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2005年 11月13日 主日礼拝メッセージ |
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「これぬきには、生きられない」 大川従道師 |
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「それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。」(新約聖書・ヘブル人への手紙12章12節〜17節・口語訳)
特別賛美:ヨシュア会「慕いまつる主なるイエスよ(聖歌557番)」
いやー、素晴らしいですね。大和カルバリーチャペルの、40代の男声合唱団。(この前来た)アカペラも真っ青(笑い)。アカペラの合唱、もう一度感謝しましょう。アーメン。また是非来年早々歌ってください。お願いします。今日は初めてのお方を沢山お見受けしますが、心からご歓迎申し上げます。少し大きな声で朝のご挨拶をしましょう。皆様、おはようございます。
本当に皆さんのお祈りによって私が救われて、献身をして50周年を先週迎えました。ご奉仕をしてくださり、ご出席くださり、心から感謝します。500名ぐらいの方々がお見えになったようですが、花束をいただいたりカードをいただいたり、お祝いの数々、なんとお礼を申し上げたらいいかわかりません。国内そして国外(海外)からも愛を示してくださって、心から御礼を申し上げます。
先週は3日間、石川県の金沢、野々市クリスチャンフェローシップの特別ご奉仕に行ってまいりました。牧師は梶山先生、奥さんは志津さん。すぐ近所に生まれ育った姉妹が献身なさって、お子様達も一緒に、非常に恵まれて伝道牧会をしておられる姿を見て、感激致しました。座間教会時代、この教会で救われて献身して、金沢の地で伝道している姿を見るだけでも、もう本当に大きな喜び、特別な喜びでございました。「やがて会堂建築をする時には、みんなで応援しますよ」と、そう約束してまいりました。瀬戸カルバリーチャペルは、190坪の土地を買うことができて、来年には新会堂が完成するということ、謙司伝道師も美奈子伝道師も、初めての会堂建築に一生懸命取り組んでおります。続けて覚えお祈りいただきたいと思います。皆様方の何人かの方々が教会債やご献金をしてくださって、応援していてくださることを、瀬戸の皆様も私も感謝で一杯でございます。神様の祝福がありますように。
さあ、ジョークが2つばかりあります。アメリカにもけちんぼうの人がおりまして、若い人が結婚した。結婚式が終わりますと、牧師に「先生、謝礼はいくらしたらいいですか?」で、牧師がこう言いました。「あなたの奥さん、花嫁の美しさに応じてしてください。」そうすると、彼は「しめた!」と思って、1ドルばかり謝礼をよこしました。(このケチな青年め…)あきれ果てた牧師は、嫁さんの顔をまじまじと見て、「兄弟、おつり50セント。」(笑い)とんでもない話であります。私の問題ではない、アメリカの話であります(笑い)。
投書欄で、レストランのアルバイトから帰って来た大学生の娘が、「お母さんねえ、悪いことしちゃったなあ。」普通はレストランでメニューを出して注文を承る時に、「以上でよろしいでしょうか?」と言うところを、朝のバイトでテンションが上がらず、「それだけですか?」(笑い)って言っちゃったんですよ(笑い)。
私は先日コンビニに行きましておつりをいただいたんですが(5円玉1個だったんですが)、「お確かめください。」と言われてですね、(どうやって確かめようかな…)と思いました(笑い)。習慣は恐ろしいものでありますが、良い習慣は第2の天性なり。毎週聖書を読んで礼拝を守れるというのは、良い習慣だと思います。ご一緒しましょうね。
「ヘブル人の手紙」の、最初は9章でありますが、ヘブル書における4つの(英語の聖書は)without(ウィズアウト:これなしには)というね。説教のタイトルは、「これぬきには、生きられない」ということ。9章の22節を最初にお開きいただきたいと思います。大変有名な箇所であります。
ヘブル書の第9章22節、ご一緒に読みしましょう、はい。
「こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」
⇒without shedding of blood is no remission.
(新約聖書・ヘブル人への手紙9章22節・口語訳〔日本語〕)
アーメン。"血を流す"ということによってのみ救われる、ゆるしがあるという。英語の聖書がそうでありますが、新改訳聖書も、「血を注ぎ出すことなしには罪のゆるしはないのです。」イエス・キリスト様は「死ねばいい」ということではありませんで、イエス様が出会い頭に交通事故で死んじゃった、ということでは救いは成就しない。こん棒で殴られたということでも、だめであります。ガラテヤ書の3章によれば、イエス・キリストは十字架につけられてのろわれた。のろいとなった、ということに重要なポイントがあります。もう1つは電気椅子で死刑にあったのではいけません。血を流すことなしには救いはあり得ない。なぜならば、レビ記の17章には「血は血をもってあがない取るべきである」ということ、「血の中にいのちがある、いのちはいのちによって買い取られるべきである」、というところであります。
エデンの園でアダムとエバが罪を犯しまして、楽園を追放されますと、神様は歴史の中で初めてエデンの園で血を流されました。すなわち、動物を殺しなさって皮の着物を着せて、いちじくの葉っぱや木の葉っぱで体を隠しているのでは、どうしようもありませんでしょう。恒久的なものでありましょう。血を流すことによって初めて皮の着物が作られたという、これはイエス・キリストの十字架を象徴している内容であります。
神戸にあるお寺の賽銭箱(さいせんばこ)から、27歳の若者が、賽銭箱に2円だけ残っていたということで、窃盗罪で起訴されたということを、新聞では「生活費に困って盗んだ」ということでありますが、神戸なんですからもうちょっとシャレて、"シャレ神戸(しゃれこうべ)"というぐらいですから、「2円では食えん(9円)」とか、「せめてご縁(5円)があったら」…とか、何か考えても面白かったでしょう。事務所に来れば食事はできますよ、というのもいいかなあと、そう思いますねえ。
私が渡瀬恒彦さんと共演したヤクザ映画というのがありまして(なーんて言いますと、ほんのちょっとだけですけれども)、あの時に渡瀬恒彦さん(ヤクザ役)がですね、教会の中に入って来て、牧師(私)の副牧師役はですねえ、小崎先生ではありませんで、あの時はミッキー・カーチスであったんでありますが、お腹が空いたということで、インスタントラーメンをごちそうするんでありますが、ビクトル・ユーゴーの『ああ無情(レ・ミゼラブル)』の場合にはそうではございませんでした。
神父さんはすごいですねえ。19年間も牢獄にいた男性に対して、「兄弟(brother:ブラザー)」とこう言いまして、彼は感動してですね、「私はこんなにやさしい言葉をかけていただいたことがない」ということで、夕食の接待になりますね。燭台(しょくだい)が出てまいります。もう大切なお客様にしか使わない銀のお皿が出てまいりまして、そこで食事にあずかって、もう本当に感動して涙、涙ということでありますが、夜は神父様と一緒に寝る、ということでありました。あんまり感動して夜寝つきが悪いということで、神父さんは軽いいびきをかいて寝ておるということで、ささやきがありますねえ、サタンのささやき。「盗んじゃえ、盗んじゃえ、盗んじゃえ。」「恩を仇(あだ)で返すな。」─両方のささやきの中で、とうとう悪魔に負けてしまって、銀の皿を盗んで逃げるわけでございますけど、やっぱりつかまっちゃった。で警察に連れて来られるんですが、神父様が粋(いき)なことを仰いましてですね、「それは盗んだんではございませんよ、私があげた物です。」と言ってですねえ。かっこいいですねえ。「どっかのお寺の2円と随分違うなあ」と思うぐらいでありますけど、そして彼はこう言いますね。「さあ、お帰りなさい。神様の愛の赦しを忘れてはなりませんよ」、ということであろうかと思います。私達は、その場における罪の赦しというものは犠牲によってなされるわけですが、人間の本質的な罪は、罪の無い神の子キリスト、救い主の血を流すことによって、十字架によって救い出されるのであります。あなたが良いことをして、お勉強をして救われるということではないのであります。
イエス・キリストを罪からの救い主、人生の主として心の中心にお迎えする人は、アーメンと言いましょう。アーメン。
第2番目、withoutであります。11章の6節をご覧いただきますか?ご一緒に読みましょうかねえ。11章の6節。ご一緒しましょう。はい。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」
⇒without mission
(新約聖書・ヘブル人への手紙11章6節・口語訳〔日本語〕)
アーメン。without faith(ウィズアウト・フェイス)ということでしょう。ご注目いただきたいのは、「信仰が無いと神に喜ばれませんよ。なぜなら…」という理由が書かれておりまして、神に来る者は(新改訳聖書は「神に近づく者は」)─今日はみんな、神に近づいて、神のそばに来たわけでありますよね─第1は、神のいますこと、神様のご存在がハッキリしますよ。2つ目は、ご自身を求めて下さる者に必ず報いて下さることとを必ず信じるからである、というのであります。
ロマ書の3章には、「神を求める人はいない。義人はいない、ひとりもいない。神を求める人はいない。」よく聞いてくださいね。神様に何かを求める人はいらっしゃるんですけど、神様ご自身を求める人がいない。もしもあなたが「何かを下さい」ということよりも神様ご自身を求めるという、神ご自身を求めるという、神ご自身を喜ぶということでありますならば、ご自身を求める者に豊かな報いを与えて下さるということが「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうしたら、あなたの必要なことはもう最初からご存知ですよ、必要な物は添えて与えられるであろう」、という世界を私達は体験することができると思います。
今日は午後の3時から石井十次の映画を観ることになります。「石井のおとうさん、ありがとう」ということであります。現代における、日本におけるジョージ・ミューラーは、孤児を3000人も養ったという風に言われて、ジョージ・ミューラーの伝記を読みますと、「これぞ信仰の人」というね。私達もあのような信仰が必要でありますが、石井十次も同じように岡山の地で孤児院を開きまして(まあ私はその現場に立ったことがありまして感動致しましたが、今日はその映画を観ることができるわけでありますが)凄い映画であります。また、凄い神に対する信頼であろうと思います。
私の家内は女子学院の卒業生でありますが、(中学生、高校生)まだ10代の時に山本つち院長が、いつも詩篇の121篇の1節、「我、山に向かいて目を上ぐ。我助けはいずこより来るや。わが助けは天と地を作られた主より来る。」これが繰り返し語られたそうでありますが、少女の心の中に御言葉が留まって、今でも時々思い起こす。難しい問題、行き詰まった問題がありましたら、「私は下を向かないで『我、山に向かいて目を上ぐ。わが助けは、天と地を作られたあのお方様から、必ず来る。』」という、これはクリスチャンでない少女の心の中に留められて、それが今日まで、私達にその御言葉の素晴らしさを教えているわけであります。信仰が無ければ、神に喜ばれることはできない。
第3番目、それは12章。1ページ開きまして、12章の1節からお読みしたいと思います。12章の1節。
「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、(考えなさい)思いみるべきである。あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。また子(供)たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、『わたしの子(供)よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子(供)を、むち打たれるのである』。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子(しせいじ)であって、ほんとうの子ではない。」(新約聖書・ヘブル人への手紙12章1〜8節・口語訳)
アーメン。ここでも"without"という言葉が使われておりまして、弟子になるための訓練抜きには、神様の愛というものは訓練の中にありますよ。アンドリュー・マーレーという人物が、「どうしてクリスチャンは成長して用いられないのか」ということに対して、「信仰の導き手、このお方を仰ぎ見るということをしないからだ」と言われたのでありますけれど、同じようにクリスチャンが用いられるためには、どうしても訓練されようとしないから、「誰でも訓練されたら神様に用いられる」と申し上げてよろしいかと思います。
今回の金沢の伝道旅行で、小松飛行場に降りましたら、梶山先生がヤンキースの松井秀喜さんのご実家が近くにありまして、そこを訪ねるということにしました。中に入れてもらったわけではありません。目の前に立っただけでございますが、隣に博物館のようなものがありまして、彼の幼い時からの写真であるとか、グッズであるとか、またバットやボールやグローブやなんかが置いてあるという、大変素敵な記念館がありました。一流になればなるほど、厳しい訓練を経ること無しに活躍しているスポーツマンは、1人もいないでしょう。イエス様は仰いました。「私について来なさい(Follow me:フォロー・ミー)。I will make you fishers of men(私があなたを作り上げるから。人をすなどる者にしますからね).」
ですから私達の側は、作られやすい性質、教えられやすい体質、teachable personality(ティーチャブル・パーソナリティー)というようなことが、私達の人生に非常に必要なことで、生意気ばっかり言わないで、従順するという。
私は幼い時に自分の名前が嫌いでありまして、なぜ?大川従道(つぐみち)って読んでくれませんで、学校の先生達は、"たてみち"と読んだり、("よこみち"とは読まないけど)"よりみち"と呼んだり、"じゅうどう"と読んだり、まともに"つぐみち"までたどる人は、1人もおりませんでした。ですから「いやな名前だなあ」と思いましたが、クリスチャンになりましてから、イエス様が「わたしは道です。」─この道にお従いする、という名前をつけていただきましたので、私は本当に喜んで、この名前を誇りにしております。ですから自分に課したのは、どんなことがあってもイエス様に従順する、だって私の名前は"従う道"だから─ということであります。神様から大変厳しい訓練を受けてまいりましたけれど、どんな時も神様にたてつかない、文句を言わない。温順で過すことができたことに対して、神様の恵みだと思います。本当に感謝します。
梶山先生に(もう十数年前でしょうかねえ)、あることをなさったので、私が誉めました。「梶山先生、えらいねえ。」梶山先生がなんて言ったかというと、「当然ですよ!私は先生の弟子ですから。」って、(うわー、カッコイイこと言うなあ)と思いました。
もう25年くらい前、座間教会の隣に柿谷(かきたに)先生が住んでおられた時代があります。カウンセラーの専門家である牧師でいらっしゃる牧師でありますが、私が聞いているであろうにもかかわらず、そっぽを向きながら、「この教会の若者達は、キリストの弟子であるということの自覚が無いんでしょうねえ」みたいなことを言って、私の心がグサリときました。「この教会は、弟子たる訓練を受けていない。弟子という自覚が無いままクリスチャン生活を送っているのではないですか?」と問われたような気がしています。今はどうでしょうねえ。キリストの弟子である誇りと自覚を持っていますか?「私はキリスト様のお弟子であることを喜んでいます、誇りに思っています。」そういう人は、アーメンと言いましょう。アーメン。
先週私達は栞(しおり)をいただきましたね。素敵な栞でしたね。午後の集会でしたけど、「汝(なんじ)ら 我を選びしにあらず 我 汝らを選べり」献身50年、私はこのヨハネ15章16節の御言葉で、献身のお招きとして(召命として)受けとめました。ありがたいですねえ。私が神様を選んだと思っていたら、そうではない。「私があなたを(あなたがたを)選びました」ということに対して、私はもう、本当に神様に感謝を申し上げております。選ばれてそこに鎮座ましましているだけではない。「重荷を持って苦労している者よ、私の元に来なさい。「あなたの人生に安息を与えますよ」というだけではありませんで、神様の栄光の為に用いられるために、ある時には重荷を担がせ、ある時は私生児でない本物の子供である証拠で試練を、訓練を与えていてくださるということを自覚してまいりました。
皆さん、どうですか?本当に試練や困難や行き詰まると文句を言う人は、弟子であることの自覚が無い方々でありましょう。弟子たるものは、必ず試練、訓練、トレーニング、エクササイズ、神様からそのように取り扱われることを光栄に思いましょう。つまらない困難な環境、マイナスと思えるような出来事の中に自らを置いた時に、「神様が私を今訓練しているんだ。逆境に勝る教育なし」という、そういう世界であります。主よ、私はどんな訓練にも耐えさせていただきますから、私を訓練してください。弟子として選んでいただいたことを喜ぶ者は、アーメンと言いましょう。アーメン。
さあ、第4番目、これが今日の中心であります。ヘブル人への手紙の第12章の12節から、今日司会者がお読みくださいましたが、もう一度挑戦しましょう。第12章、12の12、覚えやすいですね。
「それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい(これは、"祈りのひざを強くしなさい。モーセのように手を上げて祈りなさい"というね、祈りのことでしょうね)。また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい(心と体がいやされること、過去がいやされること)。すべての人と相和し(仲良くし)、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ(ならなければ、ね)、だれも主を見ることはできない(ここに"without holiness"とね。きよくなければ、きよめられなければ誰も主を見ることができない、というね)。気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。」(新約聖書・ヘブル人への手紙12章12節〜15節・口語訳)
という。新改訳聖書は、この14節を「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」さあ、非常に重要な、何十年もの間、聖めを説く教会で誤解をして語ってきた牧師がたくさんおります。それは、救われただけでは天国には行けない。聖められなければ。洗礼を受けただけでは天国に入れない。「聖められなければ、主を見ることはできない」というこの御言葉に土台したからであります。それは間違いであります。良く知ってください。救いというものは、一方的な神様の恵み、アメイジング・グレイスであります。あなたが(いいですか?いいかげんであっていいはずはありませんけど)いいかげんなクリスチャンであったとしても、もし罪を悔改めしてイエス・キリストを救い主として信じて心の中心にお迎えしておりますならば、あなたの素行が少々悪くても、残念ですが聖書の世界が良くわからなくても、(いいですか?)聖書研究を良くしていませんでも、信ずるだけ、キリストを救い主として信ずるだけで、罪赦されて神の子とされて永遠の命をいただくことができます。これがキリスト教の最も優れたエッセンスであります。
しかしながら、聖霊のバプテスマを受けていない、異言の賜物、他の賜物も持っていない、このところに出てきますholiness(ホーリネス:聖め、聖化)というものも持っていないとするならば、天国は行けますけれど、この地上で奥座敷、深い世界、これは特別な世界を理解すること、見ること、味わうことはできないという風に受けとめることが健全な教えであることを知っていただきたいと思います。 「安心した」ということと同時に、求める渇きが湧いてきたと思います。
先週は、エペソ人への手紙の2章から、パウロ先生が敵意を十字架で滅ぼす、というメッセージをされました。エペソ書2章の14〜16節ですが、16節が今出ておりますが、ご覧下さいますか?覚えていらっしゃいますか?体が震えるようなメッセージだったと思いません?
「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を(敵対する気持ちですよ)十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(新約聖書・エペソ人への手紙2章16節・口語訳)
という内容。内側が探られましたね。ガラテヤ書の2章の19、20と同じように、「わたしはキリストと共に十字架につけられました。もはやわたしが生きているのではありません。キリストがわたしのうちにあって生きているのです。」私の内側の肉が、自己中心が、selfがという話題でしたが、それが崩されて聖められるという世界、敵意と憎しみという、敵対心という、赦せない心という、そこまでまだ行きませんけれども(もうちょっとレベルは低いようですけれども)、「苦い根を張っていて」、と(レベルは低いように聞こえますけれども)そのことが私の人生をだめにし、そして周りの人生をもおかしくするという、そういう内容であります。
エペソ人への手紙の、今2章の話ですが、4章(ちょっと開けてみましょうね、またここへ戻りますからね。いいですか、何か挟んでおいて下さいね)、エペソ人への手紙、305ページであります。4章の26節、よろしゅうございますか?4章の26節、ご一緒に読みましょうか?26、27、はい。
「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない。」(新約聖書・エペソ人への手紙・4章26〜27節・口語訳)
アーメン。悪魔に機会っていうのはね、トポス(場所)を与えてはいけないというから、若い兄弟姉妹よ、ねえ、コンピューターで悪い物を見ないように、チャンス、場所、これに「気をつけなさい」ということでありますが、26節に書かれておりますことは、非常に重要なこと、今までに話したことのないお話を致します。私は後日この話をしようと思ってため込んでおったメッセージでありますが、抑えがたくて今日お話をするような内容であります。
マルチン・ルーテルは「私達の頭の上をスズメが通過することは拒絶できない。汚い思い、敵意、憎しみ。そういう思いがパッて通過しても、『男だもん、しょうがないや。』しかし、スズメが頭の髪の毛を利用して巣を作るというようなことは、『NO,やめておきなさい!』こう言うことができる」と言いましたが、「心の隙間にサタンに入り込まれないように注意しなさい」という。
東京神学大学のオオキヒデオ先生(ピューリタンの世界的な権威者でありますが)、このお方がこんなこと、この「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで日が暮れるようであってはいけない」というのは、単なる道徳的な教訓を語っているのではない。「いつもニコニコしていなさい。」というレベルのことではない。よろしゅうございますか?怒りというものが怨念(おんねん)と化し、永遠化するという。怒りというものがいつの間にか罪に変わってしまう、という。この文字を見てくださいますか?<怒りの神化>という、もう英語に直したら大変な言葉であろうと思いますが、<永遠化の否定>という言葉を用いているのでありますが、怒ること(怒るということは相手の何かを見て怒る、さばくということですが)、少しはしょうがないんですけども、怒りの賞味期限というものは1日である。「怒りの賞味期限は1日である」、というすごい言葉を使っております。怒ることは、さばき続けることによって自らが正しく自分はさばかれる存在ではないと思い込んじまって、少なくとも怒る資格、相手を罪に定める資格など自分には無いということが分からない。
エペソ人への手紙の2章というところには、「わたしたちは生まれながら怒りの子供であった」というのはねえ、(口語訳聖書は"怒りの子供"って書いてありますが)それは子供の時から"怒りっぽい"って、(確かにまあ怒りっぽい子供がいないわけではありませんけど)、そういうことではないんですよ。"私達は神の怒りの対象"という意味でありますが、こういうような存在であるという自覚をしていない。
山本七平さんという、イザヤ・ベンダサンの名前を使って、大変歴史に残る書物をお書きになったクリスチャン、無教会派のクリスチャンがいらっしゃいますが、その自叙伝(評伝と言いましょうか)、そのタイトルがですねえ、『怒りを抑えし者』という。『怒りを抑えし者』というタイトルでありまして、私は以前この書物を読みました時に、まあなんて気の利かないタイトルをつけたものかなあ、という風に思ったことがありますが、今回はもう恐れ入りました。
山本七平さんというのは戦争に行った人でありますが、内側にはですね、ゆるせない出来事をたくさん経験したと思います。義憤、「こっちが正しいんだ、向こうが正しくないんだ」ということで怒り狂ってもおかしくないけれども、『怒りを抑えし者』というのは、一体誰であるか。題名だけでも深くて圧倒されるようなことでありますが(韓国の方がみえていらっしゃいます。台湾の方もいらっしゃるんでありましょう。インドネシアの方もいらっしゃいます)、東南アジアの方々は日本人を憎しみ続けておられるわけでありますが、もしクリスチャンでありましても、もし憎しみ続けるというようなことがもし明日あると致しますならば、怒りというものを抑えるということができないと致しますならば、怒りを放棄する、怒りを神にゆだねるということができません、ということに問題がある。
"怒り"というものを永遠化しない、というレベル、現代人の最も大きな問題、間違いというものは、人間の判断を絶対化する。エデンの園で、神様が「絶対1つだけやっちゃいけないことがある」と仰った、それは善と悪を知る木の実は食べちゃいけない、というものをアダムとエバは断った。善と悪とを知る木の実というその領域がある。それは神の領域であって、人間が侵してはいけない、入り込んではいけない世界というものを人間が侵した、そこに大きな問題がある。サタンが誘惑して、「これを食べたら、神のように賢くなるであろう。」と言ったけれども、そういう状況の中で今日まで歩みを続けて来た、白黒の決着をつけられる唯一の絶対者なるお方様は、全能の神様だけであるということ。
ある程度怒ることは、しょうがないでしょう、感情がある以上は。しかしながら、手を引かなければ危険であるということ。現代人は、理性を絶対化するということが起こり得ます。すべての人間的なものを永遠化すると言いましょうか、その結果、バベルの塔のように混沌とするということでありますが、山本七平さんが、"怒るということを抑えし者"という、『怒りを抑えし者』というタイトルは、「山本さん、立派ですね。あなたがこのメッセージをとらえて、「私は怒らない。賞味期限は1日である。私は神の恵みによって、怒りというものを、復讐というものを神の御手にゆだねたんだ。山本さん、えらいね。」と、そういう風に第2礼拝まで思っておりましたが、今私はね(それもその通りであろうと思いますが)、「神様ご自身が怒り狂ってもおかしくないのに、『怒りを抑えし者』というのはどなた様か」と言えば、それは主イエス・キリストが唯一怒ることのできるお方、さばくことのできるお方がそれを抑えられた。抑えられただけではなくて、「父よ、彼らを赦してやって下さい。彼らは何をしているかわからずにいるのです。」と祈られたお方様を指差しておるとするならばすごいことだなあと、今、講壇でうなっているところであります。
ヘブル人への手紙の12章に戻ることに致します。12章の14節。
「(だから)すべての人と相和し(平和に過ごし)、また、自らきよくなるように努め(努力し)なさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない(あの世界に入ることはできませんよ)。気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。」(新約聖書・ヘブル人への手紙第12章14節・口語訳)
放っておいたならば、天国に行けるかもしれませんけど、あの苦い根がちょくちょく出てまいりまして、私達の人生をだめにし、私達の周りを混乱させる、そのことに触れていただくこと抜きには奥座敷に入れませんよ。敵意の問題、赦せない心、冷たい心─それを十字架のあの恵みによって、滅ぼしていただきましょう。苦い根は、自分と周りを汚すことになるから、それを取り除いていただきましょう。これはまさに、聖霊様によるところの悟りであると思います。
私は数ヶ月前に、本当に感動的な出来事を耳にしました。私がずうっと祈ってきたことでありますが、親子の関係が上手く行かない。お父さんはゆるしをこうているんですが、息子の方はゆるさない。絶対ゆるさない。その証拠は、会わない。そして、孫も見せない。皆さん、愛の関係を断ち切るということは、最も恐ろしい。神様との愛の関係を断ち切るということは、最も恐ろしいことであると同時に、人間の愛の関係を断ち切ることも恐ろしい罪であろうと思いますが、ある出来事を通して悔改めをするというか、涙をもって和解するという出来事を私はお伺いして、本当に大きな恵みでありました。サタンのやつは上手に縛りますからね、私達の心を。あなたは正しいと思っているかもしれない。あなたは「義憤だ、これは憤りだ、これは私が怒る権威があるんだ、あいつが悪いんだから、あの人が悪いんだから」と言うかもしれないけれど、それは1日ぐらいで賞味期限は切れますよ!私達は神様の御手にゆだねること無しに永遠化したら、あなたの人生はおかしくなりますよ、ということ、アーメンでしょうか。神様、どうぞこういう世界を私達に教えて下さい。
私達の教会に、アメリカから宣教師で岡村ケン先生がみえていらっしゃいますが、英語礼拝で、先週「私は大川牧師との出逢いがなければ、今日はない。」そんな話をしました。そういえば、ケン先生も私が洗礼を授けました。お兄さんも、そして秀才のお姉ちゃんも、私が洗礼を授けましたよ。お父さんもお母さんも、今恵まれて過ごしていらっしゃいます。岡村先生はこう仰いました。
「私は先生との出逢いがなければ、高木先生の1人娘、、真理さんと結婚することは無かったでしょう。そして、2人のかわいい子供が与えられるというのも、先生との出逢いがあったからこそです。」と涙ながらに出逢いを感謝され、50周年を祝ってくださいました。本当に「人生は出逢いで決まる」というのはこういうことだなあ、と思って私も感動したわけであります。御名を崇めます。栄光は主に。
私は救われて50年、献身して50年、これを聖書的な表現では「ヨベルの年」と言います。"ヨベル"というのは、英語では"Jubilee(ジュビリー)"と言うんですけども、それはイスラエルの国、旧約聖書の中にそのことが書かれておるんでありますが、イスラエルの国は7年毎に(7は完全数なんですけども)、素晴らしい恩赦(おんしゃ)、恵みのようなことがあったわけですが、7×7=49(しちしちしじゅうく)、49年、もう1つ足して50年、この2年間は過去においてどんなひどい借金を持っておったとしても、チャラになるというね。これを「ヨベルの年」というんですよ、すごいでしょう?イスラエルの国は貧乏で、自分の田畑をねえ、人に売っちゃったとするでしょう?50年目のヨベルの年には、それが無償で戻ってくるって。すごいでしょう?ねえ。奴隷はねえ、自分がお金が無いからねえ、奴隷の身になっちゃったんだけれど、しかし奴隷生活から解放されて自由になる、と。これを、ヨベルの年と、こう言うんですよ。もう1から10まで「誰がこんなことを考えたか」ということが聖書に書いてあるんですけども、人間は、ちょっとずるがしこいところがありまして、ヨベルの年が近づいてまいりますと、「おい、間もなくヨベルだからたくさん借金しておけ、借金がチャラになるから。」こんなことをねえ、考えるようになったからでありましょうか?どうだかよく分かりませんけれど、歴史学者に言わせてみると、ヨベルの年というのは1度も実現したことがない。実現したら凄いね、日本でもヨベルの年が実現したら、「借金している人、手を上げなさい」って言ったら(もう、みんなニコニコしておられるじゃありませんか、ねえ)、あれが無くなったら…てなもんでございますよ。
しかしながら、主イエス・キリスト様は(イザヤ書の61章の1節で、その「ヨベルの年」が書かれているわけですが)、それを引用されまして、御自らがルカ福音書の第4章の17節から19節まででありますけれど、
「すると預言者イザヤの書物が手渡されたので(これがイザヤ書61章なんですが)、その書を開いて、こう書いてある所を出された、「主の御霊がわたしに宿っている(anointing〔アノインティング〕という言葉がある、油注がれた)。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしを(派遣して)つかわして、囚人が解放され(ね、ヨベルの年にはもう牢獄にいる人がみんな解放される、赦される、ね)、盲人の目が開かれる(ある世界が開かれる)ことを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年(というのは定冠詞がついておりまして、これは大解放の年、ヨベルの年を表す)を告げ知らせるのである。」(新約聖書・ルカによる福音書4章17節〜19節・口語訳)
というイエス・キリスト様ご自身のご自覚の中に、過去の歴史の中に、この偉大なヨベルの年が1度もなされていなくても、私を通してそれが実現されるのであるということを仰られたという風に風に理解してよろしいと思うのであります。大変著名なお方で、ジャン・バニエというお方がいらっしゃいますが、そのお方のお書きになられた『Becoming Human(ビカミング・ヒューマン)』という書物があります。新教出版社は<人間になる>と訳しておるのでありますが、その第5章に「ゆるし」という問題が書かれておりまして、「ゆるし」というのは原文のギリシャ語では「解放する」とか「束縛から解き放つ」という意味で、借金や罪や罰の赦免(しゃめん)を意味するんだ、と今申し上げましたね。その中に、凄いことが書いてあるんですよ。ジャン・バニエがですね、「集団の憎しみ」という話題をしているんですが、ある友人の叔父さんがですね(オーストラリア人なんですが)、若い時に戦争でドイツ人にガス攻撃を受けて、ガスの為に障害を受けて「自分の人生っていうのはやられた」、だからドイツ人も、憎しみを持ちながら何年も過ごして来た。憎悪の念を抱き続けてその話をするものですから、家族全体も「ドイツ人は悪い奴だ、ドイツ人はひでえ奴だ、ドイツ人なんかぶっ殺せ!」みたいなことで、叔父さんの口癖は「ドイツ人は蛮人(ばんじん)だ、野蛮人だ」というね。しかも日本語に訳しているのは、カタカナで"ド"を書きましてですね、"ド蛮族(ばんぞく)"というね。よっぽどひどい、そういう悪口を言い続けたので、その影響を受けて家族全体がドイツ人に対する憎しみというものを幼い時から持っていた。憎しみの言葉や霊で代々私の家庭は毒されて、怨念の雰囲気があった。これは私達の個人としても社会としても、ゆるしを選び取らなかった場合の人生の現実、山本七平さんの反対、怒りや憎しみを抑えきれなかった人生。
東南アジアでねえ、(日本人が悪いんですけど、本当に申し訳ないと思っていますけど)ゆるさない為に、憎しみを持ち続ける為に、「絶対にゆるさない」と心の根の中に苦味を持っている為に、サタンの奴にまんまとやられている国や人々がどんなに沢山いるかわかりません。
私の友人が手紙の中で、(いいですか)アメリカの北米の原住民の使った原則について書いています。つまり、「大事な決定の際には、いつでも子孫に及ぼす影響について考えなければならない」という原則です。凄い原則ですね。私達の中には他人を決してさばかず、ゆるさず、心の傷を第3世代へ、第4世代まで、あるいはもっと後までも、平気で伝えるような人達が何百万人といるに違いありません。このように、世界では心の傷が継承されて行くのです。」というね。
"Remember,Pearl Harbor(リメンバー、パールハーバー)."、同じことでありますね。「忘れるなよ、この怨念を晴らさなければならない」。
日本人は忠臣蔵をいつもいつも毎年、毎回、毎週観るんですが、「ゆるせない。仇(あだ)を討つまでは、敵(かたき)を討つまでは」という世界でありますが、少なくともこの体質を、あなたの代で、あなたの今にサタンの支配や影響下から断ち切っておく必要があります。子供や孫やひ孫にまで、あなたの罪の性質が伝わっていく、ということでありますから、「血を流すことなしには」というね、主の十字架の血潮によってゆるされ、きよめられること抜きには、これを乗り越えられない。信仰抜きには解決しない。訓練されて成長する。「聖められて初めて、主の僕(しもべ)として整えられ、単に怒りっぽいという心、憎しみの心、簡単にはゆるさない冷たい心、というようなことのようにしか見えない世界が、代々代々体質として伝わって行きますよ」という、そういう世界であります。イエス・キリスト様の絶対的な権威によって、十字架のあの御血潮によって、過去における罪が断ち切られて、その苦い根が引き抜かれて、イエス・キリスト様に接ぎ木されて、「古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しい。」そういう人生を送りたい人は、アーメンと言いましょう。アーメン。
「ヘブル人への手紙」の11章の13節をお開きいただけますか?ヘブル書の第11章の13節であります。11章13節、
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」(新約聖書・ヘブル人への手紙11章13節・口語訳)
先週、11月の6日に、2人の人が召されました。1人は玉城好子(たましろ・よしこ)さん。71歳。この教会のご婦人であります。素晴らしい信仰者でした。アルゼンチンから来た人でありまして、アルゼンチンに行った日系人、向こうでも国籍がようわからん。中途半端。日本に帰って来ても、言葉も不自由、中途半端。しかし、本当の国籍は天にあり、戻られました。亡くなる寸前に、遺族に(アルゼンチン人でありますからスペイン語でありますが)「Me voi con senor(メ・ヴォイ・コン・セニョール:主と共に行くよ)」と家族全員の前で言われたそうです。すごいねえ。ご主人に対して、子供達に対して、孫に対して「私はイエス様と一緒に行くのよ。」という、最高にいい遺言ですねえ。彼女は、地上では旅人、寄留者であることを自ら言い表した。リビングバイブルでは、
「しかし彼らは、約束のものが待ち受けているのを見て、心から喜びました。この地上がほんとうの故郷ではなく(この地上は故郷ではない、アルゼンチンでも日本でもない)、自分がほんのつかの間、ここに滞在する旅人にすぎないことを、自覚していたのです。そう認めた時、彼らは心から、天にある故郷を慕い求めました。」(新約聖書・ヘブル人への手紙11章13〜14節・リビングバイブル訳)
水間めぐみ姉妹のお母様が、98歳で亡くなられました。同じ11月の6日。伝道者の奥様、牧師の奥様でありました。尾山台ナザレン教会で、告別式がなされました。めぐみさんの弟さんもこの前10月21日に亡くなったばかりであります。連続でありますが、私達はこの地上は旅人、寄留者であるという。ほんのつかの間、という。兄弟姉妹、この信仰をきちんと持ちながら、御国に行くまで、深い世界を、聖められること無しにはお取り扱いをいただいて、主を見る、主を拝見させていただく、主と深い交わりをさせていただく、そのレベルに引き上げていただきたいと、そう願っておられます。御言葉に従順したい。聖書の御言葉のように生きたい。私の人生を整え、聖めて下さい。そう願う者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。
お祈りを致します。天のお父様、御名を崇めます。少々アドバンスコースでしたでしょうか。でもお語り申し上げることができて、ゆるされて、本当に幸せでございます。どうぞイエス様、せっかくクリスチャン生活を送っているのでありますから、この深い世界を理解し、"お取り扱いをいただく"ということが分かるように、"訓練される"ということが分かりますように。
そして主によって整えていただいて、キリスト様の弟子にふさわしく、自分を捨て、自分の十字架を負うて、主にお従いし続けることができるように。内側が探られて、十字架によって敵意を滅ぼしていただき、内側の汚い物を聖めていただき、主の栄光の為に用いられますように。主イエス・キリスト様のお名前で、祝福してお祈りします。アーメン。
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