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2005年 12月11日 主日礼拝メッセージ
「復讐の壁を超えるもの」 大川従道師 
 「六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。御使がマリヤのところにきて言った、『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます』。この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。すると御使が言った、『恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう』。そこでマリヤは御使に言った、『どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに』。御使が答えて言った、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。神には、なんでもできないことはありません』。そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。そして御使は彼女から離れて行った。」(新約聖書・ルカによる福音書1章26節〜38節・口語訳)

特別賛美:サインダンス「Oh Holy Night」

 まあ、なんと素晴らしいんでしょうね。天使が舞い降りてきたような、素敵な賛美でありました。2節は、言葉がわからなかったと思いますが、ハワイの言葉ですね(多分、本郷先生ご夫妻が賛美されておったんだと思います)。もう1度感謝しましょう、Thank you!
 クリスマスの雰囲気が与えられて、本当に感謝であります。今日、私が長い間お祈りしておった人がお見えになっており、たいへん嬉しく思います。クリスマスのシーズンは、誘い合わせて、クリスマス、イースター、そしてまた初詣、必ず教会で礼拝を守るという習慣は素晴らしいことだと思います。心からご歓迎申しあげます。少し大きな声で朝のご挨拶をしましょう。皆様、おはようございます。

 新聞の投書欄。広島の53歳のご婦人でありますけれど、我が家の外で、大きな声で騒いでる人がおりました。「もう、本当に困っちゃうんだから。そんなにだだをこねているんなら、もう置いてっちゃうから!」とそう叫ばれたので、心配で窓を開けて外を見たら、犬と飼い主の会話であったという、ね(笑い)。犬を好きな人は子供のように愛するでしょう?「言うこときかないと、置いてっちゃうわよ!」ていうようなことでありますが、ドッグ・マザーがキレた、ということですね。まあ、私だったらね、「言うこときかないと、ホットドッグにしちゃうぞ!」というような(笑い)。

 テレビの朝の番組で「はなまるマーケット」というのがあるようでありますけど、その導入にあいさつが入っておりまして、「入っているつもりでいたのに、入っていると思って入っていないものは何ですか?」というと、女優の水野さんというんですかね、あの方が「私のところにお歳暮が、ずいぶん上等な様相で入ってきたので、中身はすごいものが入っていると思っていたのに、中は空っぽだった」というね。
 岡さんという女性がですね、「私はね、トイレに人が入っていると思った。トイレにこう半分くらい赤い印がついているから、使用中だと思ったけど、我慢していたのに入っていなかった…」という、何かこう落ちた、というんでしょうね。

 私は若い時に、埼玉県のある教会の特別集会で(かなり大がかりな集会で)、講演を終えましてから、役員さんが別室に案内してくださって、お茶をいれて下さり、羊羹(ようかん)を出して下さり、そしてまあ、このなんて言いましょうか、厳かにですね、紫のふくさに包んだ(中は謝礼なんですけども)、このひげの生えたような、立派な"謝礼"と書いたものを、私にこう渡してくださいました。貧しい時代でしたから、もうすぐにでも開けたかったんですけれども、電車でずっと我慢して、家に帰ってきて開けてみたら、中に何も入っておりませんでした(笑い)。シャレにもならないというところでしたけれど(もう時効ですから言うんですよね)…期待が裏切られた、というね。

 聖書を開いて期待が裏切られた人は1人もおりません。中身は恵みで溢れています。聖書に挑戦しましょう。ルカ福音書の第1章の26節からお読み致します。これがクリスマスの(アドヴェントの)世界中で読まれている箇所ですよ。ルカ第1章26節。

 「六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。御使がマリヤのところにきて言った、『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます』。この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。すると御使が言った、『恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう』。そこでマリヤは御使に言った、『どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに(結婚していませんよ)』。御使が答えて言った、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。神には、なんでもできないことはありません』。そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。そして御使は彼女から離れて行った。」(新約聖書・ルカによる福音書1章26節〜38節・口語訳)

 アーメン。今からちょうど25年前の12月8日、ジョン・レノンが自宅前で射殺されました(第2礼拝の時は間違ってノレンと言って、"のれん分け"みたいなことを言っちゃいましたけど)。ビートルズファンにとっては、忘れられない日であります。40歳で熱狂的なファンに殺されたわけであります。もう25年経ちますね。ビートルズファンを大きく2つに分けると、ポール・マッカートニーの派と言いましょうかね、ジョン・レノンの、そういうグループに分けられるという風に言いますが、ポールが、聖書の38節のこの言葉(『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。』"Let it be to me , as the word of you.")から「Let it be」という詞を作って、これが世界中に広げられたわけであります。読んでみます。

私が苦しみに出会う時/母マリヤが現れて/知恵に満ちた言葉をかけてくれる/"Let It Be"(みこころのままに)
暗闇の中に包まれてしまう時/彼女は私の前に立ち/知恵に満ちた言葉をかけてくれる/"Let It Be"(みこころのままに)
すべてはみこころのままに/知恵ある言葉をつぶやいてごらん/"Let It Be"(みこころのままに)
(「Let It Be」オリジナル詞:ポール・マッカートニー)

 互いに(ポールもジョンも)個性が強くて、喧嘩したわけですねえ。確執が深くなって、とうとうビートルズが分裂する、というその直前に、ポールがこれを作って、「もしできたら、もう一度やり直せないかなあ」という気持ち。しかしまた反対に、「これが運命であるならば、もうしょうがない。」"Let It Be"(御旨〔みむね〕のままになるように)、ということを考えて作られた─という風に言われるわけであります。
 "マリヤ"という名前が出てまいりますが、これはもちろん、ポール・マッカートニーのお母さんが熱心なイギリス国教会の信徒でありましたから、その影響を受けていて、聖母マリヤのことでありましょう。それと同時に、ポールのお母さんの名前も同じであったというようなことがそういう中に含まれているのかなあと、そういう風に思います。

 ルカの1章38節を今、ご一緒にお読みしました。、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように(Let it be to me , as the word of you.)』。英語の訳も同じように、神様の言葉が私に成りますようにという言葉─クリスマスには耳を傾け、聴くべき言葉であろうと思います。
 マリアは当時何歳であったか。学者に言わせると、14歳ぐらいという。中高生が今日たくさん見えていらっしゃいますが、14歳の女の子(まあ14歳でなくても10代であるということだけは確かなことであろうと思いますが)、重大発表を聞いたわけですよねえ。まさか結婚していないのに、赤ちゃんがお腹の中にできるという、そういうお話("受胎告知〔じゅたいこくち〕"と言いますが)、まあ私のシャレでありますが、"受胎酷知"というのは、この厳しいですね、残酷の"酷"を書いてですね、ちょうどお医者様が「あなたはガンですよ、ガンの末期ですよ。もう余命はいくばくもありません。」なんていうのは、告知する方もつらいと思いますが、受ける患者さんも家族も、それはもう本当に厳しい内容であろうかと思いますが、マリアにとりましても、これは非常に重すぎる受胎告知でありました。しかしながら結論としては、「主のみこころでありますならば、受けとめます、お従いします。」という内容。
 尊敬する小島伊助先生は、マリアは処女であるから聖いのではない。姿が美しく、若く…そういうことで聖いということでは、もちろんない。「主の御旨であるならばお従いします。」という信仰の従順性が、選びの理由であったであろう。私は主のはしためであります、というね。ハンドメイドというね。「私は主の奴婢(ぬひ)です。」という風にも訳せます。奴隷女です、というね。
 生殺与奪(せいさつよだつ)の権と言いましょうかね(あまり使いませんけど)、生きることも殺されることも与えられることも奪われることも、その権利を私はあなたにおゆだねしております─結婚前の女性がお腹が大きくなるということは、石打ちの刑(石で殺されるということ)の時代でありましたが、汚名を着せられようと、石を投げつけられようと、ヨセフに捨てられようと、いっさいを捧げて、「私は主の奴隷女です、主の僕(しもべ)です、はしためです。」という、そういう言葉であります。

 愛する兄弟姉妹、私たちの人生にはどうしていいか分からないような出来事が起こることがあります。若い人でありますならば、結婚をすべきであるのかすべきでないのか、相手を決定するような時に、本当にこの人で良いのであろうか、という。仕事を継続するか、それとも辞めるべきであるか。子供の将来に口を挟むべきであろうか。「お母さんはね、絶対反対だからね!」と言っていいのか。「お父さんはな、絶対許さんよ!」と言うべきであるのか、言ってよいのか─人生の大切な節目節目に、自らの実存をかけて祈りをするということでありましょう。
 「ひざまずいて、いろいろと意見を述べてまいりましたが、もともとイサクを捧げてまいりました。私自身の生殺与奪の権も、うちの娘の、うちの息子の、私の生涯の生殺与奪の権は、あなたの御手の中にあります。元より、あなたの御手にお捧げしてまいりました。」牧師である私も今日まで、こういう経験をたびたびして、主から取り扱いをいただいてまいりました。

 信仰の父アブラハムがイサクという、かけがえのない、年を取ってから与えられた1人息子を「モリヤの山で捧げなさい」と言われました時に、従順いたしましたが、それはつらいつらいつらい、考えも知れない「神様、お間違いではないですか?」と楯突(たてつ)きたくなるようなことですが、創世記の22章では、「イサクを捧げる」と言った時に天から声が聞こえて、「アブラハム、アブラハム。うん、わかった。もうやらなくてよろしい。」その時の言葉は、「あなたのひとりごさえも惜しまないで捧げようとした」という。そのひとりごというのは、原文のヘブル語では、"魂(たましい)"と訳せる言葉だと言われます。すなわち、アブラハムは「イサクは、親子の関係とはいえ、この人(子供が)殺されることは、私にとっては、痛くもかゆくもない。人格は別である。私が何も刃(やいば)を向けるわけではない!」というわけにはいかないでしょう。「"子供を捧げる"ということは、"私の魂をゆだねる、捧げる"ということと同じことでしょう。」と言って、彼は備えられて、取り扱われて、留められた後に、神様が「主、山に備えたもう。エホバ・エレ、アドナイ・エレ、ヤーウェ・イルエ。」と言って、あの歴史的な出来事がなされた─という風に私達は理解しているわけであります。

 ルカ福音書が言いたいこと─ルカだけではなくて、福音書の記者が言いたいこと─は、まさにそういうことでしょう。ルカ福音書の第5章では、「お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」バカバカしいような出来事であります。「人がなんと言うか分かりませんが、あなたのお言葉ですから、わたしは網を下ろします」という。
 イエス様御自身もルカ福音書の第22章、ゲッセマネの園で、ひざまずいて、手を合わせてお祈りしている時に、「お父様、あなたにできないことは何もございません。私は嫌ですよ。裸にさせられて、ムチ打たれて、十字架につけられて殺されるなんて、嫌です。苦い杯なんか、飲みたくありません。私の気持ちは、そんなんじゃありません。」しかしその後に、「しかし、あなたのみこころでしたら、、この身になりますように。お受け申しあげます。」という。
 愛する兄弟姉妹。主のみこころにいつも従順したい、そう願う者は、大きい声でアーメンと言いましょう。アーメン。これがクリスチャンの生き方であります。

 第2番目のメッセージは、26節に、6ヶ月目に御使いガブリエルが、神から遣わされたナザレというガリラヤの町の一処女の家に来たと言いますが、このナザレということに対して言及したいと思います(私は説教を始めて42年経ちますが、初めてこの世界が開かれて、今日はもう本当に幸せな、「御言葉が開かれるということは、こんなに有難いことか!」と思ってメッセージをお取り次ぎ申し上げるのであります)。

 イエス様がお生まれになった時代は、ローマ帝国に対する反乱軍がイスラエルの中のあちらこちらに起こりました。大きく揺れた時代であります。独立を目指して武装蜂起(ぶそうほうき)と言いましょうかね(蜂起っていう漢字、面白いですねえ。"蜂〔はち〕"を使うんですよねえ)。蜂の巣をつついたこと、ありますか?ねえ。彼らが怒ると、もう1匹残らず出てきてですね、目標をめがけて追いかけていく、というね。武装蜂起というのは、そういうことでありましょうね。当時、イスラエルの民が反発をいたしますと、ローマ軍は世界最大の帝国軍隊を持っていますから、武力で鎮圧して、陰惨なこの記憶を持つ、そういう村が、このナザレという村でありました。

 記憶に新しいところは、数年前に中国の天安門事件というのがありましたねえ。若者たちが立ち上がって、政府に楯突いたんですね。私も1960年代に安保問題でデモをかけた男の1人でありますけど、「政府、間違っているだろう!」というようなことで、騒いだこの若者達を、中国の政府は軍隊を出して、(自分の子供達ですよ)自分の若者達を戦車で轢き殺したというんでありますから、これはもう大変なことでありますよねえ。ベトナムにおいてもそういうことがありましたですねえ。またフランスにおいては、最近はまあ、いくら外国から来た人々であったと致しましても、市民権を持っている人達がたくさんいるにもかかわらず、ご存知のように、もう大変な弾圧と言いましょうか、騒動が起こったわけですが、武力によって鎮圧されたわけであります。

 当時、ナザレのこの地域では、2つの大きな事件がありました。1つは、"ガビニウスの大虐殺"という(BC57年ぐらいでありますけれども)、イスラエルの民、特にナザレの地域のガリラヤの周辺の人達が、もうどうしても立ち上がらなければ、こんな重税を負わされて生きていくことはできない、ということで立ち上がったわけでありますが、このガビニウスというシリヤの総督が、反抗するナザレ人、ガリラヤの人々を弾圧致しまして、なんと皆さん、1万人ぐらいを殺したという、大虐殺ということですね。当時のこの地域の人口は、15万人。15万人の人口の中に1万人、15万人の中の1万人が殺されたというんですから、もうこれは歴史に残るというか、記憶の中に留められる内容であります。

 もう少し新しいのは、"セフォリスの破壊"というんですが。これはBC4年、ヘロデの死を契機にして、人々が立ち上がってですね、「もうローマ政府に対して反抗しよう!」というような出来事が起こって、大騒ぎだったわけであります。捕まっちゃいまして、2000人の人達が十字架刑というね。26聖人の姿を、私達はまあ色々映像で観ますよね(26人が十字架にかけられて、長崎で殺されるわけでありますが)。"2000人の人達"っていうとですね、何百メートルの距離。人々が磔(はりつけ)にされて、そして槍(やり)で殺される。血だらけになって、ムチ打たれて、そして人々はぎゃあぎゃあ騒ぎながらローマ兵を呪い、家族の者達もそれを囲みながらですねえ、「お父さーん!」って叫んでみたりですねえ、「おじいちゃーん!」と叫んでみたりですねえ、大騒ぎをしたりして、この村全体、この町全体が、2000人の人達が十字架刑にかかったというんですよ。
 その後ローマは何をしたかっていうと(やりかねないんでありますけれど)、この村を、この町を、火をつけて焼いてしまった。「こんな町、焼いちまえ!」ということでありまして、彼らは生活圏が奪われる、というようなことであったと思います。町の人々は、見ちまった。家族や親戚や友人はさらしもので、槍で殺され、苦しみ、呪いの叫びがあって、そしてさらしものにされていると、やがて鳥がやってきて、その人間の体(肉)を食う、つつくというような現象─この呪われた町からマリアが選び出されたという、このシチュエーションであります。

 当然、マリアも、人々から、家族から、周りから、ローマに対する憎しみが燃えている、という環境の中で育てられて、この受胎告知を受けた、と言ってよろしゅうございましょう。
 イエス・キリスト様ご自身は、お父さんのヨセフが大工でありましたから、焼き払われたこの町の再建の為に、「イエスよ、手伝いなさい。」と言って、隣の町(同じ地域、同じ部落でありますが)、もう生活ができない状況の中で木を切って来て、そしてハンマーを持って釘を持って鋸(のこぎり)を持って、その町を再建する為に用いられたでありましょう。2000人も十字架で殺された町でありますから、残酷な残忍な、憎しみに満ち溢れた復讐心が心に溢れている状況の中で、イエス様もお仕事をなさったであろうと想像することができます。

 使徒パウロが、「ガラテヤ人の手紙」の4章の4節で、イエス様がお生まれなさったクリスマスは、「時満ちるに及んで」と表現されました。タイミングが良い、という。学者達が"時が満ちる"ということで、第1番目に言語が、(ローマが物凄い勢いで支配しておりましたから)、その地域というのはコイネー・グリークという、非常に平民でもわかるギリシャ語で統一されておりました。
 中国の文化革命の後に中国の言語が300もありましたのに、毛沢東が北京語に統一したおかげで、福音宣教というものが広げられた。ローマが言語を1つにした、そのことのために福音宣教は広がった。

 2つめ、シナゴーグという礼拝堂。ユダヤ人は、10人集まると礼拝堂を建てたという。それがあっちこっちあっちこっち、あっちこっちあっちこっち、いっぱい出来た。すなわち、安息日には"歩いてはいけない距離"があります。それ以上行ってはいけないから、そこに教会を作らなければいけない。物凄くたくさん教会ができましたが、その教会が伝道に使われた。 
 3つめ、「すべての道はローマに通じる。」というほど、軍事道路がお見事に作られたわけでありますが、それを用いて、この軍事的な政治的な仕事をしたわけですが、パウロ先生が短期間にA点からB点に行けたのは、その道路がきちんとしていたから。
 それから「ローマの平和」と言われますけど、ローマの軍隊が強かったから、少なくとも時代的には「治安が良かった」いうことが、みんなプラスの面だけを私は何度もこの礼拝で語ったことがありますが、今日のメッセージは、「時が満ちるに及んで」ということは、もう1つ、すなわちイエス様がお生れなさるという時に(タイミングが良かったんでありますが)、そのタイミングの1つの中には、この驚くべきマイナスのタイミングがありましたよ、と。このマイナスが、どうプラスに変えられたか。

 今ルカ1章でありますが、4章までとんでくださいますか?ルカの第4章の16節からお読みします。イエス様が洗礼をお受けになられて、40日の荒野におけるところの試練に遭われて、伝道を、公生涯(こうしょうがい)を始められたその箇所。4章の16節。それからお育ちになったナザレ(ほーらね、育てられたんですよ、ナザレで)。ローマに対する激しい復讐心が充満している中で、イエス様が育てられた。安息日にいつものように会堂に入り、聖書を朗読しようとして立たれた。すると預言者イザヤの書が手渡されたので(これが不思議ですよ)、旧約聖書はもう39(巻)もあるのにもかかわらず、イザヤ書が手渡された。その書を開いて、こう書いてあるところを出された(61章なんですけど)。18節。

 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである("わたし"っていうのは、イエス様の預言なんですよ、ね。キリストが生まれる700年も前に旧約聖書で預言されておったことを、イエス様はご自分のことだと、そう表現されたね)。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ(与え)、主のめぐみの年(これがジュビリーですよ、ヨベルの年ですよ)を告げ知らせるのである。イエスは聖書を巻いて(羊皮紙だからね、この巻物を巻いて)係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、『この聖句はあなたがたが耳にしたこの日に成就した』と説きはじめられた。すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、『この人はヨセフの子ではないか』。」(新約聖書・ルカによる福音書4章18節〜22節・口語訳)

というメッセージであります。
 ナザレの村における、復讐心が満ちあふれる、充満している、絶対に許せない。折があれば仇討ちをしたいと思っている、その中に若いイエス様がお立ちになられて、神々しいほど輝いておられるイエス・キリスト様がお語りになられた。なんとイザヤ章の61章。「あれ、凄いところを読まれたけれども、読むべきところを読んでいない。」というね。さっきはカッコを閉じる、なんてこう申しあげましたけれども、20節に、会堂にいるみなの者の目がイエスに注がれた。目が点になっちまった。岩波の翻訳によると、「彼に釘付けにされた」というね。「釘付けにされた」って、「いやあ、呆れてビックリした。あり得ないことをやった。」このあり得ないことをやった、というのを今勉強しましょう。イザヤ書の61章であります(またここへ戻りますよ)。「イザヤ書」、旧約聖書の1033ページ(聖書をお持ちの方は、もう頑張って開きましょう)。よろしいですか?1033ページ、上の段。61章。

 「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで(ね、これがメシアという意味ですよ、油を注いでキリストという意味です)、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年(これはさっきカッコ閉じるって言いましたでしょう?ここでストップしちゃった)とわれわれの神の報復の日とを告げさせ…(以下略)」(旧約聖書・イザヤ書61章1節〜2節・口語訳)

…云々(うんぬん)、と読むべきところであったにもかかわらず、イエス様は意図的に1行目の「主の恵みの年」でストップした。その意味において、新約聖書で永遠にこの御言葉が封印されてしまって、聖書を巻いて、係りの者に手渡した。最も肝心な復讐預言、報復預言、我々の神の報復の日を告げ知らせると言いますと、絶対に読まなければならない箇所、落とすなんてことは間違っても考えられない箇所。ここまで読めば、人々は大きな声で、アーメンと唱和し、ローマ帝国に対する恨みつらみ、侮辱と呪いとを口々に言いやって、「いつか必ず俺達はやるぞ!この悲しみやこの苦しみ、武装蜂起への呼びかけをして、叫び込んで、待ち構えていた。よくぞイザヤ書61章を開いて下さった!」ところが、イエス様は途中でストップして、巻物を巻いて係りに戻してしまった。人々の目は、点になっちまう。彼に釘付けになった。民族こぞって機会を伺ってきました。
 この"報復の蜂起"というものを完全に捨てなければ解決しないことを、イエス様が宣言されたわけであります。報復を、復讐を求めないことが神の意志であるということ。人々はそれを聞いて、会堂内は騒然としたでしょう。(蜂の話をしましたけど)蜂の巣をつついたように大騒ぎ。「なぜこの若いラビは読まなかったのか。何を考えているのか、何を言いたいのか。」さあ、ルカの4章、このイザヤ書を読んだんですよ、ルカの4章、先ほどの箇所に行ってみましょうね。20節ですよ。

  「イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、『この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した』(これも本当は重要な箇所ですが)と説きはじめられた。すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、『この人はヨセフの子ではないか』。」(新約聖書・ルカによる福音書4章20節〜22節・口語訳)

 私は聖書を読んで40数年間、「イエス様、最初のメッセージ、みんな誉められて、『まあ、素晴らしいことだ』と感嘆されて、ヨセフの子供であるにもかかわらず、こんなメッセージを語られるとは、すごいすごいすごい。」という風に考えてまいりましたが、どうもそうではないかもしれない、という。「イエスを誉め」というその言葉を、ヨアキム・エレミヤスという人が、1958年、今申し上げたように、イザヤ書の61章を途中でストップする人々の復讐預言というものをストップさせて、誉めてくれるはずがありましょうか。「『これを反対したイエスに反対した。』と訳すべきである」という大学者であります。
 ケネス・E・ベイリーという人が1980年、同じように「私もその説を取りたい。そうでなければ、辻褄(つじつま)が合わないだろう。"恵みの言葉"というのは、このテキストを"恵みの言葉"というわけですから、"感嘆した"というのは肯定的ですから、新改訳が訳しておりますように、「驚いた。」この箇所を長い間読まれてきたが、このように読んだ人は今まで1人もいない。「この人はヨセフの子供ではないか。」というのは、「こいつはヨセフの子供だろう、せがれだろう!?こいつは何を考えてナザレで育てられたのか!俺達のナザレの村というのは、2000人の者達が十字架につけて殺された。この町は焼き討ちされたではないか。親父さんと一緒に、この町の再建のために一生懸命、釘を持って、ハンマーを持って、ノコギリを持って、家を建てた。その時に、俺達はこの子供を洗脳するかのように繰り返し繰り返し、『ローマ憎し、ローマに勝たなければならない、立ち上がるべきである、抑えつけられてはいけないんだ!』という風に教えてきた、育てられたナザレにおいて、何故(なにゆえ)イエス・キリストは途中で止めたのか。」

 大虐殺の大事件は、BC57年ぐらいでありますから、そのことが頭になくても、このBC4年の出来事がわからない、というようなことは考えられない。人々は民族の誇りが続けられた瞬間でありました。「我々の涙を知っているはずであろう、我々の苦しみを共有して育ったはずであるお前は(こいつは)民族の裏切り者である。何をトンチンカンなことを言っているんだ、この若者!こんな奴は村から追放だ、崖から突き落とせ!」と書いてあるでしょう。4章の23節以下はですね、イエス様が特別なことを仰ったから、28節に「会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ちた。」ということは、そういうことなんですが、それだけでイエス・キリストを亡き者にしようとしたはずはない。29節、「立ち上がってイエスを町の外に追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした」けれど、イエス様は上手にそこを逃れた、ということが書かれているわけであります。

 後日、イエス様が山上の説教をこの近くでなさった時に、イエス様はマタイ第5章で「人々は『敵を憎め、隣人は仲良く愛するんですよ。隣は一緒に生きるんだから。"隣人を愛し、敵を憎め"』と長い間言われてきたけれど、私はそうは言わない。『敵を愛し、迫害する者のために祈れ。』」というのはね、こういうバックグラウンドがある中で、イエス・キリスト様が語られたんだ、という。「ローマへの報復を放棄されるならば、本当の自由と解放は今実現する。それが本当のヨベルの年である。」キリストにあって本当の"ヨベルの年(主の恵みの年)"と預言されてきたことが成就するということは、そういうことである。
 
 聖書解釈ということは、イエス様が解釈されたら、それが最も正しい聖書の釈義でございますから、世界は、このメッセージをクリスマスのメッセージとして聴くべきであろうと思います。本気で主の言葉を聴き、従順しなければ、キリストの存在を無視し、キリストを崖から突き落とそうとするのでありますならば、世界はこれから何百年経っても変わらないでしょう。

 クリスチャン・ライフはねえ、クリスチャンでないわけではない、洗礼を受けていないわけではない、日曜日に礼拝に通っていないわけではない、聖書もある程度読んでいないわけではないけど、この世界によって取り扱われて聖められて、神様の前に砕かれる経験無しには、この恵みの年というものは、その人のものにならないでありましょう。
 "主のめぐみの年"と書いてありますが、「マリヤよ、恵まれた女よ、おめでとう。」というのは、「恵まれた」と"恵み"が出てまいります。天使が「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。」と1章の30節にありましたが、クリスマスとは"恵みとの出会い"であります。

 神様が下さる"恵みとの出会い"を現代的に優しく表現しますなら、第1番目、私達は救われるということであります。
 アメイジング・グレイス、驚くべき神様の恵みですよ。私達が良いことを積み上げて救われるのではなくて、イエス様が全部を引き受けて下さった。罪深い、本当に愚かな、神様を崖から突き落とすまでしませんでも、ないがしろにする、神を第1にしないような者の罪を覆って下さって、私達の救いを成就してくださった。

 2番目、聖霊なる神様の恵みです。
 ホーリー・スピリットですから、聖いんですね。内側を聖めてくださる。「私はこう思いますけど、苦い杯(さかずき)飲みたくありませんけど」─聖霊の火を通過していない人は、わがままクリスチャン、肉のクリスチャン、主のみこころをわきまえないクリスチャン。年数なんか関係ないんですよ。「私の生殺与奪の権をあなたにおゆだねします。私の人生は、あなたのところからきました。」
 今日シャレでですね、メイド・オブ・ロード(私は主のはしためです)、というね。メイドはメイドでもね、ハンドメイドというね。ハンドメイド・オブ・ロードで"主のはしため"というのは、英語の聖書にそう書いてある。(同じスペルではないんですけど)ハンドメイドというのは"手製"ということでしょう?「神様が私の人生をお作りくださったんだ、私の1から10まであなたの御手の中にあります。私は確かにあなたから自由意志をいただいておりますが、私はその意思さえもあなたにおゆだねして人生を過ごしております。主のはしためです。この身にあなたの御言葉が成就しますように。」

 第3番目、いやしの恵みであります。
 関根辰雄先生が脳をやられて、お倒れになって、意識がおかしくなって、不明になられて、しゃべることもできない最悪の状況でありましたが、2日前にお訪ねしてまいりました(今市市でありますが)、もう本当に奇跡ですねえ。すっかりお元気になられて、先週から説教しておられる、というね。今日は他にもいやしがあったということでありますね。神様の御名を崇めます。恵みです。

 第4番目、現実の祝福の恵みです。
 昨日転入会なさった兄弟が、手紙をくださいました。世界中を回って飛び回っている、40代の働き盛り。
 「大川先生の火の出るようなメッセージに、いつも励まされています。今仕事が大変忙しく、祈祷会に参加できませんが、インターネットでダウンロードして、通勤時に聴いています。仕事が忙しくなると、体とともに心も弱くなるものですが、祈祷会のメッセージを聴くと、心の奥底から強められます。私にとって、1週間の生活を守る糧です。聖書なんか読めなかったけど、今年は読み通せそうです。今までできなかったことができてうれしく思います。本当に感謝です。」

 タナボタ式ではないんですよ。子供の時から、日曜学校の時から何年も教会に通っていれば、いつも新鮮な恵みを与えられる、そんなことがあるはずはありません。努力して工夫して、ある人は、この聖書の分厚いのを電車で読むためにですね、こうちぎってというか分冊にしてですね(それはもちろん、あんまりいいかどうかわかりませんけれども)、まあこんな分厚いものを満員電車で読んでいたらいけないので、こう、マタイはマタイ、ルカはルカで、こうして、それを満員電車で読んで養われています。
 ある人は奥さんから聖書を朗読していただいて、それを満員電車の中で聴いている、というね。「読むかわりに聴くんですよー」ってね。これは子供達がお父さんのために、「お父さん、今日の箇所はここですよ。」なんて、娘さんの声だったら、もうね(奥さんの声でもそうあるべきだと思いますけれど)。孫の声だったら、もう何時間でも聴いているでしょうね。息子さんでも出来ると思いますね。「さあ、お父さん、聖書の箇所です。これを読んだら力になりますよ。」という励ましですよね。

 第5番目、死ぬことを恐れないで天国を先取りして、喜んで人生を過ごすことができる。
 愛する兄弟姉妹、クリスマスは私たちの為です。イエス様をお祝いする背後におけるこの驚くべきメッセージを、私たちのものとさせていただいて、人生(私たちの人生)、何が起ころうとも、(「死の壁を超えるもの」という説教を致しましたが)今日は「復讐の壁を超えるもの」、その答えはイエス・キリスト。イエス・キリスト様を心から信じ、この方にお従いしていく者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。

 お祈りを捧げます。
 恵み深い天のお父様。与えられた人生を感謝します。1回しかない、繰り返すことのできない人生、誰でも100%死亡率であります。いつか死ななければなりません。「人間は一度(ひとたび)死ぬことと、死んだ後にさばきを受けることが定まっている」と言われます。
 神様、日本中の80%の人がクリスマスを祝うといいますが、イエス様抜きの、イエス様を崖から落とすようなクリスマスであります。どうぞイエス様に顔が向きますように。イエス様を信頼して、「このお方こそ救い主である」ということを信じ、そしてお従いすることができますように。主の戒めでしたら喜んで従います、という御言葉に対する従順、"聴従(ちょうじゅう)"、これをお与えくださいますように。私は主の僕(しもべ)
です。本当に光栄に思います。あなたのお言葉でしたら、みこころでしたら、御旨でしたら、喜んでお受けします。お従いさせていただきます。
 このクリスマスを通過することを通して、人格が変えられ、信仰が引き上げられ、そして上質の、アップグレードされたクリスチャンライフを送ることができますように。主イエス・キリストのお名前で、祝福してお祈りを捧げます。アーメン。