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2005年 10月 9日 主日礼拝メッセージ |
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「今また涙を流して語る」 大川従道牧師 |
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「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(新約聖書・ピリピ人への手紙3章17節〜21節・口語訳)
(特別賛美 : エフェメール合唱団 『Duo Seraphim』)
素晴らしいですね。もう一度感謝しましょう。ハレルヤ。ありがとうございました。エフェメールという言葉の意味は"ムラサキツユクサ"、フランス語であるそうであります。私の大好きな花の1つでもありますが、「つかの間の幸せ」という名前であるそうです。「歌は一瞬のうちに消え去っていき…」ということですが、言葉や音は消えますけれど、その内容は残るでありましょう。今日は私達にとってびっくりするような曲でした。イザヤ書の第6章に、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。」とこの天の使い、セラピムがですね、神の契約の箱に乗って声をかけ合っているというところを、賛美してくださったわけですね。いつか私、このメッセージしましょうね。そして皆さんがなおこれを深めてくださるようにということを願っているのであります。本当に感謝します。また後で1曲、今日はテレビ局の人がびっくりして聴いておられると思います。
私達のこの教会の様子は、今インターネットで世界中に発信されているわけでありますが、今日私の言葉が同時通訳で英語で流れておりまして、英語圏の人達にもこれが届き、そしてまた私の語りますこの早口がですね、文章化されてインターネットに流れますので、これは、ろう者の方々にとりましても、大変素晴らしいことだと思います。また、韓国に行きますと、私の言葉が韓国語に訳されておりまして(自分で韓国語聴いているのもおかしなもんでありますけれども)、世界に向かってメッセージが届けられるということは、素晴らしいことだと思います。世界中の皆さんにご挨拶申し上げます。少し大きな声で、皆様おはようございます。
私の最近書きました『バカの壁を超えるもの』という書物に、水間さんがインターネットで発見された個人のホームページでありますが(どなたか名前はよくわからないんですが)、「『バカの壁を超えるもの』という本を図書館から借りてきました。著者はどうも牧師らしい。聖書の解説が、笑える文章でまとめられています。この本の特徴は、客観性、そして公正な歴史観です。」なかなかのお方じゃございませんか、ねえ。
もう1つ、『ハーザー』というお堅い雑誌がありますが、今月(11月号)の『ハーザー』の中で、書評が書かれておるのでありますが、これは大げさでユニークでありますね。
「日本が誇る1000人教会、大和カルバリーチャペルの大川牧師の最新説教集である。大川牧師は、人生において笑いがとても大事なことを知っている人で、日夜ジョークを研究しているらしい。」(笑い)聖書を研究していますよ。
「その成果はこの本にもイカンなく現れていて、たとえ空から核バクダンが降ってきたとしても、こんな教会で笑いながら昇天したいと思わせるユーモアに満ちている。」ちょっと大げさだと思いません?「昇天・召天・笑天」(字幕・笑い)で、昇る天、天に召される、笑いながら天に昇る、というんで、まだ続くんですよ。
「また大川牧師は、義理人情の人である。私は、日本文化の最大の美徳は、義理人情に尽きると思う。この義理人情を無視して、日本の芸術、日本の伝統文化、歴史の正当性、文化適応を語ることは空しい。しかし、日本のキリスト教会が、圧倒的なアメリカの影響下にあるせいか、これをないがしろにしている牧師が増えている。大川牧師は、徹底的な義理人情によって、見事に日本への文化適応に成功し、1000人もの人々を集めているのではないかと思う。」─この評論家はねえ、自身の言いたいことをねえ、私を利用してねえ、もうどんどんしゃべってるんだって、そう思いますねえ。教会の名前を変えて「大和義理人情教会」にしたらですね、バレンタインの時に"義理チョコ"がいっぱい来るんじゃないかなと思います。もう少しあるんですよ。
「伸び悩んでいるキリスト教会の牧師は多いと思うが、とりあえず、何も考えずに、大川牧師のマネをすれば、必ず成功する。」って(笑い)、ちょっとあぶない気がしますがね。
私のマネをしても成功するかどうかは別問題といたしまして(失敗するかもしれませんが)、今日の聖書のテキストは、パウロ先生が「ぜひ自分のマネをしてほしい」という箇所であります。
聖書を開きましょう。「ピリピ人への手紙」の3章の17節(聖書をお持ちでない方は、スクリーンに出ますのでそれをご覧いただけるとよろしいかと思います)。有名な箇所でもありますので、ご一緒に朗読してみましょうか?ピリピの3章の17節をご一緒しましょう(口語訳聖書)311ページの下の段、ハイ。
「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。」(新約聖書・ピリピ人への手紙3章17節・口語訳)
アーメン。何かのマネをしなさい、模範がありますよ、ということであります。生き方に関してだと思いますが、数節前の13節、14節をご覧いただきますと、
「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
」(新約聖書・ピリピ人への手紙3章13〜14節・口語訳)
「私に倣(なら)う者でありなさい」ということの意味は、「謙遜に、満足しないで、なお豊かな真理を求めて積極的に、前向きに前進するのですよ。」ということでありますならば、その意味は深いと思うのであります。
「わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。」(新約聖書・ピリピ人への手紙3章18節・口語訳)
A.D.61年、ローマの牢獄から(石牢でありますが、私そこに訪ねたことがありますが)、「ピリピ人への手紙」はヨーロッパにおける最初の教会でありますが、その教会に送られたそのお手紙であります。いてもたってもいられない、牢獄にいるのですから、お手紙に託して語りたいことがあります。他に方法がないので、偉そうに聞こえるかもしれませんけれども「私に倣う者になってください。」ということであります。
「今また涙を流して語る」と表現されておりますが、一流の生き方をする人は三流、「一流は三流」という表現があります。
第1、それは汗を流す。一流になる人は、労を惜しまない。
2つめ、涙を流す愛情がある。
3つめ、それは血を流す、犠牲を払うことをいとわない。
「一流は三流である」ということは、そういうことであろうと思いますが、パウロ先生はそういう人物です。パウロ研究をしますと、歴史の中で最も強い男。どんな迫害、試練、拷問にも耐える人。大学者なんでありますけど、実践家でありました。神様以外何人も恐れない勇敢な人でありましたが、「涙を流す」というのは異常であります。「どうしても知っていただきたいことがある」という。説教とは、まさに今死なんとする者が、まさに死なんとする者の危機感の中で何を語るかという、そういう内容であろうかと思います。
今回会衆の中にはお父さん、お母さんがたくさんいらっしゃいますね。お子さんがいらっしゃる人はお手を挙げてください。お子さんのいらっしゃる人はお手を挙げてください、というと、随分たくさんの人達がお手を挙げるのではないかなと、そういう風に思いますが、遺言に何をお語りになるか、考えたことがありますか?─遺産相談の問題ではないんですよ。その内容の問題について、これだけは知っていて欲しい、これだけは伝えていなければならないというようなものを持っていらっしゃるでしょうか。
三浦綾子さんの『塩狩峠』という映画になった書物がございます。こんなに薄くて安くて買うことができるんですよ。これは新潮文庫でありますけど、この中で、例の永野信夫さんが鉄道の中に飛び込みます前に、その親御さんが子供達を座らせて、奥さんを座らせて遺言を述べる箇所があるんですよね、遺言書というのをね。
「私は特別な遺言はないけれど、普段妻に対して語っていること、子供達に語っていること、妻の前でふるまったこと、行なったこと…これを遺言として受けとめなさい。」すごいねえ。「そういう自覚で生きてまいりました。」って書いてあるんですが、その中で、まあ、それでも「信夫は永野家の長男として母に孝養を尽し、妹を導き、よき家庭の柱となって欲しい。」─ずーっとこう書いてありましてね、最後のところに「父親の死によって経済的に困窮(こんきゅう)することがあるとしても、驚きあわてないこと。必要なものは神様が与えてくださると信じなさい。」と書いてるね。「私の葬式は、キリスト教式で行われたい。以上、このごろ時々疲れを甚(はなは)だしく覚えるので、万一の為に記して置く。」という風に書かれておるんですよねえ。これは、どうしても伝えたいものを普段から意識しながら子供に伝えていますよ。
よく「子供には何も押しつけない」とか、「自由にのびのびとやってくれればいい、個性を生かして好きなことをやりなさい。」という親御さんがたくさんおられると思いますが、それはよく理解した立派なお父さん、お母さん、であろうかと思います。
神様はね、人間をお作りになった時に、エデンの園でアダムとエバを前にしてね、「何をやっても自由ですよ、好きなことをやりなさい。何を食べても構いませんが、1つだけ守りなさい。それは、善悪を判断する木の実から食べてはいけない」ということが重要なポイントでありました。これは人類に対するメッセージでありまして、善と悪とを決定するのは神様の領域であって、神の領域に入り込んではいけない。神様を無視したら、善悪を決定する決定とその基準というのが失われます。
私達の理性でようわからんでも、神様がしてはいけないということに対して、してはいけない。神様がやっちゃいけないということに対しては、やってはいけない。これは善悪を知る木の実、神の領域に入り込んではいけない。
これは神様の遺言ではありませんけど、私達が覚えておかなければならない重要なことであろうかと、そう思うのであります。
「今また涙を流して語りますよ、理屈抜きにダメなことはダメですよ、そういう世界があるんですよ。」─どこに証拠が?「聖書がそう言ってるでしょう、神様がそう言ってるでしょう!」という世界をわきまえるべきであろうと思います。神様の前に恐れを抱くこと、それを"敬虔さ"と言いますが、シュバイツァーという人物は、親と一緒に教会に行って賛美歌を歌ったり牧師の説教を聞いていたけれど、結局よく説教はわからなかった。でも、お父さんお母さんの姿をいつもこう横で見ながら、"敬虔(けいけん)さ"を学んだ。敬虔というのはね、あんまり使わない言葉ですけど、英語ではPiety(パイエティー)、Godliness(ガッドリネス)というね、神様を畏れ、敬う心はどこで持ちますか?アルバート・シュバイツァーは「聖への畏敬(いけい)」ということを言いましたが、それは「教会で聖書を学びながら、親御さんからそれを学んできたんだ、これは涙を流して伝えていかなければならないことだ。」という風に知っていただきたいと、そう思います。子供が親の背中を見て学ぶケースでありましょう。3章の18節行きますよ、3章の18節。
「わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。」(新約聖書・ピリピ人への手紙3章18節・口語訳)
19節をご一緒しましょう。
「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。」(新約聖書・ピリピ人への手紙 3章19節・口語訳)
─ というようなね。パウロ先生は、「ダメだよ、そんな生き方をしては。最後は滅びですよ。」内容は、十字架に敵対して歩む者が多い、というんですよねえ。リビング・バイブルでは、「今までもしばしば注意してきたことでありますし、今また涙ながらに訴えたいのですが、クリスチャンとして歩みながら、実は、キリスト教の十字架に敵対している者が、大ぜいいるからです。彼らの行き着く先は、永遠の滅びです」。このことはクリスチャンであってもクリスチャンでなくても、十字架の意味がわかりますと、それに背中を向けるということはどんなに恐ろしい滅びにつながるかということがわかります。
私がいつも申し上げる十字架の意味が3つありますねえ。
1つは十字架の格好がプラスだから、人生におけるどんなマイナスもプラスになります。マイナスは必ずプラスになります、一緒に言いましょう、ハイ。「マイナスは必ずプラスになります」。これを否定し、これに敵対する人は1人もおりません。
2つめ、それはイエス・キリストの十字架についてであります。イエス・キリストが私達罪の身代わりとなって十字架におかかり下さいました。どんな罪人でも、イエス・キリストが十字架の上で「父よ、彼らを赦(ゆる)してやってください。彼らは何をしているのかわからずにやっているんですから、赦してください。」という十字架の恵みを否定したら、彼らの最後は滅びであるというメッセージであります。ヨハネ3章16節(毎日毎週読んでおりますが、覚えてくださいね)、一緒に読みましょう、ハイ。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(新約聖書・ヨハネによる福音書3章16節・口語訳)
イエス・キリスト様がこの地上にプレゼントされたのは、私達が地獄に行かない、滅びないで、永遠の命を得るためであるということが、明確に、キリスト教の中心的なメッセージとして語られていることを、心にお留めいただきたいのであります。
三浦綾子さんの作品の中、『道ありき』という自伝がありますけれど(これをお読みになるといいですねえ)、その中で彼女がまだクリスチャンになります前に、堀田さんという、まあ、独身時代は堀田綾子さんといったんですけども、ご自分の家の隣に前川正さんという北大の医学部の秀才が(この人がクリスチャンだったんですよねえ)、この人が綾子さんを旭川の丘の上に連れて行って散歩するような、そういう場面があります。
綾子さんはですねえ、結核を患っているにもかかわらず、煙草(たばこ)がやめられなくて、煙草にこう火をつけようとすると、もう前川正さんはいてもたってもいられなくて、まるで"今なお涙を流して語る"というようなことで、その地面に座り込んでですね、そこにある石ころをつかんで、自分の足をこう叩き続けたと、こう言うんですよ。綾子さんはこの異常な状況を見て、「正さん、いったい何が始まったの!?」と言うと、正さんは、「だって綾ちゃんがまじめに生きてくれないんだもん!『まじめに生きたって、ろくなことがない』なんて言うんだもん!僕の言葉の足りなさ、愛情の足りなさ─それでもう不甲斐(ふがい)なくて、どうしていいかわからないから、自分の足を叩いているんです。」、とね。
三浦綾子さんは、自伝の中に書いてありますよね。「間違ってもいい。私を1人の女性として扱っているのではなくて、1人の人格ある人間として私を認めて、こんなに誠実に『こっち向いて欲しい!そんな生き方はやめて欲しい』と言っているこの姿に対して、私はこの人が信じているイエス・キリストを信じたい」という、感動的なところがありますよねえ。
皆さんのために石で足を叩いてくれる人っておりますか?「涙を流してもう1度言うが」って自分の足ではなくて、あなたの足が叩かれたりして(笑い)、「まだわからないか!」とかなんとか言って(笑い)。イエス・キリストはそういうお方ではなくて、石でお体をお打ちになるのではなくて、十字架にかかられて血だらけになって釘打ちされて─知って欲しい。「今また涙を流して語るが」というのは、イエス様のお姿に描写される状況であろうかと思います。
第3番目の十字架の意味は、イエス・キリスト様が私達の罪の重荷、人生の重荷を受けとめてくださったんですけども、今度は私達が自分の重荷を受けとめるという。マタイ第16章の26節が今スクリーンに出ますが(開ける人はお開きになったらいいと思いますが)、大変素晴らしいところです。ちょっと開きましょうね。今またここへ戻りますよ。マタイの16章、マタイは新約聖書の一番最初の箇所ですよね。16章の24節から─イエス様が「もう十字架の話をしてもいいだろう」なんて言うと、ペテロが「イエス様、そんなこと言っちゃダメですよ」ってね、お弟子さんからいさめられる、というね。「邪魔するな、サタンよ、引き下がれ!」、その後24節からね、ご一緒しましょうか?24から26までね。ハイ。
「それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(新約聖書・マタイによる福音書
16章24〜26節・口語訳)
アーメン。楽をするために私達の人生はあるわけではありません。よく知ってくださいね。この教会に素敵な文字で「すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。私はあなたを休ませてあげよう」。これはキリスト教の中心的なメッセージです。
重荷を負うて苦労している者、つぶされそうになっている人、自分の十字架、自分の重荷、罪という荷物を担いでいたら、必ず人はつぶれます。必ず破れます。人間はそれに勝つことのできる人は1人もおりません。だからイエス様が「私のもとに来て休むがよい。」と仰ってくださったんですけれども、クリスチャンはそのように安息を得た後、楽をするために人生が与えられているのではありません。お年を召しておられても、ご病気の方でも、すべての人に使命があります。私達は天国に行きますと、もう楽の楽の楽の楽でございますけれども、この地上にあっては、今のところでお読みしたように、「私についてきたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を担いで私に従って来なさい。」これはもうすごいメッセージが、イエス・キリスト様のお口から吐かれたわけでございます。「これを否定したら、滅びますよ」ってね。「こういう生き方をしなさいよ」ってね。
ドイツ語ではGabe(ガーベ;賜物)とaufgabe(アウフガーベ;課題)という言葉がありますが、神様からお恵み、贈り物をいただいたら、即、課題につながる。例えば声の良い方々が今日集まっていらっしゃるわけですけど、"歌を忘れたカナリア"じゃダメなわけですよねえ。与えられた賜物を生かす─それぞれが、持っている賜物を神の栄光のために用いるということが重要。すべての人に使命があります。これを発見できたら、どんなに重い十字架でも「これは私の担ぐべき十字架ですから、担がせてください。」─十字架無くば、冠なし。一緒に言いましょう、「十字架無くば、冠なし。」英語では"No
cross,no crown(ノー・クロス、ノー・クラウン)."ハイ、「No cross,no
crown..」
これはもう子供達も、机の前に貼っておくんですよ。苦労しなければ、絶対良い修学は与えられることはないんです。あなたに独特に与えられる使命、十字架があることを自覚なさってください。
私、大学が青山学院大学なんですけど、最初に教育を勉強したくて(もう牧師をやってたんですけど)、教育学部に入ったんでありますよ。で、学校の教師の免許を取るのに、初等教育原理という授業を受けたんであります。最後は英文科のお嬢様方、きらびやかな、と言いましょうか、青山のお嬢さん達がたくさんいる英文科の学生と、一緒に授業を受けましたんですよ。
で、最後に木下マサヒサ先生という助教授でありました。素敵な先生でしたが、大きな200人くらい入る教室で、最後の授業をしました。「今日は、初等教育原理の最後の授業でありますが、私は授業をしません!」なんて言って、みんなびっくりして。黒板にですね、とても綺麗な字で"使命"とお書きになられて、お話を始めました。
「諸君は、黙っていても家の跡取りになる、社長になれるようなお立場の人が多いでしょうが、私は何年も前に病気をしました。そして医者から見離されました。私は神様のことは知らなかったんですけど、ひざまずいて祈りました。『神様、もしあなたがいらっしゃるなら、僕を助けてください。僕に命を与えてください。僕がもし病気から解放されて元気になったら、私は世のため人のため、神様、あなたに喜ばれる人生を送りたいと思います。』」と祈ったんですって。奇跡が起こって病気が治った─という話を涙ながらに話すんですよ。
私、大学5年も行っておりましたけどね、涙流して話した教授、初めてでしたよ。「今また涙を流して」って、よーく聞くと毎年この授業では、授業の最後はご自分のお証をして(体験を話して)、「諸君、諸君には使命があることを知ってください。人間にはすべて、命をかけてあなたの命を使う使命があるということを、あなたはそういう生き方をして欲しいんだ、楽をするために人生があるんじゃないっていうことを知ってください。」って、涙を流して語るそうですよ。私も一生あの状況(もう学生たちもみんなもらい泣きをしてるんですけど)、うなずきながらその話を伺った次第でございます。
パウロは、牢獄の中にいて殺される可能性もあったにもかかわらず、「今また涙を流して語る。さあ、十字架を担ぐ意味を知りなさい」。イエス様はご自分の担うべき使命を果たされて、逃げることができたのに逃げないで十字架におかかりになりました、全世界の救いのために。パウロは「私に倣う者になれ!」と言いましたが、やがて殉教をして死んでいくのであります。私達も喜んで自分の十字架を自覚して、担ぐべきであろうと思います。
昨日この教会で結婚式がありました。今週もあるんですよ。ねえ。結婚式では第1コリントの13章「愛は寛容にして慈悲あり」という、有名な"愛の賛歌"を読みますでしょう?あの最後はですねえ、愛というものは「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛は永遠である。」という風にお読みするんですが、インスピレーションが与えられて、昨日はこの若い夫婦、新婚さんに対してねえ、私メッセージしたんです。
「いいですか、あなた方は今日読んだ聖書の御言葉のように、どんなことがあっても、健やかなる時も病める時も、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍び、すべてを耐えるんですよ。今耐え難いことが起こってキレちゃう人がたくさんいますけれど、もしあなたが聖書の御言葉、神の言葉のように生きたら、神様が必ずご褒美を下さるからね、期待しなさい。神様のご褒美は素晴らしいから!どんなことがあっても結婚生活、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐えるんですよ。お願いします。」─そういう説教をしました。神様からご褒美をいただけなければ、私が与えましょう。しかし必ず神様はご褒美を下さるというメッセージをお取次ぎ申し上げたわけでございました。
私達の教会に、イ・チソンさんという方が、12月25日アメリカ、ボストンからいらっしゃいます。
これを読んだ人はたくさんいらっしゃるでしょう。韓国の空前の大ベストセラー『チソン、愛してるよ』というね。
梨花大学というのはお嬢様学校というかエリート学校ですが、4年生の時に交通事故に遭いまして、車が燃えました(おっかないですね、ガソリンがもれて燃え上がりました)。中にお兄さんが運転していたんですが、妹は中で燃えてしまいました。引きずり出したんですけども火だるまということで、大火傷(やけど)もいいところでありまして、皮膚上55%アウト、生存できない。車は爆発しました。で、このお嬢様は7ヶ月間病院で手術を致しました。「十数回にわたる手術。身の毛もよだつ苦痛に満ちた治療が連続されて、親指以外は8本の指全部切断せざるをえませんでした(よく耐えたと思いますねえ)」。
CDのケースに映る自分の姿にびっくりしました(写真見るとねえ、とっても綺麗なお嬢さん)。突然、(ちょっと失礼ですけど)ともかく火だるまになって、どんなに美容整形しても話にならないお顔になってしまったんですよね。この人物、もう生きられないでしょう?ねえ。彼女の顔を見た子供達は、びっくりして逃げる。「こんなになって死なずに生きられるのか!」と言う人がいたり、「オバケ!」という、心無い、デリカシーのかけらもない人によって笑われる─深い傷を受けます。お兄さんの愛と両親の愛によって、支えられる。かろうじて生きる。教会に行きます。教会で十字架のメッセージを聞きます。
ねえ、みなさん、十字架は人を生かすでしょう?イエス様がみにくいお姿になって血だらけになってムチ打たれて釘打ちされて、「父よ、彼らを赦してやって下さい。何をしているかわからないからやっているんですから。」
この十字架のイエス様に触れて、彼女は新しく生きる力が与えられました。センセーションというか、ニュースが世界中に散りましたよ。ある人が質問しました。「火傷をする前に戻りたいですか?」と言ったら「いいえ、これで結構です。」
星野富弘さんに「ケガをする前に戻りたいですか?」「いや、これで充分です。」何かをつかんだんでしょう?
「ある日、顔を鏡に映して、見慣れぬ自分に手を振って挨拶した。『こんにちは、イ・チソン!』鏡の中の新しいチソンも挨拶を返しました。『チソン、愛してるわよ!』と。荒野で主の恵みを得た、と言いますが、チソンさんは3つの十字架の意味を受けとめました。
1つは何でしたか?マイナスは必ずプラスになる。彼女の生き方が変わりました。今、ボストンに留学をしてこの専門の勉強をして、傷ついた人のために生きようと思っていらっしゃいますよ。
2つめ、イエス様の十字架の恵みによって救われました。
3つめ、自分が担ぐべき、逃げてはいけない十字架を発見して、それを喜んで「これは十字架。私はこの十字架を担いで行くんだ」ということであります。
整理をします。聖書が教える神の恵みをどう受けとめるか。
第1番目、イエス・キリストによって、永遠の救いにあずかることができます。誰でも「イエス様、ごめんなさい」とお詫びする者は、罪赦され、神の子とされ、永遠の命をいただくことができます。良いことを積み上げて、たくさんの献金をして、聖書を充分に読んで─そうではありません。信ずるだけで、今、救いの恵みにあずかることができます。
先週、私は山口県に伺って、宇部神召教会で特別講演をしたわけですが、その教会の牧師は(若い牧師夫婦なんですけど)、面白い人でして、お名前がまた珍しいんですが"善徳(ぜんとく)"というんですよ。で、もう青年時代は"善徳"と全く違う生き方で、悪徳の仕事、生き方をして─もうどうしようもない、学校も嫌い。そして朝から晩までパチンコ屋に入りこんで、プータローをしておったというね。
そういう男でありましたが、ある日家出をした、夜逃げをしたそうですが(ボストンバッグ1つで逃げたそうですが)、ボストンバッグを開いてみたら、その中に中学時代にもらったラブレターが入っていたんですって。14年間持って歩いていたんですって。だから、生涯1通しかもらえなかったのね、この人ね(笑い)。で、それを大切に(もうボロボロだけど)、大切にしておって、それが出て来たんですが、お電話をしたくなって電話をしたんですって。
(名古屋にいるそうですけど)名古屋に電話をして、「僕は行き詰まって、生きる力を失った。」と言ったら、その女の子クリスチャンで、牧師の娘だったんですって。で、「うちにいらっしゃいよ」ということで、彼は彼女のところに14年ぶりに行ったわけですよ!感動の面会をしたわけですよね。
教会に行くようになりまして、自分の内側が探られて、キリストに接ぎ木されるかのごとくに「古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しい。」─彼は生まれ変わったんですよ。そして生まれ変わったら、もう、自分の生き方が変えられて、「私は神学校に入って伝道者になります」と言って、今立派な牧師をしていらっしゃるんですよ。先週お話しましたねえ、後の部分もねえ。
イエス・キリストによって、イエス・キリストを罪からの救い主、人生の主として心の中心にお迎えする者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。
第2番目、聖霊の力をいただいて、私達は不思議なエネルギーで満たされます。
3番目、神様は私達の心と体をいやしてくださいます。
先週、2通お手紙をいただきましたよ。
1つはね、「臭覚が戻りました。」─臭覚が無くなっちゃったんですって。お料理も、お花も嗅げないというのは寂しいですよねえ。「いやされました」とお手紙いただきましたよ。
2つめはねえ、目のいやし。
これは先週お話したんですけど、この人ねえ、私がねえ、「ちゃんと医者に行ってくるんですよ!」─主観だけじゃいけないからねえ。「目がいやされました。」今まで近所の周りの人もみんなジャガイモに見えたそうでありますけど、もう遠くまで文字も読めるし、色々ね。
でね、医者に行ってねえ、このカルテをもらってきたんですよ。ね。3枚もらってきたんですけど、すごいカルテですよね。僕ねえ、眼科のカルテ読めないんですよ。これ、なんだかようわからんですけれど、専門─これわかる人、どうぞご覧になったらいいと思いますね。お医者さんはねえ、これを見ながらねえ、「どうして治っちゃったのかなあ?」って言ったら、その人ね、「イエス様によっていやされたんです!」って言ってねえ。「そんなバカなことがあるか!」みたいな感じでねえ。「これじゃ学会で発表できない!」(笑い)と言ってねえ。学会で発表するのも難しいそうですよね。<どうして治ったか、この難しい病気が。キリストはいやし主>─なんていうわけで(笑い)、そうは学会はいかないということでね。本人はガッカリ(笑い)しておるそうですけど。テレビの画面が見えるようになりました。蚊が飛んでいるのが見えるようになりました(笑い)。すごいですねえ。主の御名を崇めます。
第4番目、神様は私達の人生を祝福で満たしてくださいます。神様との出会いと、教会における人々との出会い─こんな幸せなことはありませんでしょう。毎日そう告白していらっしゃいますか?「私は幸せです」と環境に支配されないで宣言し続けるんですよ。朝起きた時、夜休む時、1日中「本当に幸せです!」ねえ。ヘレン・ケラーはそう言いましたよ。"I
am so happy!"三重苦でありますけど、ねえ。"I am so happy in Christ."、一緒に言いましょう、ハイ、「I
am so happy in Christ」。キリストにあって本当に私は幸せです。四六時中言ったらいいんですよ。サタンは入り込むことができなくなるでしょう。
第5番目、死ぬことを恐れない天国の喜びをもって先取りして生きる。
最後の話ですよ。ピリピ3章に戻りましょう。一緒に読みましょう。20節と21節をお読みしたいと思います。(スクリーンに出ておりますけれど)ピリピ3章20節、有名な箇所ですねえ。ご一緒しましょう、ハイ。
「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(新約聖書・ピリピ人への手紙3章20〜21節・口語訳)
アーメン。「わたしたちの卑しいからだ」っていうのはねえ、すぐ病気しちゃうというねえ。齢をとると、しわくちゃになっちゃう、歯が抜けてしまう、髪の毛も抜けてしまう、卑しいからだ、病弱なからだ、罪をすぐに犯してしまう─そういうからだがご自身、キリストの栄光のからだと同じ形に変えてくださるであろう─聖書って、すごいことが書いてありますねえ。これをglorify(グローリファイ)と言いますよ。"栄化される"というんでありますよ。
やがて私達は、このイ・チソンさんのように、火だるまになって顔中移植の連続で、まあ元の皮膚が無くなってしまったようなお顔であってもお体であったとしても、どう変わるでしょうねえ、元に戻るんですか?いいえ、栄光の姿に変えられる、というんですよ。栄光の姿に変えられる、というんですよ!
私達に与えられた永遠の祝福であります。この20節に、「私達の国籍は天にある。」ね。人間は死にますと国籍を失いますけど、天国を夢見て生きることができるわけですね。
横浜鴨居のカルバリーチャペルにお墓ができまして、お墓のためのオープンの祝福の祈りを木曜日にしてまいりました。素敵なお墓ができましたよ!そこにねえ、「私達の国籍は天にあり」って書いてあるんですよ。中を開けてもらったんですけど、空っぽでしたよ。ゆっくり入れますよねえ、あれはねえ。一晩泊めてもらえるぐらいのお墓でしたねえ。
天国が国籍であるという、ねえ。いろんな国の人が見えていらっしゃいますが、最終的にあなたの国籍は天にあり。私達の国籍は天にある。一緒に言いましょう、「私達の国籍は天にある」。
私が今回山口県に行って、時間を取って津和野を訪ねたことを先週話しましたが、その資料の中に長崎の大浦天主堂の後、3500人ぐらいのキリシタンが隠れていて、どうして牧師も神父もいないのに、集会もできないのに信仰を保つことができたか─すごいですよねえ。歴史的に、こういうことは珍しいそうですねえ。
当時の政府が頭にきてですね、3500人を散り散りバラバラに分けて、150人を津和野に移したっていう話をしましたね?で、津和野で乙女峠の1番上の辺りで、だいたい殺されたっていう話をしたでしょ?旅行で行ったことのある方いらっしゃるでしょう?
で、その話が書いてありましてですねえ、もうどうしてもムチ当てても"ころばない"、すなわち信仰を捨てようとしないんで、14歳(中高生よ)のユウジロウって少年が捕まってねえ(長崎からわざわざ山口まで来た坊やですよ)、これを捕まえて裸にしてね、ムチ打つんですけどね、「イエス様をすてない!」と言うんですよ。それでですねえ、褌(ふんどし)一丁で十字架につけられるんですよ、裸にさせられて。で、近所の人達からバカにされたりつばきをかけられて槍で突かれたりなんかするんですけど、「イエス様をすてない!」って言うんですよねえ。
そしてねえ、十字架から降ろしてねえ、当時の亀井藩主、モリオカというのがですね、「ムチ打て!」といってですね、ひどい拷問に充てるんですよ。そうすると14歳のユウジロウ君ねえ、悲鳴をあげるんですよ。「ギャー」とか「キャー」とか上げるんでしょうねえ、しょうがないよねえ。それでもイエス様を捨てないんですよ。
途中からね、彼は変えられるんですよ。「これじゃあ死んじゃう」と言ってね、その藩主は彼を家族に戻すんですが、やがてこの人は飢えと、まあこの打たれたゆえに殉教する(死んでしまう)─14歳の坊やが死んじゃうんですけど、家に戻った時にね、お姉ちゃんにこう言うんですよ。「おねえちゃん、ごめん!叫んだりして。僕は叫びたくなかったんだけど、本当につらくて叫んじゃった。」と言ったらね、お姉ちゃんがこう言うんですよ。「私だって同じだから大丈夫よ、心配しないで。」って。
「でも、どうして耐えられたの?」って言ったらね、このユウジロウ君、こう言うんですよ。「僕ね、ムチ打たれてた時にパッと顔を向けたらねえ、屋根の上にねえ、子スズメがねえ、鳴いてた」っていうんですよ。「あ、スズメも鳴くんだなあ」、と思ったって。そしたらね、母親鳥がプーッとやって来てね、餌をこの赤ちゃんというか子供の、その鳴いている口の中にね、入れたっていうんですよ。で、「私はその時、思った。」って。「スズメだって親がいて助けてくれるんだから、私だって天のお父様が助けて養ってくださるに違いない、と思えた。」っていうんですよ。そして「やがて私は天国に導かれるんだということを意識してから、泣かなかったんですよ。」という─泣けますよね。
十字架の意味を深く、永遠のスパンでものを考える生き方、それがクリスチャン。「私達の国籍は天にあり」。この地上にあっては、全力を注いで、自分を捨て自分の十字架を担いでイエス様に従って行く輝きを与えていただきたいと思います。イエス様を心から愛しお従いする者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。
お祈りを致します。天のお父様、もったいなくもかしこくも、やがて私達は栄光の主のお迎えの時にこの地上で苦労をして、胃を取ったり、あっちを手術してこっちを手術して、また病弱でたくさんの苦しみや困難を経て来た人も、やがて栄光の姿に変えられるという。主よ、イエス様のお姿を見上げて心から感謝し、御名を崇めます。
地上にあってどうしてかと思えるほど次々に問題が起こりますけれど、どんな環境、どんな状況の中にあっても、また、愛が奪われ、愛が壊され、また私達は失望し絶望するような時にあっても、すべてをキリストにあって忍び、すべてをキリストにあって信じ、すべてをキリストにあって望み、すべてをキリストにあって耐える人生でありますように。
ある時は恐れることなく大胆に世の光として輝き、ある時は地の塩として己を隠し、味のある人生が送れるように。キリスト・イエスのお名前で祝福してお祈りします。アーメン。
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