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2005年 12月4日 主日礼拝メッセージ |
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「ここに愛がある」 大川従道師 |
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「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」(新約聖書・ヨハネの第1の手紙4章7節〜12節・口語訳)
特別賛美:Eternity(エタニティ)
素敵な素晴らしい賛美を、心から感謝致します。また、私の今日のメッセージの為にも素晴らしいものでした。主のお導きのゆえに、御名を誉め賛えたいと思います。今朝は初めてこの教会に来られた人がたくさんお見えでいらっしゃいますが、心からご歓迎申し上げます。少し大きな声で朝のご挨拶しましょう。皆様おはようございます。
今日は月の最初の日曜日でありますから、誕生祝福のお祈りをします。初めての方も含めて、12月生まれの方、また洗礼記念日、霊の誕生日の方、結婚記念日の方も、ご起立下さいますか?ひとことお祈りをさせて下さい(私も12月25日に洗礼を受けたんですよ)。アーメン。1年守られた人もいらっしゃいますね。はい、お祈りします(たくさんいらっしゃいますね、2階席にも)。アーメン。
恵み深い天のお父様、主の麗しい御名を誉め賛えます。もしイエス様を知りませんでしたら、いたずらに年を重ねるだけでしたけれど、今はそうではありませんで、こういうような記念日に「生かされているんだなあ、生かされてきたんだなあ。」ということを確認する時になりました。中には苦しい、光の見えないトンネルの中を通過しておられる方もいらっしゃいますけど、主がご一緒で、また先取りして感謝して御名を誉め賛えておるのであります。兄弟姉妹達に健康を授け、そしていつも"明るく、元気に、のびのびと"過すことができますように。またある時には、大胆に世の光としての輝きを、またある時は己を隠し地の塩としての味のある人生を送らせて下さい。愛が壊される時代に、心を尽くして神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する、この最も大切なことに挑戦できますように。お立ちになった方々に、どうぞ今月素晴らしいことを体験させてあげてください。主イエス・キリストのお名前で、祝福してお祈りを捧げます。アーメン。
♪God bless you Halleluyah(ゴッド・ブレス・ユー ハレルヤ) God bless you Halleluyah God bless you Halleluyah God bless you Halleluyah♪
アーメン!Bless you(ブレス・ユー)!幸いですねえ。お立ちになった方々に、後でお声をかけてあげてくださいね。
新聞の投書欄に、50歳の女性「もと私は銀行に勤めていて、窓口業務をしておりました。定期預金が満期になって、継続するので質問をしました。「お客様、端数(はすう)はどうしましょうか?」と言うべきところを「"はしたがね"(笑い)はどうしましょうか?」と言ってしまいまして(笑い)笑われました、と。
私のような牧師でも、時々緊張して失敗してしまうことがあります。(滅多にございませんが)結婚式で失敗したことがあります。男性に向かって、「鈴木ヤスヒロ、汝(なんじ)この男子を娶(めと)りて…」って(笑い)。(今その方ちゃんと牧師をしていますから、大丈夫ですけれど)「もとへ!」と言ってやり直をしたわけです。
ある結婚式の披露宴で、聖書のことをあまり良く知らない披露宴の司会者が、祝電を朗読致します。「ご結婚おめでとうございます。(ま、クリスチャンは時々そうするんでありますが、聖書の言葉で)第1ヨハネの4章18節。」という、これを朗読しました。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。(いい言葉でしょう?)」ところがこの人ですねえ、ホテルの聖書でも持って来たんだろうと思いますけれども、気を利かせて「ヨハネの福音書の4章の18節を読みまして、もうビックリ致しました。なんと書いてあるかというと、「あなたには5人の夫がいたが、今のは夫ではない。」という─同じ4章18節でも、こんなに違うのであります。だから聖書を知らないと恥をかくことが多いんでありますが、さあ皆さん、聖書をお勉強しましょう。
聖書の「ヨハネの黙示録」が最後でしょう?その1つ前に、「ヨハネ第1の手紙」というのがありますよ。そこを開きましょう。380ページになります。福音書や黙示禄と同じヨハネさんでいらっしゃいますよ。エペソから晩年(80年代の後半、AD90年の初期に)小アジアのいろんな教会に宛てて書かれた、まあ回覧版のようにして用いられたであろうと言われるものでありますね。4章の7節から10節までお読みします。
「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(新約聖書・ヨハネの第1の手紙4章7節〜10節・口語訳)
今日の中心的なメッセージでありますが、7節をご一緒に朗読しましょう(今お読みしましたね)。7節、ご一緒しましょう、はい。
「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。」(新約聖書・ヨハネの第1の手紙4章7節・口語訳)
アーメン。パリサイ人が、イエス・キリストに質問しました。「イエス様、聖書の中で一番大切な戒めは、なんですか?」イエス様はお答えになりました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛することですよ。」─このお答えは、もうイエス様が仰ったんですから、正しいんですけれども、ちょっと抽象的で良く分からない。でもイエス様はちゃんと、第2に重要なことを「第1と同じレベルですよ、それは自分を愛するように隣人を愛すること。心を尽くして神を愛するっていうことは、自分を愛するように隣人を愛することと同じですよ。」ということを、イエス様は仰ったわけであります。
イギリスの偉大な聖書学者、ウィリアム・バークレーという人物が、「『愛する』ということは、神が愛しておられる者達を愛することである。」ご注意いただきたいのは、「神"が"愛しておる」ということと「神"を"愛しておる」ということは、随分違うんであります。神"を"愛しておる者は、日本は人口1%でありますけれど、神"が"愛しておられるのは、すべての(本人は気づかないけど)人、それを愛するということが、神を愛している唯一の証である、というのであります。
4章の8節に、先ほどお読み致しましたけれど、もう1度お読みしますと、「愛さない者は神を知らない。God is love(ゴッド・イズ・ラブ:神は愛である).」と、そう書かれています。「お互いに愛し合いましょう。」という言葉でありますが、まあ英語のリビングバイブルでは、こんな風に書いてあります。「Let us practice loving each other.」このpractice(プラクティス)というのは「練習しましょう、まあ、そうやってみましょう。試しに実践してみましょう、実行してみましょう。」というような言葉が含まれていることであると思います。4章の9節行きますよ、4章の9節。これもご一緒しましょう、4章9節、はい。
「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」(新約聖書・ヨハネの第1の手紙4章9節・口語訳)
アーメン。クリスマスのことが、こんなところに出てまいります。「イエス・キリストがこの地上につかわされたのは…」という、2000年前に馬小屋で生まれてくださったイエス様を(勝手に生まれたのではなくて)父なる神様がこの地上につかわしなさったのは、その神様のご愛によって私達が生きる者になるためである。
イエス・キリストを知ると、私達は生きる力が与えられます。キリストを通して私達は生きる、生きるようにして下さる、というのが1つの意味であります。他の聖書の訳文はほとんど名詞で訳されておりまして、「生きる」というのを「永遠の命をいただく為にイエス様がこの地上に派遣された」という、まあどちらにしてもそれは素晴らしいことであります。
先週読んでおりました、この元玉川学園大学の教授がお書きになった書物ですが、ちょうど戦争直後(終戦後)小学校6年生であったそうであります。修道院に疎開(そかい)しておったそうでありますが、東京に戻ってまいりまして杉並に住み、どうも都心が心配であるから、当時省線(しょうせん)と言いました今のJRに乗り、御徒町(おかちまち)の駅で降りましたならば、そこは焼け野原で一軒も家がない(これが戦争、若い人達はわからないでしょうね)。もう、まったくもって焼け野原になりました。遠くに(浅草の方に)松屋のビルが見えた、という程度であります。彼はそこで降りてですね、松屋の方に歩いて行きますと、御徒町や上野や浅草の辺りはみんなそうですが、露天商が出て、まあお店を広げておったわけですが、その中に1人だけ男性がボツッとこう立っておりまして、こう看板をぶら下げておった。首から何かこうダンボール紙のようなものをぶら下げておった。なんと書いてあるかと言いますと(ビックリするなかれ)、「私を売ります。私はどのように扱われても問題ありません。生体実験でも、生体解剖でも構いません。」そして2千円、という風に書いてあった。
もう唖然として、周りの人達は(今でしたら揶揄〔やゆ〕するでしょう、笑うでしょう、指差すでしょうが、その時代でありましたならば)、このお父さん、この人物は子供の為に、奥さんの為に、必死になって出稼ぎに来たんでありましょうか、買出しに来たんでしょうか、もう食べる物が無い。あとは奥の手、自分自身の命をかけて家族を愛するということ以外の何ものでもない。もしもこれをご家族の奥さんや子供達が知りましたら、どんなに感動するかというか、「自分のお父さんのその尊い命の犠牲を無駄にしてはいけない!」と誓ったでありましょう。「どんなことがあっても、生きるんだ」という風に考えたであろうと思います。
同じようにイエス・キリストはこの地上に来られて、死んで下さいました。私達の身代わりになって下さいました。八つ裂きにされました。血だらけにされて、人間によってその命が取られてしまいました。それは私達の罪の身代わりになって死んでくださった─そのことを知りますと、私達クリスチャンはどういう生き方をするかというと、「この愛にいかに応えるか」という生き方が、自分の人生の生き方になります。4章の10節、これもご一緒に読みましょう。4章の10節、ご一緒しましょう、はい。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(新約聖書・ヨハネの第1の手紙4章10節・口語訳)
素晴らしいですねえ。順番がございますよ。あなたが神を愛したのではなくて、神がまず、まず神があなたを愛してくださった。それはちょうどヨハネの15章の16節に、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。(私達が神様を選んだと思っていたら、そうではない。神様の方で)わたしがあなたがたを選んだのです(順番を間違えないように)。」私達は神を今愛しておりますが、神様がまず私達を愛してくださった。11節も行きましょう。11節もご一緒に読みましょう、はい。
「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。」(新約聖書・ヨハネの第1の手紙4章11節・口語訳)
アーメン。愛し合うことの"根拠"というものが(互いに愛し合うということが、戒め、命令として書かれておりますけれども、その根拠は)、「神がまず私達を愛してくださったからです。」と。お気づきいただいた人がいらっしゃると思いますが、11節の「互に愛し合うべき」という言葉でありますが、先ほどの7節でも、「私達は互に愛し合おうではないか。」という言葉を用いました。下の段に行きますと、19節から「わたしたちが愛し合うのは」、またこのところに同じような言葉(これで3回目でありますが)、「神がまずわたしたちを愛してくださったからである。」20節、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、(新改訳聖書では「この命令は」)わたしたちは神様から授かっているのである、という。「互いに愛し合うということは神の命令なんですって」ということを忘れてはいけないと、そう思いますね。
今日は受洗者がたくさんいらっしゃるんですが、もう既に第2礼拝で洗礼式がなされました。私にとっては、もう洗礼式が1番大きな喜びであります。昨日の夜にいただいた手紙なんですが、私今朝読んで、本当に興奮しました。中学生ですよ。お手紙を下さいました(よく勉強したのねえ)。
「私は一生懸命勉強しました。放課後、5時から9時まで塾に行って、10時まで自習室で勉強しておりました(私、まったく勉強しなかったから、もうこういう人、本当に尊敬します)。友達と遊ぶ時間がまったくありませんでした。成績はどんどん上がりました。第1志望校に合格することができました。受験が終わって、やっと友達と遊べる時間が生まれるようになってから、疑問を持ちました(皆さん、これ中学生の疑問ですけど、大人も持たなければならない疑問であります)。私は人々から『成績がいいわねえ、天才だわねえ。』とかいろいろ誉められる、また親もそれを喜んでくれますが、もし私から学力を取ったら、私はどういう存在、何が残るんだろうか。」(中学生の手紙より)
これは大人の人達にとりましては、仕事を取ったら何になるんだろうか。定年退職後、みんな悩んでおりますでしょう。私からスポーツを取ったら、私から健康を取ったら、私から若さを取ったら、私から美しさを取ったら…私はいったい、何が残るんだろうか?という。
えー、私の非常に親しい者で、高校1年生(聖学院高校の1年生の時に)、クラスで1番成績の良い"藤井君"というのがおりました。藤井君はものすごい美男子でした。もう、すごい美男子でした。成績は、クラスだけではない、学校中で1番でした。もう学校の代表はいつも彼でした。彼はある時に、自殺をしました。原因は、まったくわからない。成績が悪くて叱られて…そんなこと、全然考えなかった。私はこのお嬢さんの文章を読んで、ああ、藤井君はもしかすると「私は学力がある、人々から誉められる。だけど、学力を失ったら、この美しさを失ったら、私にこの持っている物を失ったら、私はみんなから注目されるんだろうか?いったい何の為に生きるんだろうか?」─悩んだんじゃないかなと、今思うのであります。
「私は毎週教会に行くようになりました(お友達を通して)。行くのが楽しみで仕方ありませんでした。夏休みの頃になると、十字架でのイエス様の愛の大きさがわかり、疑問に思っていたことも毎日聖書を読んで、『もし私から学力を取ったとしても、神様は私をお見捨てにはならない』とわかったので、とても嬉しかった。これはもう大発見、人生にとって一番大きな発見ですねえ。どんな私でも愛してくれる神様、そしてイエス様を信じた。"信じたい"という思いをいただいたんですけども、親が『洗礼を受けたい』と言いましたら、『もっと先の方がいい。』と許可をしてくれませんでしたから、もう本当にショックでした。でも、神様は1番良い時に1番良いことをしてくださる神様だから、信頼して祈り求めて行こうと思いました。この1年と約5ヶ月祈り続けた結果、今日洗礼を受けることができるようになりました。私の為に祈ってくれた方々と、イエス様に感謝します。」(中学生の手紙より)
この人は忍耐して祈るテストに合格したんだと思いますねえ。本当に喜びであります。
もう1人洗礼をお受けになる方の証をお読みします(必ず読み上げるわけじゃないですから、どうぞご心配なさらないようにね)。40代の男性です。
「私は妻と結婚することをきっかけに、大和カルバリーチャペル(この教会)に来るようになりました。1年以上が経ちます。いつも先生をはじめ教会の皆様に心あたたかく迎えていただき、教えに触れて、なかなか洗礼を受けずにいたのは、決心がつくのに優柔不断だったためで、恥ずかしい限りです。
神様の前で結婚の誓いを立ててから、毎日が楽しく、恵まれた毎日を送っています。それまでの生活とはずいぶん変わってしまいました。私はそれまでは、食事のときに祈りを捧げたり、親の誕生日を祝ったりすることはありませんでした。今では妻に先導されながら感謝と祈りを捧げて、食事をとり、眠り、何かの出来事のたびに神様を意識して暮らしています。1日、1日の重さを感じられるようになりました。
それまでの私というのは、自分では、ああなりたい、こうなりたい、人から賞賛されるようなことを成し遂げたい、高校の頃から芝居が好きだったので、演劇の世界で名を挙げたいという夢を持ちながらも、怠けながらその日、その日を送っていました。私は何者にも囚(とら)われない人間でありたいと、自分の立場を定めないでおくことが自由に生きることだと思い込んでいました。信仰を持つということは1つの考えに縛られることだと思ってたからです。自分の考え方、物事のとらえ方がこそが1番で、他人を自分より低くみなしていました。
ですが、同時に劣等感も持っていました。自分だけが周りから取り残されてしまう不安や、老いて死ぬ時は1人ぼっちになってしまうのではという考えにおののいて、夜も眠れなくなることが度々ありました(正常ですよね)。病気にかかったら自分で医者に行くなどして治すしかない。お金がなければ働くしかない。そうして苦労したことは、自分自身しか理解できない。ということは、私の一生は、結局私の為でしかないのか。もしそうなら自分が生きていることは何の意味があるのだろう、と悩みました。つまり私は今現在も一人ぼっちなのだ、というわけでした。それが確かめられるのが怖くて、人との交わりも浅く。風が吹いたらどこかに飛んで行ってしまうような状態でした。
こんな私でも、演劇活動を通じて、今の妻と知り合い、結婚することができました。彼女に勧められて、教会の入門講座に通い、「人が神の為に生きなくなることを『罪』という」と教わりました。神を1つの身体にたとえれば、人はそれぞれ手であり足であり、手が身体に逆らって勝手なことをし始めたら、それは良くないことだ、という考え方は、私にはひっくり返るような発想の転換で、とても新鮮でした。
私は自分ではあまり悪いことをせずに生きてきたと思っていましたが、考えてみれば、高慢で、嘘をついて逃れ事をしたり、困っている人を助けずにいたり、怠惰や快楽にふけったりしています。自分ではわかっていたことですが、自己嫌悪に陥るくらい、自分の中にすべてを納めてきました。また、そんな自分をゆるしてきました。
2000年も前にイエス・キリストが、現在生きている私達のためにも罪を被(おお)ってくださった、ということは、私のことを知ってくれて、この人生を見守ってくれているということか?そう思うと、自分の中の不安が軽くなっていくのを感じました。私は自分が罪人であると思うと同時に、なんと恵まれた生活を送っているのか、と思えるようになりました。(コリント人への手紙、聖書の言葉)「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。」という言葉が、私への戒めのように聞こえました。
いつも妻が私を愛してくれて、祈っていてくれるということはとても嬉しく幸せです。これから生まれてくる子供と一緒に、どう家庭を築くか、2人とも真剣です。経済的に決して裕福ではありませんが、毎日、糧を与えられ仕事をすることもできます。これらは皆、神様がお恵み下さったことなのでしょう。神様のご計画のうちにあることなのです。その恵みに対して、何もお返ししないのは良くないと思います。
私は神様を信じ、イエス様を救い主として信じ、従うことを決心しました。洗礼を受けることを決心します。よろしくお願いします。」(40代男性の手紙より)
まあ、40代で人生のすべてがわかっているという風には思いませんけれど、真剣に人生を生きてきた者が1つの決断をするということは、素晴らしいことだと思います。私が感動する1つは、この若い夫婦が、結婚生活の中で工夫して努力している。愛を継続させるということは、非常に難しいことであります。互いに愛し合うということは、とても難しいことであります。この人達は、毎日祈り合うということをして、麗しいと思いません?ある人は手をつないで必ず祈ると言います。夜休むときに榎本先生の『1日1章』を読む、スポルジョンの『朝ごとに』または『夕ごとに』、『荒野の泉』を用いる人もいます。「あなたは愛されるために生まれた」という歌を歌うという人もおります。
私は1日1回、「possibility thinking(ポシビリティ・シンキング)スローガン」というロバート・シューラーの新しい、これをめくっては見る習慣を持っております。なんでも自分の魂の為に、「お互いが愛し合う」という最も大切なそのことの為に努力するということは、とても重要なことであると、そう思います。
皆さん、テレビの「熟年離婚」というのをご覧になったことがあるでしょうか?(笑い)たいへんヒットしているそうですねえ。報道ステーションで、渡哲也さんが登場して、その内容を語っておられました。大相撲の朝潮龍が優勝する、あの最後でも6.9%の視聴率なのに、この「熟年離婚」というのは20%の視聴率ということであります。中年の女性が注目しているということでありますが、内容は、定年退職の日に奥さんからバッサリ、「私はあなたと離婚!」宣言して、長い間のツケがまわってきたという、ね。「蒔(ま)いたものを刈り取ることになる。」まあ、渡哲也さんも僕も照れくさくって、「ありがとう」ってなかなか言えないんですよ(「ありがとう」が言えない人はねえ、なんかこうガラスのコップにアリでも10コ入れてねえ、そして「アリガトウ、アリガトウ」ってやってもいいんだと思うんですけど)。ある人は、それにしても残酷、かわいそうという。しかし、中には冷たい女もいて、「当たり前よ、自業自得よ。」というのもおります。
まあ私はそういう話を聞いていると、「私も失格だなあ。」と思います。テレビのコマーシャルで「男の人って、ダメね。」っていうのがありますが、あれを見るたびに「…はい。」って(笑い)。私の友人は、「家には牧師はいるけれど、お父さんはいない。」ってねえ、子供から言われてショックであったというね。仕事人間は、そんなことでありましょうかね。
私はこの11月6日にイエス・キリストを信じて50年、金婚式を、ね。クリスチャンは、イエス・キリストが花婿、私達は花嫁。50年もちましたよ。50年間、1度も離婚話は出ませんでした。追い出されるとか見離されるとか、不安、恐れは1度もありませんでした。喧嘩をしたこともありません、争いをしたこともありません。どうして見捨てられなかったかと言いますと、(私が立派だからではなくて)主の愛があまりにも素晴らしかったからであります。
熟年離婚というのもありますが、成田離婚というのもありまして、結婚して飛行機で新婚旅行に行こうとして、行く前にもう離婚したというのもおります。洗礼式がピークで、信仰生活、だんだん下がって右肩下がりという。数年はもったけれど、すぐ自我まるだし、相手のことを考えない、自己中心、聖霊様を悲しませ、人も天使もつまずかせ、あきれかえさせられるような存在。「これでもキリストの花嫁か…」イエス様に、ペテロという代表者が質問しました。「イエス様、人が罪を犯したら、何回ゆるしてあげたらいいですか?」─"ホトケの顔も3度"って言いますから、7回ぐらいだったら誉められると思って、「7回ですか?」という風に申し上げると、イエス様が「7回ではない、7回の70倍。」─「70倍もゆるしなさい」ってことは、それは「無限にゆるすんですよ」ということを、イエス様が仰ってくださったわけです。
「愛はがまん、愛は忍耐、寛容。」第1コリント13章、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」これが愛の本質である。私達はそんなことできそうもありませんが、イエス様がそうしてくださるということが、感動であります。
ご存知でいらっしゃいますか?イエス・キリストは十字架にかかられて、最期の、最期の、最期の言葉、「父よ、彼らをゆるしてやってください。権威あるお父様、彼らにゆるしを与えてください。」と、人間の為に祈ってくれました。「彼らは何をやっているか、わからずにいるからです。」という、ね。あれは、もしイエス様が途中でお止めになって、「天のお父様、彼らをゆるさないでください、お願いします。彼らはもうどうしようもない罪人ですから、ゆるさないでください。」と言ったら、人類はどうなっているでしょうかねえ。キリスト教の中心は、"ゆるし"のメッセージであります。
エルビス・プレスリーの「夕べの祈り」の中に、「あなたに打ちあけた罪(神様に打ちあけた罪)と、あなたにも隠した秘密の罪とを、どうかゆるして下さい。」神様に隠したって、親に隠しても、まあ友達に隠しても、夫婦隠し合ってもバレないこともあるかもしれませんけれど、神様に隠して、どこが…もうバレバレでございましょう。
曽野綾子さんは、「この言葉の意味は、自分が気づかない時、相手を(神様を)傷つけてきた罪のことでしょう。いずれにせよ、「神様、私の告白した罪をゆるしてください。隠しちゃった罪も、どうぞゆるして下さい。」という(この辺から重要でありますから、よく聞いてください。テレビを観ておられる人達も)。
キリスト教の結婚観の中に、「エペソ人への手紙」の5章に、こういうお言葉がありますねえ。「夫たる者よ、自分の体のように、妻を愛しなさい。」というね(結婚式で読まれるところですねえ。エペソ書の5章でありますが)、そして「妻たる者よ、夫に従いなさい。敬いなさい。」というね。その最期のところ、読んでみますよ。5章の31節。
「『それゆえに、人は父(と)母(と)を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。』この奥義(ミステリー)は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。」(新約聖書・エペソ人への手紙5章31節〜33節・口語訳)
恵泉女学院の大学に、大塚という教授がおられました。(私は時々ここでご披露しますが)お年を召されたので名誉教授になっていらっしゃいますが、その方の『老いについて』という文章の中に、ジョン・バニエが紹介されております(これはカトリック教会の方で、私の尊敬する主の器であります)。大塚教授はこう言いました。「『ほんとうの人間とは、このような人』と思えます。ほんとうの人間とは、自分を空しくして、他人を愛する人であります。自己中心性とは無縁の人です。ほんとうの文化人であり、第1級の国際人で、ノーベル賞に値する平和主義者です。」
で、この人がね、こう言うんですよ、ジョン・バニエがね、「2人の人間の心が深く交わるということの素晴らしい神秘を1度も経験しないまま、人生を過ごしてしまう人がおられる。それらの方々の人間関係は、片方が片方をうちのめす(支配してしまう)か、あるいは無視するかというレベルの関係である。」ということを述べております。ポール・トゥルニエもヘンリー・ナウエンも、心の奥底で人間が交わりを持つことの必要を説いてまいりました。現代における人間回復は、そこにあると思います(もう少し聞いてください)。
「それゆえに、人間は父と母とを離れて、ふたりの者が一体となるべきである。」という意味は、まず第1に、(結婚式で言われるように)これは心と体が1つになる(一体になる)という結婚生活(夫婦生活)をまず第1に表します。
第2は、もっと深い。なぜ?奥義と書かれているから。結婚生活が素晴らしくても、途中で愛する者が死ぬことがありますが、じゃあその"一体となる"という交わりは、切れちまうか─ジョン・バニエは、独身でしょう、彼は。カトリックの人でいらっしゃいますでしょう。神父様達はそうでしょう、経験したことがない世界でしょう。けれど、「2つの人格が深いところで交わる」という、この神秘を1度も経験しないで、夫婦の間がどんなに交わりが深いように見えても、現実、深い交わりをすることのないまま過ごしちゃった人、途中で死んじゃった、亡くなっちゃったらもうおしまいかというと、人間の存在は永遠でありますから、肉体がこの地上から離れたと致しましても、永遠に交わることができる。
じゃあ、若い子供達はこの深い奥義や神秘を体験することができないのか?また、結婚なさらなかった、独身主義で過ごしなさった人達は、この深い世界がわからないまま過ごしてしまう─そんなことはない。人と人との交わり、親子の関係、兄弟の関係、お友達との関係、人格と人格との交わり、その深いところにおける交わりがまことに神秘であって、その経験というものを損なうような人生を過ごしてはいけない。
どうしたら神様との交わり、人との交わりをすることができるか。親子との交わりを継続、夫婦との交わりを継続することができるか。そこには、100%、100%"ゆるしの世界"があり、100%、100%"相手を受け入れる"ということがあって、弱さや欠けを補って余りあるキリストの愛がある時に、その深い神秘の世界、人間しか味わうことのできない世界を体験することができるであろう。
「ローマ人への手紙」の8章の中で「勝ち得て余りあり」ということでありますが、その38節にこう書かれています。
「わたし(偉大なパウロ)は確信する。死も生も、天使も支配者も(死んだとしても)、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(新約聖書・ローマ人への手紙8章38節〜39節・口語訳)
リビング・バイブルでは、「地獄の全勢力を結集しても、神様の愛から遠ざけることはできません。」という。
今日私達はこの教会に、たくさんの方が鎌倉からお見えになっておられて、礼拝に来てくださったのであります。1年前(12月7日)に松井薫さんという、若くて美しい女性が天に召されていきました。カトリックの方ですから、我々は"召天(しょうてん:天に召される)"と言いますが、カトリックの方は"帰天(きてん:天に帰る)"と言います(いずれにせよ、素晴らしい言葉であります)。お母様がお手紙をくれました。小・中・高と成績抜群、トップで卒業された。お友達も手紙を下さいました。ほんとうに優等生でした。大学に行って、そして結婚されました。ご主人(お医者様でいらっしゃいますが)、3人のお子さんが残されました。お友達も、この1年間はどんなにおつらいことであったであろうかと思います。
「昨年の12月の7日にみんなに親しまれながら、帰天(召天)致しました。常に心のやさしい、気配りのきく、みなに慕われた存在でありました。人の悪口は一切なく、心豊かでした。(こういう方が天に召されていきました。残念でたまらないと思いますが、お母様)私はそれから数日後、車の中で不思議な想いを致しました。突然、まばゆい程の美しい光が、強く車中いっぱいにさし込み、びっくり呆然としました。きっと亡き娘からの『ママ、ここよ』とのメッセージとありがたく、そのやさしさに感泣しております。」
3つのことを申し上げます。
1つは、松井薫さんという、若くして亡くなられたこのお方、イエス様に愛されて、天に召されていきました。このお方は、「薬のいらない、手術のいらない、痛みのない天国で、安らかである、平安である」ということをどうぞ知っていただきたい、理解していただきたいということが、第1であります。「死の壁を超えるもの」は、ここにあります。クリスマスのメッセージであります。
2番目。誰でも天国に行けるのではありません。どうぞ、主イエス・キリストを罪からの救い主として、人生の主として心の中心にお迎えし、できる限り早く洗礼をお受けになって、やがて私達の天国において、この愛する者とお会いすることのできる準備をして欲しい。
第3番目。本日のメッセージにありましたように、天と地とに離れたと致しましても、交わりの神秘を体験なさってください。交わりの神秘、神秘主義というのは、非常に危険な姿勢でありますから、バイブル(聖書)を通して、バランスの取れた神秘の交わりの世界、神との交わり、人との交わりを是非なさって欲しいと、そう願ってやみません。
お話をお終いにしたい。私、2人孫がいまして、今日は下の方の孫を、さきほど私が抱っこしたばかりでございます。楽しい時でありますが、先週は愛知県の瀬戸から、長男の方の娘(初孫の方)が見えました。しばらく過ごして、新幹線で帰ります。忙しいので、長津田まで送りました。長津田でお別れする時に、ちょっと抱っこして、お祈りして、そして父親に渡そうとしましたら、心愛(ここあ)ちゃんが、「グランパから離れたくない!」と言って、ぎゃあぎゃあ、オーオー、泣いたのでございますよ!(笑い)1歳2ヶ月で、もう牧会的な配慮をしているかと思うと…(笑い)今も泣いているかっていうと、そうではありません、ケロッとしていると思いますよ、ねえ。
私達は日曜日、神様を礼拝して交わって、そして「バイバイ」ですか?寂しい話でありますねえ。私達は、いつも主との不思議な神秘の交わりを継続するのであります。互いに愛し合う、神様をまず愛し合う、神様を心から愛するということ。自分を愛するということ。自分を愛するように隣人を愛すること。互いに愛し合いなさい。イエス様に顔を向けたら、それができますよ。これが、私があなたがたに残していく戒めです。心をつくして、精神を(思いを)つくし、すべてをつくして心から神を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、この地上にイエス様が来てくださった目的を「互いに愛し合う、生きる為である」というこの世界を知って、歩んでいきたいと思います。イエス様を信じ、心から愛する者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。
お祈りを致します。恵み深い天のお父様、主の麗しい御名を崇めます。あなたが近づいてくださったから、私達はイエス様を信じるようになりました。イエス様を信じることを通して、私達は永遠の交わり(この地上では、ほんとうにこの不思議な交わりを経験しないまま過ごしてしまうことがたくさんあります)、イエス様の愛を知るために100%、7度を70倍、無限大に人をゆるす、愛す、受けいれるということ無しに、この交わりの神秘を体験することはできないでありましょう。
どうぞ神様、イエス様のみこころを心として人生を過ごせるように、助け導いて下さい。深い世界を理解できるように、聖霊様、私達に油注いでください。主イエス様のお名前によってお祈りを捧げます。アーメン。
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