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2005年 9月25日 主日礼拝メッセージ
「『夜と霧』を越えるもの」 大川従道師 
 「御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙 6章6〜10節・口語訳)

 素晴らしい賛美のゆえに、主の御名を崇めたいと思います。あのバイオリンのようなものは、ヴィオラですよね?今日は素敵な賛美ですねえ。「天国がもし見えたら」というんですが、トーレーという博士は、「もし地獄をみんなに見せたら、必死になって伝道するだろう。」と言われました。地獄の夢ばっかり見ているのは不健康でありますが、天国をいつも夢見て生きるというのは、素晴らしいことだと思いますね。今日は、風が強くて大変だったと思いますね。赤ちゃん連れの人も随分見えていらっしゃいますが、気をつけてお帰りいただきたいと思います。教会の中に聖霊の風が吹き荒れるようにご歓迎申し上げたいと、そう思います。少し大きな声で朝のご挨拶をしましょう。皆さん、おはようございます。

 皆さんにお祈りいただきまして(私は万博の責任者ではないんですけど)、これがですね、森ゾーくんですね。森ゾーですよ。こっちがね、ピッコロではなくてキッコロちゃんっていうんですね。お孫さんだそうですよ。誰かさんもお孫さんと歩くのが好きなようですけどね。これはねえ、音がするんですよ。今日でおしまい。テロにも遭わないで守られて、本当に感謝ですね。今日はこの森ゾーとキッコロの「森へ帰る」というセレモニーがあるそうですね。このまま、こう帰るということでありましょうね。森というのは木を3つ書きますけれど、2000年前、カルバリーの丘の上に木が3つ、十字架が3つ立ち並びました。中心にイエス様がいらっしゃいました。世界はそれで歴史が変わりましたように、何かカルバリーチャペルのキャラクターになってもいいような感じがいたしますけれど、皆様のお祈りを心から感謝したいと思います。

 万博ではなくて、タイにはバンコクという市がありますけれども、お手紙をいただきましたよ。ビデオ礼拝を継続していてくださる小林さんご夫妻に、本当にお礼を申し上げます。また祝福がありますように。丁寧なお手紙でございました。石渡さん、木村さん、内西さん、新野(あらの)さん、大嶺さん、滝川さん、山崎さん、小林さんご夫妻、本当に感謝です。神様のお恵みがこのタイ、バンコクのグループにも豊かにありますように。いつも9人で礼拝していらっしゃるそうでありますよ。皆で拍手をもって応援したいと思います。God bless you!
 今日はガラテヤ書からのメッセージ(順番になりますけれど)、AD49年、パウロ先生がガラテヤ地方に語られた言語であるお手紙ということであります。今日お読みいたしましたもう最後の6章になりますと、ガラテヤ書の本質的な内容がよくわからない面があるかと思います。実は、1章の8節と9節を最初にお読みしてから、また6章に戻りたいと思います。お開けくださいますか?聖書をお持ちでない方は、スクリーンに出ますのでそれをご覧いただければと思います。「ガラテヤ人への手紙」の第1章の8節と9節をお読みいたします。

 「しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである(激しい言葉でしょう?ねえ)。わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、 あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである。」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙 1章8〜9節・口語訳)

 まあ、先ほどお読み致しましたガラテヤ書を読んでおりますと、パウロ先生は、どっちが本当かと思えるようなところでありますが、6章の1節にいってみましょうか?

 「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙 6章1節・口語訳)

 これは、まともな常識を持っておりましたなら、すぐに理解できる、解釈を必要としない良識的なメッセージ、これがパウロの中心的な穏やかさであるという風に言って良いと思います。北森嘉蔵(かぞう)という学者は、パウロは"一言居士(いちげんこじ)"ではなかった─"一言居士"というのはですね、字引を引きますと、 〔何事にも、自分の意見をひとこと言わなければ気のすまぬ性質の人。何か異を立てて、文句を言うのが趣味であるというタイプ〕ではないという。

 パウロ先生というのは普段非常に柔和で寛容で穏やかな人物であります。絶対に怒(いか)ったり怒(おこ)ったり、顔色を変えたりしない人が怒るとこわい、とよく言いますが、パウロ先生はまさにそういう人物でありました。穏やかな、寛容な、柔和な人物が、1章の8節、9節で、
「もしこの福音を歪めるならば、相手が天使であろうと私は怒るよ、それはのろわるべきである」というメッセージをお取次ぎしていることを心にとめたいと思います。いつもぷんぷんして、しょっちゅうご機嫌の悪い人が怒っても、「またやってるよ…」と思われるかもしれませんけれども、「のろいの手紙」「戦闘の手紙」とも言われるガラテヤ書の中に(大切な"教理書簡"と言われますが)キリスト教の中心的なメッセージをとらえるということが、今日の課題であります。

 いつも寛容で柔和なパウロ先生が「のろわれよ」というくらいでありますが、よっぽど譲ることのできない重要なメッセージをとらえていたんだという風に理解してよろしいかと思います。北森嘉蔵先生には、「人間には2つの誘惑がある」と言います。1つは「頭の良い人に忠告しますが、"一言居士"といって、何か一言加えなければ気がすまない。注意をしなさいよ」、という。もう1つは、「頭の良い人じゃない─というのは"悪い"という意味じゃないんでありますけど(これ、すごいこと言いますよね)─怒ることを一生に一度もしないで終わる危険性もある」(笑い)って、どこが危険かと思いますけど、「人間的には終始柔和で寛容であるということは素晴らしいことですが、(よろしゅうございますか?)天使をものろうようなレベルの真理をつかんでいないということになる。」パウロは"命をかけて守るべき真理というのがある"、"命をかけて語るべき真理というのがある"ということを意識して、そこに手をつけるなら、相手がどんな伝道者であろうと、相手が天の使いであろうとも、「その人はのろわるべきである」という、これはキリスト教の中心的なエッセンスに激しいものがある、ということであろうと思います。
 
 私の母親は(時々話しますが)小柄で(もうとうに天に召されましたが)穏やかな、そういう存在でした。欠点もたくさんありましたけれど、肝心なことに関しては非常に厳しかったのであります。特に再臨信仰に関しては手厳しいと言いましょうか、自らを律する心がありました。"イエス様のご再臨があったならば"、というね。"イエス・キリスト様が今晩来られたら"という緊張関係の中で、いつも育てられたのであります。「いいですか、よく聞きなさいよ。」─私が子供の時(中高生よ)、こうやって親から言われた。「いいですか、間違ってでも地獄なんか行っちゃだめですよ。はいつくばってでも天国に行くんですよ。イエス様は必ずお迎えに来るんですから、約束ですからね!」ってなことを、耳にタコができるほど頭の中に入れているわけであります。「同じ人生を過ごすなら、神様に喜ばれることをしなさい、天に宝を積みなさい!」─これは、繰り返し自分に言い聞かせていたことでもありましょう。「神様を第一にするんですよ」という。まあ、これが遺言、という風に言われたわけではないですけども、心に留められている、子供の時に母から教えられた言葉です。

 6章の1節「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人で あるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。」(口語訳)、新改訳聖書は「あやまちに陥っているなら、柔和な心で正してあげなさい。」というね。この"正す"という言葉は、原文のギリシャ語では「君、間違っているよ」っていう風に指摘することは誰でもできるんですけれども、"正す"という言葉は"穴を埋める"という意味でありまして、マルコ福音書の1章で「網を打っては破れる、破れを繕(つくろ)う」という時に使われるギリシャ語であります。エペソ人への手紙の4章の中には「神様はある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師とし、ある人は教師としてご任命されましたが、それは聖徒達を整えて(聖徒っていうのはクリスチャン全部をそう言うんでありますが)、教会には破れがありますよ、クリスチャンにも穴が開いておられる方々がいらっしゃいますが、それを(破れを)繕うというね、指摘するのではない、体を張ってというか腕を伸ばして破れを繕うという、そういう言葉で、柔和な心をもってその人を正してあげるんですよ」というメッセージであります。6章2節、

 「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙 6章2節・口語訳)

 イエス様も同じような言葉をヨハネ福音書の15章で「互いに愛し合いなさい。」というね。しかし、この言葉にはちょっとした落とし穴がありまして、"互い"にという言葉で"譲り合う"といいましょうか、「あなたが愛してくれるなら私も愛しましょう。」「あなたが重荷を負うなら、私も重荷を負いましょう。」って、"互いに"という言葉によって、これがなかなか実践できないという落とし穴があるわけであります。私たちは積極的に肯定的に人を愛する。傷つくこともありましょうけれども、重荷を負うという、そこで初めて"重荷を担い合う"ということが起こるのですよ。損したように思えるかもしれませんけど、それはお恵みですよ、ということであります。

 昨日、北海道の池上さんから電話がありました。本当に苦労しておられるようですね。重荷を分かち合うことが弱かったと、そう思いました。山下さんが幼稚園の園長をしておられる経営者でありますが、なんとあの有名な水谷先生がその穴を埋めてくださるという。恐縮といいましょうか、本当に申し訳ないほど有難いことであります。

 この新しく「ゴスペル神学院」という名称でありますよ、と新聞に出ておりましたが、「まあ使命があるなら自分でやったら?」ってそう思う人もいるかもしれませんけど、それは聖書的ではありません。「互に重荷を負い合いなさい。」先週の新聞の第1面に文部科学省発表で「小学生の校内暴力が最悪である」というね。ちょっとしたことでキレる、ささいなことで「(運動会の練習中に)ハイ、みんなきちんと整列して!」って、そんな言葉にもキレる小学生ですよ。ケリを入れられたり。今日司会をした人は学校の先生。お祈りをした人はお医者様でいらっしゃいますけど、大変ですねえ。少し前、町田のなんとかという中学校が荒れに荒れたという時代がありますけど、今は小学校が荒れる時代であるという。もっと悪くなると思いますねえ。まいた物を刈り取ることが起こるでしょう。

 アメリカという国も、今中学校、高等学校、いや小学生、ものすごく悪いですねえ。公立の学校から「主の祈り」と「モーセの十戒」を取ってしまった、その時からどんどんどんどん堕落したんです。
有名なロシアの文豪がいましたねえ。「神を否定するなら、何でもやれる。神を否定するなら、何をやっても構わない。」と言いましたけれど、まさにそういう状況が進められていくでしょう。進化論を教えていくというのは、まさにそういうことですからね。私達は重荷を負って祈り続けなければならないでしょう。3節から行きますよ。6章の3節。

 「もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙6章3節・口語訳)

 これは真理ですね。この教会のロビーには、大きな墨字で(素敵ですねえ)「すべて重荷を負うて苦労している者は私のところに来なさい。私があなたを休ませてあげよう。」ね。これはイエス様が大手をひろげて、「どんな人でも行き詰まり、重荷を負い、重荷に耐えられない人達は出てきなさい。私の懐(ふところ)に入りなさい。」─これは真理ですけれど、一面でありまして、今日のこの箇所は「自分自身の重荷を負うべきである、人間には天国に行くまで担ぐべき重荷(十字架)があります。そんなことのない人は1人もおりません。自分を捨て、自分の十字架を担いで私のところについて来るのでなければ、弟子になることはできない。」─自覚していらっしゃいますか?「私の担ぐべき十字架は、これである」という。意識して担いだら、神様は必ず力を与えてくださいます。信じる者はアーメンと言いましょう。アーメン。

 6章の6節から司会者が呼んでくださいましたが、もう一度読みます。

 「御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい(これは伝道者と信徒の関係を言います)。まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。(新約聖書・ガラテヤ人への手紙 6章6〜10節・口語訳)

 峻厳(しゅんげん)さと積極的な福音宣教の姿を見ることができます。アメリカの大統領でクリントン大統領という方がいらっしゃいましたが、その大統領に就任する時に、普通、どの大統領も聖書に手を置いて宣誓をします。そういう写真をご覧になった方が多くいらっしゃると思いますけど、クリントンの場合(リンカーンも)、自分の愛用してきた、すなわちおばあちゃんが代々伝えてきたところの聖書に手を置いて宣誓した。しかもガラテヤ書のこのところに手を置いてお祈りした。だから、クリントンというのはね、スタートは素晴らしかったんですよ。途中でねえ、サタンにまんまとやられたんですけど、もう一度"Back to the Bible"、大統領が素晴らしいクリスチャンに立ち返られるように、主の御名で祈りたいと、そう思います。どこが気を遣っておられたかというと、7節〜9節であると思いますけど、7節をご一緒に朗読することにいたしましょう。

 「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙6章7節・口語訳)

 アーメン。よくお葬儀をします時に、「私の親の使っていた聖書ですから、この聖書を棺の中に入れてください」なんて方がいらっしゃいますけど、あれはしない方が良いですよ。自分の使った聖書は、家族やお友達に差し上げたら良いと思いますねえ。そしてあなたが読んでおった聖書を見てですねえ、「ああ、ここをどうして赤鉛筆の線で引っ張ってあるのかなあ、ああ、ここは感動したところだろう」っていうようなね。これを繰り返し、私も父や母の聖書を見ますと、いつも「ああ、ここで恵まれたんだなあ、ここで何を考えたのかなあ?」って色々考えますよ。だから皆さんも、聖書を子供達に、孫達に残したらいいと思いますねえ。残したはいいんだけど、なんかうちのじいさんはぜんぜん読んでなかったね、うちのばあさんもなんか聖書のここは、ほら、なんかまだくっついてるよ(笑い)、とかなんとか言ってですね、それはちょっとまずいですから、ちょっとは聖書を読んでおいた方がよろしいのではないかなと、そう思います。

 若い人達も聖書を読んで家に置いておくと、お母さんが「うちの娘は(息子は)何に感動しているのかなあ?」ってお読みになるでしょう?それは素晴らしいことだと思いますよ。私達の教会に三畑長老さんというね、クリスチャンになる前はのんべえさんがおったんですよ。こののんべえさんねえ、教会には行かなかったんですけども、みんな「行け行け」って言ってたんですねえ。三畑長老の奥さん(熱心なクリスチャンでよく聖書を読む人だったんですが)、わざとですね、応接間に聖書を置いておくんですね。そうするとのんべえの長老さんがやって来てですね、「うちの女房はいったい何を(どこを)教会で教えられているのか…」とパッと開いたところがヨハネの2章で、イエス様が水をぶどう酒にお変えになった。「いやー、イエス様って、すげえお方だなあ!」って、それから教会に来たってくらいでございますから、聖書は読んでおくべきでありましょう。

 西田さんのご家族は、代々お嫁さんに聖書にサインをしてプレゼントをなさいます。こう書いてあります。「これは私たちが生きてきた道の唯一の拠り所であり、あなたに贈る最上のものです。」─読むたびに感動しますねえ。「これは私たちが生きてきた道の唯一の拠り所であり、あなたに贈る最上のものです。」代々このような言葉が伝えられるのは、素晴らしいでしょう?「もし福音をゆがめるなら、相手が天使であろうと有名な伝道者であろうと、私はのろわれるべきだ!」と、こういう強い信仰を理解しておったということであろうと思います。

 皆さんで一緒に懐かしい古時計の替え歌を歌いたいと思いますけど、覚えていらっしゃいますかね。大川牧師替え歌の歌ですね。『大きなあったかい古聖書』というね。

 大きなあったかい古聖書/おじいさんの聖書/百年いつも読まれていた/ご自慢の聖書さ/おじいさんの生まれた朝に/買ってきた聖書さ/今も なお読まれている/その聖書/百年休まずに ハレルヤ アーメン/おじいさんと一緒に ハレルヤ アーメン/今も なお読まれている/その聖書

 福音を伝えるのは命がけであります。工夫をしなければならない、知恵を尽くさなければなりません。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。必ずそうしていただけるように、祈り続けていきましょう。代々伝えていきましょう。ガラテヤ書の6章の7節からもう一度お読みします。

 「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙 6章7〜9節・口語訳)

 「時が来れば」─神様が時を握りしめてられておられる。いい加減に生きてはダメですよ!神様に刈り取られるような人生は、困るでしょう?「ずっと忍耐しておったのに、もういい加減にしなさい。もうあなたを刈り取ります!」と、そう言われると困りますでしょう。ねえ。リビングバイブルでは、こう訳しましたよ。

 「思い違いをしてはいけません。いいですか。神様を無視することなど実際には不可能であり、種をまいた人は、必ずその刈り取りもすることになるのです。自分の欲を満足させるために種をまく者は、その結果、きっと霊的な滅びと死とを刈り取るはめになります。しかし、聖霊様のよい種をまく者は、聖霊様が与えてくださる永遠のいのちを刈り取ります。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。」 (新約聖書・ガラテヤ人への手紙 6章7節〜9節・リビングバイブル訳)

 アーメン。これは聖書が教える霊的な原則であります。2日前、金曜日の朝私は深川ホーリネス教会(木場)の創立記念礼拝に招かれて(私、昔そこで牧師をしておりました)、この教会に就任する前にサンフランシスコで牧師をしておりましたが、その前が深川ホーリネス教会でした。23歳の若い伝道者がその教会の責任を持つことになりました。昼間アルバイトというか仕事をして、夜は夜学に行っておった時代に、1つの教会の伝道者になるというのは、もう本当に大変なことでした。でも一生懸命伝道しました。40年前ですよ。私がこの教会を突然やめてですね、40年ぶりにこの教会に戻ってきて説教するとしたら、「ああ、あの人もいる、この人もいる、あの人もいる、あの人もいる、ああ、あそこにいた!」ってなものでしょう?私、38年前にやめて一度も行ったことがなかったんですよ、その教会に。そばを通っても一度も中に入れてもらえなかったというか、一度も講師として呼ばれたことがなかったんですよ。38年ぶりにその教会に行って、「ああ、あの人もいた、あの人は中学生、高校生だ、○○ちゃん、○○ちゃん、あの頃50代だったけど今はもう80で齢をとった、車椅子で来ている」とか…懐かしかったねえ。天国行ったら、そういうことでしょうねえ。

 ジョン・ニュートンがね、3つ驚くだろうってね。「ああ、この人が来てるんだ!」と思うね、2つめの驚きはね、「あの人、いるはずだと思ったらいなかった!」というね。もう1つは、自分が神の国、天国にいることを驚くであろう、というね。あの時代に(3足のわらじを履いていたような中にいましたけれど)、まじめに種をまいて今喜びを刈り取り、主の御名を崇めました。その当時救われた人が2人、お証をしてくれたんですよ。

 金曜日の朝、深川ホ−リネス教会で御用をして、そして午後所沢で、夜は川口リリアでありまして、講壇にのって(私が顧問ということもありまして)─オズボーン先生ってねえ、すごい名前ですねえ。オズボーンっていうんですから、スカート履いてきたらどうしようかと思いましたけど(笑い)、このオズボーン先生が、長い説教の後、"いやしのミニストリーをする"という約束だったんですけど、金曜日、「伝道説教で救われる魂がたくさん与えられた。これがミラクル、奇跡です。いやしは明日!」なんて言ってね、私はもう、すごい腹立ったんですよ。講壇でもう1mくらい先にですね、講師がいるその後ろに、私いたんですよ。それで腹立ってねえ、「オズボーン先生、ちょっと約束違うんじゃないですか、日本人をバカにしないでくださいよ。我々は一生懸命、病める人のためにお祈りしてきて、あなたはいったい何を考えてらっしゃるんですか?『明日また来てください。』─病人が明日もう一度来るのは大変でしょう?いい加減にしてくださいよ、祈ることがそんなに大変なんですか!?」って、私珍しくカッカカッカ してですね、もし先生がサーッていなくなったら、僕が出て行って病人のためにお祈りしようかなと思ったのに、先生なかなか帰らなくてですね、(舞台)袖の方があるんですよ(下手、上手とあるんですけど)。上手(かみて)の方でね、ブーラブラしておったんですよ。それでまたねえ、「そんな時間があったら、祈りゃいいでしょう!」とかね、もうイライラだったですよ。

 あの日の帰りはねえ、車の中電車の中はね、サタンがみんな喜んだと思いますね。「みんなホラ、ブツブツ言え言え言え言え!」ってね。「なんじゃあのアメリカ人、小ばかにして!いやしの祈りもしないで明日だとよう!」なんて言ってですね、「何もったいぶってんだろう、オレは裏切られた!」とかですね(私もその1人ですけど)、サタンに喜ばれて。途中で私ね、「オズボーン先生、会衆を代表して言いますが、私も会衆も皆失望しましたよ。どうして祈らなかったんですか?」と言っちゃおうかなあって、この辺(喉もと)まで出たんですよ。でもその時にねえ、主のささやきで「すべてに時があり」─ああ、そうか。神様が時を握っておられて、我々はオズボーンという1人の伝道者にばっかり拠り頼んでいたけれども、もう一度イエス様を見直しなさい、神は時をお隠しになる時がある─という風に思ったんですよ。で、このままイライラしてね、腹立ててねえ、そして先生に対する悪口を言わなくても、心の中がいっぱいになっているのは良くないから、祈ってもらおう。あの先生ねえ、チョー先生でしたらすぐ手を出して按手して祈ってくれるんですけど、あの先生、誰一人祈ってないんですよ。それで私はね、厚かましくも図々しくもね、「私は祈って欲しいんです!」とそう言ったんですよ。で、あの先生は私がセミナーの7回全部出ていることをご存知で、「じゃ、祈りましょう。」ということで両手をつかんでね、本当に熱心にお祈りしてくださるんですよ。「この牧師が、日本で一番大きな教会の牧師でありながらも(って、「よく知ってるな、そんなこと」って思ったんですけれども)(笑い)、忠実に誠実に学んでくださいました。どうぞここにいやしのミニストリーが、油注ぎが豊かであるように」って、熱心にお祈りしてくださったんですよ。私はねえ、祈られながらねえ、(ああ、悪いこと言っちゃったなあ。さっきからもう腹立てて、本当に「もう、オズボーンめ!」とか何とか言ってたの、本当に申し訳ない。主よ、どうぞ赦してください!)って、それで祈りをいただいたんですよ。で、私の魂は本当に平安だったんです。

 今日ここでね、肉をまいたら肉を刈り取りますが、霊をまいたら霊を刈り取ることができる。あなた方は神様を甘く見てはいけない。あなたはまいた物を刈り取るようになるという、これはガラテヤ人への手紙の中心的なメッセージの1つであろうと思います。「よい物をまいたら、よい物を刈り取ることができる。悪い物をまいたら悪いものを刈り取ることができるという、この世界であります。兄弟姉妹、よい言葉、よい行為、よいスピリットをまいたら、必ずよいものを刈り取る、と信じる者はアーメンと言いましょう。アーメン!
 
 本日の説教のタイトルは「『夜と霧』を超えるもの」、いい題ですねえ。本のタイトルにしたいぐらいでありますねえ。ビクター・フランクルという、ご存知、ドイツ、ナチ、ヒットラーに捕まえられたユダヤ人達が600万人も殺されたわけですが、その中で何人かが生かされました。その1人に、このお医者様のビクター・フランクルがおりました。彼は『夜と霧』という歴史的なベストセラーの本を書いていらっしゃるんでありますが、その中にこういう1節があります。遠藤周作さんのエッセイの中にこれが引用されています。「朝早く強制労働に向かって出発する時、ごく小人数であるが、病人の枕元に自分のその日の食料であるパンをそっと置いていく人がいた。」─「私はこの1節を読んだ時、人間とはどんな最悪の環境の中でも人間らしさを見せることができるのだと興奮した。」と、遠藤周作氏が書いておられます。6章の9節10節、もう一度お読みします。

 「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。 」(新約聖書・ガラテヤ人への手紙6章9〜10節・口語訳)

 リビングバイブルは、「チャンスを見て誰に対しても親切にしましょう。失望せず、あきらめずにいれば、やがて祝福を刈り取る日が来るからです。」

 これは本当ですよ。善をまきましょう、英語ではgood=よい、というね。親切をまきましょうという。親切運動をしましょう、継続しましょう。どんなに人間の罪が濃くてなんの光も見出せない夜と霧の中でも、主の命令に従って、よいことを実践しましょう。親切のかたまりになりましょう。一緒に宣言しますよ、私はよいことを行う人になります、ハイ、「私はよいことを行う人になります。」私は親切を実践します、ハイ、「私は親切を実践します。」

 これはねえ、キリスト教以外の人が聞いたら「何じゃ、私の考えと同じだ!」と思うでしょう。聖書が教えているメッセージの中には、人間が生きる為に、人間同士がコミュニケートするために、共生共存するために非常に重要なメッセージが書かれているんですが、キリスト教界は長い間、この常識的な、良識的なものを失って、何か教理を追いかけるようなものになってしまったことを反省しなければならないと思うのであります。歴史の中で最低の"夜と霧"、もう絶対に光が無くなっちゃった、罪のゆえに死の恐怖のゆえに、夜と霧に押しつぶされる人間の歴史の中で、最も素晴らしいところの愛を示してくださったのは、夜と霧を打ち破ってくださったのは神様ですよ、神様の愛ですよ。夜と霧を超えるものは、神の愛です。ヨハネ3章の16節をご一緒しましょう。はい。

 「 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(新約聖書・ヨハネによる福音書3章16節・口語訳)

 アーメン。神のなさったよいこと、good。これは福音でしょう。good newsというくらいですから。

 第1番目、すごいニュースですよ。信ずるだけで救われる道を開いてくださいました。よいことをすべきだと今言いましたが、よいことを積み重ねたら親切をすべきだ、と申し上げましたが、親切を積み重ねてクリスチャンになるのではありません。イエス様が親切をしてくださいました。イエス様が善をしてくださいましたから、それを信ずるだけで救われて、永遠の命をいただくことができるのであります。否定しない限り、すべての人が救われるようにと道を開いてくださいます。─すごい福音ですねえ。深川ホーリネス教会で、1人の人が証をした、そのお手紙をもらって帰ってまいりました。こんなお手紙です。「私がここに存在しますのは、青年牧師時代の大川先生との出会いのおかげです。39年前(私も39年前はすごいスマートで、ハンサムで、本当に…信用してくれなさそうだから続きを読みますが)(笑い)のことでした。私は銀行員でした。夜学の大学に行っておりました。KGK(キリスト者学生会)からこの教会を紹介されて、八方ふさがりの人生でした。道に迷ってばかりいました。ノンクリスチャンの家でしたから、聖書とも無縁でした。しかし、この教会で、この先生との出会いで、イエス様との出会いをいただきました。明確な救いと新しい歩みができました。」─39年前以来ですよ!嬉しいねえ。"明確な救い"っていうのは、どういうことですか?難しいことではありません。今できますよ。主イエス・キリストを罪からの救い主、人生の主として心の中にお迎えする者は、アーメンと言いましょう。アーメン。それでいいんですよ。

 第2番目、聖霊様の恵み。私達が元気でクリスチャン生活を送れるように、聖霊様が満たしてくださいます。

 3番目、素晴らしいいやしがあります。Nさんの奥さんからFAXをいただきました。「実は先週の月曜日、私の主人は持病で通風があります(通風というのは、風が吹いても痛いっていうぐらいですからね)。もう礼拝には行けません。」とね。よその教会の方なんですけども、インターネットで、大和カルバリーチャペルの礼拝を見ようということで(第2礼拝でも見たんでしょうね)、で奥さんと子供は「お父さん、じゃあ留守番してて、私はこの教会行くわ!」ってなことで、こちらに行こうとしたら、お父さんが動けないのに足を引きずってですね、「俺も行くよ!」ってなことで家族で来たんですって。で、奥さんと子供は母子室に入って、ご主人は後ろの方に(だって足引きずってきたんだから)ちょこんと座っておったら、説教の最中にいやされた。(奥さんからのFAXでありますが)「私も娘も、何度も『ハレルヤ、主よ感謝します!!』と叫びました。主人は仕事にも行けるようになりました。私はいつも礼拝堂の中に一歩足を踏み入れると、そこに主の臨在を感じ、聖霊のシャワーを沢山いただいて、家に帰るような感覚でしたが、今回はそれだけではなく、私の家族の上に特別な御業をもって届いてくださったことを感謝し、報告申し上げます。」

 さっきこの第3礼拝の直前にねえ、江尻さんって(今日見えてらっしゃるんですけど)、ピアノの先生でしょう?川口のリリアの昨日の夜(この人、目が不自由なんですよ。いつもステッキ突いてるんですけど)、「今まではね、自分より前の席(1つ前)の人は、じゃがいものように見えていた(って、私は何に見えたんだろうねえ)、みんなじゃがいものように見えていたんですが、照明が変化したのかと思っていましたが、そうではない。おお、見える!ステージに上がると客席全体と、2階も3階までもよく見えます。感動です。私は栄光を主にお返しします。本当に感謝しております。」一緒に拍手して喜びましょう。アーメン。栄光を主にお返しします。イエス様、いやし主。主イエス・キリストの御名によって感謝します。アーメン。

 第4番目、それは神の祝福をいただくことができます。先週お手紙をいただいたんですが(私昨日の夜、手紙を開けたばかりなんですが)、赤ちゃんの写真が出てまいりました。実はこの教会の若い姉妹と一緒に生活しておられる、クリスチャンでない、教会にも行ったことがない人が、どうもですね、赤ちゃんができちゃってですね、そういう状況ですからまあ"堕ろす"ということで同居しておりますクリスチャンになりたての女性がですね、「私、堕ろすわ。産むわけにいかないわ。」って、その人が私に相談に来たんですよね。私はしょっちゅうそういう相談にのっているわけですが、クリスチャンのその女性に対して「絶対ダメですよ、赤ちゃんを殺してはいけません。それは殺人罪と同じだから、産めるように私も手伝うから、産むように励ましなさい。」─もう何度言ってもだめ、そんな状況ではなかったんですよ。ところがね、私がいろいろ手配して、その彼女も一生懸命お祈りして励ましたらね、「やっぱり産むわ」っていうことになったの。産んだ後は私が引き受けるように手配しよう、という風に思っておったんですが、夫婦っていうかね、まあそういう関係の中で"育てる"っていうことになったの!そしてね、その生まれた赤ちゃんとお母さんの写真をねえ、私写真で見たんですよ。そしてね、私達の教会員がね、「一度は中絶が決まったはずの命が、こうして世の中に生まれたことに、神様の力を感じます。」とお手紙を下さいました。私も写真見ながらねえ、「励ましてよかったなあ!僕に相談してよかったねえ、本当に神様の祝福がありますように!」って赤ちゃんに手を置いてお祈りいたしました。

 私達の存在そのものは神によって生かされて生をゆるされておるんですよ、死んだら(自殺をしたら)絶対ダメなんですよ!イエス様が私達に命をくださったんですから。イエス様の愛にどう応えていくか。命をいただいているだけで、これは祝福ですよ。"I am so happy."一緒に言いましょう、ハイ、"I am so happy."毎日そう言いましょう。"I am so happy in Christ."キリストにあって神様のご愛にどう応えていきたいかと思うだけでも、それは祝福であります。

 第5番目、死ぬことを恐れない、天国の喜びを先取りして生きるんですね。D兄弟のお手紙です。「老人ホームにいる母は、毎日朝、昼、夜と食事の時聖書を開き祈っています。いつ天国に召されてもいい準備をしております。毎週日曜礼拝のビデオを観て、信仰が守られ、養われています。」
 愛する兄弟姉妹、私達はやがては御国に行きます。「天国が見えたら」と先ほど賛美をしてくださいましたね。天国がああいうところだってわかれば、私達はこの地上における夜と霧がどんなに濃くても、夜と霧がどんなに濃くてその真中で光を見出すことができなくても、私達はそれを乗り越える力を主イエス様から与えられて「ハレルヤ、感謝します!」と賛美していくことができると思います。ご一緒にハレルヤ、主よ感謝しますと言いましょう、ハイ、「ハレルヤ、主よ感謝します!」

 お祈りします。天のお父様、感謝です。僕も何のために生きるかわからないで、小学生時代、中学生時代を過ごしました。13歳の11月6日にもしイエス様を信じていなければ、目的も生きる存在の意味もわかりませんでした。こうやって50年も守られて支えられて、「よい物をまくんですよ、神様を侮ってはいけませんよ、まいた物を刈り取ることになるんですよ」という聖書の原則を心にとめて、生きてまいりました。小さなことに忠実に誠実に、心を尽くして精神を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛するんだ、私を通して祝福が流れて行くようにと祈り、主のご愛に応えたく、全力を注いでまいりました。小さな者でございます。失敗だらけでございます。罪深い者でございます。不従順、不信仰も無いわけではありません。悔い改めをしながら、今日まで歩んでまいりました。私達の罪を赦して、まいた物を刈り取ることになるといいますが、今日悔い改めをして、新しいよい物をまきますから、素晴らしい物を刈り取ることができますように我等に強い信仰を授けてください。この教会がこれからも天使であろうと伝道者であろうと、福音をゆがめて語るならばのろわれよと、パウロのような姿勢をもってこの教会が守られ続けてまいりますように。主イエス・キリストのお名前で祝福してお祈りを捧げます。アーメン。