月30日付けの朝日新聞、“天声人語”に、昨日のことでありますが、いじめの問題が取りあげられておりました。勿論今この問題がたくさんクローズアップされているわけでありますが、このような内容です。
「お父さんお母さん、いじめられて、もう生きていけない。今日もって行くお金がどうしても見つからなかった。これで、もうお荷物が減るからね」。
 一つ一つの言葉をどんな思いで綴ったことだろうか。遺書というにはあまりにも痛切であり、まだあどけなささえ残る文字は、周囲だけではなく、この時代に対しても訴えかけている。とこういうふうにこのコラムは纏められていました。
 日本中が心を痛めている内容でありますが、これは、周囲の人たちや時代に語られているメッセージではない、教会に訴えられているメッセージである、と大川先生なら確実にそう言う風におっしゃるのでありましょう。

 昨日、10月31日は宗教改革記念日でありました。マルチン・ルターのメッセージがこの日曜日になされたわけでありますが、信仰義認を訴えた教会、そして、プロテスタント教会が始められたわけでありますが、教会は今、社会からこのように訴えられているということであります。ですから私たちは一人でも多くの子供たちに、多くの人達に、人生には目的があるんだということを、そして、神様のご計画は災いではなく、幸であるんだということを教えていかなければ、伝えていかなければならないという風に思わされます。今、早天祈祷会でエレミヤ書が開かれておりますが、29章のところに、神様は私たちにご計画をもっていて下さる。それは災いではなくて、私たちに平安を与えようとするものであり、将来を与え、希望を与えると書いてあります。
 先ほども小崎先生がお話して下さいましたが、バビロン捕囚で捕まえられているような、そして自分の祖国を離れているような状況でありましたから、彼らはいじめられている事もあったでしょう。ひどいことをされるような事もあったでしょう。蔑まれるような事もあったでしょう。でも、そのような状況のなかで神様のメッセーは計画があるよ、どんなにマイナスな状況の中にも、神様の計画があるよというメッセージが語られたわけであります。そのために先ず私たちクリスチャンが、その神様の深いご計画を知る必要があるのではないでしょうか。
 暗記テストの勉強程度ではなくて、本当に体にしみつくほどに、体がどこを切られてもそれが出て来るほどに、私たちの内側に神様のご計画があるんだということを信じきる、そうゆう信仰が溢れることを願います。 

 ご一緒にわたくしの後について告白をして下さいますか?
○私の人生は偶然ではありません。 ○神様のご計画があります。 ○私は愛されています。○私は限りない愛で愛されています。
繰り返しくりかえし自分に向かって、鏡の自分に向かって言い続けたいことであります

 私の献身者生涯と言っても本当に短いものでありますが、その中にもターニングポイントというものがありました。それは、私は愛されているというメッセージを個人的に、そして、全身全霊で受け取ったときに変わりました。ありのままで居られる幸せというものを、それまでも愛されているということを知っていたのですけれど・・・、その時に自分がどれだけ重荷を背負っていたか、あるいは、気張って意地を張っていたかということに、後になって人と比較していた自分がいたなぁと言う事に気付かされました。そして、その重荷を神様のもとにおろしたとき、本当に安心なのですね、皆さん。どんなにマイナスの状況の中でも、どんなに罪の深い問題の中にあったとしても、主は私たちを愛することを止めないで、永遠に受け止め続けて下さるとは、なんと素晴らしいメッセージでありましょうか。
その愛を知って怠けるようになったと思われるでしょうか。いい加減になったでしょうか。いいえ、逆であります。もっと主のためにお仕えしたい、この愛を伝えたいというようになりました。ですから、しつこいようでありますが、皆様にお伝えしたい。私たちは愛されているということ。知っているつもりではなくて、現実に問題が起こるとそのことを簡単に忘れがちである私たちでありますが、どんな状況の中にあっても主のご計画があり、私たちは主の瞳の中に置かれている存在であるということを心にとどめます。アーメン。

目的に導かれる人生=生きている理由がある!目的がある。
第二の目的:あなたは神の家族になるために造られた。

 この本は、人生の目的、ということでありますが、
人生の目的の第1番目は、「あなたは神の喜びのために造られた」という内容でありました。本の中の8章から15章までが、その内容でありました。
人生の目的の第2番目、それは、あなたは神の家族になるために造られたということであります。
  
第17章「あなたの属するところ」

「あなたがたは神の国の民であり、神の家族の一員です。他のすべてのクリスチャンと共に神の家に属しているのです。」        (エペソ人への手紙2の19b LB)
「神の家族は、生ける神の教会であって、真理の柱、そして土台です。」
                     (テモテ第1の手紙3の15b GWT) 
◇あなたはただ信じるというだけでなく、所属するように召されています。
 
 何に所属するかといいますと、この上のみ言葉にあります、生ける神の教会、神の家族。教会というのは神の家族であるのだということが、このところでとりあげられている内容であります。
 今日、お話する内容は、教会についてであって、私たち一人一人が教会にしっかりとつながるべきであり、所属するべきであるということをお話したいと思います。
教会とは本質的に一体何であるのか。そしてどうして私たちは信仰生活を一人で送ってはいけないのか。神の家族の重要性を見てみたいと思います。

 コリント人の第一の手紙12章18〜27節
 そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとり一人はその肢体である。アーメン。

 日本シリーズを制したあのヒルマン監督は、インタビューでこういうふうに答えました。「この球団で指揮をとることができたことを誇りに思う。誰一人不必要な人はいない。全員でつかんだ勝利だ。」という風にインタビューで答えられました。
 「信じられない。」という発言が有名になりましたが、この監督は一人のこらずすべての選手を信じていたということがこのインタビューで分かります。当然のことでありますがチームにはレギュラーとして出られるのは9人であります。9人の中に出られる人もおれば、出られない人もいるわけであります。ずーとベンチにいるような人もいるわけであります。うまい人も下手な人もいろんな人がいます。
 監督がその全員に気を使って端から端まで順番に出して行ったら、そのチームは勝つことも出来ませんし、勝利をすることも出来ません。監督はうまい人にだけ信頼をしているのではありません。その試合に出られないような人たちに対しても信頼をして、そして、そのところにいてもらいたいのであります。ですから、全員で掴んだ勝利ということができるのであります。
 このみ言葉でいいますならば、その試合に出られない人を弱い人と言うのでしょうか、見劣りがすると言ったらおかしいかもしれませんが、麗しくないと言ってもおかしいかもしれませんが、そういう人たち、体の一つとして、でも、全部が必要なのだ。誰一人不必要な人はいないんだということ。教会がまさにその世界を表している。私たちに必要のない人は、今日、この礼拝堂の中に誰一人もおりません。アーメン。
 この部屋にいる人は、誰一人として必要でない人はいないということを心にとどめます全員が必要です。全員に役割が与えられています。ある人はフロントラインに立つかもしれません。ある人はそうでないかもしれません。実際に教会で何かの奉仕をしているかもしれません。していないかもしれません。是非、小さな奉仕を始めて下さいということをお勧めしたいと思いますが、でも、祈祷会にこのように参加し、祈るという奉仕をしています。これがどんなに大きな意味をもっていることでしょう。

 リック・ウオレン先生はこの章の中でこういうふうに言っておられます。
 キリストに従うということは、ただ信じるだけではなくて、所属することも意味しています。私たちはキリストの体である教会の一員です、というふうに伝えております。
 キリストの体の一員と言うのは、それは大きな誇りであるなーというふうに思います。光栄なことだなというふうに思うわけでありますが、作家のCS・ルイスさんは、会員メンバーシップ、という言葉は元々キリスト教に起源をもっている言葉だというふうにこの本の中には書かれております。
 以前、私たちは大川先生のメッセージを通してオリエントのオリエンテーションというのも、キリスト教の起源をもっているという話を聞きましたが、同じように、メンバーシップと言うのもそういうことであったと。しかしその言葉が世の中で使われているうちに、その本来の意味を失ってしまって、お店の会員カードのように持っているとちょっと割引があったりしてですね、クーポン券や手紙が送られて来ると言う程度のものになってしまった。教会も同じように教会員であるからって、特に何か要求されることもなく、教会の名簿に名前を載せているだけの意味になってしまったという風な、ちょっと厳しい批判がこの本の中に書かれてあります。
 それに比べてパウロという人物は、このコリントの12章で、あなたはキリストの体の一部分であって、あってもなくてもいいようなそんな存在ではないんだと言う風に語っているのであります。アーメン。

 今日覚えて頂きたいこと。それは、私たち一人一人が大切な必要とされている存在である。全員がそういう存在なのです。皆さん一人ひとりがそのように思って帰っていただきたい、ということであります。
 この教会が前進するために、主の栄光を現すために、どうしても皆さん一人ひとりが、ご自分では自分を弱い存在だなぁと思うときがありましょう。私もそう思う時があります。本当にほかの人と比べて見劣りがするというか、麗しくない部分が内側に隠れていて、主の体の一部にさせて頂くなんて、とんでもないと思える存在をも、主は必要だとおっしゃってくださっているのであります。

 ハ・ヨンジュ先生は日本のCGNTVの開局に対して、こういうふうにお話していました今はITの映像の時代です。この時代にあわせた伝道をしなくてはなりません。
若者は自分たちの文化を探しています。教会は何をしたらいいんでしょう。映画やミュージカルをつくりましょう。文化をつくりましょう。イエス様の文化をつくって若者たちがついて来るようにいたしましょう、と言うように語られました。なんて大きなビジョンでありましょう。文化を作る!と言うのであります。
 皆さん、映画と言うのはエンターテイメントの中で最高峰と言っていいのではないでしょうか。一つの映画を作るのに何億円どころではなく、何10億、何100億という、この社会全体が動くというようなそういうことを私はやるんだと言う風にこの先生は言っておられるのであります。それはみんなが、教会のみんなが協力しないでどうしてできる働きでありましょう。

 ハ先生の教会では、クリスチャンになって7年の月日が経ったらどこかに宣教に行きなさい、と言われる、そのような教えがあります。支教会や、あるいは、小さな群れに家族ごと引っ越しして行きなさいと言われるのです。凄いと思いませんか。そして、そこで、主にお仕えしなさいということが語られるわけであります。ですから、クリスチャンになりたての人も必死に勉強しないと、いつ遣わされるか分からないというふうに思っている人がおられ、実際にはそうは行かない人も多いかと思いますが、でも、行って沢山の祝福を受けたという証を何人も聞くことができるのであります。
 事実、3年前にわたくしはオンヌリ教会で2カ月間の勉強をさせて頂いたのですが、その時に一緒に学んだ副牧師の先生たちが、今回わたくしが韓国に行ったときに、何と宣教地から戻って来られてそこで紹介され、何人もの副牧師先生がこの短い期間に海外に遣わされているとたという事実を見ました。

 皆さん、どんな人であっても神様は用いて下さいます。どんな人であっても必要としてくださっていて、教会というキリストの体がどれだけ重要かということは、私たちの存在の価値がどれだけ大切かということと全くそのベクトルを同じにするわけであります。

 私は東京出身ということもありまして、東京に重荷があります。神学校に入ったときから、そのためにお祈りをしてきたのでありますが、いつか東京伝道をするんだということ。大川先生が東京の方に時々出かけられると、満員電車の人ごみの中に乗られてビジョンを与えられて帰ってこられて、それを祈祷会で話をされます。その時に「東京のために皆さん祈りましょう」と、大川先生が東京の話をしてくださっているビジョンに私たちは心を合わせてお祈りをするのでありますが、そういう中で2000年の4月にこの教会が建てられました。その少し前に東京カルバリーチャペルと言うのが恵比寿で始まりました。覚えておられますか?私はその時も直ぐに名乗りを上げてわたくしをそこに加えさせて下さいと祈りました。
 皆さん東京は1250万人います。首都圏だけで3400万人という。この国の4分の1の人たちがそこに集まっております。私たちはその地域に重荷のあるそういう教会であります。大川先生が祈って下さいと言われて皆で祈りました。そして、伝道の働きが進められました。
 恵比寿は閉じられましたが、今度は東京プロテスタント教会が初台で開かれました。私は毎日毎日シャローム館から電車に乗ってその場所に通いました。一つも辛いという風には思いませんでした。神様が力を与えてくださって、たくさんの方が洗礼を受けることが出来ました。
 その中で、一人の方が、この方はクリスチャンでありましたが教会に来られました。お住まいが大和から遠いということで初台に来られたのであります。大和の方に誘われてきたのでありますが、その数ヶ月後にはこの東京プロテスタント教会は閉じてしまうような状況でありました。しかし、この期間にこの方は主に触れられました。主に触れられてそのみ業が家族に広げられていくということが起こりました。東京は閉じられましたが、その娘さんが今度は火曜日の平日礼拝に来られました。この教会に入ってこられた途端に聖霊様に触れられて、涙を流して悔い改めて新しくされましたこの方のことは“人間劇場”に登場しました。すると、この人物が変えられたのを見て、今度は職場の友人がイエスさまに出会ってみたいと、この方も同じように沢山の苦しみの中を歩んでこられたかたでしたが、イエス様十字架の愛を知って変えられました。この方も人間劇場をしました。
この人間劇場を、今度は10年前に教会を離れていた一人の青年がこの2週間前に来て下さった時に見てくださって、神様が働いていてくださっているのを、感じることが出来る。

 皆さん、わたくしが今日感動してお話したい。それは、私たちが祈り始めたときに、神様は網の目を張って下さるかの様にみ業を始めて下さるということです。
私たちの祈りは本当に小さく見えるかもしれませんが、神様はその祈りを引き上げて下さって、あの事とあの事、この事とこの事を結び合わせ、あの人とこの人とを結び合わせて、主がもうすでに働いていてくださっているというのを、私たちは確信することが出来るのであります。アーメン。

 その人たちのことを一人一人振り返ってみますならば、みんな夫々がいろんな苦しみの中にいました。でも、神様がそんな中で祈りをもって紡いでくださって、み業をなして下さった。神様はかならず目的をもって私たちを導いてくださっています。私たちはキリストの体なる教会の一部であります。祈るように、そして、主の働きが進められるように一人一人が選ばれているということを心にとどめたいと思います。アーメン。
もう一箇所、聖書をお開きいたしましょう。
 
マタイによる福音書16章16節〜19節
 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。アーメン。

 イエス様御自身が私が建てると言われたのは、建物としての教会堂、礼拝堂のことではありませんでした。教会と言うのは体としての私たち一人一人のことであります。でありますから、イエス様は私たち一人一人を建てて下さるということであります。
倒れそうになることがあるかもしれませんが、主は私たちを立たせて下さる。建上げて下さるということであります。
 ペテロという人物がここで信仰の告白を受けて、イエスさまが「あなたは岩です。その岩の上に教会を建てる」と言ってくださったのでありますが、ペテロは、「あなたは生ける神の子キリストです」と申しあげましたが、でもその後すぐに「サタンよ!退け」と言われるほどの信仰者でありました。彼は風と波に恐れ慄いて沈んでしまうような存在でありました。
イエス様を三度知らないという存在でありましたが、この信仰の告白の上にイエス様が建てると言って下さいましたから彼はどんな状況の中でも助けられました。生ける神の子キリストと告白したように、彼は生きておられるイエス様によって、キリスト、救い主によって救い出されたのであります。同じように私たちもイエス様によって建てあげられる。そして
18節にあるようにこのキリストの体である教会は、黄泉の力に打ち勝つことができる勝利する教会であるということであります。
 一つは、一人一人が死の力を打ち破る復活の力にあずかることができるということでありますが、もう一つは、滅びに引きずり込んでいく悪魔の力に打ち勝つことができるという意味でありましょう。

 今日、朝日コント・トムで、こんな内容のことが出ていました。
お化け屋敷で神様の教え。若者を呼ぼうという内容であります。お化け屋敷を教会がつくって、そこで福音を伝えるというような働きがずうーっと前から進んでいるようでありますが、いま一般のニュースの中で広げられているそうです。これは、ヘル・ハデスと言う、地獄の家という恐ろしい名前でありまして、教会に通ったことのない10代、20代を主な対象にしていて、七つの部屋を通り、最後は天国と地獄を体験する仕組みで。同性愛、人工妊娠中絶、自殺、飲酒運転、オカルトにかかわっている人たちが苦しむ様子が描かれているということで、こういう人たちを救うためにこのことが用いられているという風に見ることができる。神様が地獄に引きずりこまれないようにこの人達を救うためにこの教会が建て上げて下さっているということであります。

 わたくしは祈りの課題をこのようなノートの中に入れているのでありますが、いつも沢山の祈りの課題のペーパーを週報の間に入れて挟んでいます。このスタイルは気に入っています。そして、いつも祈る前にイエス様のことば、今年の標語でありますが、「私の父は今もなお働いておられます。ですから私も働くのです。」という言葉を読んで、イエス様は今も働いていてくださっているという信仰をもって一人一人の祈りを捧げていきます。
リストがあったり、また、個人名がのっていたりするわけですが、この方々に主が届いて下さるんだと、イエス様が今も働いていてくださって、その働きの中から取り出してお祈りして又その中に戻すという風にお祈りをしております。
神様がとびきり不思議な方法で、あの人にも、この人にも触れて下さるんだ、何とかして作り出すそういう働きをして下さるんだということを信じています。

 今晩、私たちは教会に所属している、連なっているという話をしているわけでありますが、その証と言うのは何をおいても祈ることであります。祈りは人と人とをつなげます。祈りは教会を建てあげます。問題意識のなかった人に飢渇きを起こすにはどうしたらいいでしょう。それは祈りをもって。聖霊様が働いて下さるからであります。
ペルシャ王の心をも動かしてあの絶望的だったイスラエルのあの70年を救い出して下さった。それは祈りをとおしてなされたみ業であります。

 マタイ16章の19節に、私はあなたに天国のカギを授けよう、そしてあなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは、天でも解かれるであろうと、あります。 アーメン。
 祈りのカギを今晩も用い、黄泉の力、地獄の門が打ち破られ、捕らわれている人たちが神様のもとに引きずられるように、キリストの血であがなわれた教会に今日も祈りをもってお仕えしていきたい、加わっていきたいと思う人は、ご一緒にアーメンと言いましょう。
アーメン。

◇教会という神の家族の重要性。

1番目:教会という家族は、あなたが純粋な信者であるということを証明する。
 「あなたがたが互いに愛し合うなら、この世はあなたがたが私の弟子であることを認めるのです。」  (ヨハネ13の35 NLT)
 私たちが互いに愛し合うということ、そのことによってクリスチャンであるということが証される。神の家族であるということ。

2は番目:教会という家族は、あなたが自己中心な孤立主義に陥るのを防ぐ。
「イエス・キリストは私たちのために命を捨てられました。ですから私たちも兄弟のために自分のいのちを捨てるべきです。」  (ヨハネの第1の手紙3の16 NIV。)
 本の中に書かれていた内容でありますが、私たちはキリストに献身するだけではなくて、兄弟姉妹のためにも献身すべきである、という風に書いてありました。

3番目:教会という家族はあなたの霊性、信仰の発達を促す。
「一つ一つの部分がそれぞれ特別な働きをすることで(自分たちにゆだねられた働きをすることで)、他の部分の成長を助けることが出来ます。そのようにして、体全体が健康を保ち、成長し、愛で満たされていくのです。」  (Tエペソ人への手紙4の16 NLT)
 私たちが健康でないときと言うか、働けない時も他の人が働いて下さる。代わりに働いて下さることによって自分たちも働くことができるという内容で、これはこの本に書かれている内容であります。

◇とりなしあう家族を目指して。

 この本に出てこない内容でありますが、
「もし体の一部が苦しめば、他のすべてが共に苦しむのです。もしあなたの体の一部が賞賛を受ければ他のすべての部分も共にその賞賛にあずかるのです。」
 一番はじめにお読みしました、コリント人への手紙第一12章16節のみ言葉であります。
 家族と言うグループ、コミュニティーの共同体の素晴らしいことは共に喜び、そして、共に苦しみ、また共に悲しむことができることであるという風に思いませんか?

 最近、わたくしは或るお方の大変な問題をお聞きしました。なぜ神様がそんなことをお許しになられているだろうかという風に思ってしまいました。どうして、あの様な病気がなぜ起こり得てしまったのか。どうしてそんなに苦しい中をその方が通らなければならないのかという中で、痛みを自分が受け止めることが出来ないわけでありますから祈り、また、主にお伺いするような中にありました。勿論、わたくしが答えをもっているわけではありません。病や問題をとおして、私たちはそれらの呪いや、痛みの身代わりとなって下さったキリストの十字架を深く知るためではないでしょうか。
 私たちはそのような痛みや問題をとおして、イエス様の十字架にもう一度出会います。もう一度キリストの十字架に戻るわけであります。永遠というのは定義してみますならば、それは、永遠の完全な癒しの場所であります。
 イエス様は、ヨハネの17章で永遠のいのちとは、神様とイエス様を知ることであると言われました。ですから、私たちが痛みの中で十字架を知るということは、それは永遠の癒しにつながる内容であるという風に思います
イエス様の十字架を通してそのことを深く知る。それと同時に、十字架を知れば知るほどそれはとりなしに導かれていくんだろうと思わされました。
 キリストは、イエス様は十字架の上で罪人のためにとりなしの祈りをあの痛みの中で、苦しみの中でして下さったわけであります。その苦しみを代わりに背負うようにして私たちも痛みを共に担ぎあい、そして、イエス・キリストの十字架を体験していく。

 実は、このメッセージが私の心の中に残っております。
聖歌の396番に、十字架の陰に泉湧きて、という賛美があります。今日、私たちは聖餐式でこの賛美をいたしますが、私たちは主の十字架の陰に行って、癒しと力を受けます。十字架の陰に行かなければなりません。いつでもこの十字架のもとに戻って行くのでありますが、このメッセージの中で、イエス様は或る時には私たちに十字架の下だけではなくて、十字架の上にもあがって来るように願っておられるのではないでしょうか、というメッセージでありました。
 十字架のもとで十字架のイエス様を見上げるだけではなくて、十字架の上にまるで登るようにして、十字架の上にかけられているイエス様がご覧になられた光景をあなたが見るべきではないでしょうか。
 病と問題と苦しみを身に受け、十字架の上にあがって苦しんだ者だけが見ることができる光景があるんだ。十字架の足元にいくということも、勿論、必要であり素晴らしいことでありますが、誰かが、イエス様がそうして下さったように、十字架の上からその世界を見るのであります。
 痛み、苦しみの中にあってはじめて見ることができる世界。そこにイエス様は十字架の上で実際にいた人たちだけではなくて、何千年にもわたって私たちの姿も見て下さったのであるならば、私たちも苦しみの中で最高に素晴らしいとりなしの世界に導かれるのではないでしょうか。
 皆さん、私たちはどちらの光景を見たいでしょうか。
イエス様の姿も見るべきでありますが、十字架のイエス様を必要としておられる方々のために、十字架のイエス様によって救われようとする何千人もの人たちのために十字架の上からの光景を見る者とさせていただきたいなと言う風に思わされます。
 もし、今日、たくさんの痛みや問題の中に苦しんでおられますならば、それは祈るためであります。とりなしのためであります。神様はその人にしか見えない不思議な世界を今晩開いて下さると信じます。さあ、今晩も神様の家族とともにご一緒にお祈りを捧げていきましょう。

 お祈りいたします。
愛する父なる神様、御名をほめたたえ賛美いたします。今晩も主が共にいてくださり、私たちをキリストの体に連ねてくださっていることを、祈りをもって私たちが一つの体として機能することができることを感謝いたします。私たちに鍵が授けられました。今晩もこれを用いて祈ります。地獄に、滅びに引きずりこまれている人たちを救い出すために、また、イエス様、困難と戦っておられる方々に、天の門が開かれるために、イエス様今晩も熱心に祈ることができるように助けを与えて下さい。主のみ名をほめたたえ、感謝して貴いイエス様のお名前をとおしてお祈りいた