過去のKAJIログ
  2008年04月
 
うなじの怖い民 2008.4.23[Wed]
 

イザヤ9:13

しかし、この民は、自分を打った方に帰らず、

万軍の主を求めなかった。


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


頑ななイスラエルの民は、神の懲らしめに合っているにも

関わらず、主を求めようとはしませんでした。


今日の箇所に、V,11、16、20に

「主の怒りはやまず御手は伸ばされたままだ」とあります。


へブル人の手紙にあるように、

今日という日に示されるならば、

生ける神に「悔い改め」立ち返りたいものです。


今朝の早天祈祷会で、預言者ナタンがダビデの罪をはっきり

示す箇所が読まれました。


私たちは罪と分かっていても自分を誤魔化し正当化しようと

いつも肉の性質が働きます。要するに、自分の罪を認めにくいのです。


自分の為にハッキリと罪を指摘して下さる方を大切にしましょう!

そして、ダビデのように素直に罪を認め悔い改めたいものです。
偉大な光 2008.4.22[Tue]
 


イザヤ9:2

やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。

死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


人生の絶望の狭間で、

まことの光を見出すことが出来るのが福音です。


この箇所は、マタイ4章で引用されており、キリストを指しています。


そのイザヤ書引用の後に、

イエスは「悔い改めよ!天国が近づいたから!」と宣教を開始します。


イエスこそ、どんな希望のない所においても、

どれだけ暗闇が支配し死が覆っているようなところであろうと

悔い改め、主を慕い求める者に

いのちの光であり、癒しと回復をもたらす鍵なのです。
苦悩の中に輝く福音 2008.4.21[Mon]
 

イザヤ8:17(新共同)

わたしは主を待ち望む。

主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが

なおわたしは、彼に望みをかける。


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


本物を見出すということは、ある時には時間がかかり試されます。

私たちの内面が探られるのです。



V,22 地を見渡すと、苦難や闇に覆われているとするなら、

私たちは本当の希望を神御自身におけるのでしょうか?



激しい迫害と飢えの中を歩まなければならなくなった時、

主に心から信頼し、全てを神御自身の支配にゆだねることが

出来るのでしょうか?


人間的には、到底不可能だと思います。

V,21にあるように、怒りに身を任せ、神を呪うような結果でしょう。


もう一度、福音の原点に戻り、神の恵みによって

信じる者の内側に働かれる神の力より、歩ませていただきましょう!
御言葉の力 2008.4.16[Wed]
 

イザヤ5:24

それゆえ、火の舌刈り株を焼き尽くし、

炎が枯草をなめ尽くすように、彼らの根は腐れ、

その花も、ちりのように舞い上がる。


彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、

イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったからだ。



□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□



イスラエルの民の、アイディンティティは、神様であり、

神様の御教えでした。民が、御教えを軽んじ、侮ったことにより

神を失い、自らの生きる意味と指針も失ったのです。


失っただけでなく、裁きという実を刈り取ったのです。


今日も神様を、否定することは御言葉を否定することです。


神の言葉を大切にしている人で、神様から離れている人はいません。

神の言葉を大切にしている人で、堕落している生活をしている

人は聞いたことがありません。



御言葉を大切にしている人は、祝福された人たちです。

神の御言葉が私たちのIDです。
霊的無知 2008.4.15[Tue]
 

イザヤ5:12、13


彼らは、主の御わざを見向きもせず、

御手のなされたことを見もしない。

それゆえ、わが民は無知な為に捕え移される。


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


主の恵みに、盲目であることは信仰者にとって

最も愚かなことかもしれません。


主の贖いの御業に目を留めてこそ、私たちの信仰生活が安定し、

健全な主との交わりの中に歩むことができるのです。


豊かなことは素晴らしいことです。

しかし、主の目的を忘れた豊かさは、自らを肥やすことのみ

に執着し、他者を顧みず、主の裁きを招くことになるのです。


神様は、主の正しさを裁きの中で示し、

自ら聖なることを示されます。
神のブドウ畑 2008.4.14[Mon]
 

イザヤ5:4

わがブドウ畑になすべきことで、なお、

何かわたしがしなかったことがあるのか。

なぜ、甘いブドウになるのを待ちの望んだのに、

酸いブドウができたのか。



□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□



農夫である神様は、最高のブドウ畑を期待し労しましたが、

実は期待に添わない、酸っぱいブドウができていまいました。


これは、主に不従順であったイスラエルの民の罪によって

愛する民をさばくという厳しいメッセージにつながっています。


愛するイスラエルの民に対して最善を尽くした主のお心と、

ご愛にもう一度目を止めましょう!


そして、主の御前に幼子のような素直な心で、

主に近づき、主の愛にとどまりましょう。


最新のブログへ
バックナンバー一覧
Powered by HL-imgdiary Ver.3.02